大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

仙台(林香院・瑞鳳寺・龍雲院)

2012-06-08 | 掃苔

仙台市内の新寺通に寺町があり、新町三丁目交差点角、山門に阿吽像のある林香院を訪ねた。


 
このお寺を訪ねてから一ヶ月、お寺さんの建物だけしか写真が残っておらず、何しに訪ねたのか思い出すのに苦労した。そういえば、若いお坊さんに林忠崇碑が無いか尋ねたら知らないと言われた所だった。新選組屯所のあった場所だとも聞いた。屯所と云うとイメージが湧かないが、屯(たむろ)したところだと雰囲気はピッタリだが、本当に新撰組の宿舎になっていた事があるのだろうか。

 伊達家霊屋のある経ヶ峯は伊達家の霊廟として,仙台城跡との歴史的関連性が深いエリアであり,青葉山公園内の仙台城本丸跡から愛宕山へと向かう歴史軸上に立地するが、経ヶ峯公園の中に経ヶ峯伊達家墓所があるのか、伊達家墓所を除いた地区が経ヶ峯公園になっているのかよく判らないが、伊達家墓所に上がる坂の途中に、かっては墓所に香や花を供える役割を担う香華寺であった瑞鳳寺があり、さらに墓所に通じる右の石段の上がり口に西討戦死之碑、奥の瑞鳳殿のそばに戊辰戦争弔魂碑がある。
 
西討戦死之碑の碑文では戦死者数142名、西南の役旧仙台藩士戦没者弔魂碑とある案内板には戦死者141名となっており、名称不明者が1名いたのだろうか。戊辰戦争弔魂碑では仙台藩の戊辰戦争での殉難者の内訳がプレートがあり慶応4年4月、討会軍1名から明治2年5月松前59名まで総人数1260名と記載があった。
 

昭和42年の住居表示の際に仙台藩士林子平が葬られている事に因み龍雲院の所在地はそれまでの半子町から子平町に改称されたという。
 
林子平の墓のほか戊辰戦争の際に烏組を組織した細谷十太夫の墓がある。細谷十太夫は戊辰後、龍雲院の住職となっている。
 
 
「案内板より」

細谷十太夫(一八四五 ~ 一九○七)と「烏組」
諱は直英、武一郎とも称し、鴉仙(あせん)と号した。一八六八年の戊辰戦争の際、仙台藩の大番士であった十太夫は密偵として二本松にいたが、五月一日の白河城攻防戦の敗戦を聞くや官軍と戦うため須賀川で民兵を募集、博徒、侠客等五七人が集まった。「衝撃隊」と名付たが、黒装束をまとっていたことから「烏組」と呼ばれるようになり、後には実際に烏を連れ歩いたといわれ、隊旗にも烏を描いた。槍と刀を武器に夜襲を得意とし、三十余戦ことごとく勝利を収めたといいその勇猛果敢な戦いぶりは、「細谷からすと十六ささげ なけりゃ官軍高枕」とまでうたわれ恐れられた。戦争は、官軍の勝利に終わり、烏組も翌年には解隊となったが、十太夫はその後も陸軍少尉として西南戦争に従軍、また県吏員、牡鹿郡大衡道開拓場長として士族授産事業にかかわり、さらに日清戦争にも軍夫千人長として参加するなど多方面に活躍した。晩年は、仏門に入りかねて敬慕していた林子平の墓所・ここ龍雲院の住職となった。墓は、本堂西側にある、この座像はその十太夫の姿であり『細谷地蔵』という。
 
経ヶ峯公園の西討戦死之碑の撰文は警視局少警視佐和正によるものですが、このとき警視局中警部陸軍少尉だったのが細谷直英(十太夫)です。

西討戦死之碑文(西南の役旧仙台藩士戦没者弔魂碑)

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