大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

唯念名号塔

2021-04-16 | その他

最近、養老孟司著の「死の壁」を読んだ。序章の「バカの壁」の向こう側で、人生でただ一つ確実なことは「死ぬこと」だという。また、「人間は変化しつづけるものだし、情報は変わらないものである。というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代だ」という。「私は私という思い込みが強くなると「変わった部分は本当の自分ではない」という言い訳が成り立ち、あの時の自分は本当の自分ではなかった」という論理が展開できるようになる。なるほどと思うが、凡人は情報が無いと不安になる。死んだ後の自分自身の情報は当然であるが本人には全く分からない。死という結末は解っていてもそのあとが気になる。そんな折、南足柄市にある足柄道を歩いた。バス便もなく、タクシーの配車も断わられ、仕方なく歩かざるを得なかった。小一時間、歩いて出会ったのは女性1人と庭から外を眺めていた年寄1人だけだったが、それ以上に出会ったのが野仏、石仏、路傍神などの多くの石造物で、なかでも気になったのが「南無阿弥陀仏」の六字名号塔。「南無阿弥陀仏」は、どんな人でも救うのが阿弥陀如来の願いだという。「南無阿弥陀仏」の念仏で救われるならば、蜘蛛の糸にすがらなくて済むかなと都合の良いことを考えたりもする。名号とは辞典によると仏陀や菩薩の称号をさすとある。「南無阿弥陀仏」の六文字を阿弥陀如来の名号だという。「南無不可思議光如来」の九字名号、「帰命盡十方無礙光如来」の十字名号もあるというが、残念ながらまだ見たことがない。六字名号塔があるのを知ったのが小田原に転居してからで、今まで九字名号、十字名号を見ても気が付かなかったのかも知れない。足柄古道を歩いてみて、南足柄の弘済寺へ入る小道にある唯念名号塔と関本の龍福寺境内にある名号塔との文字の書体が異なるのに気が付いた。
足柄弘西寺(地名)の唯念六字名号塔と花押

関本龍善寺の
徳本六字名号塔と花押

それまで名号の書体はみな同じだと思っていた。今まで撮った写真を見直してみた。唯念、徳本、秀学、裕天と結構、出てきた。唯念、秀学については殆ど史料が残っていない。秀学についてはどこの誰だか全く分からなかった。唯念の念仏講の信者によって建てられたのが唯念六字名号塔だという。
伊豆修善寺と小田原曽我別所の唯念名号塔

小田原東町昌福院と伊豆河津称念寺前の唯念名号塔

明治十六年発行、垂水良運編纂「明治往生傳」によると、唯念行者は肥後国八代郡の生まれで、文化三年(1806)十七歳の時、下総行徳村徳願寺誓誉弁端和上より剃髪染衣し受戒、弟子となった。布教活動のため諸国行脚し、文政年間に武州高尾山、富士山に登り念佛修行し、天保四年(1833)より再び、富士山の麓奥ノ沢にて草庵を結び、籠居念仏を行う。明治七年(1874)静岡県庁の特薦に依り教部省より新たに滝沢寺の号を賜い、駿河国駿東郡御厨上野村奥ノ沢の瀧澤寺開基師となり、明治十一年内務省より、龍澤山唯念寺と号すべし指示があったという(現在地、駿東郡小山町上野)。 明治十三年八月、九十一歳で入寂、逆算すると寛政元年(1789)の生まれという事になる。駿東郡上野は酒匂川上流、鮎沢川のさらに上流の須川左岸にある。酒匂川流域の唯念の念仏講も多く、相模や駿河の活動地域の唯念六字名号塔が多く分布しているという。

 
小田原荻窪の市方神社境内、扇町足下神社前の唯念六字名号塔に何れも蓮華講中とあるので、小田原近辺の唯念の念仏講は蓮華講と呼ばれていたのかもしれない。

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