ご存知!女帝
フランツ1世妃 マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ
1717~1780/在位 (皇后)1745~1765
(ハンガリー女王・ベーメン女王)1740~1780
マリア・テレジアはよく “ 女帝 ” と言われますけれども
正式には女帝じゃないと思うんですよねぇ…
神聖ローマ皇帝になったのは夫のフランツ1世で、マリア・テレジアは皇后です。
ベーメンとハンガリーでは君主になりましたが女王です。
ハプスブルク帝国における支配者という意味でしょうけど
正式な国家の名称じゃないんじゃないかしら? いかがでしょう?
マリア・テレジアといえば、教育改革や軍部の強化など
偉大なる政治家としてみるべきことは多々ありますけれども、それはおいといて…
なんといっても、スペインのイサベル1世同様、恋愛結婚が有名です。
ハプスブルク家の跡取り娘ともなれば、しかも肖像画どおりの美しさなら
結婚の申し込みが殺到するのはあたりまえですよね。
ハプスブルク展にもきていたマリア・テレジア像
しかし彼女は、幼い時にフランツ・シュテファンに会ってから彼一筋
本当なら大国の王様クラスと結婚させられて当たり前だったのでしょうが
フランツがマリア・テレジアの父カール6世に気に入られたことで
恋を成就することができたみたいです。 よかったね
しかし、この結婚でフランツはロートリンゲンをフランスに渡すことになりました。
ちなみに、生涯の宿敵となるプロイセンのフリードリヒ(後の2世)も
お婿さん候補にあがっていました。
マリア・テレジアの父、皇帝カール6世には男の子がいなかったので
娘が王位が継げるように、多大な努力と犠牲を払って長子相続の制度をつくり
マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンへの皇位継承を図っていました。
ヨーロッパ各国も承認してくれたのに…
いざカール6世が亡くなると、各国の王がオーストリアの王位を要求しはじめます。
はしょるけど、プロイセンの大王フリードリヒ2世はシュレージェンに侵攻して領土を奪い
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはベーメン王と神聖ローマ皇帝の座につきました。
上の家系図からもわかるとおり、ヨーゼフ1世皇女を嫁にしているのでね…
オーストリア継承戦争、七年戦争と続く、マリア・テレジアの長い戦いの始まりでした。
ベーメン王と神聖ローマ皇帝の座はとりもどせましたが
シュレージェンは戻りませんでした。
それでも大王と呼ばれるフリードリヒ2世を相手に戦い抜いたのはスゴいですよね!
そして驚きの16人出産 戦争しながらですよ!
さぞお忙しい毎日だったろうと、お察し申し上げます。
有名どころは言うまでもなく、ルイ16世妃マリー・アントワネットですね。
その他の公女は尼僧、パルマ公妃、ナポリ公妃、ハンガリー総督妃になっています。
フランツ1世は、メディチ家の断絶によってトスカーナ大公にもなっていたので
イタリア方面への勢力拡大をねらっていたのかしら?
あまり政治向きではなく、国家のことは妻に任せて
財政や農場経営、美術品奨励に力を発揮したという、模範的な “ 女帝の夫 ” フランツ1世は
1765年、劇場で倒れて急死します。
以後15年間、マリア・テレジアは喪服で通したそうでございます。
良妻賢母と国家君主、両方を立派にこなすのはかなり難しいと思われます。
本当だとしたらすごいですよね。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』)
フランツ1世妃 マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ
1717~1780/在位 (皇后)1745~1765
(ハンガリー女王・ベーメン女王)1740~1780
マリア・テレジアはよく “ 女帝 ” と言われますけれども
正式には女帝じゃないと思うんですよねぇ…
神聖ローマ皇帝になったのは夫のフランツ1世で、マリア・テレジアは皇后です。
ベーメンとハンガリーでは君主になりましたが女王です。
ハプスブルク帝国における支配者という意味でしょうけど
正式な国家の名称じゃないんじゃないかしら? いかがでしょう?
マリア・テレジアといえば、教育改革や軍部の強化など
偉大なる政治家としてみるべきことは多々ありますけれども、それはおいといて…
なんといっても、スペインのイサベル1世同様、恋愛結婚が有名です。
ハプスブルク家の跡取り娘ともなれば、しかも肖像画どおりの美しさなら
結婚の申し込みが殺到するのはあたりまえですよね。
ハプスブルク展にもきていたマリア・テレジア像
しかし彼女は、幼い時にフランツ・シュテファンに会ってから彼一筋
本当なら大国の王様クラスと結婚させられて当たり前だったのでしょうが
フランツがマリア・テレジアの父カール6世に気に入られたことで
恋を成就することができたみたいです。 よかったね
しかし、この結婚でフランツはロートリンゲンをフランスに渡すことになりました。
ちなみに、生涯の宿敵となるプロイセンのフリードリヒ(後の2世)も
お婿さん候補にあがっていました。
マリア・テレジアの父、皇帝カール6世には男の子がいなかったので
娘が王位が継げるように、多大な努力と犠牲を払って長子相続の制度をつくり
マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンへの皇位継承を図っていました。
ヨーロッパ各国も承認してくれたのに…
いざカール6世が亡くなると、各国の王がオーストリアの王位を要求しはじめます。
はしょるけど、プロイセンの大王フリードリヒ2世はシュレージェンに侵攻して領土を奪い
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはベーメン王と神聖ローマ皇帝の座につきました。
上の家系図からもわかるとおり、ヨーゼフ1世皇女を嫁にしているのでね…
オーストリア継承戦争、七年戦争と続く、マリア・テレジアの長い戦いの始まりでした。
ベーメン王と神聖ローマ皇帝の座はとりもどせましたが
シュレージェンは戻りませんでした。
それでも大王と呼ばれるフリードリヒ2世を相手に戦い抜いたのはスゴいですよね!
そして驚きの16人出産 戦争しながらですよ!
さぞお忙しい毎日だったろうと、お察し申し上げます。
有名どころは言うまでもなく、ルイ16世妃マリー・アントワネットですね。
その他の公女は尼僧、パルマ公妃、ナポリ公妃、ハンガリー総督妃になっています。
フランツ1世は、メディチ家の断絶によってトスカーナ大公にもなっていたので
イタリア方面への勢力拡大をねらっていたのかしら?
あまり政治向きではなく、国家のことは妻に任せて
財政や農場経営、美術品奨励に力を発揮したという、模範的な “ 女帝の夫 ” フランツ1世は
1765年、劇場で倒れて急死します。
以後15年間、マリア・テレジアは喪服で通したそうでございます。
良妻賢母と国家君主、両方を立派にこなすのはかなり難しいと思われます。
本当だとしたらすごいですよね。
(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』『ハプスブルク家史話』)
今から20年以上も前の「世界ふしぎ発見」で鰐淵晴子さん、「私はハプスブルグ家の血筋を引いている。そして、あのマリア・テレジア女帝の子孫なの」と告白して大きな話題になりましたけれど、一体誰の子孫なんでしょうね。
どこで、どうやって、繋がってくるのか、大いに興味ありますね。
ネットで検索しても出て来ず、今でも、私にとっては大きな「謎」なんですけど・・・・・。
でも、日本人であのハプスブルグ家の血を引いている事自体、何かワクワクさせられますね。
鰐淵晴子さんがハプスブルク家の血を…初耳です。
でも確か外国の血を引いていらっしゃるんですよね?と思い、今Wikipediaで見てみたらお母様がドイツ人。
これは、おおいに可能性がありますね。
ハプスブルク家には何人か貴賤結婚をした人もいるし、子だくさんだから追いきれていない子孫もいるかもしれないですよね。マリア・テレジアかどうかはともかく、本当にハプスブルク家の子孫だったら、ちょっと嬉しい気がします。
御返事ありがとうございました。
私もまりっぺさんのブログや皆さんのコメントで初めて知ることが多いので、いつも楽しみに見ています。
改めて質問なのですが、ある本にマリア・テレジアの父親と夫のフランツの父親がいとこ同士だと書いてありました。(Wikipedeaではフランツの曽祖父がレオポルト1世とありました)
マリア・テレジアの祖父が皇帝レオポルト1世であり、その妹がフランツの祖母ではないかと思うのですが、自信がありません。
又長々とごめんなさい。
こんばんわ
家系図から察するにマリア・テレジアの祖父レオポルト1世と、フランツ・シュテファンの父方の祖母エレオノールが腹違いの兄妹ですので従兄弟になりますね…
家系図を書いときながらちょっと自信が無かったので調べてみましたが、Wikipedia英語版だとこれであってるみたいです。
でも、参考にした本によって続柄が違うってことがありますから、今度調べてみようと思います。
久しぶりに読み直してみたら、ハンガリー王妃の事とかたくさん新しい記事があってびっくりしました。初めて知った人が大勢いるのですごく勉強になります。
厚かましいお願いで大変申し訳ないのですが、
マリア・テレジアの子供たち(とくに娘たち)
のことを取り上げてもらえないでしょうか?
マリー・アントワネットが有名ですが、姉妹たちの人生もすごく興味があります。
(わがままを言ってすみません)
こんばんわ
いつもコメントありがとうございます。
たしかに子だくさんのハプスブルク家、領土拡大、継承戦争と騒がしい時期だけに他国とのつながりが大事ですね。
異国へ嫁がされた皇女たちの行く末が気になるところです。
江村洋先生の著書によれば、やはり結婚をごねた娘もいたそうそうです。
結局はお嫁にいってしまったんですけど…
いつかそんな皇女たちの足跡を追ってみたいと思います。
マリア・テレジアは、夫を熱愛していたのも有名ですよね。テレジアは、フランツと出会い、恋をし、ほぼ一日中、妹達や侍女達にフランツの事を話し、夜寝る前には、彼の事を思い、思うあまり、夢の中にさえ現れる程、恋い焦がれていたらしいですね…こんなに美しい姫に愛されるなんて、果報者ですね!
晴れて二人は夫婦になり、たくさんの可愛い子供達に恵まれて幸せな二人でしたが、テレジアは、かなりの焼きもちやきだったらしく、フランツは、黒髪の女性がタイプだと聞くと、黒髪の女官がいなくなったり、ちょっとでも、夫と侍女が親しげにしていると、その侍女は翌日解雇…まぁ、遠縁(?)のフアナに比べれば、こんな焼きもちなんか可愛いものですが…
マリア・テレジアは、長年の念願だった“シュレジエン奪還”を果たせなかったですが、国政においては、長年に渡って良政を行い、外交においても、息子や娘を政略結婚させたりして、良好な関係を築いたりと、明君だったみたいですね。
あの女帝の不倶戴天の敵、フリードリヒ大王が、『あのハプスブルク家に珍しく勇敢で、男らしい人物が君主になったものだ、と思ったら、なんと、女であった!』という感想を述べたと伝えられているくらい…