ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

落ち葉掃き

2010年11月10日 | お家狂想曲
ポールとピンキーのカエデの木が色づき始めました。この界隈では一番奥手です。


今はもう空っぽになってしまったけれど、また新しい家族がここに暮らし始めるまでの間、彼らが住んでいたままの世界が続きます。

お向かえの、今売りに出ている家の奥のカエデも、こんなにきれいに色づいてきました。ということは、まだまだ新しい落ち葉候補達が控えていることになります。


けれども、さすがにもう我慢ができなくなって、せめて玄関までの間だけぐらいはきれいにしておこうと、落ち葉掃きを始めました。
松の針のような落ち葉と、大きなカエデの葉やポンちゃん(桜)の葉で埋め尽くされていた道が、ようやく姿を現してくれました。


ここまでの時点で既に汗がダラダラ。今日はエクセサイズのクラスが無い日なので一石二鳥です。
 

階段の上に置いてあったカボチャはとうとうこんな姿に……。


二本のでっかい歯形からいって、きっとリスとグラウンド・ホッグのお腹を満たしているのだと思います。

一緒に外に出てきて、お手伝いをしてくれるショーティ。芝の刈り込み?……いえいえ、お腹の整腸のためにせっせと草を食べているのです。


ちょっとクラクラしてきたし、手のひらも水ぶくれができそう(どんなに柔い体なんじゃ?)だったので、そろそろここらへんで……と思っていたら、いきなり旦那も外に出てきて、サラエでガァガァ掃き始めるではありませんか?!
え?まじ?
こちらに引っ越してくるまでの9年間、実に9回の秋、庭の掃除なんてどうしてやるんだ?とばかりに、全く手伝ってくれなかった旦那が、自分から率先して、草引き、芝刈り、垣根の剪定などなどをやってくれるようになりました。
まるで別人?

せっかくなので、道路前の方にも手を延ばし、とりあえずだいたいのところまで掃除しました。


葉っぱが無くなると、芝生の枯れた所が見えて、ちょっとみすぼらしい。
でも、写真の中にもある、ポールんちの、十号花火のような巨大カエデがこれからまだまだ落ち葉を作るので、もう一回は大掃除が必要のようです。

今日の掃除で、わたしが頭の先から足の先まですっぽり入る大きな落ち葉用紙袋が4袋、いっぱいになりました。
焼き芋したらおいしいやろなあ~……うっとり

本当の気持ち

2010年11月10日 | ひとりごと
また、ひどい話の夢を見た。
昨日の寝しなに読んでいた本の中にとてもいいことが書かれていて、足元の湯たんぽもほどよく温かく、ほのぼのとした気持ちですぅっと眠りについた。
だからからか、朝6時半前に一度目が覚めた。
そしてまた7時に目が覚めて、わたしは多分、その時に起きておけばよかったのだ。


母がいた。そして大学生の拓人がいた。
母と拓人とわたしは、三人一緒に、どこか知らない電車の駅に着いていた。
そこは都会ではないのだけれど、電車の駅周辺だけが妙に大規模な建物が建っていて、おまけに地下にも数階、駅につながる通路やエレベーターやエスカレーターがあったりした。
拓人はその駅がある町のどこかで開催されているクラスか催し物に参加することになっていて、気がつくと居なくなっていた。
母は,わたし達を連れて行きたい所があるようで、いつものように注意深く、どの線のどの時間の電車に乗ったら間に合うか調べ、余分なお金を払って、特急に乗れるように切符を買ってくれた。

母とわたしは、そのややっこしい場所を少しでも把握しようとあちこち歩き回ったのだけれど、歩けば歩くほどわけがわからなくなる迷路のような構図になっていた。
こんなんじゃ、電車のホームを見つけるのは大変だなあと心配になってきた時、母が急に、「あ、もう時間が無い。そろそろ行かんと間に合わへん。拓人はどこよ?」とパニックになり、わたしはとにかく落ち着かせようと、彼女だけを先にホームに行かせることにした。
そして、駅前の広場の一角にある、急に大勢の学生達が降りてくるようになったバス停の方に向かって歩いていった。
何台のバスが到着しても、一向に拓人が降りて来ない。
もう間に合わない。時間が無い。今頃ホームに居る母は、やって来る電車に乗るべきかどうか決められずにイライラしているに違いない。
もうあと数分しか無いという時になって、降りてきた生徒の中に、ようやく拓人の姿を見つけた。
怒鳴りつけて、とにかくついてくるように叫びながらやみくもに走り回った。

ところが、どうにもこうにも道がわからないのだった。
エスカレーターを上りきると、そこは行き止まりだったり、通路を走り抜けると、全く別の店の中に入ったりした。
さすがに観念して、電車を諦めた途端、どうしようもない怒りが腹の底からこみ上げてきた。
拓人の服を引っ張り、建物の外に出て、獣のうめき声のような泣き声と一緒に、「なんで?なんで?なんで?」と叫びながら拓人を押し倒し、事もあろうに素手で彼を叩き続けている最中に目が覚めた。


起きた時、頭が固い物で押しつぶされているように痛んだ。
心臓が恐ろしいぐらいに早打ちしていて、息が苦しかった。
なによりも、気分が最低の中の最悪だった。

いったいこの夢は、わたしに何を言おうとしているのだろう。
一番先に考えたのはこのことだった。
わたしはいったい、どうして、こんな夢を見たのだろう。
わたしの無意識の海底には、どうしてこんなにも酷い話が埋もれているのだろう。

少しだけパニック状態が治まってくると、今度は母と拓人の間にある、本当は深くなんかないんだけれど、本人達は深いと思い込んでいる溝について考えた。
彼らはある事があって以来、お互いに心を開かなくなってしまった。本当は愛しているのに、そのことが見えなくなってしまった。
それはわたしにとってはとても悲しいことだけど、わたしが中に入って心配しても仕方の無いことなので、努めて忘れていたつもりだった。
あの夢の中でわたしはきっと、またいい関係に戻りつつあった彼らを見て、ホッとしていたのかもしれない。
母の前で、拓人に失態を演じて欲しく無かったのかもしれない。
また誤解がひとつ増えるか、この場合は誤解ではなく、彼が時間に疎かったのは事実なんだけど、そのことを過剰に怒るであろう母の反応が恐かったのかもしれない。
とにかくわたしは、心のバランスを計っている糸がプツンと切れたように、母から渡された電車の切符を握ったまま息子に襲いかかっていった。
起きた後も、自分の手のひらに叩いた時の痛みがまだ残っていて、それが辛くて涙が滲んだ。


拓人は毎日、会社で必死で働いている。
一人暮らしもまずまずうまくいっている。
会社の中では、グングンと頭角を現し、前回のプロジェクトでは組織の上の上の方まで名前を轟かせた。
働き始めてまだ半年も経っていないのに、彼独自のプロジェクトを任されて、今はとにかくそれを無事に終えることに没頭している。
出る釘はどんどん引っ張り上げる。アメリカの経営方式のいい部分が、彼をどんどん育ててくれている。

母は、白内障の手術を受けた後、思っていたようには症状が改善しなかったばかりか、前には無かった問題に悩まされている。
けれども体調はまずまず。機嫌もまずまず。口癖だった「生きていてもしょうがない」は一切口にしなくなった。


わたしが今読んでいる本の著者が、くり返し訴えている。
自分を尊ぶ気持ち、自身についての肯定的な考えがどんなに大切か。
良い人を演じたり、他人のために何かをしたりすることによって、自分には価値がないという思いを隠している。
価値が無いという考えは、健康に否定的な影響を及ぼす。

だからわたしが昨日の寝しなに考えたのはこういうことだった。
もっと正直に、いい意味で無邪気に、けれども自分の言動が巻き起こす物事についてはきちんと責任を持ち、暗い思考を心の中から追い出そう!
 

そんなわたしが、どうしてこんな夢を見たんだろう……。