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再婚が身を滅ぼす
フェルナンド7世妃 マリア・クリスティネ・デ・シシリアス
1806~1878/在位 1829~1833
マリア・クリスティネの母はフェルナンド7世の妹なので
またまたまた伯父と姪の結婚です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/cd/de9066ab2f7d1a555e5bde732cb05d26.jpg)
45歳で3人目の妃を亡くしたフェルナンド7世には嫡子がいませんでした。
かなり焦ったのか、マリア・ヨーゼファの死から7ヶ月で4度目の結婚です。
マリア・クリスティネは23歳で、若い妃に比べればからだがしっかりしてたんですかね?
すぐに身ごもり立て続けに王女が誕生しました。
長女イサベルが3歳の時、フェルナンド7世が亡くなりました。
イサベル2世が即位して、マリア・クリスティネは摂政になりますが
フェルナンドの弟ドン・カルロス・マリア・イシドロが異議を唱えます。
ブルボン家はフランス王家と同じく女性を王にしないサリカ法を用いていると言うのです。
けれどマリア・クリスティネが、イサベルが生まれた時に王を説得して
サリカ法を破棄させていたことが分かり、イサベル2世の王座は正当なものとされました。
これをうけて、スペインは継承権を争うカルリスタ戦争に突入します。
戦いは7年後にイサベル2世の勝利で終わりますが
ドン・カルロスもスペイン(カルリスタ)王を名乗って、以後何代か続くことになります。
さてマリア・クリスティネですが、フェルナンド7世の死後3ヶ月
で
警護兵アウグスティン・ムニョスと再婚します。
26歳ですから恋もしましょうが、これはちょっと考え無しの行動ですね。
この早さ、王女たちは本当にフェルナンド7世の子供なの? と疑いたくもなります。
マリア・クリスティネはこの身分違いの再婚をひた隠しにしました。
しかし翌年娘が生まれたことで人々の知るところとなって顰蹙をかいます。
しかもカルリスタ戦争終結後、援護してくれた民主派を手のひら返しで裏切ったことから
議会に見放され、軍部から辞任要求をつきつけられてしまいます。
国外退去を命じられたマリア・クリスティネはフランスに腰を落ち着けました。
1868年にはクーデターにあった娘イサベラ2世も合流します。
美男子ではなかったけれど、優しく好人物だと言われていた夫ムニョスは
1873年にル・アーブルで亡くなりました。
1874年、孫のアルフォンソ12世が即位すると(戴冠式のためか)帰国を許されましたが
スペイン滞在の許可は一時的なもので、またフランスに戻りました。
1878年に夫と同じくル・アーブルで亡くなると、王の未亡人として、また王太后として
スペインのエル・エスコリアルの王家の墓所に葬られましたが
本当はムニョスの隣が良かったのではないかしら?![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp02.gif)
ムニョスは政治に野心はなかったと言われています。
エクアドルの王冠を蹴って、土地や証券の投機でマリア・クリスティネの国外生活を
支えたそうで、してみると地位ねらいで王の未亡人に近づいたのではなく
純粋に愛し合った上での再婚だったのでしょうか?
マリア・クリスティネは、身分的には落ちぶれたかもしれませんが
生き方の面では最良の選択をしたのかもしれないですね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
フェルナンド7世妃 マリア・クリスティネ・デ・シシリアス
1806~1878/在位 1829~1833
マリア・クリスティネの母はフェルナンド7世の妹なので
またまたまた伯父と姪の結婚です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/cd/de9066ab2f7d1a555e5bde732cb05d26.jpg)
45歳で3人目の妃を亡くしたフェルナンド7世には嫡子がいませんでした。
かなり焦ったのか、マリア・ヨーゼファの死から7ヶ月で4度目の結婚です。
マリア・クリスティネは23歳で、若い妃に比べればからだがしっかりしてたんですかね?
すぐに身ごもり立て続けに王女が誕生しました。
長女イサベルが3歳の時、フェルナンド7世が亡くなりました。
イサベル2世が即位して、マリア・クリスティネは摂政になりますが
フェルナンドの弟ドン・カルロス・マリア・イシドロが異議を唱えます。
ブルボン家はフランス王家と同じく女性を王にしないサリカ法を用いていると言うのです。
けれどマリア・クリスティネが、イサベルが生まれた時に王を説得して
サリカ法を破棄させていたことが分かり、イサベル2世の王座は正当なものとされました。
これをうけて、スペインは継承権を争うカルリスタ戦争に突入します。
戦いは7年後にイサベル2世の勝利で終わりますが
ドン・カルロスもスペイン(カルリスタ)王を名乗って、以後何代か続くことになります。
さてマリア・クリスティネですが、フェルナンド7世の死後3ヶ月
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0160.gif)
警護兵アウグスティン・ムニョスと再婚します。
26歳ですから恋もしましょうが、これはちょっと考え無しの行動ですね。
この早さ、王女たちは本当にフェルナンド7世の子供なの? と疑いたくもなります。
マリア・クリスティネはこの身分違いの再婚をひた隠しにしました。
しかし翌年娘が生まれたことで人々の知るところとなって顰蹙をかいます。
しかもカルリスタ戦争終結後、援護してくれた民主派を手のひら返しで裏切ったことから
議会に見放され、軍部から辞任要求をつきつけられてしまいます。
国外退去を命じられたマリア・クリスティネはフランスに腰を落ち着けました。
1868年にはクーデターにあった娘イサベラ2世も合流します。
美男子ではなかったけれど、優しく好人物だと言われていた夫ムニョスは
1873年にル・アーブルで亡くなりました。
1874年、孫のアルフォンソ12世が即位すると(戴冠式のためか)帰国を許されましたが
スペイン滞在の許可は一時的なもので、またフランスに戻りました。
1878年に夫と同じくル・アーブルで亡くなると、王の未亡人として、また王太后として
スペインのエル・エスコリアルの王家の墓所に葬られましたが
本当はムニョスの隣が良かったのではないかしら?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp02.gif)
ムニョスは政治に野心はなかったと言われています。
エクアドルの王冠を蹴って、土地や証券の投機でマリア・クリスティネの国外生活を
支えたそうで、してみると地位ねらいで王の未亡人に近づいたのではなく
純粋に愛し合った上での再婚だったのでしょうか?
マリア・クリスティネは、身分的には落ちぶれたかもしれませんが
生き方の面では最良の選択をしたのかもしれないですね。
(参考文献 Wikipedia英語版)