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リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

讀賣新聞ぎらい その2

2011-04-24 09:13:29 | オヤジの日記
公平中立であるべき大マスメディアが、スポーツチームを所有している。

そして、その球団名の最初に自分の社の名前を付ける。

洗脳されたファンは、何とも思わないかもしれないが、ファンでない私は「おかしいだろ! それ」と、子どものときから思ってきた。

一球団、独裁。
許されていいのか、そんなことが!

だから、せめてもの抵抗の意味も含めて、私はいつもその球団のことを「東京ジャイアンツ」と呼んでいる。

友人の馬鹿ファンは、「讀賣巨人軍」と、何の抵抗もなく呼んでいる。

軍隊でもないのに、軍とつける奇妙さ。
新聞社丸抱えが丸見えの商業意識しか感じないそのネーミング。

公平中立が原則の公的媒体が、自社所有のチームを毎日のように宣伝、応援するのだ。
系列のテレビ局も同じように、毎日のように宣伝、応援してきた。

そこでは、アナウンサーも解説者も、一方だけに肩入れして、「頑張れ」の大合唱を演出していた。
最近では、その馬鹿さ加減に、やっと気づいた人たちが、テレビの前から遠ざかるようになったが、私に言わせれば「20年遅い!」

そのチームのファンしか見ないようなケーブルテレビならまだしも、普通にニュースもやっているような公的媒体が、特定のチームを一方的な思い入れを持って報道し続けるのは、間違いなく「私的利用」だ。

これは、大衆は、いとも簡単にコントロール(洗脳)できるという驕った認識を持っている、思い上がったカルト的経営者に多く見られる傾向だ。


たとえば、出版社が、自分で小説家を作り出し、あるいは掘り出し、彼の書いた小説を大々的に宣伝し、テレビドラマ化、映画化し、自らの手で社会現象を創り出すという手法がある。
場合によっては、その出版社が創設した文学賞を取らせたりして、あたかもそれが名作であるかのように権威付けし、流行をコントロールする。

それは、もちろんKADOKAWAという会社のことを言っているのだが、そのカルト的手法と讀賣新聞社の手法は、驚くほど似ている。


自らが作り出した野球集団を「最高のスポーツ球団」であると、毎日の紙面と放送で読者、視聴者に刷り込み、ときに権威付けし、排他的な状況を作り出す。

おのれが、公平中立であるべきマスメディアのコロニー(同一集団)にいることなど、まるで眼中にないがごとくである。

スポーツマスコミは、権力を持った大新聞社の横暴さに、媚びへつらったがゆえに、日本のスポーツマスコミは、長い間、讀賣の腰巾着の地位に甘んじてきた。

人気のジャイアンツ。
その過大評価した絶対性をよりどころに、どの新聞も、どのテレビ局もほとんど無批判に讀賣の戦略に追随してきた。

まるでカルトに無条件に群がる信者のように、正当な疑問を封印してきたのである。


たかがプロ野球ではあるが、その手法は、プロ野球に留まらず、あらゆる分野に通じる手法だ。

讀賣新聞は、政界に対しても、あるいは政界の方が主流かもしれないが、ずっとその手法を貫いてきた。

つまり、彼らは、怖い集団なのだ。

排他的であるところが、最も怖い。
そして、読者を洗脳することに何のためらいもないその姿勢が、怖い。


だから、カルト的なそんな怖さを持つ讀賣新聞が、私は嫌いだ。