スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きてみるvsありがたき仲間と酒を飲むために・・・

2013年10月27日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。先日友達の主催するライブを見た。その音楽的センスのよさを感じた。また私の店にも、アルバイトでもう一息でメジャーに行くだろうと思う、彼がいる。ロイヤルコンフォートというユニットで、ユーチューブにもでている。9月にには600人を集めたライブをした。インディーズでは異例の集客だったらしく、ヤフーニュースにもでていたほどだ。
彼の性格は本当にいい奴・・と言う言葉につきる。挫折した時の応援ソングや母への感謝を歌ったものや、切ない恋を歌った曲もある。時間があれば是非聞いて見てほしい。
そして、彼がバイトに入っている時に、数分話をする話題は、楽曲つくりについてだ。多くは語らないが、「僕らの歌を聞いてくれて、元気になってくれたらいい・・」と言う。歌は人の気持ちを元気させ、自分を素直にさせ、また明日も生きて行こうという気持ちにさせる、人類が考えた素晴らしいエンターティメントである。そこでだ、この間のライブに戻る。

同級生とひさしぶりにあった。10名位の仲間がそのライブに集まった。
「元気・・?」「どうしてんねん?」から始まる会話は懐かしさを通り越して、すぐにあの時代にもどれるキーワードである。「元気やで・・」と応えるのと同時に・・「飲みぃや・・」とグラスを渡される。「おぉ・・ありがとう」と注いでもらう。この酒をこの仲間と飲むためにここに僕は来たのだ。そしてそのあとにライブがある。
「元気やで・」という、とまどいの一言にも、その時の僕の状態を、その昔の仲間に感じ取られていることが判る。ここ最近しんどかったことや、まだまだ背負っていかなければならないこれからを、今ここではしばしそのことを置いといて酒を飲む。それが僕に酒を注いでくれた友達への敬意である。
僕の体全体を覆っていた殻が、パリパリと剥がれて行き、そこに流れる風さえも、教室の後ろでよくやられたコチョバシごっこのように青臭い匂いに変わる。「今度・・また寄らなあかんな・・」とか、「みんな呼んで集まれへんか・・」とかが会話にでてくる。そこに友達の中ではギターと歌の旨い奴が、「今度・・ライブするねん」という話になった。あくまでアマチヤとして、知り合い、友達を集めてのもんであるが、それは「全員集合・・」という号令に聞こえる。
そして・・一瞬の話の途切れ目に僕は空を見上げた。月がきれいだった。いつも思う。月を見ていると本当にそこに行ける気がする。それはこの日本のあちこちに住んでいる友達と会うより、たやすいように思える。「今度俺たちの歌つくって歌ってくれよ・・」という言葉が月に惑わされたように口からでた。ずーとそんなことが出来れば、みんなでそれを聞きながら、酒を飲めたらと思っていたことがポロッと口からでた。「僕がその詞を書くは・・」と出来るか出来ないかは判らないけど、とにかく言ったのだ。笑い話に展開しそうな所だが、その日は違った。「やろう・・」「やろう・・」という返事が返ってきた。その瞬間から、僕は「阿久悠・・」落ちの「間多言・・マタユウ」という作詞家になった。月の、秋の、酒の、友のなにがしら判らない力に居着かれてしまった。

プロジェクトX風にゆうなら!
その時北村は思った。
僕の目に映る景色、心の風景、友の笑い声などのすべての背景が、時間共に20~30年前を行ったりきたりする。私のアウットプットの全精力をこの作詞に捧げるつもりである。それをやるために、僕は今日この場所にきたのだ。
皆が言った。「それは無理である・・」と!
北村は皆の前に出て、一杯グラスの酒を飲んだ。そして言った。
「酔ってる僕の話だ。気にしないでくれ 」と。
皆が笑った!そして言った。「楽しみしていると・・・・ 」
来年にはこの曲の発表ライブで、皆と会う。そして酒を飲み、思い切り笑おう。

「みんなが元気をだしてくれたらいい・・」と言ったバイト君よりは、はるか劣るかも知れないが、心を込めてつくる。創るというよりもうすでにできあがっているのだ。もう少し精査してリリースする。そして京都のボブディランことRYOUHEIに渡そう。彼なら、彼しかこの歌を唄うシンガーはいない。

            タイトルは・・・・・・・・

 

 

 

 

 

                         「月をみようよ」 

                ーありがたき友達と酒を飲むー

                

             

 

 


 

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とにかく生きてみるVSどこでも寝れるは、方丈記的人生!

2013年10月15日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。秋もいよいよ本格的というか、少々寒くなった。それはちょっと心が薄ら寂しくなり、色々と考えてしまうのである。だがそんな高尚なものを考えるように私の頭はなっていない。地球平和からどうなる日本、これでいいのか世の中!などと声高に言ってみても変わらない物はどうしようもないし、まして私のアウトプットなんか屁のつっぱりにもならないのだ。そういえば「屁のつっぱり」とは旨いこと言ったもんだ!まぁー人生第四コーナーを回ったところで、せめて一回くらいは屁に対してつっぱってみたいもんだ。

浮浪者のことである。寒くなったこの季節、年がら年中同じ道を自転車で通っているので、その通り道にいている浮浪者の変化も判ってくるのだ。夏の間ベンチや公園の藤棚で寝ていた彼らは、旨いこと寝場所を変えていた。歩道橋の階段の裏の狭いところや、ビルの軒先の上手いこと人目のつかない風を防げるところに・・・移動していいる。僕はそれを見るとつくづく感心というか敬意をはらってしまうのである。何故か?と自分に問いながら自転車を漕ぐ。
私たちは生まれたときから、名声、地位、収入などの物差しで人生の成功を計ってきたし、k決してそれが間違いではないということも判るが、もうひとつの物差しがあり、それが生きる・・・ということだけに絞り込んだ術なら、彼らはやっぱり強いし、たくましい。そして地球最後の最後まで生き延びていけるのではと思うのだ。
人生ツーアウトを食らう前から僕はどこでも寝れるという特技がある。そしたら真冬の山、砂漠の真ん中、嵐の海岸など・・・はという突っ込みもあるが、今日の街の生活の中での話しであって、そのような生命臨海線のことを話しているのではない。枕が変わろうと、幽霊感がただようホテルの部屋でも、パチンコ店の2階でも、誰もいないスナックのソファーでも・・と言ったところだから、そんなに偉そうに言うこともないのだが、それはどこでも寝れるというよりは、寝るところに文句は言わないということなのだろう。

そして何処でも寝れるということは、何でも食べるということである。それはゲテモンも文句なしに食べれるということではなく、何が、あれが食べたいと言う意思がそれほど湧いてこないということにしよう。具のないラーメンでも、具のないカレーでも3日間3食づつは続けられる気がする。「それがどうした?」とおしかりのお言葉もありますが、エクゼクティブでセレブな方々の「食」は大事なんだ!と言うレベルでの話しということではなく、ただただ喰うということで、それは「食べる」と「喰う」は明らかに主感が違うということになる。

何処でも寝れて、何でも喰えたら、自然の動物に近づいてくるから不思議である。まず自分の危険を察知する感覚が冴えてくる。あっちの方に行けばなんか災いが起こるような気がするし、この人と仲良くすれば騙されるのでは?ないかという勘が働くのである。
それと同じ感覚でこの女性ならば出来る・・・やれる・・子孫が残せる・・・という勘が、良く働くのか?と言うと、そこはそうでもない。自然界では、優性遺伝を残す為にメスの側が必然と相手を選んでくるのである。どう見てもぎりぎりで生きている男の遺伝子を欲しがる女性がいるはずがない。
それは、自然界の中では、動物も人間も同じである。縄張りを持ち、群れのボスであり、狩の上手い個体が優先的に子孫を残す行為にありつき易いという掟がある。 何処でも寝れて、何でも喰うオスはそのセックスレースの勝負にかなりの確立で負けてしまう。だがその敗北の繰り返しによって、そんなオス達は、もうひとつの特技が芽生えてくる。それは誰とでもやれる・・ということである。ようはこんなワイらのような男は、選っている場合ではないということだ。しかしそれも突き詰めていくと「誰とでもやれる・・」ということは絶対に誰とでも出来ないということに最後はなる。

この狭い大阪市でも相当の浮浪者がいる。そしてまだそこまでは入ってないがその予備軍もここにいる。地球が滅びる時や、通貨貨幣の価値もなくなり、法律も効果的に存在しない世の中になった時、何処でも寝る、何でも喰う人間は、そうでない人間より生き延びる率は高いと思う。
だが、そうならないだろうと言う・・暗黙の了解をもって今を生きているのが普通であるが、
何処でも寝れる、何でも喰らう人間がこの先、社会から淘汰される気配はない。しかし歓迎される様子も全くない。どちらかと言えば、寝るとこにはナーバスでこだわり、いいモン美味しいもんを食べることが人生の喜びという勝ち組さんとの歴然とした差別、区別は、今後ますます出現するだろうと思う。勝つ奴はとことん勝ちつづけるのだろう。

しかしもうそろそろ、それも何処から綻びてくる気がするのだ。 何処でも、何でも寝れる、喰える人を社会が押し上げてくれるのか、勝ち組さんがこっちに寄ってくるのかというシナリオは、多分後者の方がリアルに思える。
そんなことを考えていたら・・・こんなフレーズが浮かんだ。


行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。 

方丈記である。僕はきょうから鴨洋明(カモノヨウメイ)と名乗ろう。ああぁ無常である。
アンルイスではない。
 

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