今日が正月やと分かっているのかいないのか、痴呆の母親は、それほど温くならない扇風機型の電気ストーブに、そこに生の火がある様に手を擦って暖かくしている。
そしてもう乾いている洗濯物のタオルや靴下を電気ストーブにかざして乾かしたり温めたりしている。
痴呆の母親は京都市北区上賀茂の生まれで、農家の6人兄弟の一番下に育った。そして1歳か2歳の時に父親を病気で亡くしているから、僕にとっては、お婆ちゃんで、母親にとってはお母ちゃんと、男4人姉1人で嫁に行くまでそこで生きていた。
戦中から戦後の本当に何もない貧しい時代を生きてきたから、その当時の雰囲気が痴呆になっても時々と言うより、もっと頻繁に態度に表れる。
僕の見る限りでは、末っ子として育ったけど、生憎の貧乏だったので、チヤホヤされたのではなく親代わりの兄貴達から雑用を頼まれていたのではないかと思う。
「八重子、これ乾かしといてくれ」の言葉がリアルに今に思い出されているのではないかと思う。
今乾かしてるタオルは、にぃちゃんのん、これはタツにぃちゃんのん、と思いながら、なんとか家族の正規メンバーと認められる様に、みんなのお手伝いをしている様な気持ちで、一人電気ストーブでタオルを乾かしてる。
働いて手伝うことがあの時代、あの場所で家族みんなで生活するには必要 なことだったんだ。
「何か手伝う」「何でもさせられる」そうでもしないと、ご飯を食べるのも疚しくなる時代だったんだろう。
また、そうする事で家族のフルメンバーとして貧しいなりに楽しん団欒をしてきたのだと思う。
そして今、母親の男兄弟はみんな亡くなった。
自分の実家には、兄貴のお嫁さんで、母親から見ると義理の「ねぃさん」が子供や孫と住んでいる。
母親には年子の実の姉がいてる。「兄弟男はみんな死んで、あとは「ねえちゃん」と二人になったなー」と今年の正月何年ぶりかで、僕が、母親の姉の家に連れて行った時に話をしてた。
こちらは「ねぃちゃん」と呼ぶ。
昔話しと今の話のミックスなフィクションにも相槌を打って、ツッコミを入れてくれる姉にも遠いあの時代のあの場面が同期しているのだろう。
そして10分おきぐらいに母親が言うことがある。
「賀茂にはいかへん!」またちょっとたったら「賀茂にはいかへん」と言う。
母親には義理の「ねぃさん」がいてる。母親がまだ実家の上賀茂にいた時に嫁いできて、甥っ子の面倒や、家の手伝い、農家であり上賀茂の名産「すぐき」を製造している忙しい時は、嫌でも何でも手伝ったり、協力したりして、そうでもしなければ飯も当たらない厳しい状況を共に過ごした「ねぃさん」がいてる。
家のムードが、父親がいなくも、みんな力を合わせていくことだけが、正確であり道であった様な空気だったと思う。
だから多分、あの時代は誰もゆっくりくつろいでいる事は、こと女性については、子供であろうとできなかったのだろう。
「賀茂にはいかへん、行っても落ち着けへんは」とまた言う。
僕は賀茂のねぃさんとお袋の仲が良くないのか?それとも世間で良くある小姑との確執なのか、女のなんとも言えないいやらしい何かなのかと考えて見る。
僕にとっては、「上賀茂のいいおばちゃん」なのだ。本当にいい人だと思う。
おばちゃんがつくる、すぐきもそうだが、茄子の辛子漬もきゅうりの漬物も昆布の炊いたもの、めちゃくちゃ美味いのだ。
こだわりの云々を言って出す様なその辺のパット出の料理屋はんの様なイキリな板前とは違う。
もうそれは初めから無添加だし、原価意識も、上等の食品ですという驕りもない。ただ、おばちゃんはこうして美味しものを作ってきたし、美味しい美味しいと言ってる得意先さんがいてるからまた同じ様に作っているだけである。だから芸が細かいのだ。それは別の言い方でするとすれば、おばちゃん以外には誰もできる人間いないということなんだ。
だから、ご飯を食べ終わるとすぐに、漬けなおしたり、袋の用意したり、細かく食べやすく切ったりしている。テレビを見ながらくつろいででいるという雰囲気を殆ど見かけない。
上賀茂のおばさんは、昔から「商い…あきない」に出かける。
昔は第八車を引っ張って街に出かけ、上賀茂の野菜や、漬物や昆布の炊いたものなどを売っていた。
それは戦後すぐの頃は、農家の現金収入になり、その家族が暮らしていく為の重要な糧となっていた。
僕の記憶の中では、おばちゃんのテリトリーの場所、大徳寺周辺や円町まで車でリアカーを積んで行き、そこで降ろして、後はおばちゃんが一人で売って商をすると言う風景だ。
そして帰り際に、お菓子や、お肉などを買って帰ってくるのを、誰も文句も言わずに淡々と待っていた記憶がある。ただ夏休み、冬休みにだけ泊まりに行く僕にはわからない苦悩もあったはずだろうが、まだ小さかった僕にはそれは理解できなかった。
そんな「ねぃさん」は、もう80歳の中頃になっている。真面目に農業したのだという証明に、腰も曲がってきている。でも頭はまだハッキリとしている。今でも畑仕事もしているしまだ「商い」にでている。
もう今となっては家族を養う為だけではないが、「おばちゃんの漬け物や野菜を待ってる人がいてるから、美味しい美味しいと言ってくれる人がいてるから、」と言って商いの用意をしている。作業場で、低い椅子に座りながら樽の中に手を入れいたり、すぐきを細かく刻んで袋に詰めていたりしてる。僕は大抵上賀茂に寄った時は、その場所で仕事をしてるおばちゃんを見つけるのだ。
「よう来たなーー」「今商いの用意をしてるから、ゆっくりしていって、ご飯食べて帰るんやろー」と言う。いつもの会話がそこに立ち上がって消えていく。
それは懐かしいし、ホットする気持ちになる。あの頃の少年時代の僕に戻って行く。
変わらぬ心象と風景がそこにあるから僕には上賀茂の家は、生まれてから今日までの僕を一本の糸に紡いでくれる場所なんだ。だから居心地が悪い事なんかあるはずがない。
ただそれは僕だけの話しであって、お袋には幼い頃から苦楽をした実家だから僕にはわからない感情があるのだろうと思う。
「八重ちゃん、ゆっくりしていってや」と「ねぃさん」言うけど。「やっぱり賀茂には行けへんわ~」と言う。
何で行きたくないのか、何かわだかまりがあるのか、昔から気が合わない間だったのかわからない。
実の姉には「ねいちゃん」と呼ぶ。実家の義理の姉には「ねぃさん」と呼ぶ。
久しぶりに会った姉妹の会話は昔の話をしながら、呆けた母親の落ちどころをねいちゃんがホローしてくれている。
「賀茂にはいかへん!」
「行っても「ねぃさん」ずーと仕事さてるさかい、ちょこちょこ商いの用意して忙しいさかい、賀茂行っても座ってられへん」から「賀茂にはいかへん」と言う。
「ねぃさんほんま忙しいから、すぐき刻んで、袋に詰めて、あれやこれやってほんま忙しいしてるから」とお袋の実の「ねいちゃん」が言う。
「賀茂にいっても「ねぃさん」じっとしてへんからこっちもなんか手伝わん事には、言うても手伝う事もないし、じっとして座ってんのもなんか悪い気がして」とお袋は言った。
ここにも京女がいたし、そこにも京女がいてる。
60年以上前に嫁いで来て、毎日毎日、商いで家計を支えてくれた、「ねぃさん」には商いで家計を支える心配はもう無い。ただ私を待ってくれている人がいてるという強い動機があり、その人達が「美味しいよ」て言ってくれる事が何よりの喜びなんだろう。
だから自分で「おばさん仕事が好きやね~~
商いいかへんかったら人生終わるえー」と言っている。家族の誰もは、そのバタバタと働くことを普通にしていて、見守って、協力している。
そしてもう一人の僕のお袋は、その「ねぃさん」の商いの準備や、漬け物を刻んだりする姿を
ゆっくり寛いだ状態のところから見ることができないのだ。
誰からかわからんけど、「八重子、お前も手伝え!」と言う声が聞こえるのだろう。
「意地悪くて座ってんのん違うで、「ねぃさん」もこれやってあれやって、言えへんし、またやってスカタンやったら、返って迷惑やからな~」と思っているのだろう。じっとしてるのが悪い様な気持ちになるのだろう。
お袋にとっては、あの時代の様に何でも手伝って、力合わせて生きることのだけが、自分の実家で過ごす法則というか決まりだったんだ。
支える事に一役関わらないといけないのだろう。
実家で普通に先に風呂入って、御飯食べて先に休む事が、気色の悪い、座りの悪いやましい気分になるのだろう。
いまだに商いに出かける為にバタバタと仕事をする「ねぃさん」と、それを黙って見ておれないしし、そう言って今更手伝う事も出来ない、非メンバー感のあるお袋。
「賀茂にいってもなんか落ち着かへんは」と実の「ねいちゃん」に言ってる姿は気持ちと行動の葛藤なんだろう。
「おばちゃん」もうそろそろゆっくりとしたらと言うのもなんか違うし、「お袋に」気にせんと自分の里やからのんびり過ごしたらと言うのも本意ではないのだろう。
やらないと気がすまん京女と、
やってる所をじっと見てるだけでは疚しい気持ちでいっぱいになる京女の接点は、やっぱり冠婚葬祭の時にしかこないのだろう。
でももう送る人は少なくなった。
どうすればいいのなんかの答えはない。
それでいいのだとしか言えない。
本当に一生懸命生きてるし、立派やなぁと思う。
僕にとっては「おばさん」で、お袋にとっては「ねぃさん」に貰った阿闍梨餅がポケットにある。僕は一人で食べる。
さっきまで仏壇に供えてあったものを。
「洋一これ持って行きと言う声が聞こえる」
「もう大人やからいらんは」とは未だに言えない僕は情けないのか?
懐から10000円が見える。
多分これはお婆ちゃんの声の様な気がする。
そしてもう乾いている洗濯物のタオルや靴下を電気ストーブにかざして乾かしたり温めたりしている。
痴呆の母親は京都市北区上賀茂の生まれで、農家の6人兄弟の一番下に育った。そして1歳か2歳の時に父親を病気で亡くしているから、僕にとっては、お婆ちゃんで、母親にとってはお母ちゃんと、男4人姉1人で嫁に行くまでそこで生きていた。
戦中から戦後の本当に何もない貧しい時代を生きてきたから、その当時の雰囲気が痴呆になっても時々と言うより、もっと頻繁に態度に表れる。
僕の見る限りでは、末っ子として育ったけど、生憎の貧乏だったので、チヤホヤされたのではなく親代わりの兄貴達から雑用を頼まれていたのではないかと思う。
「八重子、これ乾かしといてくれ」の言葉がリアルに今に思い出されているのではないかと思う。
今乾かしてるタオルは、にぃちゃんのん、これはタツにぃちゃんのん、と思いながら、なんとか家族の正規メンバーと認められる様に、みんなのお手伝いをしている様な気持ちで、一人電気ストーブでタオルを乾かしてる。
働いて手伝うことがあの時代、あの場所で家族みんなで生活するには必要 なことだったんだ。
「何か手伝う」「何でもさせられる」そうでもしないと、ご飯を食べるのも疚しくなる時代だったんだろう。
また、そうする事で家族のフルメンバーとして貧しいなりに楽しん団欒をしてきたのだと思う。
そして今、母親の男兄弟はみんな亡くなった。
自分の実家には、兄貴のお嫁さんで、母親から見ると義理の「ねぃさん」が子供や孫と住んでいる。
母親には年子の実の姉がいてる。「兄弟男はみんな死んで、あとは「ねえちゃん」と二人になったなー」と今年の正月何年ぶりかで、僕が、母親の姉の家に連れて行った時に話をしてた。
こちらは「ねぃちゃん」と呼ぶ。
昔話しと今の話のミックスなフィクションにも相槌を打って、ツッコミを入れてくれる姉にも遠いあの時代のあの場面が同期しているのだろう。
そして10分おきぐらいに母親が言うことがある。
「賀茂にはいかへん!」またちょっとたったら「賀茂にはいかへん」と言う。
母親には義理の「ねぃさん」がいてる。母親がまだ実家の上賀茂にいた時に嫁いできて、甥っ子の面倒や、家の手伝い、農家であり上賀茂の名産「すぐき」を製造している忙しい時は、嫌でも何でも手伝ったり、協力したりして、そうでもしなければ飯も当たらない厳しい状況を共に過ごした「ねぃさん」がいてる。
家のムードが、父親がいなくも、みんな力を合わせていくことだけが、正確であり道であった様な空気だったと思う。
だから多分、あの時代は誰もゆっくりくつろいでいる事は、こと女性については、子供であろうとできなかったのだろう。
「賀茂にはいかへん、行っても落ち着けへんは」とまた言う。
僕は賀茂のねぃさんとお袋の仲が良くないのか?それとも世間で良くある小姑との確執なのか、女のなんとも言えないいやらしい何かなのかと考えて見る。
僕にとっては、「上賀茂のいいおばちゃん」なのだ。本当にいい人だと思う。
おばちゃんがつくる、すぐきもそうだが、茄子の辛子漬もきゅうりの漬物も昆布の炊いたもの、めちゃくちゃ美味いのだ。
こだわりの云々を言って出す様なその辺のパット出の料理屋はんの様なイキリな板前とは違う。
もうそれは初めから無添加だし、原価意識も、上等の食品ですという驕りもない。ただ、おばちゃんはこうして美味しものを作ってきたし、美味しい美味しいと言ってる得意先さんがいてるからまた同じ様に作っているだけである。だから芸が細かいのだ。それは別の言い方でするとすれば、おばちゃん以外には誰もできる人間いないということなんだ。
だから、ご飯を食べ終わるとすぐに、漬けなおしたり、袋の用意したり、細かく食べやすく切ったりしている。テレビを見ながらくつろいででいるという雰囲気を殆ど見かけない。
上賀茂のおばさんは、昔から「商い…あきない」に出かける。
昔は第八車を引っ張って街に出かけ、上賀茂の野菜や、漬物や昆布の炊いたものなどを売っていた。
それは戦後すぐの頃は、農家の現金収入になり、その家族が暮らしていく為の重要な糧となっていた。
僕の記憶の中では、おばちゃんのテリトリーの場所、大徳寺周辺や円町まで車でリアカーを積んで行き、そこで降ろして、後はおばちゃんが一人で売って商をすると言う風景だ。
そして帰り際に、お菓子や、お肉などを買って帰ってくるのを、誰も文句も言わずに淡々と待っていた記憶がある。ただ夏休み、冬休みにだけ泊まりに行く僕にはわからない苦悩もあったはずだろうが、まだ小さかった僕にはそれは理解できなかった。
そんな「ねぃさん」は、もう80歳の中頃になっている。真面目に農業したのだという証明に、腰も曲がってきている。でも頭はまだハッキリとしている。今でも畑仕事もしているしまだ「商い」にでている。
もう今となっては家族を養う為だけではないが、「おばちゃんの漬け物や野菜を待ってる人がいてるから、美味しい美味しいと言ってくれる人がいてるから、」と言って商いの用意をしている。作業場で、低い椅子に座りながら樽の中に手を入れいたり、すぐきを細かく刻んで袋に詰めていたりしてる。僕は大抵上賀茂に寄った時は、その場所で仕事をしてるおばちゃんを見つけるのだ。
「よう来たなーー」「今商いの用意をしてるから、ゆっくりしていって、ご飯食べて帰るんやろー」と言う。いつもの会話がそこに立ち上がって消えていく。
それは懐かしいし、ホットする気持ちになる。あの頃の少年時代の僕に戻って行く。
変わらぬ心象と風景がそこにあるから僕には上賀茂の家は、生まれてから今日までの僕を一本の糸に紡いでくれる場所なんだ。だから居心地が悪い事なんかあるはずがない。
ただそれは僕だけの話しであって、お袋には幼い頃から苦楽をした実家だから僕にはわからない感情があるのだろうと思う。
「八重ちゃん、ゆっくりしていってや」と「ねぃさん」言うけど。「やっぱり賀茂には行けへんわ~」と言う。
何で行きたくないのか、何かわだかまりがあるのか、昔から気が合わない間だったのかわからない。
実の姉には「ねいちゃん」と呼ぶ。実家の義理の姉には「ねぃさん」と呼ぶ。
久しぶりに会った姉妹の会話は昔の話をしながら、呆けた母親の落ちどころをねいちゃんがホローしてくれている。
「賀茂にはいかへん!」
「行っても「ねぃさん」ずーと仕事さてるさかい、ちょこちょこ商いの用意して忙しいさかい、賀茂行っても座ってられへん」から「賀茂にはいかへん」と言う。
「ねぃさんほんま忙しいから、すぐき刻んで、袋に詰めて、あれやこれやってほんま忙しいしてるから」とお袋の実の「ねいちゃん」が言う。
「賀茂にいっても「ねぃさん」じっとしてへんからこっちもなんか手伝わん事には、言うても手伝う事もないし、じっとして座ってんのもなんか悪い気がして」とお袋は言った。
ここにも京女がいたし、そこにも京女がいてる。
60年以上前に嫁いで来て、毎日毎日、商いで家計を支えてくれた、「ねぃさん」には商いで家計を支える心配はもう無い。ただ私を待ってくれている人がいてるという強い動機があり、その人達が「美味しいよ」て言ってくれる事が何よりの喜びなんだろう。
だから自分で「おばさん仕事が好きやね~~
商いいかへんかったら人生終わるえー」と言っている。家族の誰もは、そのバタバタと働くことを普通にしていて、見守って、協力している。
そしてもう一人の僕のお袋は、その「ねぃさん」の商いの準備や、漬け物を刻んだりする姿を
ゆっくり寛いだ状態のところから見ることができないのだ。
誰からかわからんけど、「八重子、お前も手伝え!」と言う声が聞こえるのだろう。
「意地悪くて座ってんのん違うで、「ねぃさん」もこれやってあれやって、言えへんし、またやってスカタンやったら、返って迷惑やからな~」と思っているのだろう。じっとしてるのが悪い様な気持ちになるのだろう。
お袋にとっては、あの時代の様に何でも手伝って、力合わせて生きることのだけが、自分の実家で過ごす法則というか決まりだったんだ。
支える事に一役関わらないといけないのだろう。
実家で普通に先に風呂入って、御飯食べて先に休む事が、気色の悪い、座りの悪いやましい気分になるのだろう。
いまだに商いに出かける為にバタバタと仕事をする「ねぃさん」と、それを黙って見ておれないしし、そう言って今更手伝う事も出来ない、非メンバー感のあるお袋。
「賀茂にいってもなんか落ち着かへんは」と実の「ねいちゃん」に言ってる姿は気持ちと行動の葛藤なんだろう。
「おばちゃん」もうそろそろゆっくりとしたらと言うのもなんか違うし、「お袋に」気にせんと自分の里やからのんびり過ごしたらと言うのも本意ではないのだろう。
やらないと気がすまん京女と、
やってる所をじっと見てるだけでは疚しい気持ちでいっぱいになる京女の接点は、やっぱり冠婚葬祭の時にしかこないのだろう。
でももう送る人は少なくなった。
どうすればいいのなんかの答えはない。
それでいいのだとしか言えない。
本当に一生懸命生きてるし、立派やなぁと思う。
僕にとっては「おばさん」で、お袋にとっては「ねぃさん」に貰った阿闍梨餅がポケットにある。僕は一人で食べる。
さっきまで仏壇に供えてあったものを。
「洋一これ持って行きと言う声が聞こえる」
「もう大人やからいらんは」とは未だに言えない僕は情けないのか?
懐から10000円が見える。
多分これはお婆ちゃんの声の様な気がする。