とにかく生きてみる。現在この1月末にオープンする新感覚のお鍋ダイナーの準備に忙殺されている。今まで数々やってきた新店舗立ち上げ、イノベーション、リニュアールだが、今回はちょっと雰囲気が違う。年のせいもあるが、「集大成」という大きな形容詞がついている。企画内容や広告戦略もしかりであるが、一番の焦点は、「これで・・お客様がよろこんでいただけるのか?」を常に悩み、考え、具現化を興している。
ぜんぜん違う話である。
淀川をチャリで梅田に向かう途中に、今マスコミで話題のS高校がある。公立では、スポーツの強い学校であり、野球部の練習風景も、よく土手から観ていた。
強くなる為に、殴られる・・・・3年間のその修錬に耐えたら、また無事、問題なく過ぎたなら、年を取った時にはそれはいい思い出になると言う、その理屈は、スポーツに燃えた其の時代を持っている人ならほとんどがそう思うのではないだろか?しかしよくよく考えるとそれは結果論であるから、それを頭から言うのは暴論に近い。だだ一つ確信をもって言えることは、人を殴るということは、「怒り」の感情でしかないということである。愛の鞭・・・などは全く詭弁である。怒りの感情は必ず連鎖するのである。それは社会にとっては決していいことではないのだ。では、何がいいのか?
私なりの意見であるが、「ほっといてやる・」ことであり、生徒の方も「ほっといてもらう・・」ことで、冷静な心持ちになり、色々な判断が冷静に出来るというものである。
そこで・・・我が母校、追手門学院野球部の話である。
ほっといてくれまくった・・・監督、部長、さんたちである。
週間誌に載るくらい大阪の逆名門野球部であった。
メンバーはかつかつの9名である。守っている時の我がベンチは日なったぼっこのオッサンが座っているようにのんびりとしている。
私がピッチャーで、鳳高校との試合の、相手チームからの野次は、「へい、へい・・ピッチャー次が200球目やで・・」
「うそぅ・・俺はもう200球も投げたんか・・まだ6回裏やで・・」とめまいが襲った時も、
「しまっていこうぅ・・」とキャッチャーが声を掛けて座った拍子にキャッチャーのズボンの股が破けて、マウンドで大笑いした時も、やけくそになって、急に全く落ちないホークボールを連発した時も、
キャッチャーがバッターボックスの打者に、「来た来た来た・・ほら来た・・・」と言って、ピッチャーの私が「ほら来た・・」と言うタイミングよりやや遅れて投げる、「キタボール」という魔球を開発した時も、金属バットが主流の高校野球で・・・「プロを目指す・・」という意思で、一人だけ木のバットを使っていた時も、我が監督は・・ほっといてくれたのだ。
それは・・私のことを親しい人間と認知してくれて、「アホな奴やで・・そうかそうか・・」と流してくれるると言う、非常に高度なコミュニケーションをやりとりしていたのだと思います。
だから私も・・監督のその贈り物に敬意を表していたのです。ほっといてもらっているという礼儀に感謝をしていたのだ。練習は毎日ありましたし、土曜や日曜は練習試合を組んでいただいたりしました。9人ギリギリ、タクシー2台で行く能勢高校とのゲームでは、点差も離れているのに、監督は何を興奮したのか、ホームスチールのサインを出し、本塁2M手前でタッチアウト・・
相手チームもまさかまさかで、「ホームスティールのサインは勇気いるな・・」と言った監督のマジな顔も、まさかまさかで・・誰もそれに意義ありを出さないことで、いい関係をかもしだしているのだった。
そして・・そんな野球部に鉄拳指導がなかったもう一つの理由は、殴ること、殴られることの合点の行く理由が判らなかっただけだと思う。
理由があったとしても誰にもそれが支持されないことは判っていたんだろうと思う。
そして今・・私は何故追手門高校に行ったのか?と考えることがある。
野球少年であったし、甲子園にあこがれたこともあった。名門高校への入学も頭がよぎったが、
何故、追手門だったのか?
不思議な話であるが、観たのだ。追手門学院野球部が日生球場で、強豪高相手にいい試合をしているのを。多分中学2年か3年である。たまたま行った友達の兄貴の試合の前にやっていたと記憶がある。其の時「ここに行こう・・」と思ったにちがいない。
でも・・・私が記憶にある追手門学院のユニフォームと実際に私が着たユニフォームが違うのだ。
何か大きな勘違いか、ねじれが発生したのだ。
あの頃にみた、私があこがれた野球部ははたして何処の高校なんだろ・・・
そんな理由である・・・ほっとかれて当然である。