2日目はむつ市新町にある円通寺からスタート。
山号は吉祥山、下総東昌寺末寺で大永二年(1522)創建、開基は根城南部氏で万治二年(1659)東昌寺六世が中興の祖で、恐山菩提寺の本坊でもある。明治元年十二月、盛岡藩旧領地没収され、二戸、三戸、北の三郡は弘前藩管理となったが、翌年二月黒羽藩取締に替り、県名は北奥県、旧三戸代官所が県庁本局となったが九月、九戸県を八戸県と改称したが六日後に三戸県と替え、三戸北奥県役所は三戸県御役所に変更されている。丁度このころ、会津松平家の血縁の者の願い出の沙汰があり、明治二年十一月、松平慶三郎に家督相続と陸奥国高三万石の立藩が認められた。陸奥国斗南藩三万石は三戸県内の二戸郡内十二ヵ村、三戸郡内五十ヵ村、北郡内四十八ヵ村にいつ決定したか分からなかったが、明治二年十一月二十八日に斗南藩領以外の三戸県を江刺県に編入されているので、この時期に三万石の領地が決められたものと思われる。明治三年四月に黒羽藩と旧盛岡藩三戸代官所にて領地引継ぎ、当初は藩庁を旧盛岡藩五戸代官所に置いた。松平慶三郎家の陸奥支配地藩名を斗南と定めたのは、はっきりしないが維新史料などによると明治三年五月には斗南藩と出てくるので、四月か五月だと思われる。明治四年(1871)二月、円通寺に斗南藩庁を移し藩主の仮館とした。藩校である斗南日新館も迎町大黒屋からこの円通寺に移した。旧会津藩は二尺、三尺位の大きな本箱十六梱で会津日新館の書籍をこの下北に持参したと言われている。斗南日新館蔵印も残っているということであったが、今回は時間がなくて現物を確認することができなかった。
境内の一角に明治三十三年、斗南藩士たちが建立した源容大書による「招魂之碑」がある。
碑陰記
明治戊辰之乱会津藩士奮戦各地死者数千人其忠勇節烈
凛乎凌風霜矣及乱平生者皆浴一視同仁之沢而死者幽魂
独彷徨寒煙野草之間不得其所吁嗟哀哉今茲庚子為其三
十三年忌辰於是旧藩士居南部下北郡者胥謀建碑圓通寺
招魂祭之寺則旧藩主容大公封斗南時所館也
明治三十三年八月 旧会津藩士従五位勲五等南摩綱記撰并書
円通寺のお隣が齢香山徳玄寺。
ここは文禄三年(1594)、加賀の僧が五戸石澤に庵を結び、寛永二年(1625)、田名部に移したといい、このお寺も創建は古い。境内に「表高二十三万石を誇り、奥州第二の雄藩であった会津藩は全国諸藩の中で最も勤皇の志が厚かったにもかかわらず、明治維新の際に朝敵の汚名を着せられ全国唯一の移封処分を受けてここ斗南の地へ挙藩流罪となりました。ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に使用された場所です。当時の容大公は数え年三歳ではありましたが移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。またここは重臣の会議場でもあり、様々な施策についての議論が重ねられた所でもありました。東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業開発など、卓越した構想と意欲は廃藩置県後も斗南の地にとどまった人々に希望を与え、新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を遺したのでした」と説明板があった。
墓地には数多くの斗南藩士の墓が点在し、学事掛の橋爪寅之助の墓碑もここにあった。
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