大佗坊の在目在口

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間宮杉田氏

2016-06-11 | その他

会津藩藩祖保科正之の母方の祖父母は元北條氏家臣神尾伊予と杉田氏女、祖父の神尾氏も北條家臣団のどの神尾氏だか特定できないでいた。それではと夫が北條家臣なら妻の実家杉田家も北條家家臣ではないかと探し始めた。北條家家臣団には小河内衆杉田氏と間宮豊前守信高同心衆の久良岐部杉田邑杉田氏がいた。たまたま小河内衆杉田氏の在所、奥多摩川野村に保科正之生母お静の方の院号と同じ浄光院と云うお寺があるのを見つけて奥多摩を最初に訪ねた。ここで川野村の杉田氏と杉田邑の杉田氏が同族だと学校の先生が言っていたと聞いたが、桓武平氏三浦党多々良氏流の川野村杉田氏と佐々木氏流近江源氏流の杉田邑杉田氏を結び付けるのは、話が遠いような気がするがどうであろう。
「蘭学事始」を著した杉田玄白の孫、杉田成卿が「遠祖の墓」とした杉田長安の墓がある川崎菅田の長安寺を訪ねる。長安寺のH・Pに「小田原北条氏の家臣であった間宮長安は杉田玄白の遠祖で、過去帳によると武蔵国久良岐郡杉田郷(横浜市磯子区)に生まれているとあります。永禄二年(1559)の『小田原衆所領帳』には、杉田郷の領主は間宮豊前守とあり、その間宮一族であった長安は、下菅生村に転じたあと杉田姓に改めてこの寺の再興に尽くしたそうです。慶長17(1612)年11月28日に90歳で没し、境内にある墓石には法名の法林院釈氏浄安の文字が刻まれている。江戸時代に入ってから、この長安の法名をとって山号を法林山としたそうです」とある。佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜に始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕え、信盛子信元孫の信高に仕えたのが杉田長安の父真野新左衛門信安で、信安の妻は行方弾正左衛門の娘、行方氏も間宮氏も同じ小机衆として『小田原衆所領帳』に名がある。杉田長安は北条氏滅亡の後は諸国を転々とし、文禄三年(1594)に旧領の杉田村に戻り、このころ姓を杉田氏と改めたのではないだろうか。その後、橘樹郡菅生に移り、無住の寺を自らの名を冠して法林山長安寺とし、慶長十七年(1612)この地において没したという。
 
 
長安寺は矢取坂を通る鎌倉古道に面しており、成卿が「遠祖の墓」とよんだ長安の墓は、本堂の真後ろにあり、正面には「法林院□□浄安大比丘」の法名、左側面には「杉田生 俗名 杉田門殿次良長安」と刻まれている。家紋を確認することは出来なかったが、この長安寺に多くの杉田氏の墓がある。これは三代目忠安長子でこの地に居ついた伝左衛門一族と思われ、いずれも柏紋だった。
 
      
杉田長安を初代として六代目に当たるのが、蘭学医の杉田玄白で、東京の別名猿寺と弥ばれる愛宕栄閑院にある玄白の墓にあったのは鶴丸紋で、これは長安の養子に入った五兵衛忠元の実家の森家に家紋が鶴丸紋を使用していたからとも言われている。
 
 
本家の間宮氏はほとんど四目結紋だが鶴丸紋を使用している一族もあり、また佐々木高秀六男多田満秀の後胤、忠吉が杉田を称し、家紋を鶴丸、四目結を使用している。結局、杉田長安がどんな家紋を使用していたか解らなかった。

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