ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

父かえる

2011年02月10日 | 家族とわたし
今日は父の命日。
日本で亡くなったんやから、実際には昨日の夜中の12時半過ぎ、たまたま「今日も守ってくれておおきに」、とお礼を言うてたんが丁度その時やった。
今日はめちゃくちゃ忙しい日やから、天ぷら作れへんかもしれへん。
けど、遺影にしてって言われてもらった写真の額縁だけはきれいに拭いた。
めちゃきれい好きやったもんね。

父が生前、せっせと集めてたカエルコレクション。
それは多分、最後の10年間住んでた6番目の奥さんが持ってくれてるか、もしかしたら捨てられてるか……。
彼女も、事情があって、父の死後数年経って、逃げるようにして外国に移住しはったから、その時多分捨てられてしもたんかもしれん。
父が亡くなってすぐに渡米してから、なぜか突然、今度はわたしがカエルを集めたくなった。
ひとつずつ、お金が貯まったら買う。また貯まったら買う。
なんていうても、高価なんと違て、ものの2千円もせえへんもんばっかり。
けど、買う時は、父のことで胸がいっぱいになる。

これは、どっかのノミ市で買うた。ガラスの支柱の中に、どうやるんか知らんけど入ってる。


ふたつとも、前に住んでた町のちっちゃな雑貨屋さんで見つけた。手前のんは陶器製。奥のんは銅製で、日本酒好きの父が喜ぶと思て。奥でチラッと見えるのは、ふてくされた顔してる縫いぐるみカエル。


友人のさやかが、どっかで見つけて買うてきてくれた、カエルがくわえてる棒で背中を擦ると、ギロみたいな音が出るカエルくん。


ビルの両親に連れてってもろたアフリカ旅行で、拓人がお土産に、言うて買うてきてくれたビーズカエル。


これはまた違う、町のちっちゃな雑貨屋さんで見つけた吊りカエル。ちょっとOKAMAチックな王様。


父が末期のガンやとわかってすぐに、わたしの腸にもガンっぽい腫瘍が発見されて、ビル父が手配してくれた病院で検査を受けた際に、アメリカで買うてきたカエル。この子が父の最期の最期まで、枕元か、肩の上で居てくれた。
多分父は、このカエルをわたしやと思て、なかなか見舞いに来てもらえない寂しさを紛らわすために、ずっと抱っこしてたんやと思う。
父と一緒に棺の中に入れようとしたら、「今度はおやっさんの代わりにあんたのそばでおるわ」って言うてくれたような気がして、一緒に越してきた。


はじめの数年間は、命日が来るたんびに泣いとったけど、11年経って、いっぱい心の中でしゃべってきて、やっとにっこりしながら思い出せるようになった。

この写真、なんべん見ても笑えるわ。
おんなじような頭してる者同士、仲良う写ってんねんもん。


パパ、きげんよう暮らしてるか?それともまた、どっかで生まれ変わってやんちゃしてるんか?
愛してるで。わたしを娘として愛してくれてありがとうな。



今夜はビルはマンハッタン、恭平は大学、ひとりぼっちの夕飯でした。
なので、やっぱり、遅くなったけれど、仕事が終わってから命日メニューを作りました。


あるもんで作ったので、ちょっと色合いが悪いけど、それに海老がちっちゃいのしかなかったので、ネギと椎茸を混ぜたかき揚げになってしもたけど、なぜだかそれがとっても美味しくて、美味しいなあ美味しいなあと言いながら、遺影の父と一緒に食べました。






父の詫び状

2011年02月10日 | 家族とわたし
そういう題名の小説があった。
向田邦子さんの小説だと記憶している。

去年の夏、日本からH師匠が来てくださり、その際に、お土産だと言って、とんでもなく高価な品物をいただいた。
ブラックパールのネックレスだった。


H師匠は、人生の巨大な落とし穴にはまっていたわたしに、長い長いはしごを垂らしてくださったばかりか、へとへとなあまり自棄自暴になりかけていたわたしの手を掴んで、もう一度、明るい光の差す部屋で生きられるよう、引っ張り上げてくださった人だ。
なにかお返しを、お礼をしたいと思いながらできずに居たわたしは、やっと実現した訪米旅行で、少しはお返しできるかと意気込んでいた。
それなのに、こんな高価な物をいただいてしまったらなにもならないではないか……と恐縮するやら申し訳が無いやらで狼狽えてしまったが、もちろんとても嬉しかったので、ありがたくいただいた。

そして何日か経って、急に甦ってきた思い出があった。

H師匠のおかげで、学生としての締めの4年間、音楽をたっぷり学べたわたしは、22才の春に、結婚と同時にヤマハの音楽講師になった。
ピアノや音楽の基礎知識、それから音感などの訓練は、8才から15才までに受けた英才教育でしっかり身についていたので、採用試験は難しいものではなかった。
採用されてから、必死でシステムを学び、働いて、それなりの評価もいただき、勤続10年の褒美として、振興会から見事なブラックパールの粒をいただいた。
とても大きくて、鈍い光を放つ、本当に美しい真珠だった。
わたしはすごく嬉しくて、里帰りした時わざわざ持ってって、父にも一緒に喜んでもらおうと思い、それを父に見せた。
「ああ、これはええ真珠やなあ。パパに預けなさい。ええ指輪にしたげるさかい」と、父もすごく感心しながら言ったので、わたしはワクワクしながら、その真珠を化粧箱とともに父に手渡した。

わたしがその真珠を見たのは、それが最初で最後になった。
その当時も、父は事業に失敗しては借金をくり返していたので、多分その真珠は、金策に手段として使われたんだろうと思う。
それか、その当時のガールフレンドにあげたか……。
どちらにしても、かなり長いこと待って、一向に指輪のことを話さない父に、「あの真珠はどうなったん?」と初めて聞いた時の父の顔を見て、すぐに事情を察したわたしは、もう二度とそのことは聞くまい、と心に決めた。
けれどもさすがに悔しかった。腹が立った。あの真珠にこめられたわたしの10年間の毎日まで踏みにじられたような気がした。
でも、すぐに忘れた。
そんなことさえも、取るに足らないことに値するほどに、悩ましいことがたくさん転がっていた。


H師匠からいただいたネックレスを、秋になって初めて身につけた時、あっと気がついた。
これは父からの詫び状だと。
H師匠と父は、ひとまわり違う同じ干支の、同じ生年月日。
もちろん、全く違う人となりで、どこにも共通点など無いのだけれど、父が図らずも作ってしまったゴタゴタに巻き込まれて動きが取れなくなっていたわたしを、救い上げてくださったH師匠。
父が、多分その時も、心のどこかでは申し訳ないと思いながらも、ついやってしまい、娘に返せなくなった黒真珠の件も、まさにそれとそっくりそのままの物を、20年経って、ネックレスにして持ってきてくださったH師匠。
すっかり散財させてしまったH師匠には、本当に申し訳ないのだけれど、わたしはすっかり信じている。

これから一生、この真珠を大切にしよう。


H師匠、本当にありがとうございました。
パパ、もうええねんで。