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リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

ドキュメンタリーぎらい

2011-04-28 06:51:22 | オヤジの日記
テレビや映画で、ドキュメンタリー映像という手法がある。

実在のできごとを虚飾を交えないで記録した映像、というのが一般的な解釈だろう。

ただ、「細かいことを言うなよ」と言われることを承知で書くと、カメラが回って、編集の手が入った時点で、それは一部虚飾が入っているのではないか、と思うのだ。

全部の映像をリアルタイムで見せてくれるなら、それは事実に近づいたと言えるかもしれない。
ただ、そんなときでも、カメラの存在は、やはり事実をオブラートで包むような「もどかしさ」がある。

隠し撮りなら、そのもどかしさは解消されるが、それは場合によっては、犯罪になる。

しかし、ドキュメンタリーの対象である人に、隠し撮りをばらしてしまったら、またもどかしくなる。

1パーセントでも虚飾が入ってしまったら、それは事実とは言えない、と私は思うのだ。

結論としては、「映像は、事実を伝えられない」「必ず虚飾が入る」ということだ。

映像ディレクターの主観で、いくらでも編集はできるのだ。

だから、それを「事実です」と言うマスメディアの勘違いが、私は嫌いだ。


以前、ニュース番組で、ドキュメンタリー仕立てで、痴漢の冤罪事件を追ったものがあった。
その人は30代のサラリーマンで、朝の通勤時間に女子高生に痴漢を働いたということで、現行犯逮捕されたらしい。

しかし、裁判の結果は、冤罪。
そのニュースでは、冤罪に至るまでの、彼と彼の関係者の努力をカメラが入って、半年以上追い続けていた。
そして、彼の会話と、電車での検証場面、さらにCGを駆使して、痴漢の汚名を着せられるまでを淡々としたナレーションを添えて流していた。

だが、それは、あくまでも冤罪の主を中心に作られたストーリーだった。

痴漢を訴えた女子高生は、ぼかしをかけて、インタビューを断る場面しか出てこなかった。
それも、断って後ろを向くシーンを数回リプレイしていた。

つまり、そこに番組側の何かしらの意図を感じる。

原告側が、インタビューを断ったのなら、そのことだけを告げればいい。

何度も、断った映像を繰り返して強調することはない。

「冤罪ありき」で作った映像は、決してドキュメンタリーではないし、ニュースとも言えない。
一方の視点からしか報道しないものは、映像ファシズムだ。


今回の震災も、いつの日か、ドキュメンタリーに名を借りた「悲惨」だけを強調したり「善意」だけを強調した視点で、映像が作られるかもしれない。

それは、映像作家の作品ではあるが、事実を表現したものではない。
あくまでも「彼が編集した作品」である。

それを見れば、彼が何を訴えたかったは、わかるだろうが、それは「彼の作品」以上のものにはならない。


商業的な人の目を通したら、事実は、必ず遠ざかる。

だから、私はドキュメンタリーが嫌いである。