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ポルトガル王カルルシュ1世妃 アメリア

2010-06-04 23:38:37 | ポルトガル王妃
(王政復古がない限り)ポルトガル最後の王妃
カルルシュ1世妃 アメリア・デ・オルレアンス


1865~1951/在位 1889~1908

アメリアの父はフランス王ルイ・フィリプの孫にあたるパリ伯フィリプ、
誇り高き(時代が読めない)ブルボン家の出身です。
           

スペイン王家かハプスブルク家との縁談が考えられていましたが
カルルシュに嫁ぐことになりました。

1886年に結婚し、1889年に王妃になりました。
ブルボン家出身だけどあまり格式張らず、温和な女性だったようです。

              
                地味目だけど美しい1枚

アメリアは義母マリア・ピア同様、浪費する傾向がありましたが
結核の予防や治療、慈善団体の設立、サナトリウムや薬局の配備などに積極的に関わって
人気を高めていきました。

ポルトガルでは不況、プロレタリアートの拡大で共和主義が台頭していました。
暴動が頻発し王制廃止の声も上がっていました。
アメリアの人気は、わずかながらポルトガルの王家を延命させたみたいです。

国が破産に直面し、産業不振で、社会主義者も民主主義者も王家を批判する中
カルルシュがとんでもないことをしでかし、非難が集中します
それは不倫… 愛妾当たり前の中世ならいざ知らず、時代を考えなきゃ!

とうとう1907年に共和国設立になりますが、カルルシュは議会を解散します。
翌年、王家揃ってヴィソザ城からリスボンへの帰路、アーセナル通りで銃が発射されました。
カルルシュはほぼ即死、王太子ルイスは20分後に亡くなりました。
アメリアは無事でしたが、もうひとりの王子マヌエルも怪我を負います。

翌日、王子マヌエルが即位しましたが、ポルトガルの明日は決まったようなものです。
1910年、革命によりポルトガルでは第一次共和制が始まりました。
王制は廃止され、王家は追放になりました。

アメリアは余生のほとんどをフランスで過ごしました。
第二次大戦中、士気を高めるためですかね? それともフランス対策?
ポルトガルから帰国を依頼されましたが辞退しています。
でも直後に訪れたみたいで、それが最後の訪問になりました。

どうでしょうねぇ? ポルトガルの王政復古はあるのでしょうか?
一応、1910年の革命の際に、永続的共和主義政府樹立の宣言をしてたりする…



              
王妃と呼ばれる日は訪れず…
マヌエル2世妃 アウグスタ・ヴィトリア
              デ・ホーエンゾレルン=ジグマリンゲン


1890~1966/在位せず

アウグスタの父はホーツォレルン=ジグマリンゲン候ヴィルヘルムで
母はシチリア王女マリア・テレジアです。
マリア2世の曾孫になります。
          
王家が追放中の1913年に廃位したマヌエルと結婚しました。
まだブラガンザ家は復位を諦めていなかったと見えますね。
もちろん、ホーエンツォレルン家もね。

1932年にイギリスのミドルセックスでマヌエルが亡くなると7年後に再婚しました。
アウグスタは49歳、お相手のランゲンシュタイン領主ロバート・ダグラスは53歳です。
いくつになっても素敵な方との出会いをあきらめちゃだめね!

その後はバーデンで暮らし、1966年に亡くなりました。

              
              こちらは実物。高貴そうでいらっしゃる

(参考文献 デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』 Wikipedia英語版)

ポルトガルの歴史 創土社


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