スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きてみるvs暖かくなったなぁ・・vs何も考えていない

2012年03月29日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。春休みにはいり深夜バイトのパートの主婦達が、休みがちになるので、その埋め合わせに、休みを返上して勤務している。しんどいのだが、もう文句もヘチマを言う気もない。
しかたのないことであり、一応返事も、「出ます・・」としているのだから。考えても仕方のないことであり、あるがまま別段、値打ちをたれてその日は用事がりますとも言わないで、本当に何もないのだから、出ることにしていることを、自然にしているだけである。
まして・・いよいよ春である。
この年になって初めて暖かくなるのが本当に嬉しい・・・・・ありがたい・・・・・感謝感謝である。
振り返るといままでの人生では、ただ単なる春が来ましたという感覚であった。
桜も、「あぁ・そうっか」程度で流していただけに、この感覚は生まれてきたことへの大きな感謝にも等しいくらいである。そもそも、この長い冬の間に、私は低体温体質に変わったのではないかと思えるくらい体が冷えていた。熱い風呂も、温い布団も揃ってなかった我が家では、ひたすら厚着で過ごしたし、深夜バイトでの寒風の通勤、バイト先でも低音冷蔵庫での作業など、本当に寒い中ですごしていた。それよりもまして、懐と心の寒さに、体中の細胞がキュウと固まっていたのだ。
それが、一晩一晩徐々に気温があがり、寒さが溶け出すのがはっきりと感じられるのだから、虫や熊や、植物のようにただ嬉しいだけの、この暖かさを思う存分感じている。

世間では、そんなことより今後のことをどうする・・・
何か考えているのか?などとまだまだお叱りの言葉も出てきそうなもんですが、「ああしたい」「こうしたい」「あんなふうになりたい」というような欲望がなくなってきた、というか霞んできたのだ。
仕事をしたいとか、仕事をしていかなくては、とかのような欲望がないのである。
ただ、それは目の前にある仕事をタンタンとこなすだけである。かっこよく言えば無心で働いているわけですが、何もそんなつもりもなくただ、ただただ、そこに集中しているだけなのです。
その結果、なにがおきてきたかというと・・「ストレスがない」ことに気づき始めたのだ。
明日のことも、将来のことも、次の企画のこともまったく考えないで、ひたすら目の前にある、仕事をタンタンとこなす。そして時給にも頓着せず、功をあげたいなどの心もなしにただひたすら目の前にある作業をこなすのである。そして自らいろんなことを喋らず、相手の話をただ何も考えないで聞いてみると、そこにはその人の言っていることが集中して聞けるようになっている私がいるのである。
これは、どうゆうことなのか?無心なのか、空なのか、まだ理解できないけど、ほぼ何も考えないで、暖かくなったことにのみ喜び、そして相手のことをよく理解しようなどの偽善の気持ちもなしに、ただ目の前にあることのみしか集中しないそんな生き方が、一瞬であるが出来たのか、していたのかわからないが、かなりリラックスな心持であることは間違いない。
そもそも考えるから・・いけないのであり、それは心にストレスをためるのである。
ただし、こんな仏様みたいなことが、良い結果を導くかどうかはわからないのだが!!
ただ虫のようにあったかを待つ。

何も考えない話のついでに、もう一つの話しである。ついに私の母親が迷子になった。
友達の家に行くと言って出かけて3時間ほどたったころ、母親から家電へ連絡があった。
「うち、迷ってしまったんや・・」
「どこか判らんところに来ていて、知らん人に道を聞いて、家の玄関でお茶を呼ばれていて、その人が送ってくれるのや・・」とまるで子供のように半べそを掻きながら電話をしてきた。
家の電話だけは良く覚えていたもんだが、もうその表現には、大人であることを忘れているようで、
子供に帰ったような、うそ鳴きと本気の心配が入り混じった、子供ずるさが漂っていた。
助けていただいた方に電話を変わり、御礼と家の住所を告げて、途中まで迎えに行くことを伝え、
駅前で待ちあわせした。
知らないおばさん(母親より年上)と自転車を押しながら母親がそこに待っていた。
あぁして・・こうして・・こうなって・・気が付いたらどこか判らんところまで来ていたということを繰り返し説明して、この方にお茶を呼ばれたことを数回言ってそのたびにお礼をしていた。
そして、帰りながらまったく迷子になったことを忘れ、親切な人や、誰やったかいな・・などと気楽なことを言っている母親が隣にいる。
この人の場合、何も考えていないのではない。
ただ、考えてもすぐに忘れるのだ。頭の中は今、目の前のことにのみ集中しているのである。
だから怒りも、いい訳も、自分ことを良く見せようとする気持ちもない。
おかんよ・・それが幸せなのかもしれない。
そのおかんの最近の口癖が「人間食わんでも、猫には食わせたらなあかん」とのこと。
「猫は文句も言われないから」・・・・・とのこと。
おかん、なんも考えてないやんけ・・とは、ここに来てもう言えないのだ。


とにかく生きてみるvs自己啓発セミナーvs雨予測vsコストコ

2012年03月08日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。先日京都で異業種交流グループの主催するセミナーに出かけた。当然有料であり、この時期、一円でも節約を謳う私の腹つもりでも、どうしても会いたい、聞いて見たい方がゲスト講師であったのだ。その方は、石田久二(いしだひさつぐ)さんとおっしゃって、今から2年ほど前に
偶然ネットでみつけたブログが、面白く、スピリチャル系でもないが、それはちゃんと押さえられているし、根底にある自分がやらねば、すべてが自分次第なんだという考え方で願望実現を発信されておられる方なんですが、彼のブログで、「今春京都で・・・・講演をと」書いてあったので、ひょとして、私の知り合いが企画するあれではと思って、たまたま会った時にその話をしたら、これまたビンゴであり、すぐに申し込んでもらい、ずーとネットで関心を持っていた方とリアルにお会いすることが出来、また名詞交換や、しばしお話もさせていただきました。セミナーの内容もリアルで、現実であり、甘くないし、洗脳誘導でもない、本当に生きてる人間に届く熱いものでした。私が感想を述べるよりも、氏のブログを見てください。そうすれば必ず理解できます!!
そこで・・その前後に寝る前にユーチューブにて数々の自己啓発セミナーからスピリチャルセミナー、またまた元気や勇気ややる気のでるお話し言葉をピックアップして、子守歌代わりに聞いていましたが、・・・・・・
なんとかったるいのか・・
素直な心、感謝、ありがとうのことば、そして人生に奇蹟を興す・・
看板はそのとうりか知らないけど、今でゆえば「ゆず・・」や「TOKIO・・」や「平原綾香・・」ちっくなメッセージの連呼ばっかりであるし、昔なら「加山雄三・・」ばりの夢言葉が発信されている。
これから世に出る若者なら、その純粋な言葉に心から歓喜し、前に向かっていけるのだろうが、もう人生の半分以上を生き、それもワンアウト、ツーアウトをもらっている人間の私しなどには、申し訳ないが滲みない。
グッッと落ち着いたバーでお酒を飲み、自分の人生などを振り返ってみている時に、こざっぱりした若者が、テンション高く「やれば出来る・・」て、みたいなことで涙流しているような話を聞いてしまって、「それだけやないで・・」と言いたくなるような気持ちになった。
それにしても・・その手の講師さんは、勘違いしているのか、芸能人面していて身なりが綺麗で、自分をうまくコーデしているので、その容姿なら世間でも胸張って生きれるはなぁーと思える方が非常に多いのである。
心にしみる言葉と、魂の叫びなどを、綺麗に壇上で和服姿で話される講師の方なんかはには、その格好で喋られてもな・・???とか、悪いけどその格好のお二人に「魂は知っているのだ・・」「変わりたい本当の自分がいるのだ・・」といわれても、そのもって行きかたは、「誰のまねなん・・」と言いたくなるのだ。
本当に変わりたい人間は、どう見ても世間的にブサイくで、センスもなく、底辺に生きるのがイタについている人なんだと思う。生まれた時からそのお顔をもらい、頭をもらい、高い教育を受けた人間に、えらそうに・・・「幸せになるために・・・」云々と言われても、今一ぴんとこない。
いいか・・幸せの隣り近所には、必ず不幸がいるのだ!それをよけながら、たまには吸い込まれながら、もんどり打っているのだ。
だから・・・・酒にたよるのだ。乾杯わいわいの酒もうまいのだろう・・けど、苦しさの中にある、一瞬の記憶喪失前に、己を恨み倒しても、罰はあたるまい。生まれてきたことを後悔しても、また彼らが言うように、宇宙の法則では、さらに気ずかす為に、もっと悪いニュースを拝領していただけるなら、それも一緒に飲み干してして、倒れてやる。
ネットビジネスでも、この手の自己啓発セミナーでも、中途半派な小奇麗な、リーダーが多いのだ。
悪いけど、そこには人間味がしないように思う。

話は先週一週間前に及ぶ。
深夜バイトの仕事の通勤は片道1時間の自転車漕ぎで行っている。
雨になれば、それはつらい。カッパを着込んでまさしく雨に打たれていく。
一人、その深夜バイト、夜の国道、どしゃ降り、カッパ、靴にしみる・・どんどんテンションが下がるが、前方からもカッパを着た人が自転車を漕いで来る。通りすぎる際、その顔を暗闇でみる。
向こうもこちらを見る。「あぁよかった、俺だけやないわ・・」という心語が聞こえる。
それでも、家を出る時に雨が降っている場合は、覚悟が決まるが、少し止んでいる時には、すばやくこの間に何とか無事、雨にぬれないようにと祈りながら自転車を漕ぐのだが、私の運のなさか、引きの弱さか、途中で雨ぽつぽつから、シャーシンシンに変わることがある。カッパも着ていない、濡れたら仕事できない・・それよりの風引く、などなど、落ち込みとはこのような気持ちの状態を言うのだろうかと考えながら、何時もより早めに自転車を漕ぐ。息が上がる、足が重たくなる。
じょじょに体の前の部分の服の色が濃くなり始めている。そんな時は便意も催してくる。
濡れたくない、便所行きたいのモチベーションが、いっそう自転車を早く漕がす。
職場までの間にあるコンビニに飛び込み、便意をクリアーさせ、濡れたまま、悪いので、お茶の一本でも買う。たまに顔を見かける若いバイト君が、「降り出して着ましたね・・・・」
「僕が来る時には、降ってなかったので、ラッキーでした。ツイテマシタ・・」と嬉そうに言う。
「私はついてないよ・・・恨むよ天気を・・なんでもうちょっと辛抱できひんかったんや!!!」


絶対的な自然に対して、敬愛の気持ちをもってしても、「あとちょっと辛抱できひんのか・・」
「なにが・・天じゃ。ぼヶカス・・」とののしる言葉が一人語とのように出てくる。
でもでも・・・コンビニのバイト君はツイテイタと喜んでいるし・・「今日は引き下がってやろうかい・・」的な気持ちで雨に濡れながらあと少しの道のりを漕いだ。
それにしても・・嬉そうなあのバイト君の「ついてる・・」発言やで。と思いながらよかったよかったと言う気持ちになった私は、そこから雨の濡れが気にならなくなった。
仕事場につくと、先輩のリーダ格のおばさんに、途中雨に降られたことを簡単に話した。
その方はいとも簡単に「こんな天気なら、カッパを用意して走らなあかんわ・・」と現実トーク一発。
それが正解・・・です。御天とう様も、ツイテル、ツイテナイも関係ありません。
「準備万端、備えあれば憂いなし・・」それが大人の生き方なのだ。
控え室のハンガーにそのご婦人のピンクのレインウエアーがまだ濡れていない様子で掛けてあったのが嬉しかった。

それにしても今日は長いブログになった。もう一つ、まぁ皆さん聞いてください。
この間、京都と大阪と奈良の境にある松井山手のコストコに行った。
久しぶりに京都のツレと会って駅まで送ってもらう時に、昨年12月オープンしたとのことで、コストコ名物のホットドッグとコラー飲み放題で180円をシバキに行った。
コストコ事態のコンセプトは理解しているし、尼崎やハワイ、サイパンでも行ったことがあるので、ただ、外国に来たよう気がしたのが、少し非日常をキャッチアップさせたぐらいであるが、よくよく見渡すとそこには、一種独特の偽に近い幸せ感が漂っているのに気がつく。
ここで買い物する方はほとんど数名ないしグループで着ている。家族単位や、近所単位や、職場単位でお買い物をされている。結構なことである。アメリカ式の大量販売をどうしてもシェアーしなければ消費できないのだから。それはシャエーできるツレが、仲間が家族がいるということである。
あんなでっかいピザをワイワ言いいながらシェアーしたり、でかい肉の塊を近所で分け合ったりと、どこから観察しても孤独感は湧いてこない。誰かと繋がっているという自信や、驕りがちらちらと鼻についてくる。私の食料供給元である、大阪ダウンタウンのた●で、では朝から一人暮らしの老若男女が、一人分の惣菜を求めて店内を物色する。1パック100円を96円に・・・・と言うポップに睨みを効かし、ただ一人だけでする食事の為に、色色考えながら難しい顔で、商品を手に取り、買っていく。一人の為の買い物である。孤独感むき出しに、パックのお惣菜が変われて行く様は、悲しいけど現実であるのだ。
大きなカートにでかいスナック菓子やパンや肉を入れていく人達の身なりもまた、小奇麗で、賢い、ツイテル人たちに思える。でもその雰囲気も何故か、「人生ありのまま受け入れ、感謝して、ありがとうを言えば、幸せはやってくるのです」的なマルチネットビジネス的な匂いがするのだ。
幸せのとなりには、不幸せがある・・これが世の中なんだ。
た●で、で1パックの惣菜を吟味する老人の、生きる為の必死さと、コストコのプルコギのパックを仲間と相談しながら買う必死さとは、味が違うのだ。その後ろににある孤独感と、何んとか食って行かなければ、死ぬのでは・・という悲壮感の漂い方が私には強烈に心に残るのだ。

コストコの駐車場で、国産の1トントラックで着ているだろうおばちゃん主婦連を見っけた。
大量買いのマヒンをパックからばらして、紙の上で分けているのだ。
トラックの荷台に商品を広げて、あぁーだこうだと言っている。
今から50年ほど、ほん昔には、食わんが為に闇で仕入れに、農家を回ったりしていたのだ。
編まされも、だましも、親切も、冷水も浴びせられただろう。それでも食わんと満員の汽車にのり、
容姿も構わず食料の調達をした、あの時代の日本人が、そこにラップした。
幸せの言葉・・・一瞬で自分が変わる・・・なんと薄い価値観であるのか?

すべてが食う為の行為である。それが一番嘘のない強い言葉じゃないのだろうか?