スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

スピリチャルタイムズ フィクション短編 「賀茂のねぇいさん」

2016年01月20日 | 自分的エッセー
今日が正月やと分かっているのかいないのか、痴呆の母親は、それほど温くならない扇風機型の電気ストーブに、そこに生の火がある様に手を擦って暖かくしている。
そしてもう乾いている洗濯物のタオルや靴下を電気ストーブにかざして乾かしたり温めたりしている。
痴呆の母親は京都市北区上賀茂の生まれで、農家の6人兄弟の一番下に育った。そして1歳か2歳の時に父親を病気で亡くしているから、僕にとっては、お婆ちゃんで、母親にとってはお母ちゃんと、男4人姉1人で嫁に行くまでそこで生きていた。
戦中から戦後の本当に何もない貧しい時代を生きてきたから、その当時の雰囲気が痴呆になっても時々と言うより、もっと頻繁に態度に表れる。
僕の見る限りでは、末っ子として育ったけど、生憎の貧乏だったので、チヤホヤされたのではなく親代わりの兄貴達から雑用を頼まれていたのではないかと思う。

「八重子、これ乾かしといてくれ」の言葉がリアルに今に思い出されているのではないかと思う。
今乾かしてるタオルは、にぃちゃんのん、これはタツにぃちゃんのん、と思いながら、なんとか家族の正規メンバーと認められる様に、みんなのお手伝いをしている様な気持ちで、一人電気ストーブでタオルを乾かしてる。
働いて手伝うことがあの時代、あの場所で家族みんなで生活するには必要 なことだったんだ。
「何か手伝う」「何でもさせられる」そうでもしないと、ご飯を食べるのも疚しくなる時代だったんだろう。
また、そうする事で家族のフルメンバーとして貧しいなりに楽しん団欒をしてきたのだと思う。

そして今、母親の男兄弟はみんな亡くなった。
自分の実家には、兄貴のお嫁さんで、母親から見ると義理の「ねぃさん」が子供や孫と住んでいる。
母親には年子の実の姉がいてる。「兄弟男はみんな死んで、あとは「ねえちゃん」と二人になったなー」と今年の正月何年ぶりかで、僕が、母親の姉の家に連れて行った時に話をしてた。
こちらは「ねぃちゃん」と呼ぶ。
昔話しと今の話のミックスなフィクションにも相槌を打って、ツッコミを入れてくれる姉にも遠いあの時代のあの場面が同期しているのだろう。

そして10分おきぐらいに母親が言うことがある。
「賀茂にはいかへん!」またちょっとたったら「賀茂にはいかへん」と言う。
母親には義理の「ねぃさん」がいてる。母親がまだ実家の上賀茂にいた時に嫁いできて、甥っ子の面倒や、家の手伝い、農家であり上賀茂の名産「すぐき」を製造している忙しい時は、嫌でも何でも手伝ったり、協力したりして、そうでもしなければ飯も当たらない厳しい状況を共に過ごした「ねぃさん」がいてる。
家のムードが、父親がいなくも、みんな力を合わせていくことだけが、正確であり道であった様な空気だったと思う。
だから多分、あの時代は誰もゆっくりくつろいでいる事は、こと女性については、子供であろうとできなかったのだろう。

「賀茂にはいかへん、行っても落ち着けへんは」とまた言う。
僕は賀茂のねぃさんとお袋の仲が良くないのか?それとも世間で良くある小姑との確執なのか、女のなんとも言えないいやらしい何かなのかと考えて見る。
僕にとっては、「上賀茂のいいおばちゃん」なのだ。本当にいい人だと思う。
おばちゃんがつくる、すぐきもそうだが、茄子の辛子漬もきゅうりの漬物も昆布の炊いたもの、めちゃくちゃ美味いのだ。
こだわりの云々を言って出す様なその辺のパット出の料理屋はんの様なイキリな板前とは違う。
もうそれは初めから無添加だし、原価意識も、上等の食品ですという驕りもない。ただ、おばちゃんはこうして美味しものを作ってきたし、美味しい美味しいと言ってる得意先さんがいてるからまた同じ様に作っているだけである。だから芸が細かいのだ。それは別の言い方でするとすれば、おばちゃん以外には誰もできる人間いないということなんだ。
だから、ご飯を食べ終わるとすぐに、漬けなおしたり、袋の用意したり、細かく食べやすく切ったりしている。テレビを見ながらくつろいででいるという雰囲気を殆ど見かけない。
上賀茂のおばさんは、昔から「商い…あきない」に出かける。
昔は第八車を引っ張って街に出かけ、上賀茂の野菜や、漬物や昆布の炊いたものなどを売っていた。
それは戦後すぐの頃は、農家の現金収入になり、その家族が暮らしていく為の重要な糧となっていた。
僕の記憶の中では、おばちゃんのテリトリーの場所、大徳寺周辺や円町まで車でリアカーを積んで行き、そこで降ろして、後はおばちゃんが一人で売って商をすると言う風景だ。
そして帰り際に、お菓子や、お肉などを買って帰ってくるのを、誰も文句も言わずに淡々と待っていた記憶がある。ただ夏休み、冬休みにだけ泊まりに行く僕にはわからない苦悩もあったはずだろうが、まだ小さかった僕にはそれは理解できなかった。
そんな「ねぃさん」は、もう80歳の中頃になっている。真面目に農業したのだという証明に、腰も曲がってきている。でも頭はまだハッキリとしている。今でも畑仕事もしているしまだ「商い」にでている。
もう今となっては家族を養う為だけではないが、「おばちゃんの漬け物や野菜を待ってる人がいてるから、美味しい美味しいと言ってくれる人がいてるから、」と言って商いの用意をしている。作業場で、低い椅子に座りながら樽の中に手を入れいたり、すぐきを細かく刻んで袋に詰めていたりしてる。僕は大抵上賀茂に寄った時は、その場所で仕事をしてるおばちゃんを見つけるのだ。
「よう来たなーー」「今商いの用意をしてるから、ゆっくりしていって、ご飯食べて帰るんやろー」と言う。いつもの会話がそこに立ち上がって消えていく。
それは懐かしいし、ホットする気持ちになる。あの頃の少年時代の僕に戻って行く。
変わらぬ心象と風景がそこにあるから僕には上賀茂の家は、生まれてから今日までの僕を一本の糸に紡いでくれる場所なんだ。だから居心地が悪い事なんかあるはずがない。
ただそれは僕だけの話しであって、お袋には幼い頃から苦楽をした実家だから僕にはわからない感情があるのだろうと思う。

「八重ちゃん、ゆっくりしていってや」と「ねぃさん」言うけど。「やっぱり賀茂には行けへんわ~」と言う。
何で行きたくないのか、何かわだかまりがあるのか、昔から気が合わない間だったのかわからない。
実の姉には「ねいちゃん」と呼ぶ。実家の義理の姉には「ねぃさん」と呼ぶ。
久しぶりに会った姉妹の会話は昔の話をしながら、呆けた母親の落ちどころをねいちゃんがホローしてくれている。

「賀茂にはいかへん!」
「行っても「ねぃさん」ずーと仕事さてるさかい、ちょこちょこ商いの用意して忙しいさかい、賀茂行っても座ってられへん」から「賀茂にはいかへん」と言う。
「ねぃさんほんま忙しいから、すぐき刻んで、袋に詰めて、あれやこれやってほんま忙しいしてるから」とお袋の実の「ねいちゃん」が言う。
「賀茂にいっても「ねぃさん」じっとしてへんからこっちもなんか手伝わん事には、言うても手伝う事もないし、じっとして座ってんのもなんか悪い気がして」とお袋は言った。

ここにも京女がいたし、そこにも京女がいてる。
60年以上前に嫁いで来て、毎日毎日、商いで家計を支えてくれた、「ねぃさん」には商いで家計を支える心配はもう無い。ただ私を待ってくれている人がいてるという強い動機があり、その人達が「美味しいよ」て言ってくれる事が何よりの喜びなんだろう。
だから自分で「おばさん仕事が好きやね~~
商いいかへんかったら人生終わるえー」と言っている。家族の誰もは、そのバタバタと働くことを普通にしていて、見守って、協力している。
そしてもう一人の僕のお袋は、その「ねぃさん」の商いの準備や、漬け物を刻んだりする姿を
ゆっくり寛いだ状態のところから見ることができないのだ。
誰からかわからんけど、「八重子、お前も手伝え!」と言う声が聞こえるのだろう。
「意地悪くて座ってんのん違うで、「ねぃさん」もこれやってあれやって、言えへんし、またやってスカタンやったら、返って迷惑やからな~」と思っているのだろう。じっとしてるのが悪い様な気持ちになるのだろう。

お袋にとっては、あの時代の様に何でも手伝って、力合わせて生きることのだけが、自分の実家で過ごす法則というか決まりだったんだ。
支える事に一役関わらないといけないのだろう。
実家で普通に先に風呂入って、御飯食べて先に休む事が、気色の悪い、座りの悪いやましい気分になるのだろう。

いまだに商いに出かける為にバタバタと仕事をする「ねぃさん」と、それを黙って見ておれないしし、そう言って今更手伝う事も出来ない、非メンバー感のあるお袋。
「賀茂にいってもなんか落ち着かへんは」と実の「ねいちゃん」に言ってる姿は気持ちと行動の葛藤なんだろう。

「おばちゃん」もうそろそろゆっくりとしたらと言うのもなんか違うし、「お袋に」気にせんと自分の里やからのんびり過ごしたらと言うのも本意ではないのだろう。

やらないと気がすまん京女と、
やってる所をじっと見てるだけでは疚しい気持ちでいっぱいになる京女の接点は、やっぱり冠婚葬祭の時にしかこないのだろう。
でももう送る人は少なくなった。

どうすればいいのなんかの答えはない。
それでいいのだとしか言えない。
本当に一生懸命生きてるし、立派やなぁと思う。

僕にとっては「おばさん」で、お袋にとっては「ねぃさん」に貰った阿闍梨餅がポケットにある。僕は一人で食べる。
さっきまで仏壇に供えてあったものを。

「洋一これ持って行きと言う声が聞こえる」
「もう大人やからいらんは」とは未だに言えない僕は情けないのか?
懐から10000円が見える。
多分これはお婆ちゃんの声の様な気がする。













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スピリチャルタイムズ フィクション短編 「バボソ」

2016年01月11日 | 自分的エッセー
大阪の梅田の端に、小さなバーがある。
店の名前は「save」と言う。
救うとか守るとかの意味である。目立たないシックな看板は少し入り難い印象もするが、それもこの店のオーナーの計算なんだろうと思う。
重厚な木材で出来たドアーを開けると、薄暗い照明が緩く聞こえるカッコつけないジャズを気持ちよく店内に充満させている。
こんなバーのマスターは決まりのキャラがある。
無口なんだが優しく、お客も心の情景をキャチする術に長けているのが相場なんだが、「save」のマスターは、そのカッコいい系とはちょっと離れている。とにかく熱い奴なんだ!ジャズの流れるバーのバーテンダーが熱い男!だから独りで飲んでる女性が、涙の一つでも流してしまうと、心配して「どうしたんや?」聞いてくる。
普通は、涙を忘れるカクテルをーーと言ってさりげなくお洒落で可愛い色のカクテルをカウンターに滑らすのだが、「save」のマスターのkさんはレパートリーがないというか、カクテルの種類をあんまり知らないのだ。だから、忙しくも無いのにいつも若いバイト君を雇ってお洒落なカクテルを作らさせている。
この店には自立した女性が独りでよく飲んでいる。静かにグラスを傾けているように見えるが、実は結構疲れている女性が多いのだ。
今晩は、大手の商社に勤めている40歳くらいの、まだ独身の女性がカウンターに座った。
女性の着ているビジネススーツパンツスタイルがいかにも仕事できますをアピールしているし、淡いピンクの中に着ているシャツも、アクセサリーも結構趣味のいいものをつけている。肌がちょっと荒れているのは、ハードは仕事が続いたという事と週末だという事だろう。

「あゝ疲れて~~」と言ってモヒートを半分飲んだ。
Saveの熱いマスターは、自立しているし女性の「疲れた」のため息がヤバイといつも思う。
「追い詰められましたか?」
「独りで生き、一人で運命と対峙して、一人で責任を取り、一人で問題を解決する事」を強いられていますか?
例えそれらがすべて上手く行っているとしても、それら全てを一人で果たさないといけない重圧感は、かなりの疲労となって溜まっていくのだろうと思う。
「他のお酒で~ーおすすめは?」と女性が聞くから、熱いマスターはあのバボソを作って前に置く。
「バボソってイケテナイ名前」と言いながらお酒に口をつける。
僕の周りでも、心身に疲れをため込み精神が変になりはじめているのは、言う所のオッサン達ではなく、むしろ「自立した女性」だよと熱いマスターが喋べり出した。
「そう私の事!」だよそれはと、今日の悩み人は私と宣言するように相槌を打つ。
雑誌や、テレビのドラマでもてはやらされてる、お洒落でポップなキャリアウーマンは、一人で住み、仕事もバリバリとこなし、美味しいものや、ワインを楽しんだり、海外旅行に出かけたりしていりる女性のことを言うしマスコミもそのように煽ってきた。

冷たいバボソのお替りをして、飲みながら「私の人生設計って完璧に近い?」かなと不安を混ぜて言う。
「そうやね、完璧に近いけど、どっかに僅かな狂いが来てる」と熱いマスターが言う。
「なんでなんやろー」と女性はバボソを飲みながら聞く。
「だってそうやろ、自分の生き方を自分で決める権利は、自分の生き方を自分で決定しないといけないような重苦しい責任がついてくるから」と、いよいよ熱いマスターのカウンター講座が始まる。
注文をする時の音の汚さのあるバボソをもう一杯催促した。
「君の誤算は、自己決定で自己責任を生き抜くには、緊張や心理的負荷に耐える為の精神力とフジカルが凄く必要である」というところを読み間違えた事だね!
「そうやろ、それで身体を壊した友達もいてるし、私も精神的には結構ボロボロ感満載なんだ」と言う。
でもそうでなく、ちゃんとやってる女性もいるけど、「どこが違うんかな?」と聞く。
熱いマスターは、それやと言う顔をして答える。
「それは男にささえられているか、いないのかの差で、男に支えられない女は弱い」とピシャリと言った。
「へぇ、でも男の支えなんか要らんよ」と思って一人で生きてるのに「なにその意味?」とカウンターに肘をついて低い姿勢から上目で熱いマスターを、このおっさん何言ってるのと言う感で見る。
男との付き合いで、「支えると管理する」こと、「大切にすると所有する」こと、「この二つの区別出来てるか?違いを感じれるか?」と熱いマスターが聞く?
男が女を守るには二つあって、「女の成長を妨げる」守り方と、「女の成長を待ち望む」守り方がある。
女を管理して、所有しようと望む男は女性の成長なんか望まない!女性の収入も地位も低い状態で、「俺を頼っている」という状態を作り、女に「貴方が居てないと何もできひん」と言う言葉を言われることを望んでる。「ほとんどの男はこのタイプや」と熱い マスターは言う。
「もう一つの良い方の女の守り方て何?」とバボソを口にして女性が聞いてくる。
「それは、彼女が、支え無しで生きていけるような日を待ち望んでる男ですは!
」と熱いマスターが言う。
「もう俺がおらんでも貴方は面白く生きていける」という期待に命を賭けれる男やね!
「そんなな男、おれへんよ」と彼女は言う。
そう、それが問題なんで、「本当に成長した女性は、誰も頼らない自己完結の女性ではなく、何処までも人は、他人の支え無しでは生きられないことえを、学び知った女性のこと」やーーと熱いマスターは口に泡を貯めて語る。
「男に支えられない女は弱い、誰かに支えられない人は弱い」これが真理である。とバボソを持ちながらドヤ顔マスターが語る。
でも、今、そんな「女の成長を応援するレアな男」がいないのが「辛い」と、マスターとその女性は声を揃えて言った。

「ちょっとマスター、バボソお替りと、そんな男の見つけ方教えて!」とカウンター越しの話は進む。
貴方は自立自立と言うが、それは仕事や収入があるだけの話で「自立」としては十分ではない。
「私たちは何かに依存しないと生きていけないし、同時に自己責任で決定をしていかないといけない。
その二つは矛盾するのだ。事実と理念は矛盾する。
大人とはその二つを同時に応えて折り合っていくことなんだ。
「自立とは、自立していてかつ依存していることなんだ!」「その矛盾への徹底的な反省なんだ」
それを自立と呼ぶ!」とマスターはもう完全に教える立場を取っている。もうネタになっているくらいだ。
「はぁーバボソもう一杯ちょうだい!」と行ってグラスをマスターの方にずらす。
つまり、自立している女性は、自分を支えにすがりついてくるものを逆に、自分の支えとして立つことができるのだよ!」
「はぁーー要するに(支えを求めてくるものを)を利用して立つ事が出来る事を自立するというのかな?」
「そのとうり!」と熱いマスターは言う。
自分がつかまっているものや自分につかまっているものの関係性のうちに自分のいるべき所を見出す事のできる人間を自立してると言うんだ!と、熱いマスターがさらに熱く言う。
バボソを片手に持って。

「だからやり取りの中に身を置かないといけないのだ」支えるものと、支えられるものとの間の微妙なやり取り、その中に身を置く術を知る事なんだ。
「このふわふわのやり取りが大切だと気が付いていない人が大半なんだよ!世の中はの人は。
「とにかく首尾一貫した態度が正解」と思って臨もうとする。それが良くないのだと熱いマスターが言う。
「いいかい君の成長を妨げるような愛し方望むなら、貴方も成長を妨げる愛し方をしている事に気がつかないとダメだ。」
「おhー それそれ 真理やん!バボソおかわり」と女性はグラスを前に出す。
じゃ~どんな男がいいかを教えようー
「常に変わらぬ愛情」で貴方を愛する男は、果たして、いいと言えるか?
「君も変わっていくのだ。だから同じ所でしっかりとした基盤を作る男でもない、要するに君と同じテンポで変化してくれる男がいいのだ」
金や物を支えと思い込んでる男は結局女の成長を妨げる。
「うそ~~成長が妨げられてもお金がいいーー」
と女性はついに本心がというより、バボソに酔い初めてきた。
そうでも言って一回バカにならないと、誰だって前にいけないと思う。
お金だけではない事は十分に分かって居る。

君を支える男は、君が太ればふっくらが好きと言い、痩せればスレンダーが好きと言い、酔っ払ったら、そんな可愛い所が好きと言うような
「変化した後の貴方を、最優先に配慮する男なんだよ!」
「それって都合のいい男て事?」て聞く、
「もちろんそれでいいのだよ!」
「そんな男といればダメになっていきそうーー」
うんーーんそうかな?
「僕はきつい苦労して何かをつかんだ女性よりも幸せ過ぎてダメになりそうな女性の方が好きだけどー」
「何か、わかるけど微妙!」と女性がグラスに口をつける。
「バボソ、もう一杯ちょうだい」とシャッキリとした目で言った。
「この一杯は奢るよー」と熱いマスターが薄めのバボソをつくった。



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スピリチャルタイムズ フィクション短編 「能力主義反対自惚れ守れ」

2016年01月07日 | 自分的エッセー
北新地から少し入ったところにある、結婚式も出来るお洒落なイタリアレストランで、新春の異業種交流会が始まっていた。
僕は特別に異業種交流会が役にたつ会とは思っていないし、今まで沢山の異業種交流会に出たけれど「うん、この出会い神がかり」と言う様な人に出会った事がない。
売りたい物、得意なサービス、それなら自分でやれ的な儲かるノウハウを持った人達が、「あれはそれ、それはこれ」って言っているだけの会で、肝心なところ、買いたい人、サービスを必要としてる人、何かの協力を求める人間や組織の姿も、最後にお金を出してくれる買手側の存在が全く見えないこと!それを異業種交流会となずけている。

その中でもとりわけ「イッキ」っている奴がいる。ピッシとしたスーツなんだけど、靴が経ったっていたり、名刺のデザインが安っぽくその辺のクイック印刷でしたのが丸わかりの、信頼性に乏しいけどやる気のある連中が一杯そこにやってくる。
「今度一緒に視察いきましょうよ」と唾を飛ばしながら視察という言葉に酔っている。
「あの話は、実は〇〇が裏で絡んでいまして、絶対に乗ったらダメですよ」的な言い方で、業界通を見せびらかしている奴もいる。
僕は、安っぽいホテルというより会館のパーティー用のケイタリング料理を皿の上に少し乗せて、美味くない水割りを手に持って、会場の隅っこの方に避難した。
「ここには、金を出す人がいない」と言う事実を、名刺配りで何とかなると勘違いしてるイキってる元気な企業家人達は知っているのかと思う。

また隅っこの方で、私たちこそが仕事の出来る人間ですよ的なオーラーを灯しながら丸テーブルを囲んでいる男女 7名のグループがいた。比較的控えめなビジネススーツに比べて、スマートフォンだけでなくiPadなどを持ちながらの最先端情報処理系の見た目の細いグループだった。40歳くらいの男女の小さな会社のオーナーらしき二人を中心に話が進んでいる。

「自分の貰ってる給料は良いとして、ろくに仕事もできない奴にあの位い渡すのはおかしい」と言ってる。
なるほでそう言う話をしてる訳ですね~と僕はチョット聞きやすい位置に動いた。

「やっぱりこれからの時代としては能力主義なんでしょうね~」と綺麗なビジネススーツには合わない盛った髪型のエロ賢の女性が話す。
出来る人間と出来ない人間とを同一給料にすると出来る人間のモチベーションが下がり、実績にも影響が出ると言っている。
僕は「阿呆ちゃうこいつら」と思った。でもこの場の雰囲気も察してもう少し聞いてやろうと思った。

「若い頃はこれで仕方が無いのでは? 我慢を覚えて貰うのが先ですから」と上場会社の中間管理職的な雰囲気の奴が、若い部下を使う術を知っていて自分も苦労しているけど、自分はクールですと暗示を忘れず話をする。
「ということだったら能力主義になると言うか、海外ではそれが当たり前なんですからー」と中小IT会社経営らしき男性が言う。周りの人たちも乗り遅れが一番ダメーーと言う様なスタイルで、返事というか頷きをしていた。

僕は今すぐにでも隣に移り、ちょっと待った!待ったらんかい!
「シカラバ聞く!君たちは能力主義社会を希望するのか?」「貴方は、自分の能力が適正に評価され、
ちょうど良い給料を受け取りたいと、本当に思っているかね?」と何者と探られる位置から言いたい。
「望んでいる?」かね「本当に?」そうかね
「自分がこんなに働いているのに、これだけしか貰っていない、あいつはろくすっぽ仕事していないのに、結構貰っているこれって不公平」と言いたいわけだろうけど、いいかい給料には不公平などというものはない!あるのは「給料が安い」と言う事実だけんなんだとスパットいいたい。

普通の会社に勤めると勤務査定がある。上司が君の勤務ぶりをチェックして、それに基ずいて昇進や昇給が決まる。これが適正なやり方で行われていると考えてる人は、世間ではほとんどいない!
自分より早く出世した同僚の事は実力だとは言わない。上司にウケがいいとか、コネがあるとかで解釈する。同様に自分の出世が遅い事は、人より能力が劣っているとか適正に評価された為だとは考えない。
僕が出世しないのは、仕事が出来ないからでなく、出来すぎるから、頭が切れすぎるからとか性格が良すぎるからと考える ものなのだ。上司のミスや会社のやり方を指摘するせいでなかなか出世しないと考える。ほとんどのサラリーマンはそう考える。けどそれについて毎日毎日ヘビみたいに怒るという事をする者はいない。
会社の査定とはそう言うもんだからと、不公平と思ってる勤務考課を自分で納得させ合理化しているのが普通である。

ほとんどのサラリーマンは勤務考課の不公平を非を言う。
しかしまさに勤務評価が厳正でないと言う事実に寄って、そのパットしない現状が正当化されるのだという事も何時も都合よく忘れてる。
君たちは、勤務考課が不公平であり信用出来ないと言う事実から不利益と同時に利益も得ている。でもその事はコロリと忘れている。


僕はいつの間にか、私達こそはクールでニューで、仕事が出来る仲間としっかりバインドしていると考えてる男女7名のグループの横にいた。

「本当の能力主義はキツイぞ!」想像してみたらいい、年齢も、家族構成も、勤務年数も学歴も、何にも関係無しにただ「能力だけ」で給料と身分が査定された場合になにが起こるか。
「剥き出しの人間能力の差」が給料と昇進の差になる。
大卒とか高卒の差や、入社日数の差で給料に差がついていてもその差は許容範囲で止まるのだ!
居酒屋の愚痴で収まるケースである。
でも本当に「適正な勤務考課による完全能力主義会社」というのは完全な地獄だと思う。
そこにはどんな言い訳もなく、給料が安い、出世しないのはただただ「能力がない」ということだけになり、それ以下でも以上でもない。
だから世間のサラリーマンが「自分の能力が不当な評価しかない」という不満を持ちながらでも、完全能力主義を望んでるなんか怖くて言えない。

勤務評価がデタラメだからこそ、「俺は会社が評価しているよりも能力は高い」という幻想の中に浸っていられるし、「本来自分に支払われる給料はこんなもんじゃない!」と信じられるからこそ、「安い給料に」我慢する事が出来るのだ。

私達こそはクールでニューで、仕事が出来る仲間としっかりバインドしていると考えてる男女7名のグループの中で僕はつばを飛ばしながら熱弁を振るっている。

自分 の給料は「不当に安い」と思うのは生きていく上で正解だ。そう思わなければその安い給料に耐える事が出来ない。今の給料や時給がその労働に対する「適正」であったら、あんたらのプライドも夢もボロボロに崩れ去るだろう。

私達こそはクールでニューで、仕事が出来る仲間としっかりバインドしていると考えてる男女7名のグループの一人が、僕に聞く。
「さっきから結構熱く語っていますけど、誰方さんですか?」「俺のことか?」

「能力主義の社会」というのは、ありえないし、あってはならないと思う。
それは人間の「自惚れ」を完膚無きまでに破壊させるからだ。
人は、「自惚れる」ことで、なんとか現実との評価や手に入る利益とのギャップに折り合いをつけている。
「自惚れ」のない社会では、人は生きる気力を失い、世の中の元気が下がってしまうだろうと思う。
と言って一気にぬるいビールを飲んだ。
「ぬるいビールも美味そうに飲む飲むのも能力ですしーと聞こえない声で言う。
自惚れは何でも受け入れる、それを「愉快に」読み替える儀式を自惚れると言う。

横の若いサラリーマンの男性から~
「あんた誰ですのん!」
「無職です」
「そして自惚れです」






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スピリチャルタイムズ フィクション短編 「誰とでも結婚ができる」

2016年01月04日 | 自分的エッセー
商店街のスピカーから新春を伝える琴の安っぽい音がスピカーを通じて聞こえる。
昨日までの賑わいが嘘の様な静かな新開地商店街を僕は歩いている。
もう何年も前から正月に新しい服をおろす習慣がなくなった。多分高校生の頃からそんな正統的なな正月を迎えるのが恥ずかしくなった様な気がする。元旦のいでたちはヨットパーカーとデニムである。誰かに会う事は考えていないのが楽で、あえて元旦にこのスタイルが原点に戻った様な気になる。
そして正月の雑煮は自分で作るくらいの事は出来るが、雑煮はお一人様でも、身内仲間がよった場合でもその儀式性は変わらないのだろうと思う。やっぱり最低二人以上で、正月の朝に食べてみたいと思いながら、誰も集まらない朝、便利さとは何時でも買える事もそうだけど、普段と変わらない事が正月でも出来ると言う事なんだ思いながらコンビニでサンドイッチを買う。

離婚をして十年近くなる。「寂しいとか」を言える友達はいるが僕の方からそれを言う気にはならない。
それでも正統的な正月を過ごしている友達を羨ましく思う。
そんな奴らから「彼女はーー?」と聞かれると、いてても「いない」と答える癖がある。同じ時間の中で彼女の存在を消してしますのが疚しく思えるので、すぐに訂正を入れるし彼女に心の中で謝る。
彼女として長く今の関係を継続させるのか、奥様と言う称号を渡して暮らすのか?どちらがいいのかは本当の所分からないのだ。二回目の結婚てっ初めての結婚とは違うと言う事はわかるが、何が違うのかをハッキリと箇条書きに言う事は出来ない。

北河内結婚相談セミナーの会場のドアを開けたのがそれから三日後である。市会議員でバリバリの宗教系政党の女性市議は、話の速さは尋常じゃない。こんな事でと言った話の終わりにはもう、その件に関する人の携帯に電話をかけている。それが返って本気になっているのかが疑わしく思える。でも悪い人ではないと言うのは魔法使いみたいなメガネを見ているとそう思う。
公的な施設と言うのはどうもテンションが上がらない。机の色や椅子の硬さもそうだが、この部屋では価値観が変わる様な話しが出来るとは思えない。市の施設などは、ありきたりのストックフレーズしか会話の言葉が出てこない空気が充満していからと僕はいつも思う。言葉が人に対する贈り物と考えるなら、ずーと同じ言葉で挨拶する朝礼の校長や、市会議員の祝辞は聞いていると生きる力を減滅させる。

「婚活セミナー」という看板にありきたりの、分かりきった話しをだろうなと言う予感がする。
パイプ椅子に座ったのは目立たない後ろから三番目の出口に近い方だ。
講師が自己紹介する。45歳位の普通の中年男性だったが、非常に声が通るのが印象的だった。

「結婚も例外的に卓越した人間しか出来ないと言う方針でその制度が設計されていたら、とっくの昔に人類は滅亡していたでしょう」と話が始まる。
こうすれば結婚が成功するというハウツウ物であるのはわかるが個人ベースに出来ない原因を振って来ない所が気に入った。

「運命の赤い糸で結ばれた理想的な女性と巡り会い、尊敬しあい、愛し合わなければ結婚してはいけないと言う様な高いハードルを設定してたら、人類はとっくに滅亡していたでしょう」
「結婚の目的は、人類の存続にある。」と言う。
「誰と結婚してもそこそこ幸せになれる様な度量の大きさと適応力を持たなければいけない」と話す。
結婚と言う人類にとって重要な制度は「誰にでも出来る様に」設計されているし・その気になれば誰でも担う事が出来る」ように大昔からなっているし、なってなければ人類は滅んでいる」と、でかい声で話している。
結婚と言うのは、する前は「早くしたい」と思い、した後は「これでいいのか」と言う後悔を持ち、全くしない場合には、「愛って何」に苦しみ、何度かした場合は「愛てそれ?」って知ってしまって苦しむもんだ。~~~と昔読んだ本に書いてあった。そのとおりで、「苦しみだけが真実なんだ」と思う。
不快に耐え、不快を減じる能力が必要なんだ。不快を減じる能力とは、「不快を快楽に読み替えてしまう自己詐欺の事なんだろうな」と一人妄想しながら、その話を市民会館の平凡な部屋の天井やカーテンのシミを見ながら聴いている。こんなセミナーは煩くさえしなければ、積極的な姿勢を出さなくても良いから気持ちは楽である。ぼんやりとしながら聞けるというのもありそうでない。
「誰とでも結婚できる 様に設計された制度はなんや」とって一人呟く。
そのつぶやきに反応するように二席飛ばした椅子に座っている50歳前後の女性と目があった。
私立小学校の昔の参観日以外には見た事の無い様な、ベージュと茶色のアンサンブルのワンピースを着た色黒の女性だった。多分宗教系の団体の人であるのだろう。めちゃくちゃ孤独ですよ私は!と言う雰囲気は見られない。自分の事を棚にあげてと言われるかもしれないけど、ぼんやりとした目元以外は僕の気に入る顔ではない。
「誰と結婚してもソコソコ幸せになれる!ー」そんなキャチフレーズを僕は否定出来ないししない。
結構深い叡智と神がかりな思想をその言葉に感じる。
恋愛をして子供が出来、二人で子育てをすると言う事が一応終わった男として、もう一度スタート地点の恋愛モードに戻ってまた「女性は何を望むのか」を考え「君を理解したい」と優しい気持ちで話して、決して「君を理解した」とは口にしない事と引き換えに、彼女の欲望を見誤るアクロバットな常態を作るのが良いんだろうなと思う。
でも「誰とでも結婚出来る器量」ってなんなんだろうと疑問が湧く!
それは頭で理解しても分からないだろう。僕はそれを経験した奴が一番発言権があるといつも思から、いつか「誰とでも結婚出来るセミナー」が開催される場合は、僕は特別ゲストとしてスピーチをする事になるのではと思いながら、その件に踏み込もうとしている。
結婚と言うのは、古くから人類に培われた制度なんだ。ー言で言うならば神様が建てた制度なんだろう。
そう思うと僕は宗教学会に入ってる女性に興味を持った。誰とでも結婚出来ると言う考えは、今:ここ:貴方:を僕のタイプにしてしまうことを可能にする。
「誰とでも結婚出来るという」事について、これから僕とお茶でもしながら話をしませんかと誘った。快く返事をくれた彼女の顔は小学校の担任の化粧が下手な先生を思い出した。
何を頼むのか?どんな食べ物が好きか?歌は何が好きか?家族は? 今までの恋愛は?今の家族構成は?聞き出す事はいっぱいあるが、その答えは 何であろうとも構わないのだ。
「誰とでも結婚出来る」と言うのはそんことは関係ないから。「エッチは嫌い」と言えば、それは他の女性でも、玄人さんでも間に合わせれば良いのでしょうとサラリと言える制度なんだから。
話をしていくうちに二人をバインドする物に縛りが無かっても「そこそこ幸せになれる気がしてきた。」
戦時中の見合い結婚も、当日まで相手の顔を見ていないという話も聞く、暮らしていく時間がまずあり、事後的にこの結婚は不幸でなかったと言う事になるのだろう。宗教学会の女性も今は付き合っている人はいないと言う返事はハッキリとした。
僕は「誰とでも結婚出来てそこそこ幸せになる」事こそ従来の結婚の始原ですから!僕はその始原の状態を生きてみたいのですが、「僕と結婚しません」って言うプロポーズの瞬間を思い浮かべた。が、それより先に「御題目を離さなかったらきっとしわせになりますよ」て言ったので、
その器量が僕にはハッキリないことがわかった。















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スピリチャルタイムズ フィクション短編108選 「宛先は僕です」と言う誤認を引き受ける

2016年01月02日 | 自分的エッセー


「まずはその話の前に、神様についての定義を決めよう」と言う。
その言い方には、有名大学を出て、親のコネで入った会社ではそんな成績も上げていないくせに
実家がそこそこしっかりしているから、あくせく必死に出世競争に参入しなくても、食う事や寝れるところは心配無用は勿論の事、元旦の朝に起きれば、雑煮の用意とおせちが当たり前に並んでいる様な家の奴が言う。
僕のこれからの発言は、今の僕の境遇を恨む様な言葉になるという事を、見越して先にそういったのだろう。
「神様は全くあてになれへんなー ?」と多分僕が今の生活の不満を言うだろうと言う事を予測してそいつはそう言った。そいつは、僕の今の現状を誰かのせいにする事を間違ってると言いたいのだと思う。
「自分は結構頑張ったから努力したから、今のこの生活を手にしてる~」と言いたいのだろう。
神様の話で僕と議論しようとしている様には思えない。多分僕のほうから、このちょっと恵まれたそいつの発言の中から、どこか墓穴の掘るところを見つけて、神様はいてるか、いてないか?の議論に持ち込もうとしているのが彼には先に分かったのかもしれない。

「確かにキーワードの定義が違っているといくら議論しても噛み合うはずが無いー」けれど、そこで使われている神様の言葉の語義は一意的でないから、一意的な定義が困難なキーワードを使わなくては議論は進んでいかないのだ。
「神」と言う語は完全に定義出来ない。「神」と言うのは僕らの知らないところにいるし、人知が及ばないのだ。それを人間が「これこれのものであると」と言う事は出来ない。これこれと言えたらもうそれは「神」で無い。


「そうなったんは自分の責任ではなく、他の誰かによって、人のせいでこんな風になったんや」と思ってるか?とそいつは聞く。
「 そこまでは思って無いけど、僕も頑張ったで!僕も親切な振る舞いもしたし、困ってる奴にもいくばくかの援助もしたけど」と言い訳チックに答える。
「それでも今となってはそれも言い訳にしか聞こえへんけど」と案外ズッキんとくる事をはっきりと言う。言い訳では無いと言う反論はむきになればなるほど、その真意が見抜かれてしまう様な気がするからその時点で、自分の責任でこの様になったという事を認めないといけない。

「お前は幸せやの~」と今度は素直さ半分を混ぜて僕は言う。
「人からはそう見えてるかもしれんけど結構しんどいところもあるから~」とそいつも陰にあるプレスやストレスを持ってる事を正直に言おうとする。
そこで僕は「こんな正統的な正月を迎えてるお前もか」という気持ちは僕を少しは明るくさせる。相手の減点で自分を浮かび上がらせる方法は、決して良いとは思わないけど少しは楽になる事ができる事を知っている。
「自由にできひんのか?」と聞く。聞くと言うよりその言葉を出す為にここまで話を持ってきたみたいなもんだった。
「大晦日から家族や親戚に黙って、どっか遠いところにでも一人で行きたいと思わへんのか?」とちょっと極端な所まで持ち出して聞く。
流石にそこまでの振りは考えて無いにしても、「今・ここ・誰~~」を変えてみたいなと思う事は正直あると言う。
「絶対に幸せやろ? 伝統的な正月を迎える事ができることは」と前言を確かめる様に今の幸せに問題が無い事を尋ねる。
「ル~ティンの生き方でよかったのか?」という質問にまで持ってきたがってる僕がいる事がハッキリ分かる
「大晦日に買った本を正月中に読んでみたり、ふらりと近所の神社に行って、一人初詣をしたり、スーパで年末売れ残った御節の半額を買って、大事にしているロイヤルソルートのウイスキーのあてにしたりしているのも~寂しもんやで」と僕は言った。
「お前らしいの!」と言ってくれる。この「お前らし」と言う言葉で、僕はいつも自分の立てる位置の地面を踏み固めている様になる。「そう言ってくれるのは嬉しいけど、自分らしくなくてもいいから普通の暮らしに生きて、自分の個性を活かすより、自分の体を活かして誰でもできる仕事をしたいのだ」と心に思っていない事が簡単に言葉になる僕だ。
僕は、「お前らしい」と言う言葉に弱いのだ。その言葉の為なら、寿命が少々減っても構わないと思っている。その言葉の為には正月の一家団欒を望まない事を良しとする事も引き受ける覚悟だ。
でも、この頃「自分らしい」と言う言葉もどうも信頼性に欠けてる様な気になってきた。

「お前らしいという言葉は、結構キツイもんがあるのや」と今度は僕が卑下をする。
「正統的な正月を真面目に迎えてること自体が立派やで~」と言う。
これは本心である。立派とは自分らしいとか自由とかを横に置いてでしか成り立たない言葉なんだと思うからだ。
そいつは、それをする為には、過去に努力もし我慢も沢山して多くの諦めが必要だったと言う顔をする。
何かを諦めたから、当たり前のそれを手に入れている気がする。当たり前のそれは、幸せなのか?という問いにいつも突き当る。幸せはそれを望む運動の事を言う。結果でも量の問題でもない。その理屈で僕は度重なる不幸せをパスしてきた。

「今晩は実家で親戚が寄るから、飯は食うて行かれへんは」と言ってあいつは席を立った。
これからどないするねんと聞いてくれる。
「全く目的なし、予定無し~の正月」と答える。あいつにとってはそれが落語に出てくる変な隠居の様に映ったのかもしれない。「長生きするはお前~~」と言って笑って席を立った。

僕は神様にお願いする時には、自分の寿命を差し出している。
お願い事の困難度に寄って、3ヶ月から3年位を交換している。其れを積算すると多分もう少ししたなら死ななければならないのだ。
でも頼んだ後はそのことも気にせずに生きていけるのが何とも、厚かましいのだ。
だからという事もないのだが、通りすがりにある小さな神社に寄って初詣を済ませて行こうという気になった。

絶対に聞く事のできない声を聞きに手を合わしそして耳を澄ます。
もう亡くなった身内の顔を思い出しながら先祖達は、何を言っているのかを、壊れかけたラジオのチューニングを合わせる様にコミュケーションのチャンネルを合わす。それは何かが聴こえるか聴こえないかの境である。聴こえるけど聴こえない。
けれど、その聴こえないけど聴こえる、その意味は分からないけど、その微かなメッセージは確かに「僕宛」であることは分かる。メッセージは意味のレベルより、宛先のレベルを優先させるように今までも生きてきた。意味は分からないけど、僕宛に届いたメッセージ!
僕は確実に僕宛に届いたメッセージのノイズを小さな境内で聞き取ったと言うより微かに受信した。
だからその意味を聞き取る為には場所変えなければならない。今いる場所では聴こえる周波数ではない。
今までと違う周波数が存在して、ここでは聴けないメッセージがある事に気づかされる。
僕は今いる所からどうしても外に出ない事にはそれが何であるかを聴きとれないことを知った。
いや知ったというより、先に僕が誤認したのだ。多分僕宛のメッセージなんだろうと!
だからその声や音の意味がなんであるかを知る為には、もっとこの意味がわかる所に行ってチューニングをしないといけないと思った。
こことは違うところに旅にでる。
それが僕らしいのか?僕は皆んなでワイワイとショウムナイ話で宴会している正統的な正月が本当は好きなはずなんだが。






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