女王であり王妃であり
フィリプ4世妃 ジャンヌ1世・ド・ナヴァル
1271~1350/在位 (ナヴァール女王)1274~1305
(フランス王妃)1285~1305
ジャンヌが、父王の死によりシャンパーニュ公となり
ナヴァール女王ファナ1世として即位したのは、わずか3歳の時です。
母ブランシュ・ダルトワは摂政 兼 後見人になりますが
新王が女相続人であることに加え、摂政までが女性という弱みに
列強国からつこ込まれないよう、強力な後ろ盾を捜していました。
白羽の矢がたったのはフランスのフィリプです。
家系図からみても分かるように、ブランシュの実家アルトワ家も
遡ればフランス王家につながるわけで、安心かつ無難な選択といえます。
ジャンヌは13歳の時、皇太子フィリプと結婚し
その2ヶ月後夫の即位でフランス王妃になりました。
この結婚で、共同統治とはいえナヴァールとシャンパーニュ公領を手に入れたフィリプ4世は
さらなる王権拡大を目指し、フランドルやイングランドとの戦いを死ぬまで続けます。
ジャンヌは1305年、出産の際に死亡しましたが
後々フィリプ4世が殺したという説も出ています。
もし本当だとしたら、そんな必要あるのかなぁ?
だって自分は共同統治者だし、ファナ以外に直系の継承者がいないのだから
王冠はゆくゆくは子供にいくわけでしょう?
ブロワ家の傍系が騒いでいたのかしら? 適当な男子がみあたらないのですが…
娘たちの嫁ぎ先が黙っていなかったのでしょうか?
それより、政治的な陰謀というドラマティックなものでなく
結婚生活20年、夫婦にしか分からない悶着がエスカレートしたのでしょうか?
離婚したらナヴァールを失うから殺しちゃえ! っていう…
そんなことで殺されたとしたら、王妃という立場も楽じゃないですね。
ちなみにフィリプ4世は “ 端麗王 ” などと言われています。
かなりの男前だったらしいですけど冷酷だったということです。
そんなにかっこよいのだったら(フランスだし)愛人がたくさんいそうなものですが
今のところ手がかりがありません
(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
フィリプ4世妃 ジャンヌ1世・ド・ナヴァル
1271~1350/在位 (ナヴァール女王)1274~1305
(フランス王妃)1285~1305
ジャンヌが、父王の死によりシャンパーニュ公となり
ナヴァール女王ファナ1世として即位したのは、わずか3歳の時です。
母ブランシュ・ダルトワは摂政 兼 後見人になりますが
新王が女相続人であることに加え、摂政までが女性という弱みに
列強国からつこ込まれないよう、強力な後ろ盾を捜していました。
白羽の矢がたったのはフランスのフィリプです。
家系図からみても分かるように、ブランシュの実家アルトワ家も
遡ればフランス王家につながるわけで、安心かつ無難な選択といえます。
ジャンヌは13歳の時、皇太子フィリプと結婚し
その2ヶ月後夫の即位でフランス王妃になりました。
この結婚で、共同統治とはいえナヴァールとシャンパーニュ公領を手に入れたフィリプ4世は
さらなる王権拡大を目指し、フランドルやイングランドとの戦いを死ぬまで続けます。
ジャンヌは1305年、出産の際に死亡しましたが
後々フィリプ4世が殺したという説も出ています。
もし本当だとしたら、そんな必要あるのかなぁ?
だって自分は共同統治者だし、ファナ以外に直系の継承者がいないのだから
王冠はゆくゆくは子供にいくわけでしょう?
ブロワ家の傍系が騒いでいたのかしら? 適当な男子がみあたらないのですが…
娘たちの嫁ぎ先が黙っていなかったのでしょうか?
それより、政治的な陰謀というドラマティックなものでなく
結婚生活20年、夫婦にしか分からない悶着がエスカレートしたのでしょうか?
離婚したらナヴァールを失うから殺しちゃえ! っていう…
そんなことで殺されたとしたら、王妃という立場も楽じゃないですね。
ちなみにフィリプ4世は “ 端麗王 ” などと言われています。
かなりの男前だったらしいですけど冷酷だったということです。
そんなにかっこよいのだったら(フランスだし)愛人がたくさんいそうなものですが
今のところ手がかりがありません
(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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