遠きブラジルで逝った女王
ポルトガル女王 マリア1世
1734~1816/在位 1777~1816
ジョゼ1世とマリアナ・デ・ボルボンの女王マリアは、1750年に父王が即位すると
早々に継承権が与えられベアトリズのような混乱も無く即位した女王でした。
マリアが26歳の時に結婚していた叔父ペドロは
1777年に共治王としてマリアとともに即位しました。
即位するやいなや、マリアは父王の時代に篤い信頼を得ていたポンバル候を解任し
政府を一新します。
マリア1世が統治していた頃のポルトガルでは、ワイン貿易が再興し、不況が終わり
聖職者、貴族、地主たちが再び富を謳歌していました。
マリア1世は財政の近代化や体制の強化、市街地の整備や秩序回復に力を注ぎ
ケルス宮殿を建設するなどの新古典文化をもたらしました。
しかし、相変わらず重税をとりたてられ困窮にあえいでいた庶民たちの怒りは
改革を嫌う政府のもとで沸々とわき上がりつつありました。
マリアは “ 敬虔王 ” とよばれるくらいで、ものすごく信心深い女性でしたが
一方、情緒不安定なところがありました。
そのマリアに追い打ちをかける悲しい出来事が次々とおこります。
1781年によき相談相手であった母后マリアナ・ヴィトリアが亡くなります。
1786年に夫君ペドロ3世が亡くなると鬱状態に陥ります。
ひた隠しにされていた彼女の病状は、公の場で精神錯乱をおこして明るみでました。
宮廷内は宗教儀式を除いてすべての娯楽が禁止されます。
1791年に27歳の王太子ジョゼとお気に入りの司祭が相次いで亡くなると
病は悪化の一途をたどり、翌年には発狂しました。
議会は大英帝国王ジョージ3世を診た精神科医ウィリスに診断を依頼しましたが
マリア1世を英国行かせることには同意できず立ち消えになりました。
1795年、アジュダ宮殿が焼失したため、王一家はケルスに移りました。
61歳のマリア1世はもはや1日中をベッドの中で過ごすようになっていて
宮廷内には恐ろしい叫び声が響き渡り、来客たちを不安に陥れていました。
統治は王子ジョアン(後の6世)が女王の名で行っていました。
そしてヨーロッパを吹き荒れた嵐、ナポレオンがポルトガルにせまります。
1801年にはスペイン王カルロス4世妃マリア・ルイサの愛人マヌエル・デ・ゴドイが
ナポレオンの後ろ盾で乗り込んで来ましたが、国民の猛反発に合い撤退しました。
1807年に大陸封鎖に従わなかったポルトガルにフランス=スペイン軍が侵攻して来ます。
リスボンはフランスの統治下に入り、イギリス派遣軍の到着を待つことになります。
マリア1世をはじめ王家、貴族や豪商の多くはナポレオンの侵攻前に
イギリス海軍の助けを借りてブラジルへ避難していました。
政府はリオ・デ・ジャネイロに亡命政府を設けました。
1809年にはイギリス軍がリスボンを奪還して、1815年にはナポレオんが駆逐されたのに
なんだかポルトガル政府はブラジルに取り残されたままでした。
マリア1世はポルトガルがブラジルに王国を築いた翌年の1816年に
リオ・デ・ジャネイロで亡くなりました。
もしかしたら、どこにいるのかはっきり理解できない状況だったかもしれないけど
君主たるもの、自分が治める土地で最後を迎えたかったでしょうね…
動乱と狂気の中を生きた81年、お疲れさまでしたと言ってあげたいですね。
(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)
ポルトガル女王 マリア1世
1734~1816/在位 1777~1816
ジョゼ1世とマリアナ・デ・ボルボンの女王マリアは、1750年に父王が即位すると
早々に継承権が与えられベアトリズのような混乱も無く即位した女王でした。
マリアが26歳の時に結婚していた叔父ペドロは
1777年に共治王としてマリアとともに即位しました。
即位するやいなや、マリアは父王の時代に篤い信頼を得ていたポンバル候を解任し
政府を一新します。
マリア1世が統治していた頃のポルトガルでは、ワイン貿易が再興し、不況が終わり
聖職者、貴族、地主たちが再び富を謳歌していました。
マリア1世は財政の近代化や体制の強化、市街地の整備や秩序回復に力を注ぎ
ケルス宮殿を建設するなどの新古典文化をもたらしました。
しかし、相変わらず重税をとりたてられ困窮にあえいでいた庶民たちの怒りは
改革を嫌う政府のもとで沸々とわき上がりつつありました。
マリアは “ 敬虔王 ” とよばれるくらいで、ものすごく信心深い女性でしたが
一方、情緒不安定なところがありました。
そのマリアに追い打ちをかける悲しい出来事が次々とおこります。
1781年によき相談相手であった母后マリアナ・ヴィトリアが亡くなります。
1786年に夫君ペドロ3世が亡くなると鬱状態に陥ります。
ひた隠しにされていた彼女の病状は、公の場で精神錯乱をおこして明るみでました。
宮廷内は宗教儀式を除いてすべての娯楽が禁止されます。
1791年に27歳の王太子ジョゼとお気に入りの司祭が相次いで亡くなると
病は悪化の一途をたどり、翌年には発狂しました。
議会は大英帝国王ジョージ3世を診た精神科医ウィリスに診断を依頼しましたが
マリア1世を英国行かせることには同意できず立ち消えになりました。
1795年、アジュダ宮殿が焼失したため、王一家はケルスに移りました。
61歳のマリア1世はもはや1日中をベッドの中で過ごすようになっていて
宮廷内には恐ろしい叫び声が響き渡り、来客たちを不安に陥れていました。
統治は王子ジョアン(後の6世)が女王の名で行っていました。
そしてヨーロッパを吹き荒れた嵐、ナポレオンがポルトガルにせまります。
1801年にはスペイン王カルロス4世妃マリア・ルイサの愛人マヌエル・デ・ゴドイが
ナポレオンの後ろ盾で乗り込んで来ましたが、国民の猛反発に合い撤退しました。
1807年に大陸封鎖に従わなかったポルトガルにフランス=スペイン軍が侵攻して来ます。
リスボンはフランスの統治下に入り、イギリス派遣軍の到着を待つことになります。
マリア1世をはじめ王家、貴族や豪商の多くはナポレオンの侵攻前に
イギリス海軍の助けを借りてブラジルへ避難していました。
政府はリオ・デ・ジャネイロに亡命政府を設けました。
1809年にはイギリス軍がリスボンを奪還して、1815年にはナポレオんが駆逐されたのに
なんだかポルトガル政府はブラジルに取り残されたままでした。
マリア1世はポルトガルがブラジルに王国を築いた翌年の1816年に
リオ・デ・ジャネイロで亡くなりました。
もしかしたら、どこにいるのかはっきり理解できない状況だったかもしれないけど
君主たるもの、自分が治める土地で最後を迎えたかったでしょうね…
動乱と狂気の中を生きた81年、お疲れさまでしたと言ってあげたいですね。
(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)