とにかく生きてみる。そして2015年が終わろうとしている。
今年は我が人生では大きなことがあったと言えると思うのだが、今僕は大きな事と書いたが、50数年生きてきて一番大きい事かどうかはわからない。人生の岐路でもないし、大きな転換期でもなかった。でも今年の事は確かに記憶に残る事があった。
親父が亡くなったこと、そして人生初めての手術、それも心筋梗塞の2回の手術があった。
だからと言って、何か僕自身変化した訳ではないと思う。人間って物語を作りたがるもので、今年の様な場合は、特に転機とか、生まれ変わりとか、神の啓示とか、その意味を探ろうとするけど、そんなものは何もなかった。ただ長く生きてくると色々な事に出会わなければならいのだ!
できれば避けたいけどそうはいかない事がある。それをただ引き受ける事ができる様になった事に気がついたということだけだ。そしその出来事が過ぎてしまってから、事後的に何か一つ成長してる?したかな?と思ってみたりするのだ。
そこでだ,今年の思い出に本を一冊買った。
色々な出来事もあったことは必然とは言うけれど、そんなポジティブに迎え入れる事が出来ない事も時も有る。
成熟するけど、どれ位成熟したかなんかは、スコアーをつけるわけにも行かない、自分でも点検出来ない。成熟するという事はどう言う事かをあらかじめ知っているような事は不可能で、知っていたら成熟とは言わないのだ。
いつの間にか、昨日の自分より少し大人になっていた。そしていろんな人から頼りにされるようなことで、「僕大人~~ですかね」という事後的な発見をするだけでしか成熟した事は分からない。
成熟する為のマニュアルやマップもなく、1日1日の日々生活の中でしか身につく事だけが、人間の生きる深みや営みこそが成熟を作っていく。
その過程を「困難」として引き受ける覚悟を僕はしようと思う。
2015は~ーその意味では、結果オーライだった。結果オーライて、どんな卑怯な事をしても最後が良ければいいという話では無い。結果がオーライになる制度でしか、僕の人生は体力気力ともに持ちこたえることができないのだ。
さてさて,正月、敢えて困難を選ぶ僕は、確かに成熟したのか?
もう一人の僕に時間をかけて聞いて見ることにする!
今年は我が人生では大きなことがあったと言えると思うのだが、今僕は大きな事と書いたが、50数年生きてきて一番大きい事かどうかはわからない。人生の岐路でもないし、大きな転換期でもなかった。でも今年の事は確かに記憶に残る事があった。
親父が亡くなったこと、そして人生初めての手術、それも心筋梗塞の2回の手術があった。
だからと言って、何か僕自身変化した訳ではないと思う。人間って物語を作りたがるもので、今年の様な場合は、特に転機とか、生まれ変わりとか、神の啓示とか、その意味を探ろうとするけど、そんなものは何もなかった。ただ長く生きてくると色々な事に出会わなければならいのだ!
できれば避けたいけどそうはいかない事がある。それをただ引き受ける事ができる様になった事に気がついたということだけだ。そしその出来事が過ぎてしまってから、事後的に何か一つ成長してる?したかな?と思ってみたりするのだ。
そこでだ,今年の思い出に本を一冊買った。
色々な出来事もあったことは必然とは言うけれど、そんなポジティブに迎え入れる事が出来ない事も時も有る。
成熟するけど、どれ位成熟したかなんかは、スコアーをつけるわけにも行かない、自分でも点検出来ない。成熟するという事はどう言う事かをあらかじめ知っているような事は不可能で、知っていたら成熟とは言わないのだ。
いつの間にか、昨日の自分より少し大人になっていた。そしていろんな人から頼りにされるようなことで、「僕大人~~ですかね」という事後的な発見をするだけでしか成熟した事は分からない。
成熟する為のマニュアルやマップもなく、1日1日の日々生活の中でしか身につく事だけが、人間の生きる深みや営みこそが成熟を作っていく。
その過程を「困難」として引き受ける覚悟を僕はしようと思う。
2015は~ーその意味では、結果オーライだった。結果オーライて、どんな卑怯な事をしても最後が良ければいいという話では無い。結果がオーライになる制度でしか、僕の人生は体力気力ともに持ちこたえることができないのだ。
さてさて,正月、敢えて困難を選ぶ僕は、確かに成熟したのか?
もう一人の僕に時間をかけて聞いて見ることにする!