ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

ベイビューホテルに監禁され、強姦された女性たちの存在を、隠し続けている日本の権力者たち

2014年08月26日 | 日本とわたし
先日、友人の幸雄さんが、『戦後はまだ…』というタイトルの山本宗補氏の写真集の一部を、教えてくださいました。
それは、刻まれた加害と被害の記憶という副題がついている、非常に重く、苦しい記録です。


その写真集の中の、ほんの数ページを見ただけで、読んだだけで、わたしは言葉を失ってしまいました。
これが戦争というものの正体だと、吐き気がするほど、強い嫌悪感を覚えました。
ぜひ、ひとりでも多くの方々が、ご自身の手にとって、見ていただきたい、読んでいただきたいものだと思います。

そのこととほぼ同時に、このブログのコメント欄に、群青さんという方から、マニラ戦の悲惨な史実について教えていただきました。
この偶然に背中を押されたような気がします。

↓以下、転載はじめ

【社説】慰安婦報道撤回 本質は強制連行にない
http://www.kanaloco.jp/article/76014/cms_id/95741
【神奈川新聞】2014.08.10

朝日新聞が、従軍慰安婦の報道の一部が虚報だったと認め、記事を取り消した。
それをもって、慰安婦が強制連行されたとの主張の、根幹が崩れたと唱える論が横行している

「木を見て森を見ず」のような、稚拙な言説である。

朝日が誤りだったとしたのは、「強制連行をした」という吉田清治氏の証言だ。
韓国・済州島で、朝鮮人女性を無理やりトラックに押し込め、慰安所へ連れて行ったとしていた。

30年余り前の吉田証言は、研究者の間でも、信ぴょう性に疑問符が付けられていた。
旧日本軍による強制連行を示す証拠は、他にある。
日本の占領下のインドネシアで起きた、スマラン事件の公判記録などがそれだ。
だまされて連れて行かれたという、元慰安婦の証言も数多い。

研究者による公文書の発掘は続いており、新たな史料に虚心に向き合わなければ、歴史を論じる資格を手にすることはできないだろう。

強制連行を否定する主張はさらに、誤った記事により、日本がいわれなき非難を受け、不当におとしめられてきたと続く。

しかし、国際社会から非難されているのは、強制連行があったからではない
厳しい視線が向けられているのは、
人集めの際の、強制性のいかんに焦点を置くことで、問題の本質から目を背け、歴史の責任を矮小(わいしょう)化しようとする態度にである。

問題の本質は、女性たちが、戦地で、日本軍将兵に性的行為を強要されたことにある
慰安をしたのではなく、性暴力を受けた
兵士の性病まん延防止と、性欲処理の道具にされた
その制度づくりから管理運営に、軍が関与していた
それは、日本の植民地支配、侵略戦争という、大きな枠組みの中で行われたものであった。

歴史認識の問題が突き付けるのは、この国が過去と向き合ってこなかった、69年という歳月の重みだ。
国家として、真(しん)摯(し)な謝罪と反省の機会をついぞ持たず、歴史修正主義を唱える政治家が、主流になるに至った

朝日が撤回した記事について、自民党の石破茂幹事長は、「国民も非常に苦しみ、国際問題にもなった」と、その責任に言及し、国会での検証さえ示唆した。
過去の国家犯罪の実態を明らかにし、被害国と向き合う政治の責任を、放棄し続ける自らを省みることなく、である。
国際社会の非難と軽蔑を招く倒錯は、二重になされようとしている

↑以上、転載おわり


↓以下、転載はじめ

群青さんという方から教えていただいた、マニラ戦の史実の一部を、ここに転載させていただきます。

ベィビューホテル大量強姦事件 フィリピン1945年2月
http://ameblo.jp/gunjyo01/entry-11911768142.html

従軍慰安婦に関する泥憲和さんのフェイスブック論証は、FBシェアだけでなく、各種の個人ブログでもシェアされ、取り上げられている様子である。

さて、このブログでは、昨年から、フィリピンにおける当時の皇軍「軍慰安所従業婦」の件を追いかけようとしているが、
従業婦ではなく、強姦が凄かった模様である。

「FIGHT FOR JUSTICE 日本軍「慰安婦」--忘却への抵抗・未来への責任」 を発見したので、ご紹介する。
戦後生まれの私達は、余りにも過去の歴史を知らない。
日本軍は勇敢だったとか、清く潔い軍であったと、良い点ばかりは教えられたが・・。


●マニラ戦の無差別虐殺
これは、自分は初めて見る経緯である。
マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた、日米両軍による市街戦である。
次のように、日米の「マニラ戦」市街地戦に関して、描かれている。


この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。
日米両軍の戦闘行為、特に、米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、
フィリピンにおいて、このマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた日本軍の、数多くの残虐行為である。
キリスト教の聖職者を含め、アメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシア、ドイツ、イタリアなどの市民、
そしてフィリピン市民が、組織的、意図的に虐殺される事件が、マニラ市内の各所で頻発した。
男たちだけでなく、女性や子ども、老人も対象にされる無差別の殺害であり、
日本軍による占領時期に関して、フィリピンで刊行されている文献、回想録では、必ずと言ってよいほど言及されている。
こうした歴史的事実と、その経験の継承は、フィリピン社会の対日観に、大きな影響を及ぼしている。

注記1) 
2月7日、または8日に、フィリピン人を集めて殺害するようにとの命令が、中部隊の海軍第2大隊から出されていた(林博史氏文献より)

注記2)
「対日観に大きな影響を及ぼしている」: 次話題「戦後のフィリピン日系人」に関連記事をアップ


旧帝国の皇軍派遣部隊は、負けかかると、どうやら気が狂った作戦に出るようである。
いや、これ作戦じゃないですね。
軟弱な自暴自棄の山賊でしょうね。
「東洋平和」、「大東亜共栄圏」と、国の中枢部が、平和を掲げて南方へ押し出したのは、
実は、振り返れば、殺戮のためだったとしか言いようが無い。
相当に、フィリピンや、当時在住の諸外国人に、ご迷惑をおかけしたのだ・・と。







●ベィビューホテル事件

上記、状況を知るための前置きが長くなってしまった。
フィリピンのマニラに、確か、現在でも、ベィビューホテルは営業中では無かったか・・・・。
最近、お泊まりになった方もいらっしゃるのだろう。
ところが、上記の、1945年当時の、米軍進攻による市街戦のさ中、富裕層居住地域だったエルミタ地区では、
400人ものさまざまな国籍の女性たちが連行監禁され、皇軍兵士により次々と強姦された「ベイビューホテル・集団強姦事件」が起きていた。
ベィビューホテルの、皇軍兵士によるフィリピン人他の女性に対する、大量強姦の直接的な把握を試みているものは、下<参考>の林さんによる史料である。
林さんはこの中で、得られるエビデンスに限りがある、と述べている。
私が探した状況でも、ベィビューホテル事件なるものの記事は、他に無かった。

↑以上、転載おわり


群青さんが書かれていた、林氏による史料(Fight for Justice)から、引用の分量を少し多めにしたものを以下に載せさせていただきます。

↓以下、引用はじめ

マニラ戦とベイビューホテル事件
http://fightforjustice.info/?page_id=2620
林 博史

日本軍による集団強かん事件について、調べたものです。
地図は省略しました。 
2012.4.15記

はじめに

マニラ戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた、日米両軍による市街戦である。
この戦闘によって、マニラ市街は徹底的に破壊され、マニラ市民約10万人が犠牲になった。
日米両軍の戦闘行為、特に、米軍の砲爆撃による被害が大きかったことも指摘されているが、
フィリピンにおいて、このマニラ戦をとりわけ有名にしているのが、その中でおこなわれた、日本軍の、数多くの残虐行為である。
キリスト教の聖職者を含め、アメリカ、イギリス、フランス、スペイン、スイス、ロシア、ドイツ、イタリアなどの市民、
そしてフィリピン市民が、組織的意図的に虐殺される事件が、マニラ市内の各所で頻発した。
男たちだけでなく、女性や子ども、老人も対象にされる無差別の殺害であり、
日本軍による占領時期に関して、フィリピンで刊行されている文献、回想録では、必ずと言ってよいほど言及されている。
こうした歴史的事実と、その経験の継承は、フィリピン社会の対日観に、大きな影響を及ぼしている[1]。

一連の日本軍による残虐行為の中で、とりわけ悪名高いものが、本稿で取り上げる、ベイビューホテルの事件である。
この事件は、マニラ戦の最中の、2月9日から12日(一部は13日)にかけて、
日本軍が、マニラの中心にあるエルミタ地区の女性たち数百人を、ベイビューホテルと、その近くのアパートメントに監禁し、
日本兵たちが次々と、強かんを繰り返した事件である。
被害者には、フィリピン女性だけでなく、アメリカ、イギリス、スペイン、ロシア、イタリアなど、欧米諸国の女性たちも含まれている。

日本語の文献では、この事件について、避けて通るものがほとんどである。
他方、英語文献では、日本軍の残忍さを象徴的に示す事件として言及されることが多く、無慈悲な強かんの様子が紹介されているが、
日本軍がなぜ、どのような指揮命令系統に従って、この事件を起したのか、
その周辺地区での、一連の住民虐殺などの残虐行為と、どのように関連しているのか、
などについてのきちんとした分析は、まったくなされていない。

幸い、ベイビューホテルに監禁された女性たちは、殺されることなく釈放されたので、
生存者たちによる証言が、多数残され、惨い実態が明らかにされている。
マニラを、日本軍から解放した米軍は、戦争犯罪捜査にあたって、関連する女性たちに尋問をおこない、詳細な尋問調書を残している。
その一部は、山下奉文陸軍大将の戦犯裁判や、東京裁判にも、証拠書類として提出されており、
また、いくつかの英語文献では、その尋問の一部が引用されている。
しかし、112人にのぼる尋問調書を、総合的に分析した研究はまだない。


第二次世界大戦中の、日本軍による強かん事件は数多く、日本軍「慰安婦」制度とともに、日本軍の性暴力の際立ったひどさが、
日本軍の特徴、あるいは残虐性を示すものとして、指摘されることが多いが、
このベイビューホテル事件は、強かん事件のなかでも、とりわけ規模が大きく、かつ組織的であると思われる。
したがって、この事件の解明は、日本の戦争犯罪・戦争責任研究において、避けて通ることのできない課題である、と言わなければならない。
本稿では、ベイビューホテル事件についての、米軍の捜査報告書を基に、検討していきたい[2]。


Ⅰ ベイビューホテル事件の経緯

まず、ベイビューホテル事件の前後の状況と、事件そのものの経過を見ておきたい。

米軍は、1945年1月9日に、ルソン島北部のリンガエン湾に上陸し、
そのうち、第6軍の第1騎兵師団と第37歩兵師団が、マニラに向けて南下、
米軍の最初の部隊が、マニラ北部のサント・トーマス大学(民間抑留所として多数のアメリカ人などが抑留されていた)とマラカニアン宮殿にやってきたのは、2月3日夕方だった。
日米両軍の交渉により、5日に、サント・トーマス大学の抑留者たちは、解放された。
パシグ河の北岸にあるマラカニアン宮殿も、米軍が占領し、マニラ市中心部を目指して、パシグ河の渡河作戦が、7日に実行されることになる。

マニラにいたのは、海軍が主力の、マニラ海軍防衛隊(司令官岩淵三次海軍少将)であった。
マニラ海軍防衛隊の司令部、ならびに司令部大隊や、海軍第1大隊・第2大隊など、海軍部隊の主力で構成されていた中部隊(海軍防衛隊の主力)は、マニラ市の中心部に位置していた。
パシグ河の南側で、城壁に囲まれたイントラムロスは、北部隊の担当であったが、
その南から東にかけての一帯は、ルネタ公園や市庁舎、農務省ビル(マニラ海軍防衛隊司令部)、財務省ビル、国会議事堂など、政府関係の立派なビルが並んでいる官庁街だった。
マッカーサーが滞在していたマニラホテルは、この地域の海側にある。
この一帯に、司令部と司令部大隊(大隊長伊地知季久大尉)、その他の付属隊が配備されていた。
このあたりのビルが、マニラ戦最後の攻防がおこなわれた地域にあたる。

この官庁街の南側がエルミタ地区、エルミタの東側がパコ地区、その南側がマラテ地区になる。
エルミタは、アメリカ植民地下で発達した地区で、社会的知的エリートがたくさん住んでおり、ドイツクラブやスペインカジノ、イギリスクラブなど、欧米系のクラブがいくつもあった[3]。
また、フィリピン大学やフィリピン総合病院、赤十字ビルが大きな面積を占め、海側には、高等弁務官官邸(現在は米大使館)や陸海軍クラブもあった。
ベイビューホテルは、このエルミタ地区の西側、高等弁務官官邸の向かい側にあるホテルだった。

日本軍の配備については、後でくわしく検討するが、このエルミタ地区には、中部隊のうちの海軍第2大隊(大隊長稲政博海軍大尉、第4から第6中隊)が配備され、後に第5大隊(大隊長木下進大尉)も、ここに加わった。
エルミタの東側のパコ地区には、海軍第1大隊(大隊長清水常吉大尉、第1から第3中隊)が配備された。

マニラとその周辺、ならびにルソン島における日本軍の状況については省略するが、
マニラの防衛を担当していた、マニラ海軍防衛隊(海軍の第31特別根拠地隊を主力)の総人員は、その指揮下の陸軍部隊を合わせて、2万2600名程度と推定される[4]。
ただ、ベイビューホテル事件との関連で見ると、司令部と司令部大隊などが2000名余り、第1大隊1000名弱、第2大隊1200名余り、第5大隊約420名、その他350名程度、合計約5000名が、このあたりに配備されていた。
なおその後、米軍に包囲されて、後退してきた兵員も少なくないと思われるが、その人数はよくわからない。

こうした中部隊のほか、イントラムロスを含む北側の地区には北部隊、南側には南部隊などがいた。
これらの地域でも、特にイントラムロスでは、凄惨な住民虐殺が繰り広げられたが、ベイビューホテル事件とは直接関わりはないので省略する。


2月7日に米軍は、市街地の北側を流れるパシグ河を、東側から渡河、パコ駅周辺など、市街地の東側の地区で、激しい戦闘がおこなわれた。
10日に米軍は、パコ駅を占領、11日には、パシグ河にうかぶプロビソール島(発電施設がある)を占領した。
米軍は、マニラ市の東側を回りながら南下し、12日には南側のニコラス・フィールドを占領、その日のうちに、北東南の三方から、マニラ市街地を包囲した。
ここに、マニラ海軍防衛隊は、東方山中の日本軍主力との連絡路を断たれ、逃げ場を失ったのである。

米軍がパシグ河を渡河し、いよいよマニラ市内への侵入が迫ってきた8日、
日本軍は、イントラムロスで、住民のなかから男たちを集めて、イントラムロス内の北端にあるサンチャゴ要塞に、連行していった。
この男たちは、翌日以降、日本軍によって虐殺されることになる。
また、イントラムロスでは、女性や子どもたちも教会などに閉じ込められ、後に、多くが虐殺されることになる。

7日、または8日の正午に、マニラ海軍防衛隊の岩淵司令官が直率する、中部隊の海軍第2大隊からと思われる命令が出されている。
そのなかに、
「六 比島人を殺すのは、極力一ヶ所に纏め、弾薬と労力を省く如く処分せよ 
死体処理うるさきを以て、焼却予定家屋、爆破家屋に集め、或は川に突き落とすべし」という内容が含まれており、
フィリピンの民間人殺害が、計画されていたことがわかる[5]。

9日の午後、エルミタ地区において、米軍の砲撃を受けて、火災があちこちで発生した。
日本軍が火をつけた、という証言もある。
いずれにせよ、火災が迫ってきたので、家から逃げ出した人もいれば、日本兵が家に入ってきて、外に出ろと命令したために、外に出た人もいた。
欧米系の住民などは、エルミタ地区の東側にあった、ドイツクラブに逃げ込んだ人たちもいたが、
多くは、西側の大通り、デウィ・ブルーバードのそばにある、ファーガソン広場に集められた。
すでに夕方になっており、そこには1000人、あるいはそれ以上の住民が集められていたようだが、くわしい人数はわからない。

ファーガソン広場に集められる前に、日本兵から、「アメリカ軍はどこにいる」、「ゲリラのメンバーか」などの尋問を受けた、という証言もある(2-20)[6]。
日本軍は、米軍、あるいはゲリラが潜入していることを疑っていた、と思われる。


ファーガソン広場に集められた住民は、午後7時か8時ごろ、日本軍によって、男たちだけのグループと、女性・子どもたちのグループに分けられた。
男たちは、広場の周辺の家々に収容されたようであるが、女性と子どもたちは、広場のすぐ北側にあるベイビューホテルに連れて行かれ、各部屋に、20-30人ずつくらいに分けて入れられた。
監禁された女性と子どもの全体の人数は、数百人と見られるが、よくわからない。
ベイビューホテルの元経営者の証言によると、ここは約150室あるホテルで、10階ほどのビルだった(2-46)。

女性と子どものグループのなかから、若い女性たちだけ20数名が別に選別され、ベイビューホテルの南隣、ファーガソン広場に面している、コーヒーポットCoffee Potというレストランに連れて行かれた。
そこには、数人の、日本軍将校と思われる軍人が、酒を飲んでおり、彼女たちにもウィスキーを飲ませようとした。
そこで1時間ほどいた後、彼女たちも、ベイビューホテルの3階あたりの一室に、監禁された。
夜の9時ごろだったと見られる(この20数人の女性たちを、コーヒーポット・グループと呼んでおきたい)。
その部屋には家具はなく、床にマットレスだけがあったという。

各部屋ともに明かりはなく、ホテルなのでバスルームはあったが、水は出ない状態であり、いずれも真っ暗な部屋に、何十人かが押し込められた状態だった。
コーヒーポット・グループの部屋には、しばらくして、数人の日本兵が入ってきて、懐中電灯などで、女性たちの顔を照らして出て行った。
それから数分後、何人かの日本兵が入ってきて、懐中電灯やろうそくで、女性の顔を確認し(身体を丸めて顔を隠そうとしている女性がいれば、髪の毛をつかんだりして、顔を上に向けさせて)、目ぼしいと思われる女性を引きずり出していった。
そして、ホテル内の別の部屋に連れて行き、一人、あるいは複数の将校や兵士たちが、強かんをおこなった。
その後女性は、兵士によって、元の部屋に戻されるか、あるいは放置されたため、自分で戻った。
このグループは、最初から、日本軍が若い女性だけを選び出していたので、ほとんどの女性が被害にあった。

そうした事態は、コーヒーポット・グループだけに起きたのではなかった。
ほかのグループは、年配の女性から子どもまでの女性たちと、男の子どもらで構成されていたが、
かれらのいる部屋にも日本兵がやってきて、懐中電灯やろうそくの明かりで、若い女性を探し、引きずり出していった。
これらのグループでは、一部屋に20-30人がいたが、そのうち数人の若い女性が、被害にあった。

このようにして、9日の夜は、女性たちを恐怖のどん底に陥れたまま、過ぎていった。


10日の早朝、ようやく日本兵による襲撃が収まると、女性たちは助けを求めて、ホテル内を動き始めた。
9日の晩も含めて、その後の数日も、日本兵たちは、日中は、米軍との戦闘のためにホテルには居らず、夜になると集まってきたようで、
日中は、住民が逃げ出さないように、玄関などに若干の警備兵がいただけで、
ホテル内の各フロアーでは、住民は、比較的自由に、動き回ることができたようである。

各部屋に分けて入れられていた住民たちは、このままではいけないと、相互に連絡を取り合い、多くの住民たちは、2階のダイニングルームに集まってきた。
ここに、200-300人ほどが集まってきたと見られる。
大勢で集まっていた方が安全だ、と考えたからである。
娘が被害を被った何人かの母親たちは、相談し、日本軍の隊長を探して、あのようなことを止めさせるように頼むことにした。
日本軍将校とのやりとりは、後で紹介するが、この努力は無駄に終わった。
コーヒーポット・グループの女性たちは、早朝になり、日本兵がやってこなくなると、助けを求めて、ホテル内で、母親や家族を探して部屋を出た。
家族を見つけて、その部屋で匿ってもらったり、あるいはダイニングルームで、家族に合流した。
この早朝の時点で、コーヒーポット・グループの女性たちは、ばらばらになったようである。

この日になってようやく、わずかな水と、ビスケットなどの食糧が配られたようである。


10日の午後、日本軍は、フィリピン人だけを選び出して、ベイビューホテルの北側のブロックにある、アルハンブラ・アパートメントに連れて行った。
その人数は、100人から200人くらいと見られる。
また、一部のフィリピン人は、ベイビューホテルとアルハンブラの間にある、ミラマー・アパートメントに移された。
ミラマーに移動したのは11日、という人たちもいた。
したがって、ベイビューホテルには、フィリピン人以外の欧米系女性と子どもたちが、残されることになった。
ただし、日本軍は、外見によってフィリピン人であるかどうかを判断していたようであり、必ずしも厳密に分けられたわけではなかった。
ベイビューホテルに残ったフィリピン人もいたし、フィリピン人の列に入れば釈放されると考えて、アルハンブラ、あるいはミラマーに移された欧米系女性もいた。

この10日の夜には、昨晩と同じように、日本兵が、それぞれの部屋やダイニングルームにやってきて、
暗闇の中を、懐中電灯やろうそくで、若い女性を連行し、強かんする行為が続けられた。
アルハンブラとミラマーのアパートでも、同じように、日本兵の襲撃を受けた。
人々は、若い女性たちを、できるだけ部屋の奥にうずくまらせて、毛布などで覆い、年配者らがその上から覆いかぶさるようにして、若い女性たちを守った。
女性を連行しようとする日本兵に対して、時には激しく抵抗して阻んだこともあったが、
日本兵に殴られたり、銃剣を突きつけられ、阻めなかったことも少なくなかった。
不幸中の幸いとも言えるかもしれないが、連行に抵抗する人々を、殺害するようなことはなかったようである。

なお、同じエルミタ地区では、9日に、ドイツクラブや赤十字ビルにも、住民たちが集められていたが、この10日に、日本軍によって、集団で虐殺されている。
これらのビルには、欧米系住民が多数逃げてきており、数百人が虐殺された[7]。
日本の同盟国である、ドイツのクラブに逃げれば大丈夫だと判断したようだが、
日本軍は、連合国、同盟国、中立国を問わず、白人をすべて敵とみなして、殺害したようである。


11日も同じように、日中は、日本兵は戦闘に出て行き、夜になると、同様の行為を繰り返した。
ただ、9日と10日の夜に比べると、日本兵の数も減ってきたようである。


12日の夕方近くになり、ベイビューホテルで火事が発生した。
米軍の砲撃によるものと見られる。
人々は逃げようと、1階に殺到するが、警備兵に止められてしまった。
しかし、ホテルを管理していた日本軍将校は、住民たちの嘆願を聞き入れて、逃げることを認めたため、人々は逃げることができた。
同じころ、ミラマーでも火災が起きたが、ベイビューホテルと同様に、逃げることが許された。


13日の午後には、アルハンブラでも火事になり、人々は逃げることが許された。


こうして、12日と13日に、監禁されていた数百人の女性と子どもたちは逃げ出し、
エミルタ地区の残されていた家々や、北隣のルネタ公園とその周辺の建物に、隠れて生き延びようとした。
その中で、米軍の砲撃や、日米両軍の戦闘に巻き込まれたり、あるいは、日本軍によって殺されたケースも少なくなかったが、
18日から20日ごろにかけて、一部は22日ごろに、逃げていた住民は、米軍に保護されて助かった。


米軍は、17日に、エルミタ地区の東南にある、総合病院を解放し、エルミタ地区に進入しはじめ、
22日の時点では、フィリピン大学のリサール・ホールに立てこもった一部の日本軍を残して、
エルミタ地区のほとんどは、米軍支配下に入っているので、その間に逃げていた住民たちは、保護された。


その後、米軍は、23日にイントラムロスに突入して、25日までに同地区を占領、日本軍は、官庁街にある、政府関係のいくつかのビルに閉じ込められ、3月3日までにその抵抗も終了した。



Ⅱ 被害の実相

ここで、体験者の証言から、ベイビューホテルなどに監禁された女性たちに、何がおこったのかを見ていこう。

ファーガソン広場で選別され、コーヒーポットに連れて行かれた後、ベイビューホテルの一室に入れられた20数人のグループの体験から、紹介しよう。

コーヒーポット・グループに入れられた、14歳のイギリス人少女によると(1-9)、
まず、日本兵が、「スペイン人、スペイン人」といいながら、女性を連行していったという。
そして、
「日本兵たちは、少女の腕をつかまえ、部屋から引きずり出していきました。
○○は抵抗し、床に転がりましたが、同じようにして、銃剣をつきつけて、連れ出されました。
少女たちは泣き叫びながら、連れて行かないように嘆願しましたが、無視されました」
「私たちはとても怯え、できるだけ目を付けられないように努力しました。
髪の毛を顔にたらして隠し、できるだけ部屋の隅にうずくまっていました」

しかし彼女も、日本兵によって引きずりだされ、別の部屋に連れて行かれた。
日本兵は、抵抗し叫ぶ彼女に平手打ちを加え、左手で喉元を押さえ、右手で剣を持ち、喉に突きつけ、抵抗をあきらめさせたうえで強かんした。
その後、部屋に放置された彼女は、元の部屋に戻ろうとするが、わからず別の部屋に入った。
しかし、その部屋にいた夜中にも、日本兵は、抵抗する彼女の髪をつかんで床にたたきつけた。
そして、最初に強かんされた時と同じ部屋に連行され、また強かんされた。
翌朝、母が呼ぶ声が聞こえたので、母のいるダイニングルームへ逃げたという。

コーヒーポット・グループには、彼女によると、半分以上はフィリピン人だったが、ほかにイギリス、トルコ、スペイン、イタリアなどの女性たちも含まれていたという。
また、彼女の知っている限りでは、それらの女性たちの年齢は、11、12、12、14、14、14、15、15、15、16、16、16、17、18、22、23-4、24、24、25、25、26歳だったという。
この21人以外は、知らない女性だったという。
記憶に基づく証言なので、年齢には若干の誤差があるかもしれないが、14歳の彼女とそれほど変わらない年齢の少女たちが、多数含まれていたことは間違いない。

その姉で、17歳のイギリス人少女も、同じコーヒーポット・グループに入れられた(1-10)。
その証言によると、自分は、部屋の隅にひそんでいて、幸運にも助かったが、部屋には13-4歳の少女がたくさんおり、
「少女たちはみな泣き叫び、すすり泣き、悲鳴を上げ、多くは祈っていた」と語っている。

24歳のフィリピン人女性の証言によると(1-14)、
まず3人の日本兵によって、彼女の2人の姉妹が連行された。
次に、別の少女たちが連行され、その次に、ほかの少女と本人が連行された。
彼女が連行された部屋には、3人の日本兵がおり、1人が強かんしている間、ほかの2人は、見ながら笑っていたという。
彼女は抵抗するが、顔を殴られ、3人に強かんされた。
その後、3人の日本兵は、部屋から出て行ったので、1人で這って部屋にもどったが、しばらくして、別の日本兵に連行されて、同じ目に遭った。
その夜、10数回、強かんされたという。

その妹の、15歳のフィリピン人少女も(1-17)、
部屋から日本兵に連れ出されそうになったとき、抵抗すると、何度も蹴り殴られ、2階上の、アルハンブラ通りに面した部屋に、連れて行かれた。
その日本兵は、彼女を窓のそばにつれていき、
「川の向こう側には、たくさんのアメリカ兵がいる。我々はまもなく死ぬので、二人とも彼らを見ることはないだろう」と言って、
それからピストルで脅して、彼女を強かんした。
その日本兵からは、
「おまえは、アメリカ人の赤ん坊ではなく、日本人の赤ん坊を生むだろう」とも言われたという。
部屋に戻されてからも、さらに3回連行されて、同じような目に遭った。
その中の一人の日本兵は、日の丸を描いたタオルを、頭にまいていたという。

その二人の妹で、14歳の少女も、コーヒーポット・グループに入れられた(1-19)。
彼女も一度、日本兵に連行されたが、生理中とわかり、その日本兵は、彼女の尻を蹴り、拳銃を抜いて、「殺すぞ、殺すぞ」と怒ったが、部屋に戻されたという。
彼女の話によると、翌朝、母親のいるダイニングルームに行き、そこで、母親や兄弟たちが、彼女の上になって彼女たちを守ったが、
先に紹介した24歳の姉は、水を求めてダイニングルームから出たときに、しばらく戻って来ず、強かんされたと、母親に話していたという。


28歳のイタリア人の女性によると(1-25)、
「なにもかもが混乱していて、少女たちはみんな泣き、すすり泣き、祈っている人もいました。
廊下から足音が聞こえるたびに、私たちは祈り始めました。
夜のはじめの頃は、やってきたのは将校たちでしたが、後に兵士たちも来ました。
(中略)
非常に酔っ払って、銃剣を持った日本兵を、思い出します。
彼は、銃剣で、ドアに深い傷をつけて、この銃剣がいかに鋭いのかを、少女たちに示しました。
その銃剣で、ある少女のスカートを、裾からお尻まで切り裂きました」と語っている。


36歳のフィリピン女性は(2-14)、
コーヒーポット・グループの中では、最年長ではないかと思われるが、
マットレスの下に隠れていたので、日本兵に見つからずに助かったと証言しているが、連行された少女たちがもどってきたときの様子について、
「彼女たちはみんな泣いており、おびえた様子でした。しかし、何も言いませんでした。
私が覚えているかぎりでは、ほとんどの少女たちは、床に崩れ落ち、身体を折りたたんで目立たないようにし、悲しみ、祈っていました」
「一晩中、拷問と、大きな恐怖と、苦しみの夜でした」
「日本兵は、とても人間ではありませんでした。けだもののように振舞っていました」と語っている。


コーヒーポット・グループの女性・少女たちは、10日早朝には部屋を出て、
ダイニングルームなどにいる家族と一緒になるなど、逃げようとしたが、その後も被害に遭った女性もいたようである。
いずれにせよ、恐怖と拷問の一夜を経験したのである。
その中には、14-15歳の少女たちが、何人も含まれていた。


日本兵の襲撃を受けたのは、コーヒーポット・グループの女性たちだけではなかった。


娘二人(1-9、1-10)を、コーヒーポット・グループに入れられた39歳の母親は(1-11)、
息子と手伝いの女性と一緒に、約30人で、ベイビューホテルのある部屋へ監禁された。
その部屋にも日本兵がやってきて、母親と一緒にいた13-4歳くらいのフィリピン少女が、連行された。
「その少女は泣きながら、日本兵から逃れようとしました。少女の母親はひざまずいて、連れて行かないように頼みました」
しかし、
「日本兵は、少女に平手打ちをし、彼女をつかんで、部屋から引きずっていきました」という。
その少女は、1時間半後に戻ってきたが、泣きながら母親に、3回強かんされたと言っていたという。
9日の夜だけで、その部屋から、5人のフィリピン少女が連行されたという。

翌朝5時ごろ、部屋を出て下の階に行くと、ダイニングルームにたくさんの人がいたので、そこに移った。
そこに14歳の娘が来て、昨夜のことを知った。
その後も日本兵が来て、娘を連行しようとしたが、娘を守るために抗議して、やめさせたという。


32歳のフィリピン女性は、ベイビューホテルでの自分の部屋の様子を、次のように語っている(2-5)。
「(連行されてもどってきた)少女たちは非常におびえ、何人かはすすり泣いていました。
誰も、何も話したくありませんでした。
誰もが床に場所を見つけ、涙を流しながら横になっていました。
髪の毛はめちゃくちゃになり、服は汚れて乱れていました。
何人かは血を流し、スカートにも血がついていました。
誰もが祈り、子どものいる者たちは泣き叫び、年取った女性たちは嘆き、一晩中、混乱状態でした。
日本軍が私たちを片付けようとする時には、私たちは生きていられるとは思いませんでした」


日本兵の襲撃は、夜が多かったが、夜だけではなかった。
57歳のロシア人女性の話によると(1-39)、
ベイビューホテルで12日午前中、ホテルの最上階で、パイプから水がもれているというので、水を求めて、ある母親とその娘が行こうとすると、日本兵が、12歳の娘を連行していった。
母親が、「やつらが私の娘を連れ去った、やつらが乱暴したのはこれで3人目だ」と泣きながら嘆いた。
3時間かそれぐらいしてから、その少女が戻ってきたが、服の下から血が流れており、完全に消耗しきって、恐怖におびえて泣いていた。

10日朝、昨夜に娘たちにおこったことを知った母親たちは、日本兵の暴行をやめさせる相談をおこない(2-34など)、
日本軍の隊長と思われる将校たちに働きかけたが、その甲斐もなく、10日と11日の夜も、日本兵による襲撃は続いた。


ベイビューホテルに監禁された女性のなかには、何人かの売春婦がいて、若い少女や、結婚している女性を守るために、自分たちが行くと語った女性たちがいたという。
彼女たちと一緒にいた、ある21歳のフィリピン女性の証言によると(2-24)、
彼女がいたベイビューホテルの部屋には、3人の売春婦がいて、身代わりになり、その内の2人は、ミラマー・アパートメントでも一緒だったという。


すでに述べたように、10日と11日の日中に、フィリピン人と見なされた人々は、アルハンブラとミラマーのアパートメントに移されたが、
そこでも、夜になると、日本兵の襲撃を受け、若い女性が部屋から引きずり出されて、強かんされる事態が続いた。

30歳のフィリピン女性によると(1-12)、
10日、アルハンブラに移ってからも、部屋から少女たちが連行され、彼女がいた部屋から、3日間で、約20人が連れだされたという。

18歳のフィリピン女性は(1-13)、
10日にアルハンブラへ移されるが、夜、日本兵が、一人の女性を連行した。
その女性は、3人に強かんされたと話していた。
次いで彼女が、将校らしき人物によって連れ出された。
その日本兵は、食事と水をやる、一緒に来ないと、監禁されている夫が殺されるぞと脅され、暴行を受けたという。
12日の夜にも、彼女は、別の少女と一緒に連れ出された。

アルハンブラに移された20歳のフィリピン女性によると(1-27)、
彼女の部屋からは、10日夜に4人の少女、11日夜は2人が連行されたが、12日夜は、誰も連行されなかったという。

25歳のフィリピン女性の部屋では(1-30)、
10人ほどの少女が連行された。
戻ってきた少女は、「神様、神様、汚らわしいやつらめ、あいつらは私をレイプした」と泣き叫んだという。
また、のどに銃剣を突きつけられて連行された少女は、戻ってくると泣きながら、「3人の日本兵が私を辱めた。死にたい」と言っていた。
ほかに、13歳と15歳の少女は、毎晩くりかえし連行された。
ある日本兵が、ほかの日本兵が連行しようとするのを、やめさせたことがあったともいう。
「わたしたちは、身体を丸めて、床に横たわっていました。
子どもたちを部屋の真ん中に集め、年配の女性たちは壁際にいました。
私たちは、髪の毛を顔の前にたらし、顔に土をこすりつけ、できるかぎり醜く見せるようにしました。
少女たちは泣き、嘆願し、祈っていました。
本当に怖ろしかった。
私たちは誰も、生きて逃げられるとは思えませんでした。
ただ、日本兵が最後には、私たち全員を殺すだろうと思っていただけでした」と語っている。
アルハンブラで、彼女たちが与えられた食糧は、汚い水とビスケット、魚の缶詰、ビタミン剤だけだったという。

*関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第52号、2012年1月

(注)
[1] マニラ戦に関する主な研究については、林博史「資料紹介 日本軍の命令・電報に見るマニラ戦」『関東学院大学経済学部総合学術論争 自然・人間・社会』第48号、2010年1月、参照。

[2] この捜査報告書は、連合国軍最高司令部GHQ/SCAPの法務部 Legal Sectionの 管理課Administrative Divisionの文書群のなかの「戦争犯罪ファイル 1946年-1950年 War Crimes File, 1946-50」Report No.61、「1945年2月9日から13日の間、フィリピン諸島マニラのエルミタにおける、さまざまな国籍の、40人の民間女性への強かんならびに36人の民間女性への強かん未遂についての捜査報告」 “Investigation of the Rape of Forty Civilian Women and the attempted Rape of Thirty-six Civilian Women, of Various Nationalities, in Ermita, Manila, Philippine Islands, During the Period 9-13 February 1945”である(米国立公文書館所蔵、RG331/GHQSCAP/Box1113)。なお強かん被害者が特定できる情報は記載せず、ここでは分析の必要上、年齢と国別のデータのみを使用する。なお国別というのは、尋問においてナショナリティは何かという質問に対する本人の回答として示されたものである。

[3] Jose Ma. Bonifacio M. Escoda, Warsaw of Asia: The Rape of Manila(Revised Edition), Quezon City : Giraffe Books, 2001, p.8.

[4] 注1の拙稿、71頁、参照。

[5] この命令の詳細については、前掲拙稿83-85頁。
なお、そこでの叙述には、いくつかの間違いがあったので、訂正させていただきたい。
拙稿では、「海軍第2大隊の指揮下には、木下進海軍大尉を中隊長とする防空中隊があった」とし、「木下中隊長は、2月15日に戦死している」としている。
この記述は、第2復員局『マニラ防衛部隊戦闘状況』1947年5月5日、に基づいている。
しかし、戦後直後にまとめられたこの文書には、間違いが散見され、また第5大隊の表記が欠落していたため、木下大尉の防空中隊が、第5大隊指揮下であることを見落としていた。
正確には、第5大隊(大隊長木下進海軍大尉)の下に、木下大尉が中隊長を兼任する防空中隊があった。
また木下大尉は、15日に戦死しておらず、第2大隊長のそばに控え、少なくとも21日までは生存していた。
第5大隊は、戦力的には、第2大隊の3分の1程度の兵力しかなく、第2大隊の応援的な役割を果たしていた。
第2大隊長の稲政博大尉についても、拙稿で、「2月11日にパコで戦死したとされている」と書いたが、これも同『戦闘状況』の記載間違いであり、
稲政大尉は、12日に重傷を負うが、死亡したのは21日のことである(児島襄『マニラ海軍陸戦隊』新潮社、1969年、148-150頁)。
以上が訂正点であるが、84-85頁の結論部分については、訂正する必要はない。

[6] 捜査報告書に収録された宣誓供述書については、証言者の番号で出典を示す。
報告書は2分冊にわかれており、供述書など、文書にはそれぞれ番号が付けられている。
2-20とは、第2分冊の文書番号20を指す。
必要に応じて、証言者の年齢、性別、国別を示すが、証言者の名前は記さずに、この番号で示す。

[7] Richard Connaughton, John Pimlott, & Duncan Anderson, The Battle for Manila, Novato : Presidio Press, 1995, pp.120-123.


■YouTube 東洋の真珠と謳われたマニラでの市街戦 https://www.youtube.com/watch?v=DA6fKiniD3w