テレビや映画で、ドキュメンタリー映像という手法がある。
実在のできごとを虚飾を交えないで記録した映像、というのが一般的な解釈だろう。
ただ、「細かいことを言うなよ」と言われることを承知で書くと、カメラが回って、編集の手が入った時点で、それは一部虚飾が入っているのではないか、と思うのだ。
全部の映像をリアルタイムで見せてくれるなら、それは事実に近づいたと言えるかもしれない。
ただ、そんなときでも、カメラの存在は、やはり事実をオブラートで包むような「もどかしさ」がある。
隠し撮りなら、そのもどかしさは解消されるが、それは場合によっては、犯罪になる。
しかし、ドキュメンタリーの対象である人に、隠し撮りをばらしてしまったら、またもどかしくなる。
1パーセントでも虚飾が入ってしまったら、それは事実とは言えない、と私は思うのだ。
結論としては、「映像は、事実を伝えられない」「必ず虚飾が入る」ということだ。
映像ディレクターの主観で、いくらでも編集はできるのだ。
だから、それを「事実です」と言うマスメディアの勘違いが、私は嫌いだ。
以前、ニュース番組で、ドキュメンタリー仕立てで、痴漢の冤罪事件を追ったものがあった。
その人は30代のサラリーマンで、朝の通勤時間に女子高生に痴漢を働いたということで、現行犯逮捕されたらしい。
しかし、裁判の結果は、冤罪。
そのニュースでは、冤罪に至るまでの、彼と彼の関係者の努力をカメラが入って、半年以上追い続けていた。
そして、彼の会話と、電車での検証場面、さらにCGを駆使して、痴漢の汚名を着せられるまでを淡々としたナレーションを添えて流していた。
だが、それは、あくまでも冤罪の主を中心に作られたストーリーだった。
痴漢を訴えた女子高生は、ぼかしをかけて、インタビューを断る場面しか出てこなかった。
それも、断って後ろを向くシーンを数回リプレイしていた。
つまり、そこに番組側の何かしらの意図を感じる。
原告側が、インタビューを断ったのなら、そのことだけを告げればいい。
何度も、断った映像を繰り返して強調することはない。
「冤罪ありき」で作った映像は、決してドキュメンタリーではないし、ニュースとも言えない。
一方の視点からしか報道しないものは、映像ファシズムだ。
今回の震災も、いつの日か、ドキュメンタリーに名を借りた「悲惨」だけを強調したり「善意」だけを強調した視点で、映像が作られるかもしれない。
それは、映像作家の作品ではあるが、事実を表現したものではない。
あくまでも「彼が編集した作品」である。
それを見れば、彼が何を訴えたかったは、わかるだろうが、それは「彼の作品」以上のものにはならない。
商業的な人の目を通したら、事実は、必ず遠ざかる。
だから、私はドキュメンタリーが嫌いである。
実在のできごとを虚飾を交えないで記録した映像、というのが一般的な解釈だろう。
ただ、「細かいことを言うなよ」と言われることを承知で書くと、カメラが回って、編集の手が入った時点で、それは一部虚飾が入っているのではないか、と思うのだ。
全部の映像をリアルタイムで見せてくれるなら、それは事実に近づいたと言えるかもしれない。
ただ、そんなときでも、カメラの存在は、やはり事実をオブラートで包むような「もどかしさ」がある。
隠し撮りなら、そのもどかしさは解消されるが、それは場合によっては、犯罪になる。
しかし、ドキュメンタリーの対象である人に、隠し撮りをばらしてしまったら、またもどかしくなる。
1パーセントでも虚飾が入ってしまったら、それは事実とは言えない、と私は思うのだ。
結論としては、「映像は、事実を伝えられない」「必ず虚飾が入る」ということだ。
映像ディレクターの主観で、いくらでも編集はできるのだ。
だから、それを「事実です」と言うマスメディアの勘違いが、私は嫌いだ。
以前、ニュース番組で、ドキュメンタリー仕立てで、痴漢の冤罪事件を追ったものがあった。
その人は30代のサラリーマンで、朝の通勤時間に女子高生に痴漢を働いたということで、現行犯逮捕されたらしい。
しかし、裁判の結果は、冤罪。
そのニュースでは、冤罪に至るまでの、彼と彼の関係者の努力をカメラが入って、半年以上追い続けていた。
そして、彼の会話と、電車での検証場面、さらにCGを駆使して、痴漢の汚名を着せられるまでを淡々としたナレーションを添えて流していた。
だが、それは、あくまでも冤罪の主を中心に作られたストーリーだった。
痴漢を訴えた女子高生は、ぼかしをかけて、インタビューを断る場面しか出てこなかった。
それも、断って後ろを向くシーンを数回リプレイしていた。
つまり、そこに番組側の何かしらの意図を感じる。
原告側が、インタビューを断ったのなら、そのことだけを告げればいい。
何度も、断った映像を繰り返して強調することはない。
「冤罪ありき」で作った映像は、決してドキュメンタリーではないし、ニュースとも言えない。
一方の視点からしか報道しないものは、映像ファシズムだ。
今回の震災も、いつの日か、ドキュメンタリーに名を借りた「悲惨」だけを強調したり「善意」だけを強調した視点で、映像が作られるかもしれない。
それは、映像作家の作品ではあるが、事実を表現したものではない。
あくまでも「彼が編集した作品」である。
それを見れば、彼が何を訴えたかったは、わかるだろうが、それは「彼の作品」以上のものにはならない。
商業的な人の目を通したら、事実は、必ず遠ざかる。
だから、私はドキュメンタリーが嫌いである。