スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きてみるvs時忘れの空間でハットなる、すなわちHevenである。

2013年03月01日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。しぶといようだが生きている。それは父のことである。昨年7月に破傷風にて救急救命センターに運ばれ、2ヶ月の意識なしの状態から、4度目の転院で、今大阪市内の老健に入っている。2月の最初のころには、腸閉塞の合併症になりかけ、病院のドクターも「覚悟・・」をと言ったものの、慌てて、親戚中に連絡を入れて「最後の見舞いに・・・」と声をかけたものの、それからは回復するする・・・私も、知り合いの僧呂に連絡をいれて、「もしもの時は、お願いいたします・・宗派は違えど、ぜんぜん顔も知らん僧呂に経を読んで貰うことにどうも「違うな感」を覚えたので・・」とお願いし、父が使っていた、競馬用の18面サイコロを机の前に置いて、これは入れたらなあかんなぁ・・と思いながら覚悟を固めていたのに・・・
リハビリ用の施設に転院となった。まさかの、まさかのである。
父のその生きる力、神様が与えた今生の時間・・またこれから何をこの世で間で学ぼうとしているのか?を、どうしても考え ずにはいれれない私がいるのだ。
もう一度競馬場に行きたいのか?そして親父秘伝中の秘伝18面3連単必勝のサイコロ3つを振りたいのか? 今はそんなところしか考え浮かばなのだ。
そして、車椅子に乗り、ボォーと前を見つめる親父の目に浮かぶのは果たして何なのか?
この間・・親父の友達というか、公園散歩仲間の方と近くのスパーで合った。
立ち話であったけど、私がツーアウトを食らったことをえらく心配していたこと、また深夜の中央市場の夜間飛行についたときは、えらく喜んでいたというか、安心したようなことを、その方から聞いた。「やっぱし・・問題はわしである・・」という実感がその時あった。 
親父は・・「わしのことが危なくて、死んでも・死にきれへんのでは・・」という思いがする。
親父なきあと、一人残ったお袋の面倒を私にできるのか・・という命題が見え隠れするのだ。
私が、この9回裏のピンチを乗り越え、延長戦にでも持ち込めばまた・・・この局面も変わるのだろう・・・私が大丈夫と本心から言えるようになったら・・・そのままゆっくりとお隠れになるということなのだろうか?それにしても神様の描くシナリオは、凄いもんがあるで・・・と思う。


そして・・もう一人、物忘れの激しいお袋がいる。
私の名前は覚えてるとして、ついさっきのことはまるで忘れているというか、70%は忘れているのだ。 さてそうなるとどうなるか?というと、お袋は間違いなく子供時代に帰っているし、その子供時代の雰囲気で今を生きているのだ。
京都市北区上賀茂の生まれで、6人兄弟の末っ子であった。2歳のときに父親をなくし、父親の顔もろくに記憶にないのである。それでもすぐき農家で、たくさんの兄のしたで、文句も言われたり、また色々な困難なことも、兄達の庇護のもと結構おてんばに生きていたみたいに聞くのだ。そして父親がわりとなった、亡き母の兄(長兄)には、ひとかどならず思いが、あるみたいであり、「にぃいちゃん・・」と京都賀茂弁で、若干語尾を上げて、おかづ何もなかった時でも、「ごっそうや・・ごっそうや・・」と言って何でも食べたし、兄弟みなで食べたら美味しいは・・」と毎日食事時に言うようになったし、「私が(お袋)給料入ったときは、大田神社の向かいの家に、濁酒を買にいき、持って帰ってやると、嬉しそうに飲むにぃちゃん・・・・などと毎日回想というか、あの時代に戻っていくのである。そして、やっぱり寒い朝は、「さぶい さぶい」と形容詞2回を重ねた京都弁が躊躇なくでるのである。
このにぃちゃんが、生前言ったことがある。
「八重子は俺の妹やから・・・」という何気ない言葉である。私は、その言葉を(私にとっては叔父さん )から聞いた時には結構衝撃であった。当たり前であるが、私の母の前には、戸田家の末娘であったという事実が、私には手の届かない時間の中にあったのだ。 母の人生もこうゆう見方でみると、今の性格というか、その言動が少しわかる気がするのだ。

この間である、上賀茂から、従姉妹の車で、亡き長兄(私にとっては叔父さん)の奥さんというか、姉さん(腰もまがった)がたずねてくれた。
本当に当然であったのだが、母の嬉そうな顔以上に「やえちゃん・・」「ねいさん・・」と呼ぶ間合いには、真摯に生きたまたひとつの祇園や西陣の京女とは別の京女の歴史が見え隠れしたのだ。
そして・・置いていってくれた、母の実家のすぐきがその歴史を紡いでいた。
何がおきても、何をしても、われら一族には「すぐき」という漬物が存在する限り、それはただの漬物ではなく、大きな強いつながりとシンボルの役目をはたしているのだろう。
母は、そのすぐきを、早速近所に配り歩いた。
そして・・私に言った。
「すぐき・・もうあれへんで・・」と。
それは母の声でなく、上賀茂の八重ちゃんの声であり、そのあとには、博義さんの声が、「八重子、裏の室からすぐき取ってこい・・」と聞こえるのである。
多分母は、嬉しそうに末っ子をしているのである。
 


 

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