
敬虔さは美徳のはずだったのに・・・
ロレンツォ妃 クラリーチェ・オルシーニ
1453~1487/在位 1469~1487
ロレンツォはイル・マニフィコ(偉大なる)と呼ばれていました。
祖父コジモから受け継いだ政治的な手腕と才能に加えて社交性に富み
傾きかけたメディチ家を盛り返しました。
一方、快楽主義者で軽いイメージもあったそうで、お若い頃は遊び仲間を引きつれ
街中で騒ぎ、女性を侍らせて騒いでおりました。
典型的な社長のバカ息子ですけど、それは敵の目を欺く仮の姿だったのかしらね?
1969年、ロレンツォは母ルクレツィアがローマへの足がかりのために
自ら出向いてまとめた名門オルシーニ家のクラリーチェと結婚しました。

なんと! 祝宴は4日間も続きました。
招待客は400人、その上ご近所1500人にも酒やご馳走がふるまわれたそうです。
イタリア料理のご馳走… 食べたい、でも太るやも…
しかし、この結婚はあまり幸福なものではなかったみたいです。
まずはクラリーチェが意外にも不人気だったこと…
当時フィレンツェでは、フィレンツェ内の名家同士が結婚するのが主流で
いきなりローマから来ちゃった彼女はよそ者扱いされたのかしらね?
クラリーチェはとても信心深い女性でした。
他国の王妃なんかでは美徳に数え上げられるものなんですが
フィレンツェでは人文主義真っ盛りで、過度の敬虔さはそぐわないものでした。
しかも病気がちで気難しくてロレンツォとは気が合わず
頻繁に里帰りをしていたそうです。
ロレンツォには愛人ルクレツィア・ドナーティがおりまして
詩人でもある彼は、彼女に愛の詩なんかを捧げていたそうでございます。
嘘でもいいから妻にも捧げてあげればよいのに…
ロレンツォの時代には、パッツィ家陰謀事件やロレンツォ暗殺未遂など
きな臭い出来事がおこっているんですけれど、その中でクラリーチェが
どのように夫を支えていたかはよくわかりません。
お子様は、後の教皇レオ10世をはじめ9人生まれております。
ロレンツォはたいそう子煩悩で、一緒に遊びまわり、教育にも熱心だったようですが
クラリーチェが母親としてどうだったのかも伺い知ることができません。
1487年に結核で亡くなりました。
ロレンツォは5年後に痛風で亡くなっています。
やっぱり食事が豪勢だったのか…
さて、ロレンツォは文学や哲学の才もあったそうで
メディチ家の蔵書を倍増し、大学や学者たちにも手を差し伸べています。
画家では

フィリッピーノ・リッピ ドメニコ・ギルランダイオ

ボッティチェリ
などと親しくしていたようです。
祖父コジモや父ピエロとは違い、大規模な壁画の発注はしていませんが
かなりたくさんの絵画を購入してあげたそうです。
大作発注と定期購入…画家にしたらどちらが嬉しいのかわかりませんけど
ボッティチェリとフィリッピーノ・リッピが特にお気に入りでした。
(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
ロレンツォ妃 クラリーチェ・オルシーニ
1453~1487/在位 1469~1487
ロレンツォはイル・マニフィコ(偉大なる)と呼ばれていました。
祖父コジモから受け継いだ政治的な手腕と才能に加えて社交性に富み
傾きかけたメディチ家を盛り返しました。
一方、快楽主義者で軽いイメージもあったそうで、お若い頃は遊び仲間を引きつれ
街中で騒ぎ、女性を侍らせて騒いでおりました。
典型的な社長のバカ息子ですけど、それは敵の目を欺く仮の姿だったのかしらね?
1969年、ロレンツォは母ルクレツィアがローマへの足がかりのために
自ら出向いてまとめた名門オルシーニ家のクラリーチェと結婚しました。

なんと! 祝宴は4日間も続きました。
招待客は400人、その上ご近所1500人にも酒やご馳走がふるまわれたそうです。
イタリア料理のご馳走… 食べたい、でも太るやも…

しかし、この結婚はあまり幸福なものではなかったみたいです。
まずはクラリーチェが意外にも不人気だったこと…
当時フィレンツェでは、フィレンツェ内の名家同士が結婚するのが主流で
いきなりローマから来ちゃった彼女はよそ者扱いされたのかしらね?
クラリーチェはとても信心深い女性でした。
他国の王妃なんかでは美徳に数え上げられるものなんですが
フィレンツェでは人文主義真っ盛りで、過度の敬虔さはそぐわないものでした。
しかも病気がちで気難しくてロレンツォとは気が合わず

頻繁に里帰りをしていたそうです。
ロレンツォには愛人ルクレツィア・ドナーティがおりまして
詩人でもある彼は、彼女に愛の詩なんかを捧げていたそうでございます。
嘘でもいいから妻にも捧げてあげればよいのに…
ロレンツォの時代には、パッツィ家陰謀事件やロレンツォ暗殺未遂など
きな臭い出来事がおこっているんですけれど、その中でクラリーチェが
どのように夫を支えていたかはよくわかりません。
お子様は、後の教皇レオ10世をはじめ9人生まれております。
ロレンツォはたいそう子煩悩で、一緒に遊びまわり、教育にも熱心だったようですが
クラリーチェが母親としてどうだったのかも伺い知ることができません。
1487年に結核で亡くなりました。
ロレンツォは5年後に痛風で亡くなっています。
やっぱり食事が豪勢だったのか…
さて、ロレンツォは文学や哲学の才もあったそうで
メディチ家の蔵書を倍増し、大学や学者たちにも手を差し伸べています。
画家では


フィリッピーノ・リッピ ドメニコ・ギルランダイオ

ボッティチェリ
などと親しくしていたようです。
祖父コジモや父ピエロとは違い、大規模な壁画の発注はしていませんが
かなりたくさんの絵画を購入してあげたそうです。
大作発注と定期購入…画家にしたらどちらが嬉しいのかわかりませんけど

ボッティチェリとフィリッピーノ・リッピが特にお気に入りでした。
(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
実はそれ以上の隠れた理由があります。
オルシーニ家は、このときまでにローマ教皇を二人輩出しており、ヴァチカンに大きな影響力を持っていました。
メディチ家の悲願はローマ教皇を輩出することです。ヨーロッパ一の大金持ちになっても、教皇を輩出できなければ王侯貴族と肩を並べたことにはなりません。
ロレンツォとクラリーチェを結婚させることは、オルシーニ家と姻戚関係を結び、力を借りて、メディチ家からの教皇を輩出しようとする布石です。
ロレンツォとクラリーチェの長男ピエロは、母と同じオルシーニ一族のアルフォンシーナ・オルシーニと結婚しています。
オルシーニ家とメディチ家の結びつきはさらに強くなっていきます。それは次男のジョヴァンニをローマ教皇にするためで、はたしてジョヴァンニはメディチ家初のローマ教皇レオ10世になりました。
さらに、ロレンツォの弟ジュリアーノ、彼はパッツィ家の乱で暗殺されますが、そのジュリアーノの忘れ形見ジュリオはロレンツォの養子となり、のちにローマ教皇クレメンス7世になります。
メディチ家の教皇輩出戦略は大成功という訳ですね。
ちなみに、「ヴィーナス誕生」はロレンツォから長男ピエロに、アルフォンシーナとの結婚の祝婚画として贈られたと私は考えております。この説は唱えている人はとても少ないようです。
実は、「ヴィーナス誕生」は、教皇輩出の悲願達成のための占星術的魔術の護符です。護符につきものの呪文と音楽も揃っています。その詳細は、また機会がありましたら(笑)!
ちょっとだけヒントをいいますと、キュプロス島に上陸しようとしている天上のヴィーナスを、左後ろの背後から息を吹きかけて応援している西風ゼフィーロとその妻、春の女神フローラは、ロレンツォの長男ピエロとアルフォンシーナです。
天上の教えを地上に伝えるためキュプロス島に上陸するヴィーナスは、神の代理人ローマ教皇となろうとしている次男ジョヴァンニ。そして、キュプロス島で待ち構えている時の女神ホーラ(英語のアワーの語源)は、父ロレンツォです。ホーラの手足を結ぶと、Lの字に見えませんか(笑)?
ホーラが裸のヴィーナスに着せかけようとしている衣は教皇の法衣を表しています。その法衣の襟の部分を複写反転合体すると、教皇冠になります。さまさまにすればパリウムになります。
そして驚くのが、ホーラの差し出している右手の上にあるオレンジの木の枝です。オレンジはイタリア語でシトラス・メディコといって、メディチ家の象徴の一つに扱われています。先ほどの複写反転合体をしてみますと、教皇冠の上にはオレンジの冠が出現します。
つまり、メディチ家の力で、息子ジョヴァンニを戴冠しローマ法王にする、という意味を込めているのでしょう。
ロレンツォは、”歴史(=時)はこの俺が作るのだ!”と言いたいのでしょう。
こんばんわ
コメントというか、丁寧な解説をいただきありがとうございます。
私のゆるいブログにこんなに立派なコメントをいただいて、なんだか赤面しちゃいそうです。
でもブログを読まれた方に、より詳しいことを知っていただけますね。
メディチ家のことを調べたのはかなり前で、記憶もぼんやりしている今日この頃ですが、またイタリア貴族の家系図も作ってみたいと思っています。
その前にポーランドをなんとかしないと…