スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きてみるvs吉田拓郎的に今の自分を俯瞰する。

2012年11月28日 | 自分的エッセー
2012年もあと1ヶ月あまりである。落ち着いて年末を迎えるような状況ではない。とにかく動いているのだ。世の中、政治、父の破傷風での長期入院、そして2年3ヶ月続いた深夜バイトのこと・・・・とじわりじわりと動いているのである。この世の中必ず動いていくものなのであることは、時として絶望の中から救ってくれる唯一の真実であると思う。

これこそは真実はと思うことは世の中にあるだろうか・・あったとしても信じない振りをして生きている。笑っている奴も、泪を流している奴もそれだけに留まることは出きないのだから、変化していくのだから、いい加減でも歩いて行こうとだけ言おう。
京都と大阪で知り合いが、衆議院に初めて立候補をする。数回話と食事をしただけであるが、ブログ等でホローをしているが、そのバイタリティーには、もっと言うと戦い続ける心に、頭が下がるのは、無口になるの何故だろう・・?

親父がすべてだと言いませんよ・・・俺一人でやったこともありましたよ・・
7月10日に救急車で運ばれて2ヶ月弱の間、緊急救命室で半意識のまま過ごした親父が、今は3度目の転院で、リハビリ専門の病院にいる。まだ確実な会話は出来ないし、歩くことも、トイレも手助けがいるが、一つだけ言ってみたいのは、やるせないぐらいに生き抜いてみせたことなんだ・・・会話があまりとれない中で唯一親父がニコットする言葉がある。
「本当やったら、死んでたで・・・儲けた命や大事にしいや・・」である。これを言うとややボケの表情に笑みが浮かぶ。それでも、ここからが親父の生きる戦いが始まる。復帰がままならなければ3ヶ月が限度で、また違う病院に転院しなければならない、今の日本の医療制度である。その度に入院関係の打ち合わせに出て行く私は、「長男」という記号にため息をつく。

ええかげんな奴じゃけ・・ほっといてくれんさい。
季節もいくつか訪ねて来たがろうが、時が行くのも判らん位に目まぐるしかったんじゃ・・
人が好きやけね・・人が好きやけね・・と口ずさんだ深夜バイトのチャリンコで通勤。
働きだした当初は「刑務所に入ったつもりで・・」なんて考えながら、2年と3ヶ月が過ぎた。そして今年限りでその刑務所を出所する決意をした。本当に勉強になった。この経験はもっと詳しく別の機会で書いてみたいと思う。自分に足りないものがあった。その何かを、理屈でなく体にしみこますことが出来たのではと思う。自己啓発のセミナー、自分探しのヒーリング、お偏路・・などなど、スピード系の自己改革の類は今、腐るほどあるが、人生ワンアウト、ツーアウトを喰らった者たちは、理屈でそれを判ることよりも、それは遠周りになるかもしれないが、シンプルに汗を流すことが唯一答えに近づくことではないかと思う。そしてなによりも、
選ぶも、選ばれるのも風に任したんよ・・・
人がおるんよんねぇ・・・人がそこにおるんよねぇ・・・


女や酒よりサイコロ好きで、すってんてんのあの爺さん・・
あんたこそが正直ものさ・・
この国ときたら賭けるものなどないさ・・
だからこうして漂うだけ・・
また振り出しに戻る旅に陽が沈んで行く・・・

来年から新しく飲食のプロジェクトが始まる。その枡席に加えてもらったことにやはり感謝しかない。お客様も、そこで働く人も心から喜んでもれるような店作りを基本コンセプトにした。今までの私の経験は、それぞれの年代で途切れているように思うかもしれないが、地下では、宇宙ではと言うか、やっぱり脈脈と繋がっていると感じてしまう。
振り出しに戻る・・・しかしその振り出しからみえる風景は確実に暖かいのである。


この2年半近く、愛する、愛されるという対象が、「女性」という者から離れていた。
金なし、半痴呆の親付き身である。誰が私と付き合って幸に過ごせるというのか?面白く過ごせるというのだろうか?そう考えたところから恋愛とい動詞は忘れてしまった。しかしそれと交換するように私の前には、3人の成人になろうかという子供がキャッチアップされてきた。

君よ永遠の嘘をついてくれ・・今はまだ種あかしをしないでくれ・・
永遠の嘘をついてくれ・・何もかも愛ゆえのことだったと言ってくれ・・・
280円の卵かけ定食が旨かっても、コンビニ弁当とカップめん連続3回登板であっても、淀川の深夜の橋でランニングマンにこのチャリが抜かれようとも、中古古着屋のものを着ていても、俺は笑って答える・・「いとおかしい・・」のだと。「これがいいのだ・・」と
値打ちにドラマを持たせて豪快に笑う俺の姿の本当の所の種明かしを永遠にしないでおこう。
人は望む答えだけを聞けるまで、尋ね続けてしまうものだから。

人間なんて・・いつか何処かへ飛んでいく
其処に、なにかがあるんだろか?
それは誰にもわからないよ・・
ララララララララララララ・・・・・




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とにかく生きてみるvsRーgehin指定vsアストンビーチホテルの臭い悲劇は・・・

2012年11月13日 | 自分的エッセー
先日のハワイ取材旅行の話である。
これからの話は、結構下品極まりないことであるが故、この手の話が苦手で、嫌悪感を催す方はここからは読まないほうがいいとまずは忠告しておきます。


取材に協力していただいた地元日本人の方と、食事を取ることになった。好き嫌いもそれほどないので、その日は、薬膳の台湾鍋に出向いた。漢方の効いた苦くもあり、こくもあるスープで肉や海鮮、野菜をいただいた。美味しいを連発すると、次の日も、また違う薬膳鍋に招待されることになった。
2日間連続で薬膳鍋が私の腹に納まったのだ。すべてはここからはじまった。
深夜バイトからの続きで睡眠不足と時差で私の腹は、すっかり便秘状態になっていたが、たかだか1日出ないくらいのことであるから、それほど深刻にもならずに過ごした。
食事も終わり、22時ころから、ホノルルZOOの近くにあるアストンワイキキビーチホテルの3階のテラスバーで飲むことになった。ピナコラーダを2杯くらい飲んだところで、腹がグルグルと言い出したので、ちょと失礼してそのバーのトイレに行った。トイレは大と小が一個づつある狭いものであった。アメリカらしい足元が見える大の部屋に入り、「うんっん・・」と気張った。ほどよい粘度で昨日からの食べたものが出てくれた。私は出たらすぐに流すことを日ごろから敢行している。他人さまはもとより、自分自身にも不快な気持ちになりたくないからである。ところが、その便器には流すレバーらしきものが見当らないのである。便座にすっわりながら、体をよじって便器の根元の辺を探るが一向に見付からないのである。壁沿いも手探るけど全くそれらしきものはないのである。
「ない・・・ない・・」と少しあせり気味になってきた。それでもまだ余裕があるのか、ちょっと腰をうかせて、センサーか何かではと考えてみたが、それでも水が流れないのである。
そしてまた、腹のほうは大二弾の投下を始めたのである。さすがに私の心も動揺が出始めた。
必死になって水を流すレバーやスイッチを探そうとするが、全く発見できないでいた。
「このまま・・流さずに出ることは・・可能か?」と邪まな気持ちが働く。
「それは出来ない・・水道から水を汲んできてはどうか・・」「それまでこのトイレに人が来なければいいが・・」などと考えが浮かぶが、どれも自分の糞と一回は対面しなければならない・・という現実を直視することは到底出来る自信がないのだった。

「とにかく探そう・・」と深呼吸をして落ち着きを取り戻しはじめた頃・・入り口のドアーが開いた音がした。誰か入ってきたのだ。5秒くらいの沈黙があり、手洗いの水を流したその瞬間「おえぇ・・・おえぇ・・」と2回えずき声が、聞こえた。そして英語の叫びが聞こえた。
「なんじゃこの匂いは・・・・」「頭クラクラするぜ・・・おえぇ・・」と言っているのが、その瞬間から私はトランスレートできるような気がした。
「神様!まいったぜ・・」と言って出て行った。
夜のバーは結構混んでいて、次から次へとトイレにくる野郎がいるのだ。
仲間で入って来た外人の二人連は、入ってくるなり笑いだした。
「なんじゃ・・この匂いは・・」
「てめぇ・もらしてんのんちゃうんか?」
「それにしても。おえぇ・・・・」「キツイ匂いやの・・おえぇ・・」
「あかんギブアップや・・・・俺は出るぞ・・」と言って一人はトイレを出て行った。
そしてもう一人残った男は、私がパニックてる大のドアーに向かって、
「この匂いはあかんは、アニマルや・・最低のこのスカンク野郎・・」と言っていることをトランスレートした。
普段の私なら、私自身の匂いに自爆を起こすところであったが、その日はここ最近のスピリチャルな修行のおかげで、不思議と全く自臭を気にすることはなかった。それよりドシィと落ち着いて「日本男児・・ここにあり there is japanise man Iam samurai・・・・」とぐっつとドアーに穴が開く位に目を見据えている私がいたのだ。
それでも・・とにかく流すレバーを探さなくては・・と焦るのだが。

遠い過去に修学旅行の時、阿寒湖湖畔のホテルの朝、ごった替えすトイレで気張っていた私に、同級生の原口君が、ドアー越しに言った一言。
「おい北村・・この匂い人間のんちゃうぞ・・人格疑われるぞ?・・」と言った。
その時私は、和式スタイルで「無臭な男にロクなんおれへんやろ・・・」と返答したことを思いだした。

そして・・今度は先ほどの男らが、連れを伴って4~5人位でトイレに入ってきた。
「入ってきた瞬間から何人か、おえぇ・・おえぇとえづきだした。
「だましたなこのボケ・・めちゃ良い匂いやから・付いてきたのに・・」とトランスレートした。笑い声とエズキでトイレは異常な盛り上がりを見せていた。そして次の瞬間・・・
「テロ・・・」「this is tero//」と騒ぎ始めた。
私の薬膳鍋2日分のその匂いは、アメリカ人を震撼させる悪臭兵器に変ったのだ。
咳き込んで出て行く男達の様子は、今にも扱けそうに、ふら付きながら口元を押さえ、「テロ・・インレストルーム」と叫んでいる。
あかん・・テロリストにされてると焦りながらも、私の匂いで、あのヤンキー達をダウンに追い込んだことの爽快感がじぃーんとこみ上げてくるのであった。
それは大リーグでメジャーを相手に魔球を投げる私の姿だった。溜飲は下がった。
原口君・・「この男らしさ・・見てくれたか?嗅いでくれたか?」と一人悦に入る。

それでも、まもなくセキュリティーがくるだろう?
もう一回落ち着いて便器の根元を探った。なんだか黒いラバーの貼った10円玉くらいの大きさの、懐中電灯のON・OFFが同じのポコポコ感のある突起を見つけた。
「これや・・」と思いすばやく押した。「ゴオォー』という音ともに私のリーサルウエポンは流れた。
そしてスタイルを整えてバーに戻った。周りの視線がテロリストとしての私に注がれる。

テロリストであるならば私のメッセージは何なのか?
「There is not the qualification to be valid to the man who is not stinking」



  臭くない男に生きる資格はないのだ・・・・・・・



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とにかく生きてみるvsアロハなる此処・・・32年後

2012年11月03日 | 自分的エッセー
とにかく生きてみる。深夜バイトの2年と少し・・ただタンタンと過ごしていたが、ここにきてようやく私の運命も変化しだした気がする。深夜バイトをしながらこの期間、やはり心の根底には、「変る・・変えなきゃ・・このままでは・・」という想いがあった。しかし病気の親を抱えながらの大きな転換を望むことを私の潜在意識は良しとしなかったが、その潜在意識よりも、私の想いがやや上回ったのか、ググッと私の周りの空気が動いた。

目をつぶれば、常夏の国マハロのハワイに降りていた。
持ち込み企画である。再訪問というコンセプトで若い頃見た景色と今見る景色を、心象風景と言うかたちで描いてみるということである。時間もお金もないが、とにかく飛行機に乗り飛び発った。太平洋を時間に逆らい役8時間のフライトで降りたのがハワイである。
今から32年前に私は学生時代の友人とこの地に初めて来た。
見るもの、聞くもの、感じるものすべてが私の好奇心を揺さぶった。その後何回かハワイに降りたこともあったが、あの場所に足を踏み入れることはなかった。その場所とは、ノースショワァー、ハレイワの街である。ただただサーフィンに興味を持った若者が、その聖地をたずねることだった。緩やかな空気が流れ、真っ青な空と目の前に繰り広げる波へのアクロバッチクなライデイングに本物のすごさと、その反面、シンプルな時間の中に溶け込んだ街並みが好対照だったのが、まだ世間に出る前の若者の心を戸惑わせた。それは旅は、何処に行くか?よりも誰と行くか?という、人間大好きの未来に夢が一杯つまった若者のそこでの答えであった。
この一瞬を共有した友に対する変らない甘っちょろい友情の表現であったのである。
そして今・・32年ぶりにハレイワの街に立った。

普段のオバーヘッドぐらいの波に乗るサファーの姿はあのころとは変らない。
しかしその頃の私の心象風景はない。
波を求めたその彼らのような生き方を選らばなかったというか、それより「この街で暮らしたらええやろ・・・な」という憧れを置き去りにして生きてきたのだ。それは大抵の大人なら一つや二つは持っていることである。32年という月日には、いろいろなことがあるのは当然である。そして今はなんだか違うのである。この街で暮らすというよりは、この街で死んでいく?という発想に変わっているのである。
この街で老いの時間を、過ごすことが出来るのだろうか?もっと飛躍すれば此処を死に場所としたいのか・・?なる自問が起こってくる。そこでこんなものに関心が向くのである。


ハレイワの街の入り口の空き地にある、シュリンプガーリック炒めのランチカーである。
これは先日トンネルズの汚なシェランに登場したお店である。車を止めるころには、ガーリックの匂いがお腹をならせるのだった。落書きだらけのトラックの中から出すガーリックシュリンプは、さすがB級のならでは味であり、マスコミ口コミの怖さを改めて感じたのだ。
「この味なら、梅田のその辺バールなんかでも食えるんちゃうん・・・」
「別に景色のいい場所でもない、ただただここはノースショワー、ハレイワの街だけのこと・・」と思いながら、あの頃なら取り捲った写真もこの一枚しかシャッターを押せなかった。それに此処に連れてきてやりたいシリーズの女性の面々も誰一人思い浮かばない私は、一人べたべたになった指で邪魔くさいシュリンプの皮をむいていた。


そして、ノース、ハレイワと言えばビッグウエーブよりここのシェーブアイスであるという定番の松本シェーブである。今から60年前に日系人の松本夫婦が食料品屋の中で始めたカキ氷が、今や超超有名になり、私がいた平日の午後でも日本人や外国人がひっきりなしに車を横付けしてシェーブアイスを食べているのだ。細かく掻かれた氷にレインボーの蜜を綺麗にかけた
だけのものである。暑い気候に冷たいシェーブアイスは確かにご機嫌なスイーツであるが、それはそれだけのものであり、感激やっとめぐり合えたというリアクッションが興ってこない私がいる。上賀茂神社の神馬堂の焼き餅のほうが感慨深いものがあることに気がつく。
何かあるたびに食べた神馬堂の焼餅を食べる度に私の人生が早送りで思い出さされるのだ。
外人の老グループの端に腰をかけて松本シェーブをほうばった。
乾いたノースの街に流れる揺る甘い風に魂を溶かされてしまったように何もパッションしない自分を強烈に非難したくなる。それは、32年前の自分にあった好奇心が此処まで生きてくる間に磨り減ったのではないかと思うのだ。
ただ、60年も続けているこの有名なシェーブアイス屋のスタッフのホクホク顔だけが嫌に目に付くのだった。そして何が化けるかなどは自分の生きてるうちにはわからないことは確実にある。ということだけは確信した。32年たったノースハレイワには、髪がオフショアーに流れていた細身の私の姿と重なり会う幻は見えなかった。

そして・・・帰国の朝、ダイヤモンドヘッドを眺めながら・・・・・

「ダイヤモンドヘッドこうて・・・」
「ダイヤモンドヘッド高い・・・」
「高いは煙突・・・」
「煙突は黒い・・」
「黒いは・・○○の×××・・」と、かって32年前に歌ったダイヤモンドヘッドブルースを口ずさんだ。横に笑い転げる高居君と寺田君と幸田くんの姿が見えた気がした。
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