大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

秦野 大日堂

2019-12-18 | その他

11月の末近くに、参道の紅葉が綺麗な頃だと思って秦野蓑毛の宝蓮寺に行った。小田急の秦野駅名を見て驚いた。「はだの」と濁っていた。そのほかの地名も一部を除いて秦野(はだの)と呼んでいるという。今まで「はたの」と覚えていた。倭名鈔に幡多とあるものの、新編相模風土記稿に波多野(葉駄廼)とあるから、相模武士の波多野氏も「はだの」と呼ばれていたのだろうか。宝蓮寺は秦野駅からバスで約30分弱、丹沢山の南斜面のヤビツ峠への途中で、秦野駅から真北に県道70号秦野清川線(旧大山道)にぶつかった蓑毛の標高320mに在り、南に幽かに相模湾が遠望できる。蓑毛という地名は、東国蝦夷討伐の途中の日本武尊がこの地でにわか雨に遭い、雨具がないこと知った村人が「蓑」を献じた事によるとの伝承が残るという。
 
バス停から寺の入口まで1分だが、参道に掛かる多加羅橋の架け替え工事中で迂回路の看板があり、しかも気候が暖かかったせいか、どちらかと言うと青紅葉の世界だった。
 
 
平凡社「神奈川県の地名」によれば「寛文九年(1669)に蓑毛牟田の領主の揖斐與右衛門が、蓑毛地内に大破していた金剛山薬音寺を一族の迎接院宝蓮信女菩提のために現在地に再興し、寺号も宝蓮寺に改めたという」とある。一方、風土記稿に「別当宝蓮寺、金剛山と号す、臨済宗鎌倉建長寺末、開山佛国應供(後嵯峨天皇皇子)、本尊薬師。按ずるに明暦の鐘銘(注:大日堂鐘)に別当教泉坊とあるは、当寺の坊号なりしにや、今は其唱なし」としている。揖斐氏嫡流家当主は與右衛門を名乗っており、揖斐與右衛門政景、寛永十八年(1641)亡くなり、蓑毛の宝蓮寺に葬られたという。道路を挟んで今は宝蓮寺が管理している大日如来を安置している大日堂がある。
  
 
仁王門の長九尺二寸の阿吽立像は風土記稿によれば行基作と伝える。その門前に故陸軍歩兵一等卒宇田川秀次郎君碑があった。「忠勤壮烈」の篆額は陸軍大将乃木希典によるものだったので驚く。どんな関係があったのだろう。

寛政二年(1790)の宝蓮寺・大日堂境内絵図、(秦野市史より)
仁王門の正面が大日堂、風土記稿に覚王山安明院の号あり、本尊は行基作と伝わる。天平十四年(742)、本尊造挙供養ありという。縁起には聖武天皇勅願所として造営されたとある。
 
 
大日堂横の石段の上に御嶽神社(旧蔵王社)がある。蔵王社、熊野神明を相殿に置く、波多野庄惣鎮守なりという。ご神体は、倭健命(やまとたけるのみこと)、大日孁命(おおひるめのみこと)、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀る。
 
御嶽神社の隣が不動堂、縁起に朝鮮半島からの渡来人である秦氏がその守り本尊である不動明王を祀ったのが始まりとされ、境内では最も古い建築物で、現在は江戸時代の作と推定される不動明王像が祀られている。
 
不動堂の右上に十王を安置してある地蔵堂(茶湯殿)、その右奥に木食光西上人入寂地がある。
 
 
秦野市教育委員会の説明板によると江戸時代中期享保年間、江戸麻布の出身で木食僧として修業していた光西上人は、時の宝蓮寺住職大蟲和尚の協力を得て、農民を苦しみから救済しようとした。光西上人は全国を行脚し大般若経六百巻の願主となり浄財を集め、荒れていた大日堂及び仏像を修理し、新たな御堂の造営も行った。事業の最後の仕上げとして享保二十年(1735)入り、入寂した。遺言により二百年後の昭和十年に発掘されたが、遺骨は埋め戻され現在もここに眠っているという。2017年、蓑毛大日堂、蓑毛不動堂、蓑毛地蔵堂、蓑毛大日堂仁王門は国登録有形文化財(建造物)に登録された。

 

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