スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きてみるvsディオリッシモの香りにさそわれて。

2012年10月25日 | 自分的エッセー
深夜バイトの通勤は自転車である。朝の帰宅はいろいろな自転車通勤の人とすれ違い、追い抜かされていく。深夜バイトの帰りは、もう足がクラブの土曜日のようなハードな練習のあとのように疲れ,棒のようになっているので、自転車の漕ぐスピードが、朝から頑張る普通の人にくらべ断然遅いのである。よってあとからあとからくる自転車通勤通学の人々には抜かれまくることになる。そしてその抜かれる一瞬にいろいろな匂いが私の鼻に入ってくる。
季節の変わり目、衣装ケースから出したのであろう、防虫剤の匂い。年とともに嫌でも出てくる加齢臭や、「うんん・・マンダム・・」と言うのは昔であるが、若い男性から香る柑橘系コロンの匂いなどさまざまである。
よっちらと自転車を漕いでた。後ろから当たり前ように抜いていったOL風の女性の、過ぎ去ったあとの香りが・・・・懐かしい香りである。
臭覚とは恐ろしいものである。一瞬でその記憶を呼び興してくれるのである。

あれは・・高校生である。それも三年である。わが母校追手門学院は男女共学であった。
女子も男子も18才も近くなればコロンの一つもつける生意気な年頃である。
私の席のとなりになった女子も、コロンというか香水をつけていたのである。
学校に行く度にその香りに鼻の下を擽られ、脳がその甘い香りに完全に犯され始めた日々である。
下町の野球小僧がひょっとした間違いで入学したわが母校は、私にいろいろと知らないことを教えてくれた。特にブランドという言葉には強く衝撃を受けたのを覚えている。
修学旅行で、生コン屋の令嬢が持ってきていた鞄が、今で言うグッチで、その頃もグッチだったのだが、めちゃめちゃ高価な代物であると聞かせれた。それは私が想像している鞄の値段をはるか上をいく値段だった。それにもましてグッチなる言葉を聴かされたショックははかりしれないものがあった。誰や・・・・何処のもんや、鰐や、パンダや、希少動物の皮でも使ってんのか・・とも想像をした。そのブランドによるデザインやマークに価値があることなどまったく理解できなかった。マークなら、パーマーやマンシングやラコステなどが一番と思っていた時代であった。今でも私の両親はブランドなどをまったく知らないし、その価値すら体験したこともない人であった。そんな両親で育った私であるから、知っていたのは、ワンポイントシャツや、VANやKENTの服ぐらいであり、その鞄が一桁も二桁も値段の違うことに呆然とした。
それから周りに目を向けると、結構金持ち的な男子のベルトのバックルには、「G」の文字が背中同士くっついたデザイン、「どうや・・・Gや・・Gや」と主張しているものだった。
このベルトをせん事には乗り遅れるという感覚はあった。そしてほしくてほしくて溜まらんかったのを覚えている。
サンモトヤマという阪急17番街の高級店に売っていることを聞きつけて、坊主頭の野球小僧が買いに行ったが、臆してそのサンモトヤマの入り口でびびったことは覚えている。

そしてその甘い香水である。当然ひばりが丘花屋敷のお嬢さんが言うのには、ソニプラで売っているとのことだった。「何処や・・・ソニプラてぇ・・」と恥ずかしながらも聞いた。
「梅田のソニープラザ・・」というところで外国の雑貨などが売っているところらしかった。
ボールペンの色とりどりなこと、ミッキーやドナルドのステッカーやノートなどが一杯あって、店内でキョロキョロしたのを覚えている。そこにあるコーナにコロンや香水の類が並んでいる所があった。甘い中にすっぱさの残るあの香りがあった。
ひばりが丘のお嬢さんが付けているクリスチャンディオールのディオリッシモがあった。坊主頭の野球小僧はそこでテストボトルの中身が磨り減るくらいにその匂いを嗅いだのだ。周りからは白い目で見られたし、梅田から帰る電車の中は、私の体についたディオリッシモの匂いで車両全体がくらくらしていたのだった。

そして、そのディオリッシモの香りは私の高校生活を豊かなものした。その香りを嗅ぐだけで気分はアップになり、いい香り=可愛い女性という式を造ってしまった。
ある日、食堂で狐うどんの汁を制服のズボンにこぼしてしまった。
かつおと昆布の出汁と饐えた若い男の匂いが入り混じって、うどんやの厨房が教室の片隅に出来たようになった。
ひばりが丘のお嬢さんは、それを見かねてか、匂いかねてか、これをふったらと言って、ディオリッシモを数回ピシュピシュとかけてくれた。
その一瞬・・うどんの出汁と戦ったディオリッシモは、猫の糞のような乾いた匂いを出した。
「どう・・・」と聞くひばりが丘のお嬢さんの顔が引きつっていた。

それからも、風俗やクラブや、またまた付き合った女の子の中に、時たまディオリッシモをつけてる女性と遭遇する。それを嗅ぐとアノ頃の自分の幼さがひょいと現れるのである。
しかし・・・その匂いを打ち破った、思い出つぶし的な匂いがその頃新たに登場した。
「プアゾン・・」である。大丸心斎橋の前をとうりかかると、強烈な女のそれもいい女で悪い女の香りが、鼻から脳天に突き刺さる。
坊主頭から、長髪サファーに変身していた俺は「プアゾンな女を・・いてこます」と友達によく言ったものだった。それだけ戦闘的にさせてくれたのだろう。そこで判ったこともあった。
プアゾンな女とは飯を食うなということだった。
「味がわからへんし・・周りの客が嫌がるのである・・」


さて、私の横をとうり過ぎた、朝の8時のディオリッシモの自転車女性である。
顔もみないまま・・追い越す馬力も残ってない私は、小さくなったその姿を、まるで麻薬犬のように鼻をくんくんさせながらその匂いの後をトレースして行った。
そして安威川の上のあたりで完全にその匂いは途切れた。




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とにかく生きてみるvs俺の話しでもいいかい!今は幸せかい!

2012年10月19日 | 自分的エッセー
とにかく生きてみる。深夜バイトは相変わらず忙しい。ちょっとした理由を見つけて、それを正当化させて、休んだろうかい!という気持ちが毎日沸いてくるが、やっぱし無言で、罵声、や文句も言う相手もいないままの深夜12時前に結局家を出るのである。

破傷風の親父も、三ヶ月の闘病後、なんとか救急救命センターから一般病棟に変ることが出来たが、言葉はまだ喋れなく、食べることも出来ずとも、なんとか自分の力で呼吸が出来るようになった。これから序じょにリハビリを受けて、家に帰ってくることになるのだろう。

それでだ、親父の入院中に、沢山の看護婦さんのお世話になっている。
いろいろな機会で看護婦さんと話をするケースがあるのだが、親父を含めて、他の患者さんのお世話をしているのをみていると、「看護婦さんは・・・偉い、可愛い、素敵・・」と言いたくなるシーンに出くわす。特に親父等の病室は老人が多く、また意識に何らかの障害がある人多いので、その話しかける言葉の一つ一つが、はっきりと、大きな声で言わなければ、伝わり難いのである。それは幼稚園児に話しているかのようで、ええ老人の幼児プレイを想像させるのは、いささか下種であろうか。

「北村さん・・・・北村さん・・・だいぶベットの下のほうにずれてますから位置直しますよ、いいですね!」とか、私が帰る時なんかは、「北村さん息子さん帰れますよ、バイバイしてください・・」と言って親父の手を取って、バイバイをさせるのである。私が垣間見るだけでもこんな具合だから、24時間の看護では、本当に沢山の、患者と看護婦の会話がなされているのだろうと思う。たとえ入院中であれ、意識朦朧であれ、あんな言い方をされたらそれは、嬉しいものだろうなぁ・・と思わずにはいられないと感じた。
それは、彼女らの仕事と言えばそうなんだが、あのホスピタリー精神は、たとえ有名ホテルであろうと、ディズニーランドであろうと、高級ソープであろうともかなわないのではと思う。
それは、ナースという使命感と脈々と培われてきたその歴史が、やらされてる感や、演技感また、仕事感を完全に払拭しているのではなかろうか?と思う。
そう思うと、看護婦さんや今では男性もいるので、看護士ということになるが、本当にいい仕事だなぁーと思えてくるのである。
相手に喜んでもらえる仕事。言葉では言うのは簡単であるが、それはそれは難しいことなんだろうと思う。やっぱり自分の利益やメリットを優先して考えるのが当たり前のようになっているのに。
やっぱりその現金な思いは態度や行動に出てくるのが人間である。
「あほらしい・・なんで自分がせなあかんねん・・」
「他の人はそこまでやってへんやん・・あぁ・・損やは」
「こんな時給では割りあいません・・・とりあえず言われたことはやりますが・・」
見たいな風潮は世間ではそこらじゅうにいっぱいあるし、上辺つらはそんなことも気づかさない巧妙な笑顔で、過ごしている輩もいる。でもやっぱり何処かでそれの化けの皮がはがれることが起こるのも、世間というか、世のならわしなのである。


ここ最近もそうだが、今までにも数回、若い社会人を前に、話をしてくれという依頼があり、
セミナーに近い、研修をしたことがある。それはそれで仕事としてギャラもいただいた。
出来については、その後の彼らの活躍以外にははかりようがないのだが、私自身も完璧ではないけれど、それなりに熱く伝えた思うが・・・・・なんとか満足はしてもらった。

人に何かを教えることは、私には、やっぱり木っ端恥ずかしい気持ちになるし、お尻がムズ痒くなる。
そもそも、人生ワンアウト、ツゥーアウトを喰らった人間が、「若いこれからの人間に何を教える、何を伝える」と言うのか??が大きく自分の気持ちの前に立ち塞がるのである。
片方で、「ありがとう・・ということで変る自分の運命!!」みたいなことを講義して、もう片方で、痴呆のお袋を怒っている自分がいるのだ。
また、夢は、願望は、想いは叶うみたいことをノタマッワッテ、片方で深夜バイトに自転車で通う自分がいるののに、ぬけぬけとそんな美味しい話ばっかりをすることが、やっぱり私には罪であるのではと思えてならないのだ。
他人からは、人事研修などもっと積極的やったらと進められるが、どうもクリアーに気持ちがならないのである。
「この私が・・・人に何を教えるというのだ・・・」という気持ちが正直なところである。
それとも、他人からみれば、「それはそれで、こっちに置いといて、やればいいやん・・」ということであるのか?それでも何処かで化けの皮がはがれる自分に自信がないだけなのか?

でも、でもただ相手のこと、特に若い人のことを思うと、してあげたい話はある。
そしてまったく予想もしてなかった若者から、「ちょっと相談あるんですけど・・」とちょくちょく最近、言われるのである。

何を!!どう!!「神」さんは私にさせようとしているのか?
ふむふん・・・さては無料で、ということではなかろうか?カネをもらう発想をなくせば、尻のむづ痒さも消えるのであるが。
そして、ありのままの自分の想いを正直に伝えられるのであるが。
ようは責任は持たれんということでの無料でない・・そもそも私の話しごときはそれでいいのだ。やってみょうやないか?そのご奉仕を。
この私のこの人生が役にたつなら!
まあ・・ほんまに本間に「とにかく生きる・・・」ということやねん!!!!

この生様なのだ。反対に向こうが心配してくれるかもしれない。




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とにかく生きてみるvsおいぃ、記録を持ってるかい・・vs王将餃子10人前、30分

2012年10月11日 | 自分的エッセー
とにかく生きてみる。厳しい現実が毎日毎日押し寄せてくる。それにもまして、現状の深夜バイトと、本業の閉塞感は否めない。しかし、現実のその厳しさもこの浮世にはつき物であり、それがなければ本当に水ぽいあっさりした人生しか遅れないのであろうと一人変児に思いをめぐらす。 2年間の深夜バイトへの自転車の往復で、いったいいどれくらい漕いだのかなどを考えながら走っていた。同じ道の毎日の往復の繰り返しは、世間ではまったく相手にされない記録であるが、私の人生においては、何者にも替えがたいレコードとなると思うのだが・・・・ そして・・記録ということで思いだしとことがある。 私には、スポーツにおいても、勉学においても、またまた趣味の範疇においても記録らしいもの、輝けるものをもらったと言うか、手に入れたことはない。まして「これに挑戦や・・」と決めたこともないのであるが、記憶に残るなかで一つだけ挑戦したことがある。
高校生だった。京阪ローカル沿線の千林駅に餃子の王将があった。今でこそファミリーや女性層にも配慮した店作りがされているが、あのころは、こてこての中華料理やというか、餃子屋という感じで、とても狭く、下町感があった。
そこで今にいうところの餃子のセールスプロモーションとして、「餃子10人前、30分で無料・・・ただし食べ切れない場合は10人前の料金を頂ます・・・」というものをやっていた。
今でも、その頃でも、何人前完食で、只というイベントは各地でやっているが、私達のハートというか、熱き魂を滾らしたもう一つの要素は、見事時間内に完食した強者の名前を、その店の油で汚れた壁に貼り出してくれるということである。高校生のイチビリの目立ちたがり屋の私には、それがなんとも憧れに感じたのだ。
それにもまして、その貼りだされた強者の名前が、その当時ではそうそうたるメンバーのように思えたからなのだ。

大阪朝高 高量孫(名前確かでない)
浪商柔道部 小川邦弘
興国高校 ボクシング部 昆田啓示
大工大付属 ラクビー部 橋口保
城東工業 自動車科 大野正 など・・・・・・
沿線の強豪高(何の?と言われたらワルの・・としか答えられない)の強者の名前が貼ってあるのだ。それも白い紙に黒のマジックで、おまけにその達成時間まで書いてあり、13分なんか見ると、「うそぉ・・どうやって食うねん・・」と嚇かされたことを覚えている。
あの、あの強者の名前の中に、沿線一へたれの学校と言われたわが母校、追手門学院高校野球部
北村洋一の名前が並んだとしたら、それも大阪朝高と浪商の横にでも貼られたとしたら、それこそ母校の誇り、在校生800人の希望の星、通学の安全確保、女子生徒の憧れの的に・・なること間違いないと気持ちが高揚したのだった。
私は挑戦を決めた。
もともとお祭り野郎であるかして、回りの連中には当然言いふらした。
学食では、そのトレーニングと称してカレーやうどんを二人前くいをやった。
どうしても、わが母校と私の名誉の為に、餃子10前を30分以内に食べきるという誓いを立てて
当日の決戦の日を迎えた。
セコンドには、ラクビー部と、スキー部の連れがついてくれた。
当然失敗した時には、彼らの胃袋にも餃子が入ることになるのだが、挑戦中は彼らは、横で立ったままその状況を見守ってくれた。
始めに5人前が出てきた。熱いので水を口に入れながら餃子を冷やしながら腹の中に流し込む作戦である。10分そこらで5人前はかたずけたが、残り5人前が大きな壁となった。
「はよ・・食え・・」
「まだいける・・がんば・・がんば・・」と言う声を背中に受けて餃子を流しこんだ。
あと5分で、7個くらい残っていた。
大きく息をして、呼吸を整えて、最後の7個を無理やり口にほうり込んだ瞬間、背中の声が歓喜に変った。やった・・・!!と三人で肩をたたきあいながら歓喜にまみれた。
そしていよいよ・・その栄光の証である、餃子10人前30分達成者の中に、追手門学院高校 野球部 北村洋一と黒文字で書かれ貼りだしてもらった。
上の段には、大阪朝高や、浪商や興国、北陽、淀工、城東工業などのその筋の名門がならんでいる。その下の段の大成高校サッカー部横山君の横に記された。
その強者の中に入った私は、翌日から剃り込みを入れて学校に登校した。
早速話を聞いた同級生からも賞賛の声をもらった。「もうこれで駅や電車の中では安心やで・・」と大きく胸をはった。
なんかあったら、「追手門の北村の連れや・・餃子10人前やった奴や」と言ったらええ・・!
と大風呂敷きを広げた。

しかし現実は何もかわらなかった。入れた剃り込みは、その日の夕方職員室で、マジックでカバーされた。そして、それから数週間後に私の栄光の記録がある、王将に行った。
私の横にはすでに3名の達成者が貼られていた。
大手前高校 探検部○○○○ と書かれていた。
私は強い衝撃をうけた。
上段、左側は猛者のワルワルな奴。
右隣は、かしこの典型
その間に挟まれている、私はドッチモにいけない「中途半端な奴・・・」という思いがめぐってきた。行く道をいかない自分がそこにいた。


それから・・・25年がたつ。
人生で、褒めらた記録はない。
そして・・まだ行く道をいけてない中途半端な私がいる。
でも、餃子は王将が一番であると言い切ることは出来る。
そして、たまに行く、未だに残る薄汚れた下町チックな王将の壁に、アノ頃の私の記録をダブらせる。


      
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とにかく生きてみるvs怒るとしんどい・・・vs笑らいませう

2012年10月04日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。それは果たして私に奇跡がおこるのかを、日々あれやこれやと気付きながら、まだまだ出来ない「感謝」を必死に引っ張りだして、ワンアウト、ツゥーアウトを喰らった男が、奇跡の復活を追いかけて生きているのである。それは起こるのか、起こらないのか判らないが、それまではとにかく生きてみようと思ったのだ。

9月の最初に、今年一杯は怒らないでおく、と言う決心をした。
そのために、呼吸法の教えを蒙り、常にリラックス状態に置けるようにしている。
今でも、深夜バイトの出かけには、激しく胸が閉めつけられる状態になるが、そこで5分くらいゆっくり呼吸を整えることで、スーット、締め付けが緩み、ストレスらしき重たいものが、背中のほうから、抜けていくのだ。そしてそのあとにゆっくりと、こんな状況でもこうして生きていられることが幸せなんだ・・・・と暖かいものがこみ上げてくるのだ。
だが・・・・・まだまだ修行が足らんことに遭遇する。
スピリチャルや自己啓発や、修身や自己願望実現などの世界で「感謝」とともに二大双璧として、よく言われることに「怒るな・・」という言葉と、教えがある。その手の本も何冊か読んで、結局は感謝と怒らないことが、幸せになるこつであることは頭ではわかるのだが、そんな簡単そうなことがなかなか出来ない日々を送っている。
今の私の怒りの発端のほとんどが、相手の言葉に、相手の発した言葉からくるのである。
痴呆症の母の話す、ボケボケの話に、ゆっくりと聞ける器がなく、「それは・・これやろ・・」
「よう・・・考えて・・」「自分はものを忘れるということだけを忘れんと・・行動しぃや・・」など、始めは穏やかに話をするのだが、だんだんと怒りの力が大きくなり、ついついと荒い口調で、怒ってしまうのである。
そしてもう一つは、親しい知人と食事をとりながら、人生のあれやこれやを話しているうちに、酒の席であることも考慮にいれて、妬みやヤッカミを聞いたり、マイナスの話を聞かされたりしてるうちに、自分以外の者が、私の口を通じて言わしているように・・「そんな・・・ショウムナイことばっかり言うな・・・ボケ・・」「現状をぼやいても何も変化しないこと・・・をようぬけぬけと言えるなこのぼけ・・」と言って怒ってしまうのである。

いづれにせよ、私の耳から入る、ひょっとして耳だけでなく五感から入る、その卑屈な言葉や態度が、今の私にはまったく消化できないのだろうか。
よくよく考えてみると、そんなボヤキや、嫉妬の言葉は、人間として当たり前であり、それが無いほうが不健全であることも、よくよく理解できるし、清濁合わせて人の世であり、そのどろどろ感が生きている証であると思っていた私なのに・・・・・・・
それが受付られない今日このごろなのである。
まずその原因は、私の余裕のなさからの事であろうと思う。この浮世の人の話も満足に聞いてあげれない私の気持ちの狭さを、まづは正さねばならないことは承知しているはずであるのに!。

母にしろ私の知人にしろ私以上に頑張って生きているのは間違いない。何も頼らず、人に迷惑をかけないで、自分の力で生きている人なのだ。それなのにそんな人の話も、ろくに聞きもせず、すぐに「マイナスの考え方やろとか、妬みや嫉妬では自分の願望など叶うわけないやろう・・・ぼけ。
そんな話し・・・聞きとうないわい・・」みたいな気持ちになる。
そして・・・・私が意識しないうちから言葉が、態度が相手の心に刺さってしまうのである。
あぁ・・・なんと器の小さい男なんだろうか・・?
それでも、母も知人も、次の日にはタンタンと生きて、仕事をしているのであることは、私の怒りが、相手の生き方のスケジュールを変えることにならない位い、くだらないものであったという証であり、
俯瞰的にそれを見れば、一人、私が、いろいろなものの現象に噛み付いているただの小動物のようであるのだ。もう一度リッセットしよう・・・ 
今年一杯は怒らない自分になろう。笑いを運ぶ招福になろう・・・・・・

今日だけは怒るな・・・・・と決心する。笑いをもたらす人になろう。
やっぱり・・怒るとしんどいのである。怒るとずーとそのことに囚われている自分の心がある。
その時に食べるものや、見るものや、出会うことがすべて色あせて、嘘のように見えるのである。
そして、心から体に重いものがズシーンとかかったようになる。
怒るとしんどい・・・・・これが判った、今わかった。
怒りを笑いに替える・・・・・そんなセミナーがあれば、今すぐ申し込むなのだが・・・

その前にまずはごめんなさいと謝罪いたします。








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