大佗坊の在目在口

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伊勢原 上粕屋神社と七人塚

2020-02-19 | その他

小田急伊勢原駅から大山ケーブルに向かう途中に上粕屋神社がある。昔は糟屋庄上糟屋村と呼ばれ、今は伊勢原市上粕屋と表記されている。この地で殺された太田道灌と何らかの関係があるかと太田道灌の胴墓に行く前に訪ねた。

神奈川県神社庁のHPにある上粕屋神社(山王社)に祀られている御祭神をみてびっくりした。大山咋神、大穴牟遅神、若山咋命、伊弉諾命、速玉男命、事解男命、伊弉冊命、菊理比売命、泉道守命、日本武尊、天穂日命、大己貴命、少彦名命、事代主命、三穂津姫命の神が祀られている。何をお願いしても聞いて貰えそうな気がしてきた。神社庁記載の上粕屋神社由緒によれば「本神は勧請年月日不詳であるが、大同・弘仁の頃近江の国の日吉神を当所に移し勧請したと申し伝へる。又、風土記稿によれば、天平年中僧良弁の勧請なりという。元禄四年辛未十月十五日、社殿を再建し、山王権現と称した。当時徳川幕府朱印高壱石五斗であった。明治二年六月、日枝神社と改称し、当時の例大祭は三月三日で、競馬神事、神楽を奉納し、六月二十二日と十二月二日には年の市を執行した。明治六年発酉七月、字和田内鎮座の熊野神社 (朱印高二石)と、字石倉上鎮座の白山社を合祀し上粕屋神社と改称した。更に、昭和三十九年四月、字峯岸鎮座の御嶽神社を、昭和四十一年十月、字秋山鎮座の五霊神社を合祀して現在に至っている」とある。新編相模国風土記稿に上糟屋村山王社の記載があった。「天平年中、僧良辨(大山寺開山)ノ勧請ナリト云。小名山王原ノ鎮守ナリ。例祭六月廿二日(毎年十二月廿日、社地ニ年ノ市立リ)幣殿、拝殿、神楽殿等アリ。社領一石五斗ノ御朱印ハ前(天正十九年十一月・1583)ト同時ニ賜フ。槻ノ大樹(囲二丈餘)ヲ神木トス」とある。


「槻」が読めなかった。訓で「つき」、欅の古名だという。上粕屋神社の北、約400mの所に伊勢原市が上杉館跡と指定した史蹟がある。今は原っぱだけなので訪ねなかったが、風土記稿に「高見原、村ノ中程ニテ廣十町、□四町許ノ地ナリ、古戦場ナリト云。今都テ白田トナレリ、此邊ニ古塚廿六基アリ、当時戦死ノ者ノ塚ナルベシ」また「文明十八年(1486)七月、上杉修理大夫定正、太田道灌ヲ誅セシ時、上杉民部大輔顯定、合力トシテ高見原ノ出馬スト。サレド合戦アリシトハ見エズ」とあり「両上杉氏合戦アリシ高見原ハ上州ノ地ニテ当所ニアラズ」としている。
参道の脇にある山王原公民館の隣に七人塚があった。


入口に環境省・神奈川県の説明板があり「江戸城の築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀反あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客により暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣7名の墓で「七人塚」と伝えられています。この塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に7つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、今でも七人塚と呼ばれています」とあった。環境省・神奈川県の説明板があるのは、この上粕屋地区に土地区画整理があったのか、これから始まるのだろうか。道路整備や区画整理などで、相模の武士たちの古塚がどんどん無くなっていくと思うと悲しい。


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