スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きてみるvs暴力問題に揺れるS高校vs追手門学院野球部

2013年01月19日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。現在この1月末にオープンする新感覚のお鍋ダイナーの準備に忙殺されている。今まで数々やってきた新店舗立ち上げ、イノベーション、リニュアールだが、今回はちょっと雰囲気が違う。年のせいもあるが、「集大成」という大きな形容詞がついている。企画内容や広告戦略もしかりであるが、一番の焦点は、「これで・・お客様がよろこんでいただけるのか?」を常に悩み、考え、具現化を興している。

ぜんぜん違う話である。
淀川をチャリで梅田に向かう途中に、今マスコミで話題のS高校がある。公立では、スポーツの強い学校であり、野球部の練習風景も、よく土手から観ていた。
強くなる為に、殴られる・・・・3年間のその修錬に耐えたら、また無事、問題なく過ぎたなら、年を取った時にはそれはいい思い出になると言う、その理屈は、スポーツに燃えた其の時代を持っている人ならほとんどがそう思うのではないだろか?しかしよくよく考えるとそれは結果論であるから、それを頭から言うのは暴論に近い。だだ一つ確信をもって言えることは、人を殴るということは、「怒り」の感情でしかないということである。愛の鞭・・・などは全く詭弁である。怒りの感情は必ず連鎖するのである。それは社会にとっては決していいことではないのだ。では、何がいいのか?
私なりの意見であるが、「ほっといてやる・」ことであり、生徒の方も「ほっといてもらう・・」ことで、冷静な心持ちになり、色々な判断が冷静に出来るというものである。

そこで・・・我が母校、追手門学院野球部の話である。
ほっといてくれまくった・・・監督、部長、さんたちである。
週間誌に載るくらい大阪の逆名門野球部であった。
メンバーはかつかつの9名である。守っている時の我がベンチは日なったぼっこのオッサンが座っているようにのんびりとしている。
私がピッチャーで、鳳高校との試合の、相手チームからの野次は、「へい、へい・・ピッチャー次が200球目やで・・」
「うそぅ・・俺はもう200球も投げたんか・・まだ6回裏やで・・」とめまいが襲った時も、
「しまっていこうぅ・・」とキャッチャーが声を掛けて座った拍子にキャッチャーのズボンの股が破けて、マウンドで大笑いした時も、やけくそになって、急に全く落ちないホークボールを連発した時も、
キャッチャーがバッターボックスの打者に、「来た来た来た・・ほら来た・・・」と言って、ピッチャーの私が「ほら来た・・」と言うタイミングよりやや遅れて投げる、「キタボール」という魔球を開発した時も、金属バットが主流の高校野球で・・・「プロを目指す・・」という意思で、一人だけ木のバットを使っていた時も、我が監督は・・ほっといてくれたのだ。
それは・・私のことを親しい人間と認知してくれて、「アホな奴やで・・そうかそうか・・」と流してくれるると言う、非常に高度なコミュニケーションをやりとりしていたのだと思います。
だから私も・・監督のその贈り物に敬意を表していたのです。ほっといてもらっているという礼儀に感謝をしていたのだ。練習は毎日ありましたし、土曜や日曜は練習試合を組んでいただいたりしました。9人ギリギリ、タクシー2台で行く能勢高校とのゲームでは、点差も離れているのに、監督は何を興奮したのか、ホームスチールのサインを出し、本塁2M手前でタッチアウト・・
相手チームもまさかまさかで、「ホームスティールのサインは勇気いるな・・」と言った監督のマジな顔も、まさかまさかで・・誰もそれに意義ありを出さないことで、いい関係をかもしだしているのだった。
そして・・そんな野球部に鉄拳指導がなかったもう一つの理由は、殴ること、殴られることの合点の行く理由が判らなかっただけだと思う。
理由があったとしても誰にもそれが支持されないことは判っていたんだろうと思う。

そして今・・私は何故追手門高校に行ったのか?と考えることがある。
野球少年であったし、甲子園にあこがれたこともあった。名門高校への入学も頭がよぎったが、
何故、追手門だったのか?
不思議な話であるが、観たのだ。追手門学院野球部が日生球場で、強豪高相手にいい試合をしているのを。多分中学2年か3年である。たまたま行った友達の兄貴の試合の前にやっていたと記憶がある。其の時「ここに行こう・・」と思ったにちがいない。
でも・・・私が記憶にある追手門学院のユニフォームと実際に私が着たユニフォームが違うのだ。
何か大きな勘違いか、ねじれが発生したのだ。
あの頃にみた、私があこがれた野球部ははたして何処の高校なんだろ・・・
そんな理由である・・・ほっとかれて当然である。

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とにかく生きてみるvs北村流成人式

2013年01月14日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。本日は息子二人の成人式である。二人と言うのは双子であるからである。
双子でも、ちやほや感のあるタッチや、マナカナのような一卵性性ではない。
二卵性の双子であるから、顔もまったくにていないのである。
今から20年まえに、京都の伏見なる場所で誕生した。其の頃は、ある事に巻き込まれ金銭的に本当にきつい状態だった。
ツインのベビーカーを押して大手筋商店街を歩いていると、見ず知らずのお姿さんが寄ってきて、
「儲けたな・・あんた本当に儲けなたな・・」と言って双子のほっぺを指で軽く突っついて去っていった。其の時は、これからかかるお金を想像しただけで・・結構なプレッシャーとなったことが思い出させる。
そんな二人が二十歳を迎える。
我が家のしきたいりとでも言うのか・・北村家では何もしない。
名家でもないし、古の場所にずーと住んでいる訳でもないから、成人の祝い事的な伝統行事などはなにもない。また少し余裕の出来た今・・成人式のお祝いで・・家族(別れた嫁やその義母)も含めてのお祝いの食事会など、私の自己満足だけの為に集める気もない。
一庶民の子供であった私は、正月、成人式、入学、卒業、就職等においてもまったく家族的な歓談の宴など執り行ったことがない。そんな私達の血族では、それもまた自由に、友達らと騒ぎ、祝うことを好としてきた。
「何もしない・・・何も贈らない・・・何も言わない・・何も聞かない・・」祝いの日が北村家のしきたりであるのだ。
だから、世間のご家庭でなされる成人の日の家族食事会などを・・全く羨ましく思うこともないのだ。
他人様からつがれた酒を、「ありがとうございます・・」と言って飲み干してほしい。
そしてそんなことをわざわざ私などに言わなくていい。
好きなこと、思うことを自分流でやってくれればいいのだ。
「君らには無限の可能性がある・・」などの歯の浮いた言葉に酔うな。
「可能性は無限であるが、君らは無限ではない・・」納まるところに収まるのだ。
でも・・どんな夢があるかは知らないが、貫き通すのも、夢が挫折し、其の次の夢を目指すのもまた良しである。とにかくである、「生きてみろ・・」とだけ、餞の言葉にしよう。

16歳でサッカー留学で一人ドイツに行ったこと、何も聞かないし言わないが、その表情から醸し出す男の気配に・・おめでとうを言おう!

四国の高校へ野球をしに行き、挫折と共に多くの仲間を得たこと、何も聞かないし言わないが、変らなかったそのフレンドリーな魂に・・おめでとうと言おう!

さて。北村流の成人式の日・・・
父の入院先からまたまたお転院の催促が来た。
3ヶ月ごとに変わらなければならない今の医療制度に・・従いながら次の転院先へ面談を受けに行く。車椅子に繋がれた父の・・私欲をなくした表情に幾分安心をしながら、この父の成人式も聞いたこともなければ、話題にもなったこともない。多分タンタンとしたものだったのだろうかと?ふと思う。
私の場合は、付き合っていた女の子の着物姿を観る為に、車で送り向かいのアッシーになって、そこら中を走り回っていた思いがする。そして「いまさら市長の話も聴けるかいな・・・」と言っていたのではないだろか?

「狐の顔の付いたショール・・あったら出しといて・・」と言ったら、家になかったもんだから、近所の商店街で、あの動物愛護協会がひっくりかえるような狐の顔のついた、ブラウンのショールを買いに走った母の不思議そうな顔が忘れられない。
それでも・・母は、何も聞かないし、何も言わなかった。
其の日、赤飯の折が、商店街の餅屋から届けられたのが、唯一のしるしだった。

大手筋商店街のお姿あさん・・「私は儲けました・・」と今思います。
ありがとうございました。





 

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とにかく生きてみるvs絶対に忘れないこの坂道

2013年01月09日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。深夜バイトも完全に離れ、新しいプロジェクトである、sheve ice Cafeという
店舗のオープンに向けて日々忙しくしている。今は採用と、広告戦略と、営業推進を担っている。
新規オープンと、「IMAGIN」なるキャッチコピーで結構募集がきて、ありがたい限りです。
20歳~40歳くらいの方と、この2年3ヶ月の圧縮された話気が知らぬ間に高くなっているのである。特にバイトをしながら学校に行かなければならない境遇の若者には、言わんでもいいことにも、力が入って話しをしてしまう。「よし・・・・一緒にやろう・・」と出掛かるが、採用人数にも限りがあり、しぶしぶであるが誰かは落とさなければならない。せめて・・・この出会いで、少しでも勇気をもっ帰ってもらいたいと思い・・「絶対に負けんなよ・・」と言って熱くなっている。面接に来た方は、「なんや・・このおっさん・・」と思っているにちがいない。「まぁ・・ええか!」と一人疲れながらつぶやく。
多分、言いたいことが一杯あるのだろう。

その一の話である。
深夜バイトの通勤は自転車で片道1時間近くを漕いだ。私の苦悩はこの自転車通勤によるところも多かったのだ。それじゃバイクにしたらと思うが、自分の意地と、減った体重がもとに戻ることを恐れた結果、苦悩である自転車で通勤した。
それにこの道には、川や、高架や、交差点を超える為の橋が多く、それを障害物のように越えて、登っていかなければならないのだ。最終日の帰りに、今後の人生、まだまだ色々なことが興るだろうと思うが、この登りを思い出すことで、それを超えていける気がするし、多分だが、絶対に忘れることが出来ない登り坂になると思った。
この順序は深夜バイトが終わり、足腰がへたり、眠たさでふらふらの状態で超えていかなければならない時のである。(行きはこの逆で、同じ勾配を、「行くのがいやや・・」「なんで夜中に俺が・・」「雨の中うっとしい・・」とかを思いながら自転車を漕ぐ)

                       

通称マルハン前のループ歩道橋である。少ない助走距離で一気に登らなければならないのである。カーブと登りは、一時もペダルを止めることが出来ない。朝の通勤のお姉さんの前でペダルを踏み込む力がつきて、横に倒れること数回であった。下りもカーブの為、下りを利用した空走楽チン距離を稼げないのも辛い。

    
                       

摂津駅の、通称九十九坂である。駅の横を立体に超えていかなければならないのである。邪魔臭いことこの上なく、たまにこの九十九坂を登らず、チャリをもってモノレール駅行きのエスカレーターに乗ったこと数回。駅員に注意受けたこと2回。そして最も辛いのが、雨の日・・ウエットな路面である。九十九折の路面はタイルぽい加工が施されていて、180度ターンでは、ブレーキが強すぎればスリップして転倒するのだ。レインコンデションでこけた事2回。そのうち1回はこれは欠陥やと思い、駅事務所まで文句を言いに行った。つなぎ目のステンレスには要注意である。

 

                        
そしてこれが安威川を超える陸橋の登りである。助走が長く、スピードをつけて登ることがコツであるが、約100Mの登りは、一機に登らなければならない。50M前から助走をつけてのぼりはじめるも、後半の10Mくらいに必ず足に溜まった乳酸が、漕ぐ力に勝るのである。最後の数Mは、「うごぅ・・うごぅ・」と雄たけびが必要である。そしておまけに登ってからの陸橋が、かるい蒲鉾型になっている為に、綺麗な女性のイケズのように、登ったという達成感と力を無くした足に、軽いショックを与えるのである。でも、この坂の下りは結構なスピードが出るので、深夜のダウンヒルレーサーごとく、最高時速を狙うこともある。

 

                         

そしてこれが、最も険しい淀川の壁である。中央環状を北から南へ(またその逆)チャリで行く場合には、必ず必ず超えていかなければならない、箱根八里である。
とにかく長い坂道を天に向かって漕がなければならない。変則機をロウからハイに変えるタイミングもしかりだが、数々の漕ぎ方を発明した。「すぅすぅ・・はぁはぁ・・呼吸方」 「ワンツゥワンツゥ・・の水前寺的タイミング方法」 「重いギヤァーで、一回の漕ぎで距離を稼ぐ修行僧的な漕ぎ方・・」
「体を完全に前傾に倒し、目線は前輪の先を見つめる・・完全前傾型・・」などなどである。
6連続の勤務明けには、負けを認めて、押して登ったことも数十回はある。
おばさんの電動機付きのチャリに抜かれることの悔しさ、前に走るおじやんをロックオンして抜きにかかかる中野浩一的なまくり・・・ここでは数々の死闘を繰り広げた。
そしてくだりである。淀川の風邪を受けて、「さぁ・・一気に駆け下りるぞ・・・」と気分もよくなる時、たまにこの下でやる、チャリの検問に、いつもポリにヤカラをかました私であるが。
この秋ごろからは・・顔馴染みになり、「中央市場・・・・」と言って片手で挨拶しながらパスする私は、深夜のロイヤルファミリーになっていた。


とにかく漕いだ。そして歌った。それは100曲は超える。
最後のマイチューンは、やはり吉田拓郎だった。「また振り出しに・・・」と。
不思議なことが起こった。
最後の最後で、この坂の登りで、チャリが、クラッカーのはじける音のように「パーン・・」となった。
後輪がバーストした。磨り減ったタイヤから、中のチューブが出ていて、それが破裂したのだ。
「また振り出しに・・・」と歌いながら、ゆっくりと淀川をチャリを押して渡った。笑いがこみ上げてきた。


そして相変わらず、淀川は京都人の悲しみや喜びを大阪湾に運んでいる。

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