スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

この夏、僕に贈られたのは「涙」というプレゼント

2015年08月13日 | 自分的エッセー


僕は見た!「何を?」て聞くだろうな。
もう見れないものを、いや見れないだろうなーと思っていたものを。
「涙を」をみたんだ。
それは女性の涙なんだ。

それは三条堺町イノダコーヒ本店のテラスが見える端の席だったんだ。
夏の午後のイノダコーヒの店内って、ブルーのワンピが似合う大人の女性が最高に絵になるのを知っていたんだ。
だからその席に誘ったんだ。
話しをしていたら、彼女の瞳に涙が溜まっているのがわかったんだ。
僕は話しも上の空でその涙に捕まったんだ。
その涙はそれ以上大きくなることもなく、瞳は潤んだままだった。
綺麗な涙だったから、その涙の訳は心配ないけど、その「涙」を見た僕は、永い時間固まったみたいな数秒を過ごしたんだ。
綺麗な涙は、どんな言葉よりも早く届くのだ。
見た瞬間に僕が止まる。そして何も言えなくなる。だからその涙を拭いてあげる事も出来ない。すぐ女性の涙を拭きたがる男は綺麗な涙の扱い方を知らないのだろうと思う。
本当に綺麗な涙は、そっとしておくことなんだ。そしてその後に来るあの瞬間を待つことなんだ

その女性の、涙を溜めた潤んだ瞳が、「微笑」に変わる瞬間を僕は見た。
「めちゃくちゃ可愛い」という言葉では尽くせないくらい可愛いかった。
女性の「涙」の映画があるとしたら、潤んだ瞳のまま、微笑みに変わる瞬間のシーンがなければそれは二流という事にしなければならないと思うくらいだ。

綺麗な涙だけでは、その物語は薄いのだ。
その綺麗な涙を溜めた瞳が、微笑む瞬間が僕は好きなんだ。

涙を溜めていた瞳が笑った。僕はそれを見た瞬間「このまま止まれー」と願った。
泣き笑いは楽しく生きると言うサインなんだ。
素敵な瞳の涙から、潤んだ瞳で微笑む、笑顔のスイッチは、それを見ていた人に大きな「生きよう」を贈ってくれる
それは今の僕には、本当に大きなプレゼントになる。

でもお返しが大変だ!






コメント (3)
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「神の位置」からはvsどうも違うvsとにかく生きてみる

2015年08月11日 | 自分的エッセー
とにかく生きてみる。僕は数年前に(7~8年)に社会人としてどん底に落ちた。要するに会社も潰れ借金もでき、明日からどう生きるかを短いタームで考えなければならなかった。
その辺からの話である。
ちょうどその時に「奇蹟を呼ぶ10人」というタイトルの本の編集に携わっていたのだ。
霊的な力を持ったエスパーさんを取材して文章に起こしていた頃である。
状況が状況だけに沢山のその様なエスパーさんに診てもらったり、占ってもらったりした。
有難い貴重なお話も、そうすることで「よくなる的なーー」な話も、藁にも縋る思いで聞いているにも関わらず、私の心の奥には入ってこなかった。
ご先祖さんも、八百よろずの神さも、絶対神も、私は信じないというスタンスではない。むしろきっと、どこかで助けてくれるのではー」と思っている方であった。
しかしその人達から受けるメッセージには心に波紋を作る事にならなかった。
誤解のない様に言っておくが、その様なご神託が全て「オカルトで悪い」という事言っているのではない。
話を受信する自分側の位置についての話しなのだ。

神様はいるーー
但しそれは、自分には全く理解できないし、何だかよく分からない基準によって感じられるし、差別化されたり、味方として担ってくれたりする。それは全く理解できない他者なんだと思う。
そして、いいことをしたから救われるし、悪い事をしたから罰せらられるという倫理をそこに当てはめる事も出来ないのだ。
もしその様な事が起きるのであれば、人間が神様をコントロールできる事になる。
その様な幼稚な行いをする者を神様とは呼べないと思った。

全く理解の及ばない者の言葉を耳を澄ませて、心を落ち着けて、「聞こえない声」を聴きに行き、聞けるかもしれないし聞こえないかもしれない微かな電波にチューニングする事が神様との向き合い方と知った。そしてそれでも聞こえないという落胆を自分自身で引き受ける事でしかないと思った。
それから僕は、自分だけに起こる不幸(そう呼べる物)も、其の不公平感も、正義が勝たない世の中も、すべてそれを自分自身で引き受ける覚悟の養成に自分自身の成熟とした。
「神」は人間には、(そこまで僕は悟っていないので)僕には「成熟」する事を望まれてると理解している。

今、沢山の情報や言葉が日々ネットから入ってくる。其処には本当にいい言葉や元気になれる言葉があるが、全てではないが響かない言葉が多い気がする。
そのほとんどが、まるで「神の位置」から発信している様に感じるからだ。
言葉尻の話しではないが、人間が「神の位置」から話す言葉にどうも危なさを感じるからだ。
「神の位置」から発信する言葉は、発信する本人が一番気持ちいいからだ。
だからその快感を何回も再現したくなる。
そうなれば、リアルな世の中で守らなければならない小さな約束や常識を忘れてしまうのである。そしてその災いは必ず、「神の位置」から発信する人間に、幸せをもたらさないのだ。

だからだった。僕はこのスピリチャルタイムというブログ記事から「神の視座」的な言い方を除外したのだ。
少なくとも私の周りの人達には、祝福のパスをリアルな言葉で贈ろうと思った。
だから「とにかく生きてみる」というテーマに挑んでいる。

とにかく生きてみるしかーー
その答えはわからないから、良い事も、悪い事も引き受ける覚悟だけが、ひょっとして「神の声」を微かに感じれるかなっと思っているから。


写真は滋賀県の竹生島です。
微かな神の声~~~
聴けたかも、聴けなかったかも、
それでも、その声を聞こうとする前のめりな姿勢だけが神様に接する態度なんだ。

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