まりっぺのお気楽読書

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フランス王シャルル6世妃 イザボー

2009-02-28 10:31:25 | フランス王妃・王女
軽佻浮薄? 権謀術数?
シャルル6世妃 イザボー・ド・バヴィエール


1370~1435/在位 1385~1422

稀代の淫蕩ぶりと放蕩三昧ぶりが取り沙汰され悪評名高いイザボーは
15歳の時2歳年上のシャルル6世と結婚しました。

どうしていきなりドイツ方面から王妃を? と思ったのですけど
ルクセンブルク家とかハプスブルク家への牽制でしょうかね?

2人の結婚生活は平穏無事に過ぎていったようですが
1392年頃からシャルル6世がしばしば発狂するようになり
“ 狂気王 ” といわれるようになってしまいます。
王は母ジャンヌ・ド・ブルボンからブルボン家の呪われた血を引き継いでいました。

王の摂政の座を巡ってアルマニャック派とブルゴーニュ派が
内戦を繰り広げるようになりますが、イザボーの悪評はここから始まります。

まずはアルマニャック派の王弟オルレアン公ルイと関係を持ち始めます。
オルレアン公は1407年、ブルゴーニュ公ジャンの家臣に暗殺されますが
イザボーが生んだ12人の子供のうち8人は、王が発病した1392年から
オルレアン公が亡くなった1407年までに生まれています。 あやし~ね

シャルル6世は、発病(分裂症らしい)していないと、まったく普通の人でしたが
発病するとイザボーが誰だか分からない上に怯えだすということで
愛人をあてがいましょう、ということになりました。
オデットという女性が1405年頃からお相手を務めています。

気を悪くしたのかどうだか分かりませんが、イザボーは王に変わって、というか
王よりしゃしゃり出てヴァロア家の結束を固めようとしますが、
アルマニャック伯(彼とも噂があります)にパリから追放され
その腹いせかブルゴーニュ公ジャンと関係を持ち始めます。

       

なんで身内ばっかり? 自分の魅力でヴァロア家をまとめようとしたのでしょうか?
だとしたら、彼女も必死で闘っていたことになりますが。

彼女のお騒がせは留まるところを知らず、1420年、イングランドとトロワ条約を結んだ際
王太子シャルルが王の子ではないという噂を否定しなかったためシャルルは後継者から外され
王は娘カトリーヌの婿イングランド王ヘンリー5世を後継者に指名してしまいます。

また、放蕩に耽り、子供たちは食べる物が無く修道院に庇護を求めたことさえ
あったと言われています。(それも1度じゃないの!)

1422年に王が亡くなると、ヘンリー5世が王と宣言した統制下に居座り
こりもせず政治に影響を及ぼしたといいますが
同じ頃王位を主張して戦っていた息子シャルル(7世)のことはどう思っていたのでしょう?
父親は誰にせよ、母親はイザボーだろうに。

1435年イザボーがパリで亡くなると、待ってましたとばかりに
シャルル7世(及びアルマニャック派)とブルゴーニュ派は和解しましたとさ
めでたしめでたし。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)

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1 コメント

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イザボーと呼ばれた王妃 (メリエンダ)
2018-09-18 21:25:13
イザボー・バヴィエール、後世、その名前は “史上最悪のフランス王妃”の代名詞のように言われ、“国、フランスを売り渡そうとした悪女”とも言われ、悪名ばかりが目立つ女性。少女時代、際立って端麗とは言えないが、性的魅力がありシャルル6世は彼女の魅力の虜となり、是非、王妃に、と切望され、フランスに嫁いだ幼い姫君。ですが、早くも暗雲が‥姫君は、フランス語を学ぶのを面倒臭がり、外国人でけっこう、と開き直り、そのくせ、ドレスや宝石、髪飾り等は一切の妥協せず、贅沢を好んだらしいですね。でも、シャルルとイザボーは仲睦まじく、結婚から一年位に早くも子供、王子が誕生、その後は次々子供が生まれた、けれど、生んだら放ったらかしで、シャルルが、娘に『どれくらいママに会っていないの?』と尋ねたら、『3ヶ月』と答えたらしいです(汗)母性愛がないのが早くも露呈してますね‥とりわけ、シャルル7世のことは我が子ながら、大嫌いだったらしく、理由は、狡くて、卑怯だからだそうで、気丈だったイザボーはそんな息子の性格が身震いする程嫌っていたそうです。嫌いなあまり、“シャルルなど、私の不倫の末の息子、王の子供ではありません!”と断言し、シャルル7世の妨害ばかりすることに時間を費やした後生。最期はバチが当たったのか、生活に困窮し、寂しく亡くなり、終いには、イザボーの骸は吊し上げられて、晒し者にされたらしいですね。因果応報?でも、もし、夫が健在だったら、フランス王妃として、誇り高く生き、死んでいくことができたかもしれないと思うと、哀れですね‥
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