スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きててみるvs願いことが叶うことvs実はこれかも・・・

2012年02月23日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。2週間ほどブログ更新が出来なかった。パソコンの調子が悪かったのと、一番の理由は、ブログに書くような心の琴線にふれるようなことにがなかった・・あったのかもしれないが、私の鈍い心はもう反応しなくなったのかもしれないが、見るもの、聞くものがまったく鮮度の失った野菜のように、瑞々しさがなかった。元から鈍感神経の私であるのだから、いまさらびっくりすることもないのだが、それでもふぅん・・と考えるようなこともない。実際は深く考えることが出来ないのだった。深夜バイトの疲れが2年弱で溜まっているのか、底辺すれすれ生活にすっかり安定を覚えているのか・・それとも1月20日位から我が家で起きた超貧乏生活で、白米、のり、かつお節の炭水過物の取りすぎで、脳味噌に栄養が回らなかったのか・・まったく世間に感じることがなくなったのだ。芥川龍之介に「みかん」と言う短編小説がある。みかんをあそこまで感じ、表現できることを改めて関心するのみである。

そこでの話しである。節分も過ぎて私の現状も何かしら変わっていくのではないか・・と自分なりに期待していたのである。今年にはいって数々の会社に履歴書を送り、興味のあるところでは、テーマを決めてレポートも送ったりしたが、6戦6敗している現状である。期間工なんかは絶対に受かると思ったのにあっさりと「採用しかねます・・」と返事がきた。この現況を変えようと思って、自分なりに動きを作ったつもりがあっさりと空振りとなったことも影響しているのか、「願いは叶わず・・」という自分なりの答えを出した。
世間では願望実現のセミナーや本やDVDなどが沢山と流通している。アプローチの違いはあれは、「感謝して生きる」とか小さなことからの成功体験を自分の中に積んでいき、目標を設定して一つ一つクリアーしていくことや、「ありがとう・・」とどんな場面でも呟くとなど・・が記載されている。
私も・・毎日、深夜バイト明けに、神さまと、ご先祖様に手を合わせ、「ありがとうございます」と謝辞を述べている。この祈りが私に珍しく10ヶ月ほど続いている。確かに、ありがたいなぁーと思うことは多々感じるようになった。
暖かい部屋、炊きたての白米、田舎から送られてくる野菜は、弱っている私の心には「本当にありがたい・・」と感じるのです。そしてその謝辞を手を合わせて祈るのである。
その祈りの中では、自分の望みを託すことは、しないと言ってもどこかにスケベ根性が入り、
「自分の満足するやりたい仕事がきますように・・」などをかすかに祈っているのかもしれないが、
子供のこと、両親のこと、知り合いの人のことを祈っているのである。
そして、その祈りはありがたいことに通じているような気がするし、話を聞いても「それはよかった・・」と思うような返事をもらうことがある。
そこでこんなことを思ってみた。
神様に祈ること、祈願することは「自分のことで」を祈ることではないと思うのだ。
人の為に祈る・・この回路こそが神様に通じることになるのではないだろうか?
腫瘍の出来た元嫁回復も貧乏の中でも卑屈にならず若者らしく男らしく生きている息子達、夢のある仕事に就くことができた友人など、周りのことには心惑わすようなことは見えてこない。ありがたいことである。しかしことこの私においては、ずーと迷っているし「何が出来る、どうすれば希望が実現する・・」と毎日悶々と暮らしている。
ということは・・誰も私のことを祈ってくれている人がいないのではないだろうか・と思う。
自分の願望実現は、いくら自分が祈願しようが神様に届く窓口が違うのだ。
神様は、他の人の為の祈りを優先して聞く傾向があるのではないだろうかと思う。
だから、自分の願望を実現をお願いするならば、その努力、汗の量、涙の数が必要になり、それがそろって初めて、神様の願い叶え局の窓口に願望実現の書類が提出されるのではないだろうか?

そう考えれば・・・いかに多くの方が、私のために祈っていてくれるのかが問題になってくる。
それこそ、こんなワンアウト、ツゥーアウトを喰らった人間のために祈ってくれる奇特な人などいないということになってくる。そうしていもらう為には、日ごろから真摯に生き、相手の立場になって物事を考えられる人となってなければならにのだ。うぅんんこれは難しいことである。
知り合い皆に「俺のこと祈ってくれ・・・」と電話しまくるわけにはいかないし、またそんあ馬鹿な話もまじめに聞いてくれるはずもない。他の人も必死なのであるから。
ここが、修行である。
私は自己願望の実現は、己の動方、努力の量、汗の多さにしかない確信した。
しかし、もとから弱い人間ゆえそこまで頑張れるかどうかわからない。しかし他の人がよくなってもらいたいという願いは、祈りに託すことが出来るのではないかと思った今、心から「ありがたい」という
気持ちが込みあげてくるのが、何故か嬉しいのだ。

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とにかく生きてみるvs自分タイガースファン

2012年02月09日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。いや今は絶対に生きてみるという心境である。2012年の年頭から決めた、「動いて・動いて」作戦進行中である。とは言っも動くとなれば経費がかかるのである。少なくてもその案件が500円以下の価値なければ、経費たおれになる。なんでもかんでもビジネスチャンスというわけには行かないのである。しかしそれでも出向かなければならない用件もあり、グーットこらえて涼しい顔をする。そんなことをしているから、チャンスも逃げていくような気もするが、逆に甘い罠に触手を伸ばすことも、おいしい話に一ちょ噛みをすることも減かもしれませんが、「これでいいのだ・・」と思えることが大事であり、自分のインスプレーションでこれはいけるのではないか・・・この人とは案外ビジネスがうまいこといけるような直感もなかなか湧かないし、今の自分にはそれはあてにならないような気がする。

さて、今後どのように生きていくかである。
深夜バイトは、しばらく続けようと考えている。今年に入ってから4連敗の就職合否があり、今のところ変化にたいしてのリスクを払えるくらいの魅力のある仕事が見つかっていないのである。
最後の水のトラブルの大手サービス会社の広告部門へのアプローチもだめでだったので、ひとまず深夜バイトを続けながら、もう一度求人をさぐりながらトライすることにした。

願望実現の道は険しい・・・・・
沢山の本や、啓発セミナーや、コーチングをされている人の話になんかでは、考え方が変われば、
「感謝の気持ち」を抱けば、「ありがとう・・」と呟けば、そのチャンスが見えるとか・・うんぬんとか言うけれど見えるどころか、ある意味もっとドツボに嵌っていくような気さえするのだ。深夜と昼をバイトに当てることには気持ち的には若干腰が引けるところもあるが、そんなことを言っている暇がない状況では、缶集めさえもやらしてもらおうかという気持ちになってくる。
この実現願望の話、自己啓発の話というのは、本気である程度生活できる(私からみれば余裕がある)人のロケットで言えば2段目の発射装置のような気がする。
ワンアウトツーアウトの50歳男にとっては、地面から飛び立つには、根本的は、時給いくらの底辺を歩きまわり、モガキ苦しみ、ようやく少し浮くくらいの物でも、その仕事がもかなかないのである。
そんな時などは、開運、自己実現方法、ツキを呼ぶ方法などの文章やDVDなんか、見る気も失せてくる。それでも生きてること、白飯とのりと醤油とかつお節が美味いことに感謝をする自分は、惨めの極みを行っているのではないかと思う。もっと世の中はポピュラーに元気を呼び込むものが存在するのではないか?絶対にあるはずと言いたくなった。

たとえば阪神タイガース・・・熱狂的ファンであるとかにかかわらず、勝てば元気がみなぎるようなこと、松山千春の「野に育つ花ならば力の限り生きてやれ・・」とかを聞くとか、寒い中でもお日様が溜まる温い場所に立ったときなんか・・人は元気になるのだろうと思う。つまり元気のもとは昔から、そこらじゅに一杯あるのだと思う。
そして、そこからの延長としたら、たまたま奢ってもらった焼肉を食べた時とか、もらったチョコレートをつまんだ時とかに改めて、五臓六方にしみこむパワーが感じ取られるのだ。ようはだ、今の私のような生活では、潜在意識や願望実現の魂を磨くような高度なヒーリングなどはいらないのだという話である。ましてそこに焦点をわせているとリアルな物や世の中が見えなくなるような気がする。
西成の愛隣地区で、心の癒しよりも一杯の豚汁のほうが元気が出ることはいまさら話すこともないだろう。よってヒーリングとかで自己実現や運を呼び込むことというのが、案外焼肉のうまさや、誰かの歌や、自然のお日さまの暖かさや、花や鳥の声や、無垢な赤ちゃんの微笑みを、素直に喜べないような輩が、駆け込む病院かお寺であるようなものであるのではないだろうか。

おかげ様で、私は今、焼肉を食べたり、「生きることがつらいとか、苦しいだろうと言う前に・・」とかんぼ歌を聴いたり、猫が横になるような日溜りを見つけと元気が出てくるし・・ありがたいという思いに満たされる。当たり前の話しであるが、癒しのアイテムはそこらじゅにちゃんと仕込んであうのだ。
それを俗ぽく見たりして、セミナーやヒーリングに走る人たちは・・・・苦労がたらんということになるのだと思う。苦労すれば・・ありがたさが身にしみて判る・・簡単な話である。

そして・・・目からうろこの話しとして、知り合いある方との立ち話しである。
自分のことを阪神ファンと阪神タイガースの関係であるとおっしゃった。
自分が、情けなくても、根性がなくても、泣いても、怯んでも、ファンにはかわらないから、そんな時でも変わらず自分を応援するそうなのだ。当然ちょっといいことがあったり、成功体験でも、人間関係でも良好な日々が来たときなどには、それはそれで、万歳万歳と喜ぶそうなのである。
阪神ファンは、負けようが、最下位であろうが、応援をすることにプライドをかけているようなところがる。それを自分を阪神タイガースと阪神ファンに置き換えて、情けない自分でも応援し続けるし、嬉しいことがあれば、態度で表現する、あの阪神ファンのように、自分自身のファンになるというこの簡単なロジックが、すーと腹に落ちるのだ。何故、今までわからなかったのか?・・なにがあっても決して愛想を尽かさないことが、ファンでありそこが大事なのである。
北村・・・頼むで・・また三振・・ため息。でも生きてるうちに優勝を見せてや・・・
タイガースが大好きやで・・・北村や北村の一生のファンやで!!

私は自分のことをここまでファンになれるのか!好きになれるのか・・・・虎狂までブレークスルーしたいもんだ。

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とにかく生きてみるvsどうも下を見る癖がある・・

2012年02月02日 | 自分的エッセー

とにかく生きてみる。深夜バイトの寒い夜中の自転車通勤も、諦めたというか、参ったというほうが正しいのか、気にせずにというか、パンチをそこら中に喰らったボクサーのように、徹底的にたたきのめされた開き直りが、まったく苦痛を伴わなく出かけるようになった。
一歩づつ、生まれてからこのかた続いたわがまま生活と甘やかされた自分自身に別れを告げれるような気になっている。

我が家に痴呆というか物忘れの激しい両親がいる。もう二人とも年金暮らしであるが、あいにく商売をしていたもので、国民年金の支給だけであって、かなり毎月きゅうきゅうとしている。
正月からこのかた両親の年金がなくなった。
それもいつもと変わらない生活をしているのだが、年金支給日より二週間前にすでに両親の生活に当てるお金がない状況になった。多分であるが?金を落としたのだろうと思う。そんな高額ではないにもかかわらず3万のお金をどこかに置き忘れたのか、落としたのかないのである。
はじめは何か様子がおかしいと思っていたら・・「お金がない・・」ということで、「どないしたんや・・」との問いにも何かわけのわからない答えが返ってくるだけなのだ。どっかに入れたままかもしれないが、「忘れないでおこうと・・」言う気持ちがつよく何時もと違う場所にしまいこんであるのかもしれない。そこで私も日ごろ以上に両親の身の周りの経費を負担することになった。
当然といえばそうなのであるが、あいにくワンアウトツゥーアウトを喰らったこの身ですから、懐具合いも寒い状態であり、いつものようにスパーの売り出しを、賢く買うというレベルにも達しない状況になっって来た。

今月は15日まで、なんとか食いつながなければならない。
そうすると今まで以上に炭水過物一本道になる。
まず餅。4~5個を食べる。味付けは醤油味と味噌汁にいれる簡易雑煮。腹持ちがいい。
食パン+ジャム(うす塗り)も安くつく。
案外冷凍食品は高くつくことも判った。それよりタイムセールを過ぎた惣菜を買うほうが安い。
それからこれが一番、のり+白飯+かつお節というトリオ漫才のようなスタイルは、飯をほおばるにはもってこいである。両親にはおかずを与えるが私はあとで一人炭水過物を胃の中にいれてエネルギーにしている。
昔の小説では、家族そろって雑穀と菜っ葉のつけもんや沢庵などで食事をとったことが、あの時代では当たり前のように書いてる。今から100年もたっていない昔では、これが当たりまえだったと、自分で自覚しつつつも、いやはや情けなくなるのだが・・・・・・・・・
だが、それ以上に「ありがたみが・・」本当によくわかるのだ。
いまさら「なんじゃ・・それは」を思いの方もいらっしゃいますが、馬鹿のアホの私はここまでこなければ判らない人間なんです。ご馳走になる、もつ鍋のあったかく美味しいこと、連れていただいたラーメンの油脂が、体にほとばしると、まるで錆びたエンジンにオイルが回ったように一つ一つの動作が
滑らかになっていく。
そして・・・・ありがたいという思いが全身を包むのだ。

いままで沢山の自己啓発本やスピルチャルに関する本を読んだ。
大雑把に一言で言うと「あがとう・・」という気持ちである。
そらを感謝というが、感謝の気持ちが一番大切であると締めくくっている。
どの本もブログも「感謝なんか・・」啓蒙の言葉であり、それは間違いであるとなんか書いていない。
感謝という気持ちを持つことが・・・・すべての幸福の始まりであると言い切っている。

今・・「感謝」を直に感じている。
しかしこの気持ちを感じるのにここまで重力とともに下までこなければならなかったのか?と自分ながらあきれること、しきりである。
そしてこの感謝の気持ちが、このアホな私にへばりついてくれるのかも不安になってくる。
調子をこいてまたいい加減に生きたとしたら今以上に重力を感じ、下へ下へおちていくのだろう。
とにかく寸前のところで、まだ生きさせてもらっている。

でも・・「感謝」を感じるときのありがたい気持ちから・・今度は自分がそれをしてあげれるようにという気持ちが、湧いてこなければいけないのにどうもそこが、ひん曲がった人間性の故、もっと窮したらさらに感謝の気持ちが高ぶるのではないだろうか・・みたいな考えもでてくる。今度は命にかかわるようなことも、そうなれば起きてくるだろなどと思う。
この変な求道者みたいな私の根性に渇をいれることは・・・それは食パンに何も塗らなくて食べる母の姿をみていると上を目指そうと思う。明日はあったかいカレーうどんが食べるように、上を目指そうと思う。

それでも・・・・スポリチャルや自己啓発を謳っているブロガーや各先生の様子を写真で拝見したり、文章を見たりすると、結構美味しい物を食っていたり、きれいな服をきて、きれいな顔をしたりしている方(特に女性)が多いようなんだけど、元からきれいな容姿であったのか、頭がよかったのか
判らないけど・・きらきらしている方にやたら多いのだ。
それこそブス、で容姿の悪いスピリチャル系や啓発系の講師がいないような気するのだが、それは生まれつきは普通であり平凡であったり、ドン底を見たりしながらも、そこで感謝をしったから、今のようにそうなったのか、それとも綺麗な顔や容姿が先にあり「感謝」を唱えて、今のように輝きだしたのか、判らないが、・・・・・・・・・・・

ブスの容姿の悪い、講師が「感謝感謝とありがとうございます」といっているセミナーはどうも見渡してもないのだ。
そんな人が主催するセミナーにこそ、「ありがとうの感謝の真言」が存在するような気がするのは、下ばっかり見ている私の癖なのか、カルマなのか・・・
また・・どこかに「感謝学」なるものがないのだろうかとも思う。

それでも上をみよう・・
私の子供のために・両親の為に・・世話になった人への為に。

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