公平中立であるべき大マスメディアが、スポーツチームを所有している。
そして、その球団名の最初に自分の社の名前を付ける。
洗脳されたファンは、何とも思わないかもしれないが、ファンでない私は「おかしいだろ! それ」と、子どものときから思ってきた。
一球団、独裁。
許されていいのか、そんなことが!
だから、せめてもの抵抗の意味も含めて、私はいつもその球団のことを「東京ジャイアンツ」と呼んでいる。
友人の馬鹿ファンは、「讀賣巨人軍」と、何の抵抗もなく呼んでいる。
軍隊でもないのに、軍とつける奇妙さ。
新聞社丸抱えが丸見えの商業意識しか感じないそのネーミング。
公平中立が原則の公的媒体が、自社所有のチームを毎日のように宣伝、応援するのだ。
系列のテレビ局も同じように、毎日のように宣伝、応援してきた。
そこでは、アナウンサーも解説者も、一方だけに肩入れして、「頑張れ」の大合唱を演出していた。
最近では、その馬鹿さ加減に、やっと気づいた人たちが、テレビの前から遠ざかるようになったが、私に言わせれば「20年遅い!」。
そのチームのファンしか見ないようなケーブルテレビならまだしも、普通にニュースもやっているような公的媒体が、特定のチームを一方的な思い入れを持って報道し続けるのは、間違いなく「私的利用」だ。
これは、大衆は、いとも簡単にコントロール(洗脳)できるという驕った認識を持っている、思い上がったカルト的経営者に多く見られる傾向だ。
たとえば、出版社が、自分で小説家を作り出し、あるいは掘り出し、彼の書いた小説を大々的に宣伝し、テレビドラマ化、映画化し、自らの手で社会現象を創り出すという手法がある。
場合によっては、その出版社が創設した文学賞を取らせたりして、あたかもそれが名作であるかのように権威付けし、流行をコントロールする。
それは、もちろんKADOKAWAという会社のことを言っているのだが、そのカルト的手法と讀賣新聞社の手法は、驚くほど似ている。
自らが作り出した野球集団を「最高のスポーツ球団」であると、毎日の紙面と放送で読者、視聴者に刷り込み、ときに権威付けし、排他的な状況を作り出す。
おのれが、公平中立であるべきマスメディアのコロニー(同一集団)にいることなど、まるで眼中にないがごとくである。
スポーツマスコミは、権力を持った大新聞社の横暴さに、媚びへつらったがゆえに、日本のスポーツマスコミは、長い間、讀賣の腰巾着の地位に甘んじてきた。
人気のジャイアンツ。
その過大評価した絶対性をよりどころに、どの新聞も、どのテレビ局もほとんど無批判に讀賣の戦略に追随してきた。
まるでカルトに無条件に群がる信者のように、正当な疑問を封印してきたのである。
たかがプロ野球ではあるが、その手法は、プロ野球に留まらず、あらゆる分野に通じる手法だ。
讀賣新聞は、政界に対しても、あるいは政界の方が主流かもしれないが、ずっとその手法を貫いてきた。
つまり、彼らは、怖い集団なのだ。
排他的であるところが、最も怖い。
そして、読者を洗脳することに何のためらいもないその姿勢が、怖い。
だから、カルト的なそんな怖さを持つ讀賣新聞が、私は嫌いだ。
そして、その球団名の最初に自分の社の名前を付ける。
洗脳されたファンは、何とも思わないかもしれないが、ファンでない私は「おかしいだろ! それ」と、子どものときから思ってきた。
一球団、独裁。
許されていいのか、そんなことが!
だから、せめてもの抵抗の意味も含めて、私はいつもその球団のことを「東京ジャイアンツ」と呼んでいる。
友人の馬鹿ファンは、「讀賣巨人軍」と、何の抵抗もなく呼んでいる。
軍隊でもないのに、軍とつける奇妙さ。
新聞社丸抱えが丸見えの商業意識しか感じないそのネーミング。
公平中立が原則の公的媒体が、自社所有のチームを毎日のように宣伝、応援するのだ。
系列のテレビ局も同じように、毎日のように宣伝、応援してきた。
そこでは、アナウンサーも解説者も、一方だけに肩入れして、「頑張れ」の大合唱を演出していた。
最近では、その馬鹿さ加減に、やっと気づいた人たちが、テレビの前から遠ざかるようになったが、私に言わせれば「20年遅い!」。
そのチームのファンしか見ないようなケーブルテレビならまだしも、普通にニュースもやっているような公的媒体が、特定のチームを一方的な思い入れを持って報道し続けるのは、間違いなく「私的利用」だ。
これは、大衆は、いとも簡単にコントロール(洗脳)できるという驕った認識を持っている、思い上がったカルト的経営者に多く見られる傾向だ。
たとえば、出版社が、自分で小説家を作り出し、あるいは掘り出し、彼の書いた小説を大々的に宣伝し、テレビドラマ化、映画化し、自らの手で社会現象を創り出すという手法がある。
場合によっては、その出版社が創設した文学賞を取らせたりして、あたかもそれが名作であるかのように権威付けし、流行をコントロールする。
それは、もちろんKADOKAWAという会社のことを言っているのだが、そのカルト的手法と讀賣新聞社の手法は、驚くほど似ている。
自らが作り出した野球集団を「最高のスポーツ球団」であると、毎日の紙面と放送で読者、視聴者に刷り込み、ときに権威付けし、排他的な状況を作り出す。
おのれが、公平中立であるべきマスメディアのコロニー(同一集団)にいることなど、まるで眼中にないがごとくである。
スポーツマスコミは、権力を持った大新聞社の横暴さに、媚びへつらったがゆえに、日本のスポーツマスコミは、長い間、讀賣の腰巾着の地位に甘んじてきた。
人気のジャイアンツ。
その過大評価した絶対性をよりどころに、どの新聞も、どのテレビ局もほとんど無批判に讀賣の戦略に追随してきた。
まるでカルトに無条件に群がる信者のように、正当な疑問を封印してきたのである。
たかがプロ野球ではあるが、その手法は、プロ野球に留まらず、あらゆる分野に通じる手法だ。
讀賣新聞は、政界に対しても、あるいは政界の方が主流かもしれないが、ずっとその手法を貫いてきた。
つまり、彼らは、怖い集団なのだ。
排他的であるところが、最も怖い。
そして、読者を洗脳することに何のためらいもないその姿勢が、怖い。
だから、カルト的なそんな怖さを持つ讀賣新聞が、私は嫌いだ。