大佗坊の在目在口

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一柳直末と会津一柳氏

2016-09-11 | 掃苔

山中城址に建立された宗閑寺の境内に、秀吉の北條方山中城攻めで豊臣方の先鋒を務め戦死した一柳直末の墓がある。
 
 
戒名は大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門、院号が大通院で、弟監物直盛が家を継いた。直盛の嫡男直重は伊予西條藩、二男直家は播磨小野藩、三男直頼は伊予小松藩主となる。元禄十一年(1698)に、播磨国小野藩主一柳末礼が一柳庵の墓を山中新田にある宗閑寺境内に移葬し、寛政四年(1792)、小野藩第五代藩主一柳末栄とその子六代藩主末英により直末墓前にその事蹟を刻んだ大通君碑を建立し、昭和に入り、直末の弟監物直盛の曾孫直増の二男増海に連なる一柳貞吉が、直末の旧跡の調査を行い、宗閑寺境内入口の碑も建立に至ったものだという。

大通君碑に「公聞君戦死方喰失箸為之弗怡者數日」とある。秀吉は食事中に直末の戦死を聞き、箸を落とし数日の間は不機嫌だったという。一柳家系図によれば一柳初代宣高の子、又右衛門直高の室は稲葉一鉄の姉の娘、直末の室は黒田孝高の妹で、直末戦死後、一子を連れ、実家に戻り後伊藤是庵と再婚している。孝高は子が生まれなかった長政の後を直末の子松壽に継がせようとしたが、長政に子(忠之)が生まれた翌年の慶長八年(1603)、松壽は事故死している。忠之(二代)の正室梅渓院は側室養照院が光之(三代)が誕生した二か月後に亡くなっている。一柳家の宗家、直照家の江戸菩提寺は芝の金地院に墓域がある。五輪塔は西條城主一柳直重墓
 
 
 
右、直重子直照孫、直長弟増海の墓
 
右、直長曾孫、直住の墓
 
会津一柳家は直末娘が稲葉源左衛門末晴に嫁ぎ、末晴が一柳右京と改名、その子直晴は直末弟監物直盛の養子となったが、後直盛嫡男直重が生まれ、直晴出生し京都に隠遁した。直晴弟右京盛晴の子直好が会津藩に仕えた。右京盛晴娘は監物直盛嫡男直重の側室となり、直照の生母です。天保初め前後の述作と思われる会津藩士の伝記「啞者之独見」に、一柳直好、平左衛門幼名長吉、一柳又左衛門直次嫡子で一柳監物の外甥で十三歳のとき、監物に御側に仕え、監物病死のあと、江戸に下り母方の叔父土岐長庵方に居候のとき、会津藩家老田中三郎兵衛に出合い、正之公に仕えることになった。正保三年(1646)の事だという。この直好は寛文十二年(1672)、家老職に就いている。

要略会津藩諸士系譜に一柳直好、一柳又左衛門直次嫡子とあり、一柳直信、一柳右京亮直次二男とある。一柳宗家系譜一柳末晴系として稲葉源左衛門末晴(後一柳右京と改名)の次男の盛晴の子は源左衛門尉直好、盛晴の次男直信とある。一柳又左衛門直次と一柳右京盛晴は同一人物と考えてよさそうである。渋谷長谷寺が会津一柳直富次男直行家の菩提寺。
 
 
駒込龍光寺が会津一柳直信家の菩提寺になっている。
 


参考
大通君碑
是曩祖大通院豆州府君所戦死處天正中北條氏政據険逆命不朝于帝所豊臣公敷
責之不聴且有悪言公怒出征先遣諸将攻山中城臨期更令君奮曰今日弟殊死耳迺
辞元帥秀次而出結冑纓絶其餘直前接戦所郷披靡軍勢大張會中銃子卒於于師従
士竹島仁兵衛住井助市郎等八人皆争死其所君弟監物代君率軍趣攻戦疾山中城
遂陥時庚寅三月二十九日也公聞君戦死方喰失箸為之弗怡者數日云鳴呼不穀不
徳似續妣祖辱在邦君之後者實君之條烈是頼因碑而傳之使吾臣子知君之血食有
所繇
                                    従五位下對馬守越智宿禰末栄
                                            男       従五位下行土佐守       末英
寛政壬子冬十二月                   島原         盤瀬行言撰並書


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