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ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

安定ヨウ素剤を飲んでた福島県立医大医師たちの、偽りの『安全宣言』と狂いっぷり!

2014年02月27日 | 日本とわたし
すけろくちゃんという方が、フライデーに掲載されていたこの記事↓を、部分的に書き起こしして、ツィートしてくださいました。



2011年3月の事故直後。
福島県庁は、県外の医療機関などから、114万錠のヨウ素剤を緊急収集し、各自治体に配ったが、服用については、指示を出すことを躊躇
独自に決定した三春町を除いて、直接、県民に配られることはなかった。
その理由を、県庁関係者は、こう説明する

「汚染に関するデータがなかったこともあるが、医学会の権威の意見が、大きく影響していました」…。
国が所管する放射線医学総合研究所は、3月14日に「指示が出るまで、勝手にヨウ素剤を服用してはいけない」とする文書を発表。

18日には、県の放射線健康リスク管理アドバイザーである山下俊一氏が、
「福島原発から30kmほど西に離れれば、被曝量は(年間限度量の)1ミリシーベルト以下で、ヨウ素剤は不要」と、医大の医師達を前に強調。
同氏は、県民向け講演でも、「子供は外で遊んでいても問題ない」と断言
県立医大も、患者や相談に来た県民に、山下氏たちの意見をそのまま伝え、ヨウ素剤を勧めていなかった

だが、医大内部資料によると、医師たちは、密かにヨウ素剤を飲んでいた

医大は、県から4000錠のヨウ素剤を入手
1号機が水素爆発した3月12日から配り始め、多い所では1000錠単位で、院内の各科に渡していた。
しかも、医療行為を行わない、職員の家族や学生にも配布
資料には、「水に溶かしてすぐに飲むように」と、服用の仕方まで明記
医大職員は言う。
事故が発生してから、病院に来なくなった医師もいて、動揺が広がっていました。
院内の混乱を鎮める為に、上層部が、ヨウ素剤の配布を決めたようです。
しかも、服用を県に進言してない手前、配布については、かん口令が敷かれていました


当時の国の基準によると、ヨウ素剤の服用が助言されるのは、
1歳児の甲状腺被曝線量が、積算で100ミリシーベルトになると予想されてる場合だが、
後に公表された試算値(3月12日~4月24日)では、原発から30km以上離れた伊達市でも、この水準を超えていたことが分かっている。

県立医大の医師達は、なぜ4000錠ものヨウ素剤を、自分達だけで飲んだのか

医大は、院内関係者のヨウ素剤服用は『事実』だとし、こう主張する。
「情報やデータがないなか、医療機関として最後まで現場に残らなくてはいけないという認識のもと、
職員の動揺を抑える目的で、医大教職員と家族への配布に踏み切りました。
学生に配布したのは、不安が広がっていた為です。
かん口令を敷いた理由は、国や県から、服用指示の基準が住民に明確に示されない中、医大が独自の基準を作ってしまうことになるからでした」(広報戦略室)

ヨウ素剤を管理する福島県地域医療課は、当初、事実を確認できないとしていた
だが、入手した資料を提示すると、医大への配布を認め、改めて、当時の課長が次のように説明した。
ヨウ素剤は、福島第一原発から50km圏内にある、各自治体に配備しました。
住民への配布を指示しなかったのは、判断するデータがなく、踏み切れなかったからです。
医大へ配ったのは、(多くの放射線を浴びる)被災地へ出向く医師を、対象としたもの。
医大が、家族や学生にまで配ったものであれば、疑問を感じます


確かに、下手に服用指示を出せば、不安をあおり、情報も少なかったため、判断が難しい局面だった。
だが、ヨウ素剤服用について情報公開請求をした、「子どもたちの健康と未来を守るプロジェクト」の郡山代表・武本泰医師は、医大の態度を批判する

「なかには、ヨウ素剤を求めて、医療機関に問い合わせるなど、奔走した母親もいるんです。
県民には安全だといって服用を勧めなかったにもかかわらず、自分たちだけ飲んでいたというのは、同じ医療従事者として許せません。
県も、医大に配布するなら、県民へ服用指示を出すべきだったでしょう


現在までに、75人の福島の子どもたちが、甲状腺がん、もしくはその疑いがあると診断されている

(※フライデー3月7日号・34~35P『安定ヨウ素剤を飲んでいた福島県立医大医師たちの偽りの「安全宣言」』より引用しました)




この連中が考えていた不安というのは、いったいなんだったのか……。
自治体も医師も学者も、人の命を預かる立場の者としての自覚も、責任感もなく、ただただ自己保身に専念。
なんとも悲惨で罪深い行為をし続けた挙げ句、こんなポスターを作っている。



もうこれは、ホラーともいえる狂い様ではないか。

真央ちゃんありがとう!

2014年02月27日 | ひとりごと
あの日からずうっと、真央ちゃんに励まされています。
日本の皆さんは多分、毎日のようにテレビや新聞、そして雑誌などで、彼女のことについて観たり読んだりしておられたのでしょうね。
こちらでは、テレビ画面の中の、ほんの数分間の演技を観られるだけですし、大会が終った後は、何事も無かったように、こちらの選手の話題さえも電波に乗りません。

ソチオリンピックは、21年連れ添っている相方が驚くほど、観ていませんでした。
オリンピックそのものに対する印象が、この3年間でずいぶんと変わってしまったこともひとつの理由でした。
オリンピックが開催されることによって生じる環境破壊や、お金のムダ遣いや、後で必ずお荷物になるような巨大施設。
オリンピックという大会を目指して、それまでの人生をかけて必死で練習をし、努力を重ねている選手の皆さんのことを敬う気持ちにはかわりがありませんけれども、
物事が大きくなればなるほど、利権が複雑に絡み、そのものが目指していたものがすっかりと歪められていくのを目の当たりにしながら、
純粋に、ただただ選手の方々の応援をする、という、4年前までの自分には戻れないでいました。

でも、フィギアだけは観たい。

それで、フィギアのショートプログラムがあった日のハイライト番組を観ようと、テレビの前に座りました。
すでに団体戦があったことも知りませんでした。
真央ちゃんが最初のジャンプを失敗し、その後立て直すことができないままに演技を終了した時、
解説の方が「disaster」という言葉をくり返して言うのを聞きながら、テレビを消しました。
Disaster……大変な不運、災い、思いがけない大きな不幸……。

真央ちゃんは、小さな頃からジャンプが上手な、愛らしい笑顔のフィギアスケーター。

わたしにとって真央ちゃんは、それぐらいの認識しか無かった選手でした。
けれどもあの夜、あの「disaster」という言葉を聞いてから、ネットでいろんなことを調べ、たくさんのことを知りました。
そして翌日、やはりハイライト番組上で、彼女の演技だけは見逃さないと決め、ネットで結果を先に知ることがないよう、ツィッターなどを見ないようにしました。

そしてあの、音楽と舞踏の神となった彼女の、多分一生忘れることはできないであろう演技を観たのです。

魂が揺さぶられました。
言葉にすると単純な表現になってしまうのですが、彼女が表現したかったという人生を、あの数分で観たような気がしました。
美しかったし、哀しかったし、そしてなによりも強かった。
コマ切れの瞬間の写真の中の彼女の眼差しは、キッと何かを見据えているような、とても力強い、そして負けてたまるかという気持ちが現れています。

わたしはこの、自分の息子たちと同じ年頃の若い女性を、心から尊敬し、誇りに思います。
こんな気持ちを持たせてくれたこと、あのような素晴らしい演技を見せてくれたこと、
たくさんの苦しみや悔しさ、辛さを乗り越え、最愛のお母さんとの別れの悲しさも乗り越え、頑張り続けてくれたこと、

わたしはすっかりおばちゃんですが、やっと1年がかりで作り終えた曲を、来月、演奏会で披露します。
演奏前の舞台裏では、いつも決まって「なんで演奏するやなんて考えたんやろ」と、意味不明な後悔をするほど緊張して、逃げ出したくなるのですが、
今回はきっと、あなたのことを思い出して、そんな弱虫な自分の心を叱咤激励すると思います。

本当に本当にありがとう!

↓このサイトを見つけました。
とても良いので、みなさんにも。

浅田真央 LAST DANCE(ラストダンス)
http://www.asahi.com/olympics/sochi2014/lastdance/

少しばかり、引用します。

五輪史上、6種類のトリプルジャンプを着氷した、初の女子選手になった。

「うれしかったです。うれし泣きと笑顔と、同じ意味だと思います」

「自分の中で最高の演技ができ、たくさんの方に恩返しができました」

「最後は覚悟を決めて、『よしっ』と思えた。SPのようになっても、とにかく跳ぶという気持ちを持った」

跳べない恐怖心から無理な食事制限もした。

「自分が目指していたのはきょうのような演技。この4年間は良かったと思う。その気持ちは、どんどん強くなるんじゃないかなと思っています」
 
演技を終えると一瞬涙を見せたが、すぐに泣きやんで、スタンドに向かってほほえんだ。
 
「笑顔を忘れないでいればがんばれる。つらいことがあっても笑顔を忘れない」

ジュニアで難しいジャンプを跳んでいた選手が、そのままシニアでも活躍できるとは限らない。
体形の変化という壁にぶつかるからだ。
彼女も例外ではなかった。

ジャンプが跳びにくくなり、失敗を恐れて、助走スピードを落としてしまう。
すると、一層ジャンプが跳べなくなるという、悪循環に陥り始めた。
練習リンクで、涙を流しながら滑ったこともある。
思うように技が決まらない苦労から、試合で良かった場合も悪かった場合も、感極まってしまう。

「一からやり直す」
ソチ五輪へ向け、崩れてきたジャンプを、根底から作り変えると決めた。
10~11年シーズンから、新たに、佐藤信夫コーチに師事した。

ジャンプは、1回転の練習からやり直した。
「わかってんのか」「今はやめておけ」と、信夫コーチの鋭い声や、「もうわかったんです!」という浅田の高い声がリンクに響いた。
泣きながら練習することもあった。

「修行僧のようだ」と周囲をうならせた猛練習で、生まれ変わった彼女。
浅田真央が、ソチ五輪のフリーで表現したテーマは、「今までの人生」。


■真央ちゃんの言葉より

もう演技中に笑顔なんて出ません。

スケートが好き、スケートが楽しいという気持ち、それだけは忘れたくない。

がんばれば結果はついてくる。
満足はしてません。
満足してしまったら、そこで終わりになりますから。

失敗する自分の姿を人に見せるのは悔しいけど、そういう状態でも試合に出たことに意味があります。

子ども向けのメッセージ、何て書いたらいいかな。
「やればできる」かな。
今の真央に言われたくないよって言われるかもしれないですよね。
「日進月歩」にしておきます。

練習で出来ていないものが出来るはずがなかった。
ジャンプがほとんど跳べないのに勝てるはずないです。

ジャンプを一からやり直しています。
6種類すべてのジャンプをやっと跳べるようになってきたところです。(2010年11月)

少しずつ大人の滑りができるようになってきました。
まだ伸びしろはあります。

「真央だよ」と叫びましたが、やすらかな顔をしたお母さんは、やはり目を開くことはありませんでした。(2011年12月)

一番近くにいるような感じがしました。(母を無くしてから初の大会で)2011年12月25日

(トリプルアクセルは)跳ぶことで私自身を強く持てるもの。
ないと全体のモチベーションが下がってしまいます。

毎日、自分のやるべきことをやっていけば、間に合うんじゃないかなと思います。(2012年9月)

滑ることが好き。
喜びを味わいたいから。

目指してるものに近づきたいなら、目の前の試合で結果が出ないことは仕方ないと、受け入れようとしました。

ちっちゃな子どもたちに夢を与えられるスケーターになりたい、というのがずっと変わらない目標です。

スケートから離れたいなと思ったこともありました。
練習で出来なくてショックでどうしようと思うときもあります。

たくさんの励ましをもらって、覚悟を決めて、「よし」と思えました。(2014年2月)