スピリチャル関連を取材する私として、どうしても行ってみたい所があった。
そこは、私の祖母が、やっていた宗教教会です。私が幼いころ確か小学校3.4年生位でした。私は祖母が大好きで、いつも夏休みや、冬休みの日などは必ず泊まりに行っていました。本当に可愛がってもらた思い出ばっかりでした。
祖母は、お正月、私たち孫に、毎年「お守り」を渡してくれました。そのお守りは、5センチ×3㎝位の小さな物で、のし袋のような和紙に、いろいろ言葉がかいてあるようなものです。その言葉は「感謝」「努力」「真実一筋」とかで、今思いだせば、1年間の人生訓みたいなものだったのです。お正月、孫達に「これは誰々・・・」「これは誰のやから」と孫一人一人の物を選んで来て、渡してくれるのです。そのお守りの和紙の後には、鉛筆で
薄っすらと、孫の名前が書いてありました。40年前の、お正月、祖母から貰う、自分の為の、今年の頑張らないといけない項目を書いたお守りに対して、子供心にも、なんか有難い気持ちがしていました。この言葉を守れば、何でも思いが通える気がしたのを昨日ように覚えています。
そんな私が突然、祖母が信じた、宗教とは何だったのかを、知りたくなりました。スピリチャル関連本の出版に携わり、こうしてブログを書くことになり、子供時分に祖母に連れられた、教会(本部)に行てみたい、そのころの幼い私が内を見ていたのか、そこでどのような気を受けていたのか、それから今日まで40年間を生きた今、何か刷り込まれているようなスピリチャルがあるのかどうか、また40年以上たった今、私を
その場所に行かせる縁とは何なんだろう?を考えてみようと思いました。
祖母は、小学校高学年になった私に、無理やりその宗教をさせることは決してしませんでした。私もクラブや友達と遊ぶほうが面白く、だんだん一緒に出かけることはありませんでした。祖母はそれからも、その宗教教会をやめることなくずーと亡くなるまで
信仰しておりましたし、家族、親戚は誰もそれに対して反対するこはありませんでした。
1週間ほど前に、親戚の従兄弟に頼んで、祖母が信仰していた教会で知っている人がいれば、教えて欲しいと頼んでいました。従兄弟は本家で、祖母と一緒に暮らしておりました。年は私しより一つ下なので、出かけるときは、いつも私と従兄弟とは
一緒でした。その教会で、よく祖母と一緒に導きをされていた当時の青年部の方の電話番号を教えてくれました。前もって連絡を入れていてくれたみたいで、私が電話すると、「ようちゃん、元気か??」と一声。「はいありがとうございます。ご無沙汰しております。」と私が挨拶いたしました。40年ぶりです。当時は子供の私と20台後半の青年だった人との電話が、40年たった今でも、その当時の年齢差で話をしていただけることが、嬉しくなりました。ただ年齢差の違いだけだなく、祖母についって、よくお参りしていた、何にも知らない、腕白小僧に対して話をしているのでした。数分の電話でしたが、あの頃の記憶を出来だけ多くたどれるように脳をフル回転させました。
今回の自分のスピリチャルのルーツを探しに行く取材は、小学校3年生の私にバックすることから始まりました。どうも私は、私の子供の頃の話しを、私のいる回りでされるのが、非常に心地良くなるのです。苦労も知らずに、まっすぐにお山の大将でしたから、子供の頃は、毎日が楽しくて、楽しくてしかたがありませんでした。
そして、6月26日の月参りの日に、お邪魔しますと言うことで電話を切りました。
場所は、大阪府の北摂の山の中にありあす。阪急茨木駅から車で30分のところで、大岩という地区です。
6月26日朝から雨でした。私は阪急茨木まで電車で行き、バスで、大岩に向かいました。12時過ぎに終点の大岩バス停につきました。帰りを調べると、19時までなんとバスはありません。山は、雨で緑が濃く映え、静かな道を徒歩で10分ほど歩きました。教えられた道を行くと、40年前には、確かにその場所に8歳の私がいて、無邪気に悪いことをしていたと思うと、少し興奮してきました。
脳の記憶とは、子供の頃の風景を、そのまま甦らせてくれるので、実際にその現場に出向くと以外に狭かったり、低かったりするものです。だから目的の教会は、思っていたより小さいのだと、一人感心しながら、51歳の私に戻りました。
その教会の名前も忘れておりました。あえて電話で聞きませんでしたから、玄関で、その提灯を見た時に、また40年前にもっどって行きました。
「月日大日真心教」と書いてありました。
この話はつづきます。