大佗坊の在目在口

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咸臨丸乗組員殉難碑

2016-09-19 | その他

司馬遼太郎の小説「項羽と劉邦」を読んだ。その中に劉邦の武将韓信の謀臣となった弁士蒯生が韓信に漢王劉邦に謀反せよと勧めたとき、韓信が「食人之食者死人之事」と答えたという。
史記准陰侯列伝には「韓信曰、漢王遇我甚厚、載我以其車、衣我以其衣、食我以其食、吾聞之、乘人之車者、載人之患、衣人之衣者、懷人之憂、食人之食者、死人之事、吾豈可以郷利倍義乎」とある。史記に人を煮殺して食する話が出てくる。一瞬、人を食した話かと思った。
「食人之食者死人之事」、訓読みで何とよむのが正しいのだろう。小説では「人ノ食ヲ食セシ者ハ人ノ事ニ死ス」、国訳漢文大成に「人の食(しょく)を食(しょく)する者は、人の事に死す」、史記国字解では「人の食を食む者、人の事に死すと」とあった。
この文句を刻んだ碑が静岡興津の清見寺にあるというので清見寺を訪ねた。
 
清見寺は興津駅からバス3・4分で旧東海道沿いにある山門が見えてくる。山門と総門の間にJR東海道線が走っている。線路を跨ぐ陸橋から総門の間に白い碑が見えた。白く見えた碑が、篆額従四位大鳥圭介、揮毫従二位榎本武揚による咸臨丸乗組員殉難の碑だった。
 
現在は揮毫が表面で陰面に篆額があり、なにか奇妙な感じがする。白く見えたのは石灰拓本の痕なのか痛々しい傷跡のように残っている。福沢諭吉の「痩我慢の説」に「碑の背面に食人之食者死人之事の九字を大書して榎本武揚と記し、公衆の観に任して憚るところなきを云々」とあり、明治二十年代、この碑の向きが今とは表裏が逆なのがわかる。
 
それにしても、榎本武揚が清水港での咸臨艦殉難諸氏紀念碑の揮毫に「食人之食者死人之事」の九字を撰んだのか理解できない。碑の題額である「骨枯松秀」の篆額は大鳥圭介だという。
 
松秀は壮士の墓建設の際の山岡鉄舟の詩「砂濶孤松秀 空留壮士名 水禽何所恨 飛向夕陽鳴」から採ったという。
骨枯は曹松の己亥歳「澤國江山入戰図 生民何計樂樵蘇 生民何計樂樵蘇 一將功成萬骨枯」から。骨枯させた一将とは誰を指しているのだろうか。念のため、孤松秀と水禽何所恨という字句を探したら、陶淵明の名を騙ったとされる四時の詩に「秀孤松」、また陸遊の詩に「水鳥何所恨」という字句があった。なにか寄せ集めて詩を作った感がする。清見寺から壮士墓に向かう。

骨枯松秀  碑文
王政維新之歳秋八月德川旗下諸士隊卒私有所誓駕開陽回天
咸臨蟠龍千代田長鯨美加保神速諸艦同發品川灣北赴仙臺到
房總海猝遇颶風各艦離散相失咸臨艦截其大檣纔免覆没更案
鍼路再圖北駛而暴風又起漂蕩南洋艦體毀損不能遠航遂入駿
河淸水港卸桁觧綱欲畧加修理而北  官諜而知之遣冨士山武
藏飛龍三艦來撃發砲甚急飛龍艦兵執劔銃超入艦中艦之副長
春山辨藏士官長谷川得藏准士官長谷川淸四郎春山鑛平加藤
常次郎今井幾之助及水兵若干格闘死之實九月十有八日也 
官艦曳咸臨以去而死屍浮海累日無人敢斂之者土人山本長五
郎侠士也夜索港中得七屍竊載至向嶋埋古松樹下建石表之題
曰壮士墓今茲舊友相謀建碑於淸見寺内具記其顛末以傳不朽
系之以銘其辭曰                   
是義人 是頑民 奬曰守節 貶曰吠尭         
要之壮士 可以興世風之日澆(注)             
明治十九年三月  元老院議官従四位大鳥圭介篆額   
              墨水逸士七十一翁永井介堂撰并書

(注)  澆: 氵に尭の異体字で表記


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