スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きてみようvs春をまつvs明るくまつ

2011年01月28日 | 日記

とにかく生きてみようと思う。深夜バイトとが、生活の大半を占めている事実がる。昼間の仕事をなんとかしていきたいと必死で、思っている。しかし今、その兆しも見えない。それは当然であり、まったく行動していないからである。行動をするとい言っても、闇雲に走りまわるわけには行かない。また,ダボハゼのように、軽い話に乗って、何でもかんでも首を突っ込むわけにはもう行けない。毎日の生活の中で、自分の心の琴線に触れる一瞬を今はただ待っている。問題はその待ち方なのである。待ち方というより、自分のアンテナが、どの方向に向いていて、どの周波にあわせているのかが大事なのである。でも自分のアンテナが、自動的に巷を流れる色々な電波をキャチするほど高性能ではない。ではどうするのか?手当たり次第にネットをサーフィンさせて、情報を得るのかと言うとそれも無りな話しである。自分の嗅覚をたよりに、心の琴線に触れることを探すのである。両親との会話、バイト先出の会話、歯医者さんとのやりとりの中で、一瞬心が、「きゅーー」となる時の状況を大事にしまい、書き止めて、あとでその状況をもう一度プレイバックさせて、色々と考えることしかない。
昨日、レイキの先先であり、真言宗の僧侶の方から、6ヶ月ぶりに電話があった。かかってくるなどまったく考えていなかったから、それはそれは驚いた。話の内容は、近々に大阪に行く用事があるので、会いませんか?という内容であった。わたしも現状の深夜バイトのことを話し、「これやという手ごたえはまだありませんが、」と来るべき有事に備えて日々勉強しているとう旨を話した。その電話を切ってから、頭の中は、「春は近い・・・・」という自己催眠に懸ったように、脳みそが動き出した。もう少し、もう少し、この寒さを土の中で耐え、その時の為に準備をすることに、今の時間を遣ってみようと、更に、もっともっと考えた。
今の私の篭りは、へたすると鬱に変わりかねない状況であるが、そうならない為に、これを春をまつ草の根のように、実は必死で生きているつもりで、もう少し、あと少し、土の中で眠っているように、春を待ってみよう。明るく、待ってみようと思う。



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とにかく生きてみようvsトイレの神様

2011年01月19日 | 日記
とにかく生きてみよう。アルバイト先で、今年から私も(男性も)作業所のトイレ掃除をすることになった。今までは、同じバイトの女性の方が、してくれていて、私は免状されていたのだが、それでは不公平という声もあり、正式に決定されたのだろう。それは私には一向に構わないのです。今までの仕事での、店舗活性化などの際には、クライアントの従業員さんには、掃除することは大事なこです。まず基本ですね・・みたいな能書きを言っていたのだ。またスピリチャルでの話でも、トイレ掃除が、自分を変えるとかなんとか言っていた。しかし実際には、ほとんどトイレ掃除なんかしたこともない。そんないい加減野郎でした。最近や流行っている歌「トイレの神様」は、可愛らしく含蓄のある歌詞であるなーなんて思っていた、矢先のことである。トイレ掃除をお願いしますと言われたときには、「着た・・・」と思い、ごく普通の顔で、動揺も見せずに、「判りました・・」と返事をした。
そして本日のバイト終了後、トイレ掃除にかかった。(当然女性用は免状)であり、その分男子トイレを丁寧にすることを望まれていることも理解している。
「トイレには、それはそれは綺麗な神様がいるんやで・・・」と心で唄いながら掃除をした。隅々までキレにという気持ちで掃除にあたる。今でこそ、水洗の、洋式トイレですが、これが昔なら,結構きついだろうと感じた。具体的な汚れが数箇所あり、また匂いも強烈なものが想像できた。それをキレイにする行動は、正に「解脱」といえる修業であると思う。そこに現れる神様と、水洗、洋式、匂いなしのトイレに現れる神様は違うだろうなーと、掃除の手を動かしながら空想していた。この近代トイレに現れる
「トイレの神様」は、このトイレのの何を、どうすることで、トイレの神様のご利益を出してくれるのだろうか?やっぱり手で、それも素手で、便器を擦ることを評価するのか・・と考え、一瞬素手で、便器を擦ろうかと思うのですが・・・・ やっぱりゴム手袋をはずせなかった。解脱できず残念・・・と。
この今日の出来事が、結構引きずっている。「素手で出来なかった・・」と自分を責めている。情けなく思っている。スピリチャル云々を偉そうに言っている私です。便器を素手で洗い、擦り、拭いて、その、それはそれは綺麗な神様に、出会ってやろうと思う。 でもトレイにいる神様は、女神様なので、トイレをピカピカにすれば、その女神様のように、綺麗になれるということです。
うん・・・女神様なあ・・。どうもピッタリこんなーと思いながら、綺麗にならんでもいいからと考えながら、
次回からの、トイレの神様との遭遇を楽しみにして、トイレ掃除をします。いやトイレを磨きます。
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とにかく生きてみるvs寒い朝vs気絶する

2011年01月17日 | 日記
とにかく生きてみる。ここ最近の冬型の天候は、深夜バイトの通勤にはつらい。自転車で、中央環状線を走るのは、この寒さではもはや死の行軍である。道が凍り自転車のブレーキを掛けるたびにスリップをして、転倒してしまうからである。だからブレーキ調節の加減をしながら走らなければならない。
本日は、ことのほか朝が冷えた。多分-気温になっているだろう。それでも乗ってきた自転車を棄てて帰るわけにはいかず、もくもくと、必死で自転車を漕ぐ。帰り道の楽しみは、もっぱら朝からのジャンクフード屋(松や、吉野家、マクドナルド)でのリーズナブルブレックファーストである。今日は松屋で、牛丼をほうばり、一目散に帰宅した。そこから12時30分までの記憶がないのである。
酔っているわけでもない。家にかえり、ダウンのジャンパーと手袋をはずしたところまでは覚えているが、電気コタツに足を入れ、横になった瞬間に、私は気絶した。気絶したように眠ってしまった。
山岳の遭難時、「寝てはいけない」いわれる現象だったのだろうか。疲れた体と、睡眠不足、そこに食べ物をとったりしたものだから、あの山岳遭難時の最悪の「睡魔」がおとずれたのであろう。
この睡魔、本当に強烈である。オバーパンツもはいたままだし、当然靴下も(2枚履いている)履いたまま、横になり10秒ともたなかった。気絶するように眠った。「寝たらあかん・・・」ピシピシと、ほっぺたを叩きながら誰かが言ったとしても、ここが冬山なら確実に、凍死していたであろう。
それにしても、寒中、疲労困憊、睡眠不足、満腹状態で、いとも簡単に人間は、「落ちる・・」のかと改めて思った。今日のこの眠りに入る数秒は、天使の腕に抱かれたような、フワフワ感があった。
この感覚が、例の雪山の「寝たらアカン・・ 北村寝たらあかんぞ!!・・寝たら死ぬぞ・・」ピシャ。ピシャ。感だったのではと、とぼけた寝起きの私がアホ見たいに、一人感心している。

そして、改めて思う。シベリヤの獄寒の地で、捕虜となってこの寒さのなかを生き抜いた人、また気持ちあるままに、残念にも亡くなった人に対して、21世紀に生きる甘い私のこの呑気な発言を許して頂きたい。こんなくらいの寒さでのこの大げさな発言を笑ってください。そしてもっと不謹慎なことを言えば、この極寒、疲労、睡眠不足、満腹での睡眠誘惑は、何か癖になりそうなくらいに、スピリチャルな一瞬でもあるのでした。
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とにかく生きてみるvs我武者羅にバイトした年末年始

2011年01月12日 | 日記

とにかく生きてみよう。年末年始は、バイトにない明け暮れた。正月用の時給アップもあり、モチベーションは高かった。そして11日の大阪で言うえべっさんが終わり、その忙しさも一段落した。

やく2週間弱を1日の休みで乗り切った。しんどかった。毎日毎晩、修業僧のように家をでて、何も考えないで、自転車を漕ぎ、寒風の中通勤をした。頑張ったもクソもない、疲れたの一言である。
今年の目標も、新年の挨拶もどれもまだ、何にも手につけていない。そして今日、初めて私にとって「あけましておめでとう」になる。
だから正月のTVやスポーツ番組などもほとんど見ていない。高校ラグビーやサッカーも結果だけを見る始末である。情報の僻地に迷い込んだ見たいに、世間で起きていることが判らなくなっている。ただ今年厳しい年になるだろうということはわかる。日本の政府の所為でもなければ、宇宙のめぐりあわせでもあるまい。只単に私が動いていないだけなのである。動かなければ物事は、始まらないと、当たり前の話しをするつもりはないが、どれだけ動けば、何か光のようなものが見えるのか、誰か教えて欲しい。今全く「光」が見えていない。そして頭の中にあるのは、休んでぼーとした脳みそを早く、普通の状態に回復させることだけである。

でもでも・・・やっぱり動いたから、真っ暗闇の中に。かすかな一点の光が見えた気がした。
もとプロ野球選手で、今はスポーツトレーナー協会の方、Tさんから電話を頂いた。
今期から始まる、プロ野球独立リーグについての意見と、方向性について意見を求められたので、時間をもらい、明日お会いして話をすることになった。これが仕事となるのか?どうかは判らないが、私のスキな分野の話には間違いない。いずれもお金の出所とその量に委ねるところは多く、独立リーグのオガーナイザーとしての仕事はそれらが決まってからであろうと思う。

また京都の友達が、大阪に来たついでに挨拶にそえて、ケーキを頂いた。堂島ロールの元祖であるその友達の古い友人が、最近つくった工場でからの帰りだった。おいしく頂いた。誰にも新年の挨拶をしなかったので、スタートが切れなかったが、「今。ここから2011年」を始めるとする。
とにかく生きてみるしかない。でも少なくとも今年私と付き合って頂く方には、迷惑は掛けないようにする。そして相手の気持ちを考え、話し、行動しようと思う。当たり前であるが、再度確認をすることにした。

昨日の深夜バイト。何名かの女性の方は子供が成人式らしく、特に娘さんのいる方は、その着付け等のお世話でいつもより早めに上がった。深夜に働くお母さんの姿は、真摯であり、真面目である。ひたすら家族の為に、子供の為にが、強く感じとられる。こんな母親の子供であることは多分幸せだろうなーと思った。そしていつも少し愛想のない女性と居残りになった。そしてよく聞きと、「その方も。年老いた母親の介護をされているとのことでした。ふっと気付いた。誰かの為に働くことが、当たり前なんだと。私はとにかく生きてみるといいながら、誰かの為に働いている訳でもない。
中ーと半端な目的でしかない。ここに差がでる。・・・愛する人の為に働くこと・・それが自分の務めであることを忘れないで於こうと決めた。長い間、地方にいる子供に会っていない。もう痴呆が始まりだした両親もいる。自分の為でない、子供への責任と、親への感謝を持って、この深夜バイトを続ける。ただつづける。

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とにかく生きてみようvs有難い休憩中のお菓子

2011年01月05日 | 日記

 

とにかく生きてみる。正月からの連日の深夜作業に、帰宅したならぐったりとしてしまい、なか中ブログの更新がでない。やはり何もしないと言うことは、何も感じないということであり、私の心の琴線に引っかかるようなものと出会わないからと思う。
さて、深夜作業の中で、3時に5分の休憩があるのだが、その時に同じ作業台で働く主婦のかたから、お菓子を頂くのだ。この写真は、私がトイレに行って帰ってきたら私の作業台に、置いてくれているところをカメラに収めた。同じ作業台で、3名~4名で仕事をしている。今日は3名(私を入れて)だった。小袋に入ったクッキー系の甘いお菓子と、塩せんべいです。
私は、これを毎日頂いている。前にも書いたのですが、私がお菓子を渡すと何故か、汚く見えるのか、ガラでもないのか判らないのですが、「いいですよ・・用意するの大変だから」と丁寧に遠慮されたことがあった。その時は、チーズを渡そうとしたからチョット無理があったと、今から思えば・・・
さて、このお菓子のおすそ分け、差し入れについては、ほんの小さなものでも、その気持ちが嬉しのです。同じ職場で働く仲間として、ちょっとした「心遣い」が嬉しいのです。何か返そうと思っていますが、男性が、それも50代の男が、お菓子をどうぞと言う光景には、結構寒いものがありそうで、例のチーズの件以降は、貰い放しになっています。
私は、このお菓子を直ぐに食べません。「有難うございます・・気を遣っていただいて」と言って、ポケットに直します。そして、帰りの自転車に乗りながら食べるのですが、「腹が減っているのと、疲れているので、一口の甘いお菓子が、本当に旨い、美味いのです。体中に溶ける糖分が、血液を通じて、脳に送りこまれた時には至福の瞬間に変わるのです。
そして、有難うと感謝の気持ちがこみ上げてきます。その時には、「スイマセンが休日出勤お願いできますか?」と言われようものなら、「はい喜んで・・」と言ってしまうだろうと思います。
私は、餌に弱いことが、ここにきてはっきり判りました。すっかり餌付けされてしまいました。笑い・・・
それでもこのお菓子を用意するのでも、時間と費用はかかっているのですから、何べんも言いますが、本当に有難いと感じています。
でも、時たま作業台のメンバーが変わり、お菓子がない時があります。嫌われているわけでもないと思いますが、「自分のことは、自分で」見たいな雰囲気がただよい、女性同士で、袋の口を開けて、「どうぞ・・」と回しているのですが、私の前には来ません。それには色々な思いが錯誤します。
そのお菓子の袋を見るわけも行かず、もくもくと下を向いて作業の用意をしています。ここにも真実があります。貰うことより、出すことをしない私がセコイのであって、その人の人間性ではありません。ただ仄かと、のけもの、ハミゴにされた気持ちに一瞬なりますが、これも世の中の常であります。感謝と厳しさを感じながらの深夜3時の休憩時間です。
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