大佗坊の在目在口

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河津 称念寺

2017-02-20 | その他

早咲きの河津桜の原木に寄ってから称念寺境内の桜を見に行った。前回(27年2月19日)は3分咲きだったが今回(16日)は満開だった。
左列(27.2.29)                右列(29.2.26)
 
 
河津川に沿って称念寺に向かう。
 
 
静岡教区浄土宗青年会のH・Pに宝林山称念寺の開山上人は僧澄道 心蓮社誠譽上人、開基年は宝治元年(1247)とある。

境内にあった河津町の説明板には「称念寺は、安元三年(1175)河津三郎祐泰が谷津館の内に称念庵を創立、守本尊の阿弥陀如来を安置したのがはじまりといわれている。永禄四年(1562)山崩れにあい、現在地に移った。本尊阿弥陀如来には「春日正作縁起」という縁起が伝えられている。」とあり、河津三郎守本尊の阿弥陀如来像は一本の白羽の矢を蔵していて、現在は秘仏として祀られているという。
本堂の脇に多くの尖頂舟型墓標があった。尖頂舟型墓標は江戸初期の造立で関東地域に多く、西は三島あたりまでと言われている。山中城址の宗閑寺裏の墓地にも多くみられた。ここにある宝篋印塔は相模に多くみられる基礎石の輪郭二区が一区しかなく、この辺りが東と西の異なる墓標様式の接点だったのだろうか。
 
(基礎石の輪郭一区)
               
称念寺の山門近くに、馬頭観音があり、その裏手に明治二十年代に下河津邑の有志により建立された皇軍死者忠魂碑が残っていた。台湾出兵か日清戦争の忠魂碑なのか判読できなかった。
 
河津三郎祐泰は伊豆の豪族、伊藤氏流れをくむ伊東家次(工藤祐隆)の孫、河津祐親(河津祐親)の子で、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我十郎(祐成)・五郎(時致)の父にあたる。河津川の対岸に河津三郎祐泰を奉る河津八幡神社がある。境内には力石を持ち上げている河津三郎や富士の巻狩りでの曽我兄弟の像がある。相撲の珍しい決まり手「河津掛け」を考案したのが河津三郎と云われている。
 
なぜ兄が十郎で弟が五郎なのかと思ったら、同じような疑問を持った人がいた。長野市立長野図書館のレファレンス事例に記載があった。
春湊浪話
「曾我十郎、同五郎 鎌倉時代、人の嫡子より次を太郎二郎三郎と次第に名付る。なべての事なり。曾我十郎祐成、同五郎時宗と名乗し事、人ごとに不審する事なり。今按るに、十郎が元服せし時は、祖父伊藤祐親は三浦介に預けられて存生なるべければ、祐成を祐親が子とし、其末子伊藤九郎祐清が弟に准じて、十郎とは呼ける成べし。五郎は文治六年九月七日に北条時政の亭にて元服して、五郎時致と名乗よし、東鑑に見へたれば、其時に時政の子として時致と名乗らせ、江島小四郎義時の弟に准じて、五郎とは称せしにぞ。東鑑に時致とも、時宗とも書たり。実は時宗なるを、後に北条時宗出来より、是を諱て所々時致と書改しものなる歟。」『広文庫 第11冊』p516『日本随筆大成 第3期 10』p437
なるほどと云う感じ!

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