
王国の終焉を見た王妃
アルフォンソ13世妃 ビクトリア・エウヘニア・デ・バッテンベルク
1887~1969/在位 1906~1931
ビクトリア・エウヘニア(以下エナ)の父ヘンリーは貴賤結婚で生まれた子で
バッテンベルク爵位は母ベアトリスがヴィクトリア女王王女だったことで得た称号でした。
1896年のアフリカ遠征の際に父親が死亡したので
母とともにヴィクトリア女王のもとに身を寄せて少女時代を送っていました。

1905年にアルフォンソ13世が英国を訪問した際
伯父エドワード7世主催の晩餐会が開かれまして、若きスペイン王がエナに目を留めます。
晩餐会の会席者は、アルフォンソ13世がコンノート公女パトリシアに求婚していたのを
知っていましたが、あきらかに彼の心がエナに移ったことに気がつきました。
アルフォンソ13世は即エナに求婚しはじめましたが
スペインに帰ってからも熱烈な手紙を送り続けました。 素早い変わり身…
しかし王太后マリア・クリスティネは息子が選んだ相手が気に入りませんでした。
まずは家柄、王太后はバッテンベルク一族は王侯貴族ではないと見なしていました。
それから宗教、スペイン王家は代々カトリックですがエナはアングリカンでした。
またエナの兄が血友病でエナの体調や遺伝のことが心配されました。
1年かけて説得しましたがアルフォンソはあきらめません。
とうとう根負けした王太后は自らペンを取り、エドワード7世とエナの母ベアトリスに
息子の気持ちを伝える手紙を送りました。
エナがカトリックに改宗したり英国の王位継承権を放棄したりという取り決めがあり
1906年、晴れてアルフォンソ13世とエナは結婚することになりました。
アルフォンソ13世はダンディで人当りもよく、人気はあったらしいのですが
スペインは急速な都市化によって貧富の差が広がり、不満分子を多く抱えていました。
結婚式から宮殿に帰る馬車に爆弾が投げ込まれ、王と王妃は無事でしたが
警護兵が亡くなり、エナのドレスにも血の跡が残ったそうです。
手荒い歓迎で始まったエナの王妃生活ですが、人々にあまり人気がなく孤立しがちで
王子が生まれるまでは好転しませんでした。
しかし翌年生まれた長男は危惧されたように血友病で、その後生まれた6人の子女のうち
末子が血友病を、次男が障害を抱えていました。
アルフォンソ13世は結婚前の熱烈ぶりが嘘のように冷たくなり浮気を繰り返します。
相手の中にはエナのいとこのベアトリーチェもいたらしいですよ …
エナは慈善活動に打ち込むようになっていきました。
1931年、左派の躍進によって共和制が始まりアルフォンソは廃位されます。
追放された王一家はフランス、イタリアなどで過ごしていましたが
ほどなくエナとアルフォンソは別居するようになり、エナはイギリスへ向かいました。
ところが1939年に第二次世界大戦が始まるとエナは英国から出ていくよう言われます。
スペインは参戦はしていなかったのですが、国内でファシズムが台頭していて
ナチス・ドイツ寄りだと見られていたのです。
エナはスイスのローザンヌに移りました。
エナはスペインへは一度だけ一時帰国しただけで、1969年に亡くなりました。
エルコリアルの夫や子供たちの側に埋葬してほしいと望んでしましたが叶わず
ローザンヌの教会に埋葬されました。

こちらがお写真です
スペインに嫁にいかなければねぇ… 英国で平穏な人生が送れたかもしれないのに。
でも渦中の人から熱烈な求愛をされるというのは若い女性にとっては嬉しいものです。
あとさき考えずにほだされちゃうってのは分からないでもありませんね。
スペインは、エナの死から6年後の1975年、孫にあたるファン・カルロス現王が即位して
王政が復活し、1978年から立憲君主国になりました。
(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)
六つの国の王家の終焉を描いた一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね


アルフォンソ13世妃 ビクトリア・エウヘニア・デ・バッテンベルク
1887~1969/在位 1906~1931
ビクトリア・エウヘニア(以下エナ)の父ヘンリーは貴賤結婚で生まれた子で
バッテンベルク爵位は母ベアトリスがヴィクトリア女王王女だったことで得た称号でした。
1896年のアフリカ遠征の際に父親が死亡したので
母とともにヴィクトリア女王のもとに身を寄せて少女時代を送っていました。

1905年にアルフォンソ13世が英国を訪問した際
伯父エドワード7世主催の晩餐会が開かれまして、若きスペイン王がエナに目を留めます。
晩餐会の会席者は、アルフォンソ13世がコンノート公女パトリシアに求婚していたのを
知っていましたが、あきらかに彼の心がエナに移ったことに気がつきました。
アルフォンソ13世は即エナに求婚しはじめましたが
スペインに帰ってからも熱烈な手紙を送り続けました。 素早い変わり身…

しかし王太后マリア・クリスティネは息子が選んだ相手が気に入りませんでした。
まずは家柄、王太后はバッテンベルク一族は王侯貴族ではないと見なしていました。
それから宗教、スペイン王家は代々カトリックですがエナはアングリカンでした。
またエナの兄が血友病でエナの体調や遺伝のことが心配されました。
1年かけて説得しましたがアルフォンソはあきらめません。
とうとう根負けした王太后は自らペンを取り、エドワード7世とエナの母ベアトリスに
息子の気持ちを伝える手紙を送りました。
エナがカトリックに改宗したり英国の王位継承権を放棄したりという取り決めがあり
1906年、晴れてアルフォンソ13世とエナは結婚することになりました。
アルフォンソ13世はダンディで人当りもよく、人気はあったらしいのですが
スペインは急速な都市化によって貧富の差が広がり、不満分子を多く抱えていました。
結婚式から宮殿に帰る馬車に爆弾が投げ込まれ、王と王妃は無事でしたが
警護兵が亡くなり、エナのドレスにも血の跡が残ったそうです。
手荒い歓迎で始まったエナの王妃生活ですが、人々にあまり人気がなく孤立しがちで
王子が生まれるまでは好転しませんでした。
しかし翌年生まれた長男は危惧されたように血友病で、その後生まれた6人の子女のうち
末子が血友病を、次男が障害を抱えていました。
アルフォンソ13世は結婚前の熱烈ぶりが嘘のように冷たくなり浮気を繰り返します。
相手の中にはエナのいとこのベアトリーチェもいたらしいですよ …

エナは慈善活動に打ち込むようになっていきました。
1931年、左派の躍進によって共和制が始まりアルフォンソは廃位されます。
追放された王一家はフランス、イタリアなどで過ごしていましたが
ほどなくエナとアルフォンソは別居するようになり、エナはイギリスへ向かいました。
ところが1939年に第二次世界大戦が始まるとエナは英国から出ていくよう言われます。
スペインは参戦はしていなかったのですが、国内でファシズムが台頭していて
ナチス・ドイツ寄りだと見られていたのです。
エナはスイスのローザンヌに移りました。
エナはスペインへは一度だけ一時帰国しただけで、1969年に亡くなりました。
エルコリアルの夫や子供たちの側に埋葬してほしいと望んでしましたが叶わず
ローザンヌの教会に埋葬されました。

こちらがお写真です
スペインに嫁にいかなければねぇ… 英国で平穏な人生が送れたかもしれないのに。
でも渦中の人から熱烈な求愛をされるというのは若い女性にとっては嬉しいものです。
あとさき考えずにほだされちゃうってのは分からないでもありませんね。
スペインは、エナの死から6年後の1975年、孫にあたるファン・カルロス現王が即位して
王政が復活し、1978年から立憲君主国になりました。
(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)
六つの国の王家の終焉を描いた一冊
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね
ありがとうございます。
実は12このめがねさんのブログも拝見しようと思ってコメントのところをクリックするのですが、鳥の写真みたいなものがでてきまして、次に貝の写真がでてくるんです。
検索とかもかけてみたのですけど…まだ見れていないのです。
ややこしくなってくると投げ出すずぼらさを許して下さい。
今度ブログ名を教えて下さいね