ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

3.11.2012

2012年03月12日 | 日本とわたし
毎日新聞より転載
原発反対集会



東日本大震災発生から1年、デモで反原発などを訴える人たち=福島県郡山市で2012年3月11日午後3時56分、尾籠章裕撮影

『国内外で、反・脱原発集会が開かれた11日。
「『原発いらない』の声は、痛恨の思いを込めた福島県民の叫び。この声を、全国の心ある人に届けるのは、県民の使命であり義務だ」。
東京電力福島第1原発事故で、深刻な被害に苦しむ福島県で開かれた集会では、呼び掛け人代表の清水修二・福島大副学長が、こう訴えた。
未曽有の大災害が与えたショックは、今も生々しく、各地で「原発反対」の声が上がった。(参加者数はいずれも主催者発表)

福島県郡山市の開成山野球場で開かれた、「原発いらない!3.11福島県民大集会」には、全国から約1万6000人が集結した。
10代を代表し、県立あさか開成高2年、鈴木美穂さん(17)は、
「原発がなければ、被害に遭った人を助けに行けました。人の命も守れないのに、電力とか経済とかいっている 場合ではないはずです」と訴えた。

鈴木さんは、小3からサッカーを始め、福島第1原発から約10キロにある、県立富岡高に推薦入学。
原発事故後、避難を繰り返し、転校後も、女子サッカー部に入ったが、昨年末に退部を申し出た。
「富岡は部員が減っているのに、転校してサッカーをすることは、仲間を裏切る行為」と思えたからだ。
やり切れない思いを、鈴木さんはこの日の集会で吐き出した。
「(昨年の)3月11日の朝、晴れていて、いつものような一日が、始まろうとしていました。その日常に戻ることはできません」

東京、大阪、札幌、福岡でも、大規模な集会やデモ行進があった。

東京都千代田区の日比谷公園周辺では、原発に反対する「3.11東京大行進」に、約1万人が集まった。
親子連れらが、「子供を守ろう」などと書いたプラカードを掲げ、東京電力本店や、経済産業省の前を行進。
墨田区の石井啓子さん(61)は、
「原発推進の流れを作ってしまったのは、私たち団塊の世代。若い人たちのために、再稼働はおかしいと言い続けたい」。
大阪市では、約7000人が参加。
集会では、福島県飯舘(いいたて)村から、県内の仮設住宅に避難中の酪農家が講演し「事故を風化させてはならない」と訴えた。
札幌市や福岡市でも、デモが行われた。

全国最多の、14基の原発が立地する福井県の敦賀市では、集会に約1200人が参加し、
元原発労働者ら約15人が、「原発のない未来に向かって進めていこう」などと訴えた。
被爆地・広島市では、市民ら約2000人が「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・フクシマ、ノーモア・ヒバクシャ」と声を上げて歩いた。

脱原発を求める声は、海外でも響いた。

昨年12月に、原発建設候補地に選定された、韓国東部の江原道(カンウォンド)三陟(サムチョク)市では、市民ら約1000人が、建設反対集会を開いた。
主催した「誘致白紙化闘争委員会」の、李光雨(イ・グァンウ)さんは
「フクシマ事故があってもまだ、原発は安全だ、と言う政府には、憤りの気持ちでいっぱいだ」と話した。
台北市では、若い世代を中心に、約3000人が「人類は原発を制御できない」と声を上げた。
フランスでも、約230キロ間で、脱原発を訴える「人間の鎖」運動が行われ、仏国内から100団体、数千人が参加した』


東京新聞[社説]より転載
3.11から1年 私たちは変わったか

『3.11は日本に重い課題を突きつけました。
日本の復興と、エネルギーの未来です。
歴史的責任を感じます。
だが、そのために、私たちは変わったのだろうか。

雪の福島で、印象深い二人に会いました。

一人は、三春町の元副町長。
1年前を、静かに語りだした。

…ここは、福島第一原発から、西へ約50キロです。
1号機爆発の3月12日の夜、原発近くからの避難民2千人を、受け入れました。
翌13日、避難民には、安定ヨウ素剤が配られた。
それが何か、私たちは知りません。
だから勉強しました。

爆発は、次々起きます。
県が、ヨウ素剤を保管していると知り、保健師に取りに行かせました。


◆ヨウ素剤いつ飲ます

でも、それを、町民にいつ飲ませたらいいのか。
効力は、飲んで24時間。
いつ飲むかは、重大な問題です。
私は、大学山岳部の出で、観天望気をかじっていました。
データを集め、自分で天候予測をする。

15日。
午後、雨の予報。
風向を見るため、吹き流しを2カ所(役場と山の上)に設置。
東風確認。
ネットで、茨城県東海村では、放射能が、通常値の百倍と知る。

決断しました。
午後1時、町民に、ヨウ素剤の配布・服用の指示です。
あとで知ったのですが、服用指示は、ほかでは出されていませんでした。
でも、町民を守れました。

聞き終わって、たずねました。

 1年前と今とは、何か変わるところはあったのですか、と。

答えはごく簡単でした。

 …国も県も、変わっていない。

統治体、統治の仕組みに対する不信です。
放射能の流れを予測する、SPEEDIは働いても、国民には知らされない。
対策は後手ばかり。
自治体は懸命なのに、国の政治は不在も同然。
例えば、復興庁発足の、何と遅かったこと。
日本中が、歯ぎしりする思いでした。


◆国に欠けていたもの

では、国に何が欠けていたのか。
それは、首長たちの働きと比べれば、一目瞭然です。
住民、国民を守り切るという、情熱と覚悟です。
あのころ残っていた希望とは、日本人が、日本人を見直したことです。
私たちにはできるのです。

それでも、1年を経て、状況の本質が変わらないとすれば、私たち自身が、実は変わっていないのではないか、という問いかけが必要になります。

3月11日は、その前も、鋭く思い出させました。
高度成長の中で、また、経済優先と効率化の波の中で、私たちが忘れ、また奪われてきたものです。
人の命の重さ、共同体の大切さ、忍耐や思いやり、中央と地方の格差、貧富の広がり…とりわけ、原発立地地の不安。

政治がもし変わらないのなら、政治に頼むのではなく、私たち自身が変わらなければなりません。
主権者は、いうまでもなく私たちなのであり、私たちが変われば、日本は変わるのです。

福島で、印象深かったもう一人は、地元の老ジャーナリストでした。

原発は、ずっとそばにあった。
彼は言いました。

「振り返れば、ぼくは、原子力村の側の人間だった。大した疑問は持たなかった」

その悔悟は、地方中央を問わず、多くのメディア人のもつ思いと、通じるかもしれない。
原発に対する批判力が、いかにも弱かったのではないか、と。
原子力を、進歩の象徴とし、その黒い影が見いだせなかった。

今、老ジャーナリストは、しわ深い顔で付け加えました。

「日本には、広島、長崎があったのです」

その言葉の先には、福島があるようでした。

日本は、あらためて世界に、発信せねばなりません。
核に頼らない、新しいエネルギー、新しい暮らしを、世界に知らせねばなりません。

現状はどうか。
政府は、原発の再稼働に前のめりになり、原発の海外輸出に、何のためらいもなく、国民の知りたいエネルギー計画は、進んでいるようには見えない。

日本の原子力政策は、何も変わっていないようにも見えます。
何かを真剣に考え抜いた、という痕跡が見あたらない。
身近で危険なものほど、国民によく公開され、説明されるべきなのに。


◆新しい日本を創ろう

私たちは変わったか、という問いは、厳しすぎるかもしれません。
しかし、前進するためには、絶えざる自戒と、反問が必要です。
昨年のきょうは、未来への真剣な考察を、私たちに重く課したのです。
恐るべきほど多くの、犠牲のうえに。

それに報わずして、何としましょう。
被災地の人々は変わったけれど、そうでない人々は変わらない、という事態を恐れます。
国を、古きから新しきに変えて、原発に頼らない国を創る。
核なき世界を目指す。
新しい日本を創りましょう。
新しい日本は、私たち一人ひとりの中にあるのです』


そして、突然語られた『古館氏の決意』


『この番組を、およそ2時間半にわたって、お届けをしてまいりました。
いま、テレビをご覧のみなさま、
わたくし、ふたつの、この番組に関して、後悔する事があります。


一つ目は、牧場の主の方に、なんとか無理を言ってでも、
あの、「牛の墓場」を撮影して、皆様にお届けするべきだったと、今考えています。

わたしたちは、物を食らって生きています。
しかし、その生き物が、育てられていく現場、そしてその現場で、今、大変、悲惨な事が起きていると、
それをテレビは避けずに、直視して、
みなさまに「見て下さい!」と、私は、言う勇気を持つべきだと、いま、後悔しています。


そして、二つ目の後悔は、原発に関してです。

報道ステーションではスペシャル番組として、去年の12月28日の夜、原発の検証の番組をお送りしました。

「津波で原発が壊れたのではなく、それ以前の地震によって一部、第一原発の、どこかが損壊していたのではないか」
という、その追求をしました。

今回、このスペシャル番組で、その追求をする事は、できませんでした。

「原子力ムラ」という、ムラが存在します。
都会は、こことは違って、まばゆいばかりの光にあふれています。
そして、もう一つ、考える事は、
地域で、おもな産業では、なかなか暮らすのが難しいという時に、その地域を分断してまでも、積極的に原発を誘致した……そういう部分があったとも考えています。

その根本を、徹底的に、議論しなくてはいけないのではないでしょうか。
わたしはそれを、強く感じます。

そうしないと、今、生活の場を、根こそぎ奪われてしまった福島の方々に、申し訳が立ちません。

わたしは、日々の報道ステーションの中で、それを追及していきます。

もし、圧力がかかって、番組を切られても、わたしはそれはそれで本望です。

また、明日の夜、9時54分に、皆さまにお会いしたいです。

おやすみなさい』



*清水修二・福島大副学長 
「『原発いらない』の声は、痛恨の思いを込めた福島県民の叫び。この声を、全国の心ある人に届けるのは、県民の使命であり義務だ」
 
*鈴木美穂さん・開成高2年
「原発がなければ、被害に遭った人を助けに行けました。人の命も守れないのに、電力とか経済とかいっている場合ではないはずです」

*石井啓子さん・墨田区住人
「原発推進の流れを作ってしまったのは、私たち団塊の世代。若い人たちのために、再稼働はおかしいと言い続けたい」

「子供を守ろう」「事故を風化させてはならない」「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・フクシマ、ノーモア・ヒバクシャ」
「フクシマ事故があってもまだ、原発は安全だ、と言う政府には、憤りの気持ちでいっぱいだ」「人類は原発を制御できない」

*三春町の元副町長
「政治がもし変わらないのなら、政治に頼むのではなく、私たち自身が変わらなければなりません。
主権者は、いうまでもなく私たちなのであり、私たちが変われば、日本は変わるのです」


*東京新聞
「日本は、あらためて世界に、発信せねばなりません。
核に頼らない、新しいエネルギー、新しい暮らしを、世界に知らせねばなりません。
私たちは変わったか、という問いは、厳しすぎるかもしれません。
しかし、前進するためには、絶えざる自戒と、反問が必要です。
昨年のきょうは、未来への真剣な考察を、私たちに重く課したのです。
恐るべきほど多くの、犠牲のうえに。

それに報わずして、何としましょう。
被災地の人々は変わったけれど、そうでない人々は変わらない、という事態を恐れます。
国を、古きから新しきに変えて、原発に頼らない国を創る。
核なき世界を目指す。
新しい日本を創りましょう。
新しい日本は、私たち一人ひとりの中にあるのです」


*古舘伊知郎
「こんばんは
世の中には、今、ツルンツルンの言葉が飛び交っています。
この番組もそうです。

「復興、復興」という言葉です。

「きれい事を言うな」と言いたいです。
被災地の現場は、まだ、生活の再建のめども立たない方が、多くいらっしゃいます。

「あの震災から1年」という言葉を使います。
果たして、通常の一年間という時間で、被災地を捉える事が出来るのでしょうか、違和感を感じます。

かく言う私も行くたびか被災地を歩かせてもらいました。
時に同情した事もあります。
深い共感を覚えた事もあります。
自分のできる限りの寄付を3つの県庁に届けさせてもらった事もあります。

しかし一方で、被災地を人ごとのようにとらえて過ごしていた時間も多々ありました。
だからこそ、きょうという日を「メモリアル」とは捉えたくありません」