スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きてみるvsなんとか・・・vsおかげさまで・・

2011年12月29日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる・・ブログの更新もそっちのけで、年末の深夜バイトに精魂をつかった。
多分今後、私の人生で深夜バイトもこれが最後だとの願いをこめた為である。
来年は、忘年会にも出席し、1年間お世話になった方に挨拶周りをして落ち着いて年末を迎えたいと思うし・・そうする自分に誓う。でもその前に大晦日から年始の1月4日までの深夜特別勤務が控えている。頑張るぞ・・と青い言葉は出ない。この運命の廻りに、眼を飛ばしながら、ひたすら耐えて深夜バイトに行くことにする。

それでも・今年1年なんとか生きられた。ある場面では左に行くのと、右に行くのとで生と死を分ける場面にも遭ったが、なんとか今生きている。言い尽くされたけど「感謝している・・」し、
実感している。そもそもワンアウト、ツゥーアウトを喰らった男がここまでこれたと言うか、なんとか生きてきたのは何故か・?ブログ上奇跡の生き伸び術公開などと、大そうなことを述べるつもりはないが、私自信が感じ、隠れてこそっとやってきたことを書いて見たいと思う。
それは・・三つあります。
一つ目は、「祈りは人の為に」ということです。神社、仏閣で神仏に手を合わす時に、その願いは、なんとか自分に御利益が舞い込みますよに・・などとはもう祈らない。真っ先に子供のこと、そして両親のこと、そして友達のことをただただ神様に祈るということである。だから見返りというか神様からのギフト、プレゼントがなくても、それでいいのだと思えるし自分の運命にケチをつけることもしなくてすむ。そして神様とシンクロするというか、八百万の神様は何処にいるか解らないので、道端に生える雑草も踏まないし、発ち小便もしないし、タバコやゴミのポイ捨ても気を使い、全くしなくなった。それは祈るもののせめてもの義理であり、約束であろうと思ったからである。

二つ目は、以前から習得していた気功である。これは「レイキ」である。昔これを習得したころはこれを使い、儲けたろうという邪まな考えが頭を占めていたが、その思いのお陰で全くの深夜バイト生活まで経験させていただき、お金を稼ぐこととは・・などを改めて気づかせていただいた。我々は宇宙の光に生かされている・・というスピリチャル的思考を一人心にとどめ、人々に言うわけでもなく、ただ自分ひとりで、深夜バイトの帰り途、朝日が昇るシーンに出会うと、自転車を止めて数分太陽の光を浴びた。息も出来なくなる肩こりと、ストレスからか?来る早い鼓動を治癒することに効果があった。あったと思うだけであり、実は医者に行くお金がもったいなく思い、「レイキ療法」を自分の責任のもとで施していたのだ。
今年末スペシャルサービスとしてこの日だけに許していただくなら、「霊気」にはパワーがある。
マスコミで取り上げられるパワースポットもようはそれを受け入られるように、体の管のつまりを排除しておかねば、幾らパワースポットといえども、受けられるエネルギーは知れているのではないかと思う。しかしそれはあくまでも私し個人の感想であり、その道の定理ではないことだけは言っておきたい。

そして三つ目は、「動く」ということである。
車がないので、何処かに行くにも電車、バスを使わなければならないし、それでももったいないと感じれば自転車にまたがり目的地まで漕いで行く。今年の最長距離は、箕面から、堺までだった。キチガイ沙汰ではあるが、動くことが大切だと決めたからには、そうする。
打ち合わせ、営業、視察、懇親などの予定がまったくなければ、どうするのか?とい問題にぶちあたり、以前は部屋の中で借りてきた本を読む日々が続いたが、そのもんもんとした日々から何でも良いから動くという答えが見えたのである。
堺には、新しいバイトの面接に行った。そこは縁が無かったのだが、何故か動けたということに対して大きな感謝を感じたのは覚えている。頭が動かないのならば体を動かす・・・体が動かないのならば頭を動かす・・・金がなければ自転車で走る・・必ず日々動くことは出来る。そして動かない言い訳を作るのだけは辞める。これが「動く」ということの教えだった。

それにしても、なんとかお陰さまで、年末まで生きてきた。今年も多くの緒先輩にお世話になり、周りのかたがたのご配慮で生きてきた・・と言うより生かされてきた。
良い歳でしたか?と聞かれると・・「うぅん・・・」と暫く考えるかもしれない。
それは、全て自分が生きるための土台しかなっていないからなのだ。

人の役に立てたのか?と自問すれば・・「NO」である。
ここではスピリチャル見方である、「執着を棄てて引き寄せを待つこと・」などど言ってはいれないのだ。人の役に立たなければ、この私の人生に塞がっているおきな重石をとることは出来ないと思う。人のお役に立てるには・・どうするのか?
頭がないから作戦参謀などにはなれない・・
でもまだ暫くは動けるはずだ・・・何でもする・・それが今とにかく生きることに繋がる。
そしてそこには朧けながら「ありがたい・・」とか「おかげさまで・・」とかの感謝の気持ちが掠めることがあるのだ。
そう考えれば今年一年は「感謝」という心を勉強する為の日々だったのかもしれない。
しかしまだまだ旅途中である。
でも大晦日の深夜バイトは、「はい・・よろこんで!!」と言う気持ちにはやっぱりなれない、ショウムナイ男なのである。


とにかく生きてみるvs外出性呼吸障害vs合併症vsちびる

2011年12月14日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。深夜バイトに行く際の、体の温度調整不全により、または、強烈な肩こりによる背筋の圧迫、悶悶とした日々へのストレス、などにより先週の一週間、かなりの体調不良に悩まされた。まず家から夜中に出るのが怖いのである。出た瞬間に外の冷気に触れるや、まず肺の辺りがギューット締め付けられ、左肩から背中にかけて鈍痛が襲う。そして普通のペースでの呼吸が出来なくなる。自転車を漕ぐにも酸素不足による乳酸値の上昇で、ペダルを踏見込む力が激減するのだ。だから自転車のペースは歩くスピードと同等になる。
肺から背中にかけての押さえつける鈍痛と、呼吸困難で家から5分くらいのところで本当に仕事に行くのが嫌になる。
当然電車、モノレールはない。タクシーで行けば3000円弱かかり何のためのバイトか判らない。また歩けば悠に1時間以上はかかり、大遅刻である。八方が完全に塞がった状態で、唯一携帯電話の「今日・・・お休みさせて下さい」の連絡だけが、この苦痛を和らげる方法である。

しかし・・月末の年末只でさえキチキチの生活が続く中で休めば収入も当然減る。
また、急な休みをすると、当日のシフトに入っている方の負担が重くなり、子供がおられる家庭の主婦は、子供の登校時間に帰れないという結果になり、時間にあせりながら携帯で子供らを起こし、電話で朝の支度をする姿を見ているだけに、本当に気の毒になり、そう簡単に「休ませて下さいという訳にもいかないのが現状だし私の正義でもある。

暫く・・外気に慣れる為に自転車を押して深夜の国道を歩く。
惨めであり、自分の腑外なさを悔やんだり、運の無さを思い知ったりする。
それでも呼吸が普通になりかけたくらいからまた自転車にまたがりゆっくりと漕ぎはじめる。
このような症状が出てから、いつもより15分早く出るようにして途中のインターバルをとることにしている。高架の坂を二つ越えた処くらいから、体が温まり始め、ポカポカとしだす。
そのポカポカを羽毛のダウンは外に逃がさないようにしてくれる。
体の温かさを感じるのである。体が温まると次第に肩から背中にかけての鈍痛が和らいでくる。そして呼吸のペースも自転車を漕ぐ運動量にあわせたペースになってくる。
ここまで来たらあとはオバーワークをしないようにゆっくりとしたペースでバイト先に辿りつくだけである。が・・・・・・
それに伴なう合併症とはちとオーバーであるが、違う症状が発生するのである。
それは腹が極端にゆるくなるのである。
従来なら、深夜バイトでの睡眠不足と過剰な炭水過物の食事で、常に便秘気味の腸であったのだが、この外出性呼吸障害(自分で勝手につけた)は、体が楽に呼吸できるようになれば
反対に腸が緩むのだ・・
かっては炭水過物の取りすぎで、頻繁に出ル屁は、乾いた音を放っていた。それに自信もあったので、自転車のサドルから尻を浮かして、ジェット噴射をさせて加速を楽しんでいた。
ところがここ最近は・・ジェット噴射が危険なのである。
いつものように尻を浮かして、5.4.3.2.1ゼロ・・ブゥーーーウゥと音が乾かないのだ。
それ以上に液体感が肛門の奥、腸の最終出口に集結されているのが感じる。
「これは危ないぞ・・」と脳に指令がいき発射カウントダウンが中断されることになる。
それでも屁の飛び出したい原理は一回では収まらず、数回その波は陣痛のように襲ってくる。
私の通勤するルートに1箇所モノレール駅高架下に公衆トイレがある。
また3件のコンビニも営業していて、最終爆撃には何とか間に合うような設定である。

しかし人間油断禁物と爺さん、両親、学校の先生、少年野球の監督etcと聞かされてきた。
油断とは・・途中爆撃を終えて腸の中もクリーンになったと自覚感もあり、体が暖まったこともあり普通の状態に近い雰囲気でまた自転車を漕ぎ出す。
炭水過物中心の食事は、途方もない屁の量との戦いであることを忘れても、屁は腸の最終出口に集まり、発射感が高まりだす。深夜作業は立ち仕事であり、ガスもたまり易いので出せる時には出すという慣習に基づいて・・5.4.3.2.1.・・ゼロ  「プーゥ」と乾いた音が感じられたと思ったその時、
音に濁音が付き始めた。さっきの爆撃で爆弾は無いはずと理解している脳は、更にブスターを上げるのだ。その時点ではもう引っ込めることはできない。
賭けである・・・ジェット噴射に液体が混ざるのか?
成功と確信したのもつかの間・・サドルに尻を下ろすと何か冷たい感触がある。

「ちびった・・・・・」
問題は被害が大きいのか、パンツの第1次防衛線で護られているのかである。
2度目のピットストップ。買う気のないお茶を買い、少しガリ又気味でトイレを借りて行く私は・・
そろそろ狂いだし始めている!!


とにかく生きてみるvsやってみないと判らんぞ・・

2011年12月07日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。深夜バイトも体調不良・金ないというドラ2を頂いた状態で、師走の深夜を寒さに飛ばされないように走っている。それにしても、明日が見えてこないのだ・・・
何故?だろう。ここはスピリチャル思考で言えば、「どうして明日が見えないのか?」という自問自答より、「どうすれば明日が見える・・」という自問もすでに繰り返し駆使して何とか自分の脳味噌の中にパッションを興させようとしているが、いかんせん何もまだ見えてこないし、閃いてこない。またまた何故?何故?と考えるのだ。そしてこんな結論に達し始めようとしている。
私の言う明日とは・・・仕事のことであるが、ひょっとしてそれに執着しすぎているのではないか?という疑念が湧いてきた。仕事以外には自分にとって明日ではないのか?という猜疑な、昭和モーレツ時代の観念が私の意識>潜在意識に占めているだろうか?
仕事が順調でない限り、仕事に燃えていない限り、それは男の人生であらず・・みたいな意識が多々あるのだ。
当然それは誰も文句の出ることはない、男の原則であるのだが、ちょと他に考えて見ると、「それが全て?」て自分の中の誰かが呟いているのも微かに聞こえる。
どんな風に生きるの?それをする為に仕事というフィールドもあるんじゃないのと呟いている。

どど・・どんな風に生きるのて尋ねられても・・債権者や迷惑をおかけした方に債務を返済しながら、日々つつましく生きるしかないじゃないか・・とええ格好言っているが、その卑屈な気持ちだけではこの人生、もう一転がりすることが難しいと思う昨今なのだ。
そこで・・今日は債権者や迷惑をおかけした方には少し耳をつぶって頂いて、甘い話をブログに記したいと思う。
何をするのも仕事ありき的発想はひとまず横に置いといて、どんな風に生きるかを考えて見る。

仕事をする目的から逆算して何の為か? 幸せにりたい為
私にとって幸せとは? 色々あるが、好きな女と一緒にいてること。
じゃ・好きな女と一緒にる為に好きな女がいてるのか? 今の所はいません・・
何で居ないのか?・・ 恋愛ニュートラルからギヤァを上げて行くのが怖いのだろう・・
失敗するのが、簡単に往なされるのが、怖いのか、それともプライドが今更許さないとでも言うのか?・・・・その辺が何か問題のような気がする。ようは恋愛を本気で真摯に自分の中で、大事な物と考えていないのだろう。
それでもやはり、開眼気運の道は、この恋愛にあったりするのではないか?という気がする。
金がないから>恋愛できない理由を創り>それをいとも、いい子ちゃんの大人のような発言に変換して>恋愛をしないぞと氷のように心を固めていたのかしれない。


「逆・・」「逆・・」と世の中達観した誰かが言うかもしれない・・
「女を持ちなさい・・」「そして愛しなさい」「毎晩横で寝てさわってやりなさい・・」と言う。
そうなれば・今度は仕事から寄ってくるんじゃ・・女を愛せんで何が仕事で信用されるんじゃ・・
うんぅん・・深いというか、このなんと人間らしい脳天気的発想が、今私には出来ない。案外クソ真面目なのだろう。でもなんか・自分の魂が溶けはじめるような気持ちになるのは何故だろう。

これをバリバリブルーカラー流で、立ち飲み酒場での会話に直すと、「男が幸せになる手は・・それはアゲマンの女と暮らすこっちゃで・・」になる。
アゲマンとは「男の運気を上げる女性の性器のこと。または女性自身のこと」とウイッキペディアに記されている。この混沌とした中で、それも現状打破の大いなる方法であるのだろう。
そしてやはり幾分苦労した甲斐もあり、今の私は、アゲマンに完全に依存するという解釈ではないと思っている。それより厳しい生活のなかで、心から女性を愛し、敬意を払い、大事にしなければならない。間違っても、一夜のラブでHしたあとの宝くじ的アゲマンではないはずだと思っている。

好きになった女性がアゲマンだった。・・・・A
アゲマンだったから好きになった。・・・・・・・B
どちらなんだろう・・・・
まさか女性のほうから「私アゲマン・・です」とは公表はしない。
下衆な処、見定める方法などない。そするとAの場合見返りを求めない愛が必要であり、
Bの場合はとにかく数が必要となる。
世間的に批判を覚悟で言うとすれば、私はBの道を選択する。
一期一会の出会い頭のアゲマンとの出会い。このハードボイルド的なやり方に、立ち飲み屋の
あのおっさん達の願望の頂があるのではないだろうか・・
でも・・でも・・それはやはり小説の中であり、漫画の中の話しであるのだ。

まず女性を好きになる。暫く真摯に楽しく付き合う。目に見えない状態でその女性のアゲマンが
自分の超意識を変化させる。そしてアゲマンに感謝をし、もっともっと大事にその愛を育んでいくのが、多分この話の正解ではないだろうか?
しかし好きななった女性が、アゲマンもどきであればと考えると、この話も結局後付けの物語りである。

それでも・・やってみるしか判らんという原則だけは普遍である。

だから・・もっと、もっとやらなければならないし・・・
やりたいのだ!