スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

とにかく生きてみようvsシンクロするvs元嫁の腫瘍が見つかる

2011年05月27日 | 日記

とにかく生きてみよう。この間からの出雲大社へのお国かえり、そして人の為に祈るという、神道の大きな教えをほんの少し体感をし、今までの祈願が、全て私の仕事のことや、お金儲けのことばかりであったのを、反省して、少しでもみんなが、幸せに暮らせるようにと言う祈りをしている。今は深夜バイトと、たまにある、企画書等の作成で細々と生きている私に、皆様の幸せを祈る前に、「自分のことを考えたら・・」との声をいただく。自分のことを考えるということは、今の私の神道的な祈りの先は、自分の子供を考えることであると思う。実は・・・・
先日の出雲大社の大祭の時の、前夜祭のお神楽が舞っているときに、娘からメールが入っていた。今まで、ほったらかししていた子供からの久々の当然メールであった。
ママに腫瘍がみつかり、入院するとのことであった。暫く金銭的に助けて欲しいとの旨であった。人生にワンアウト、ツーアウトを喰らっている男にとってお金の都合をつけることは、そんな簡単なことでない。また借金してと思ったが・・・今更誰も貸しては呉れないし、もう人に頼る訳にはいかない。「今さっき・・・この出雲大社に着て、人の為に祈ることやなあ・・と思った矢先に、祈りをとおりこして、人の為に動くことを指されたことに、感動とともに生きることの厳しさを味わった。お神楽を見る印象も、神様を思う印象も一瞬にして変った。
「まじで・・・その思ったことを(人の為に祈る)が、実際に出来るのか?行動であらわすことが出来るのかを今、問われた印象がした。前夜祭が厳かに終わり、宿に向かい、メールを返した。
「心配するな・・・・」「なんとかするから・・・心配するな」と打った。
思ったことが、目の前に起こる。シンクロニティーが起こった。
神様の前で、何で今なん?何でこの俺なん・・という泣き言はいえない。何故かいえない雰囲気とそんな気が漂う。今までなら「何故こんなことが起きるのか?」を天に向かって呟いただろう。しかしこの出雲の地では、そうならなかった。「どうすればこれが解決し、子供らの不安を取り除き、元嫁の腫瘍がなくなるか、若しくは悪化せずに過ごせるか?」を考えた。

何故こんな悪いことが起きるかという質問をすれば・・自分の潜在意識の中では、ずらーりと、その理由は浮かんでくる。いい加減、責任感なし、自分本位、等等・・・そしてそれが自分の意識となり、悪い方向に気持ちのベクトルは向いてしまうのだ。
だから、どうすればいいのかの質問を自分に課すことにする。
「深夜バイトをやめない。昼間の仕事を増やす。しょうむないものにお金を使わない。・・・」
そしてまたそれぞれにどうすれば昼間の仕事が増えるのかを考えることにする・・・
その質問の答えがいくつも浮かんでくる・・・それを今、私の潜在意識に埋めこみまくることにする。そしてそれが、言葉や、行動や態度に変ることを・・信じている。


この出雲でのシンクロは、必然であると、お供させていただいた先生がおっしゃる。私もそのように思う。であるからこの度の祈願には・・
子供達の生年月日と名前と記した。そして元嫁の生年月日と名前も最後に書いた。

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とにかく生きてみようvs東京貧乏出張

2011年05月25日 | 日記

とにかく生きてみる。お世話になった岡山の社長さんの用事で、東京に出張した。1泊2日のスケジュールでした。当然止まるところは、クライアント先の寮に泊めてもらいます。
朝9時に錦糸町に行く予定でした。余分目に川を出発したら、いきなり秋葉原での人身事故の為、京浜東北線、運転見合わせ、それにともない東海道線は、大混雑。ホームは人手溢れ返っているは、人の行列は動かないは、後から後から、到着の列車から、通勤、通学の人がなだれこんでくるはで、川駅構内は、パニックに???と・・・・・
思っていたのは私し一人かな、と言うくらい東京子は、平然としているのでした。
私鉄振替の切符を貰い改札を出て行く人、なれたもんで、人身事故なら20分もすれば、ダイヤが回復すると見切り、長い列に並ぶ人。これくらいの電車アクシデントは東京では、驚いたらあかんのです。私は、私鉄に振り替えようか、このまま京浜東北線を待つか?アナウンスで言ってるように「その影響で東海道線も遅れが出ていまして、電車が着ても直ぐに乗れません。お並びいただいた順番にご乗車をしております!!
「どれも!!人が一杯や・・」「間に合わん」「どの選択をすべきか?」と案内サインと見ながら、人々に体を当られながら、高校生に軽蔑されながら、執るべき方法を考えた。
もともとから乗る予定のラインを選択して、大阪万博アメリカ館以来の、幅の太い列の最後尾に体を進めた。

 

墨田区錦糸町に何とか45分遅れで到着した。駅を降りた瞬間、東京スカイツリーが目に飛び込む。途端におのぼりさんチックになる。携帯でスナップを押さえる。まーなんと高いこと・・
生まれてこの方私は世界一をみたことがあっただろうか?記憶にない。なんにしても世界一をこの目で見ることが出来たことに感謝しよう。

 

さて東京貧乏出張では、昼ごはんが肝になる!!
夜はコンビニで弁当を買って部屋食べるのだが、昼は外で頂くのだ。
大阪にない激安ランチ屋が多く、どれも美味そうに見える。
また、街の中華屋さんが多く、華僑さんが作っていそうで、雰囲気もある店が多い。
それでもコーヒー付きのランチで600円でボリューム満点のJRA場外横の、ダービーという喫茶店兼レストランで食べた。量の多さにはビックリでした。また合い席の了解をとられていたので、私の席には3名の会社員とOLが座る。全てタバコ吸いチームであり、街中のチェーン店では、禁煙になっているので、街中の喫茶店に足が向くのだろう。人がいる>物が売れる>サービスが出来る>また人がくる。という好循環モードには感心する。人がいること、需要があることが、やっぱり活気につながるのだ。


さて帰りは・・・約束とうり深夜高速バスの利用となる。新幹線に比べると、4000円安い。
横浜西口23時15分出発の近鉄バス。3列シートのリクライニング、トイレ付き、お茶、水、は紙コップでセルフサービス。この交通機関は、全く人の需要がない。たった3名を乗せて、大阪に向かう。採算が合うとかの問題ではないが、やっぱりこれだけは耐えられんことがある。
「バスは、道中4箇所くらいに休憩に入る。それは乗務員の交代と、バスの点検の為であり、乗客は、一切外には出られないのだ。完全ミッドナイト護送車として一路大阪に送られている。
また、到着が午前6時となれば、そこから何をすればいいのか(大阪出張の場合)判らないだろう。ただ時間を早朝のビル街で過ごすことは、かなり落ち込むだろう。
安い=それなりに欠点はあり、それを飲み込んでその対価を支払い、納得するのだが、7時間のバスの中は、いくらリクライニングが倒せても、眠っても、気持ちがシンドイものだ。
この深夜バス、ミッドナイトライナーと言う。飛行機感覚で乗るなら、これも納得しよう。

東京1泊出張費は、交通費を入れて20000円で納める。疲れは自分で癒す。
あー貧乏。

 

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とにかく生きてみようvs出雲大社参拝vsおかげさまをいただく

2011年05月18日 | 日記

とにかく生きてみる。先日5月13日に、縁ありまして出雲大社の例祭に伺わせていただきました。そのことを出雲大社では、「おくにがえり」というので、私は、初めて「おくにがえり」をさせていただきました。2日間でしたが、神様との対話を十分にさせていただきました。
神社参拝は、正月の初詣で以外にはほとんど行くことはありませんし、また観光地などに行った時に参拝させていただく程度でした。
ところが、今回のおくにがえりは、その神道の習いに添ってのものなので、神様との向き合い方が、きちんとしていて心が洗われる気持ちになりました。
まず、出雲大社の出元である、熊野神社におまいりしました。「初め」を、「先人」を尊び、それに敬意と感謝をもって参拝いたします。全てのお社に参拝する場合には、鳥居の入り方、水で、手を洗い、口を濯ぎ、端を歩いて本殿まで歩きます。お賽銭は、神様に種を奉納するということで手の平にのせて賽銭箱に丁寧に入れる、4礼4拍(出雲大社では)でお参りをいたします。
そして、神様の故事にある、場所をすべてそのしきたりで参りいたします。
熊野神社では、お水をもらいました。
それから稲佐海岸に向かい、神様が神有月(11月)にこの出雲に帰ってこられ、八百万の神さまが、会議を開かれる時に神様が上陸される海岸に参り、そこで砂を頂ました。その近くにある日御埼にある、日御埼神社にお参りをして、本庁出雲大社に到着となりました。それぞれの場所では、それぞれの神様にお賽銭の種を奉納して、手を合わせ、お礼を(この場所にこれたこと)いたしました。出雲大社では、夜祭に参列させていただき、古の神々の神事を時代を遡り、その厳かな笛、太鼓、舞を見させていただきました。
翌日も、出雲大社の周辺にある神様を早朝から参拝し、天皇陛下の勅旨様がこられる例祭に参列することができました。例祭がおわり、祖霊社という先祖をまつる社で、祈祷を受け、この出雲大社の「おくにがえり」が、終わりました。

さて、私は今までこの短時間にこれほどの神社におまいりすることはなかったのです。ですから御参りについては、観光気分が殆どであり、心を込めてという感じではなかったのですが、10箇所も御参りさせていただくと、その作法も初めのうちはぎこちないものになっていたのですが、習うより慣れろといいますように、お社の歩き方、水でも清め方、賽銭のやり方、礼と拍のたたきかたが、馴染んでくるのでした。それにもまして、神様にお願いをすること、手を合わせて心で呟くことに、変化がでてくるのでした。
最初は、「どうか、私の仕事がうまく行き、お金儲けが美味くいきますように・・・・」と手を合わせ、祈るのですが、何回も同じことを祈ってると、「何かつまらん人間やな・・自分は」と思うようになり、そのうち「今日はありがとうございます・・いい天気で、無事にこれて・・」と感謝するような祈りにかわり、「最後のほうでは、子供達が健康で、幸せに暮らせるように・・」となり、最後は、「日本の安泰と繁栄をお願いいたします」と手をあわせているのでした。
自分でも不思議でした。が、その時感じたものは、それは今までの色々な方に指摘されていた、「自分の為だけに生きるなよ・・・人がよくなり、自分もよくなるもんだと・・」ということが、すーと心に落ちたのでした。神様に祈ることは、周りの人がよくなっていただくことを祈願することではないだろうか。親の病気、子供進学、娘の縁談、夫の仕事のこと、みんなそれは大事に思っている人の為に、祈っているのである。
私は今まで、本気で人の為に祈りをしたことがあるだろうか?
「ない」まったくない。あまりにも自分の欲に執着していたことだろうか!
神様は、この国が安泰で栄えるように、全ての民に向かって祈っていたのだ。神様は自分がいい暮らしをしたいなどこれっぽっちも思ってなかった。
また神様はこの自然界に、日月火水木金土 変え、そこに宿り、日々人間の暮らしを見ておられる。その神さまに感謝することは、この自然界に感謝をすることである。水を汚すな、木を無駄に切るな、地面に痰を吐くな!それをやられたら神様もいい気はしなだろう・・・

何かが、晴れた!
自分のことには執着することで、願望が実現できないのだ。
神様のおられる祭殿、お社や、拝殿は、とてもシンプルである。しかし厳かな感がする。
それは、わかりやすいということをであろう。偶像の神体があるわけでない。わかりやすいが故に人は、粗末にするし、私はしてきた。今から私の祈りは私の利益の為になく、わが子供、両親、そして私の周りの人々に捧げようと思う。

震災での慰問に、7週続けて被災地を見舞われた天皇陛下、皇后様のあの透明感のある行動には、その姿には改めて感心と共に、涙がでてくる。人の為に・・国民の為に、この国の為に、ただそれだけである。

私は、この出雲参拝により、有難いものをいただいた。「人の為に・・」という心である。
素晴らしい「おかげさま・・」を頂いた。

 

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風俗嬢が求めたスピリチャルとは?vs「ヒーリングタッチ」のあとがき

2011年05月09日 | 日記

以前にこのブログで書いていた、風俗嬢の求めたスピリチャル「ヒーリングタッチ」について、ある方から電話があった。3年くらいはお会いしていない昔の知り合いであり、その方も以前は、風俗に少し触れる、セクシーチャットを運営されていた。
話の中心は、風俗嬢のサービスは「癒し」か?ということ。
他人にはそれぞれストレスがある。人はそのストレスを解消する為にある人はお酒を飲み、ある人はギャンブルを、また旅行や、音楽鑑賞や、美味しい物を食べることで、ストレス解消する。
その中で、性的な接待をしてもらい、気持ちよくなるという、人間三大欲のひとつ、性欲を満たすことも、人によってはストレスの解消になっている。この性的な欲求をお金を貰ってするのが、風俗嬢である。この業は、それこそ奈良時代以前からもあり、何時の世もこのサービスを必要とする人間がいるのである。
風俗の女性はこの世界に足を入れた時から、自分に対して何らかのひけ目をもつ。性的な行為は、純然たる「愛情」の上に成り立つものであると、幼いころから、もっと以前のDNAの中に、漠然と刷り込まれてきた。お金を貰ってすることが、いわゆる商売女として、蔑んだ言い方で自他共に心のどこかに影をおとしている。またこれが、お金を全く必要としないヤリヤリ大好きな女性では、意味が違ってくる。それは狂気という恐ろしさを携えていることで、男の方からしてみれば、性的な興奮がなく、情緒も素っ気ないものであり、本来の射精感からくる癒しには繋がらないのだ。いいペアー同士(結婚、恋人同士)でも本当の体同士で愛のある会話が出来る人は、これには当てはまらないだろうし、お金で女性に性的なサービスを受けるのが嫌な人もいるだろう。でも、そのような境遇にない人にとってその風俗嬢とのひと時は、正に癒しの時間になるのだろうと思う。
風俗嬢はその道に入り、お客を獲った瞬間から自分否定が始まる。しかしそんな思いをしてまででもやれるのは、身入りがいいからであり、お金と自分の気持ちを天秤にかけたら、心の弁償代を払っても、おつりがくるから続くのであろう。しかし幾らお金を得たところで、心のどこかには、穴が空いていて、いつも風が吹いていることを意識している。

しかしこと癒しのプロとした場合はどうだろう。巷には癒しやリラグゼーションの看板をだしているお店も多い。気功、オーラーソマー、チャネリング、瞑想・・・・etc 本当に沢山のヒーリングアイテムが今存在する。どのサロンも、一対一に近い設定で話を聞き、クライアント(お客)さの体に触れたりして、瞑想音楽を聴きながら、不思議な香りを焚きながらセッションをする。
何かボーとしてきて、体が熱くなって、自分自身の心が開放された気持ちになり、あー気持ちよかった・・癒されました・・・・・ありがとうと言ってお金を払う。この行為と風俗嬢に抜いてもらう行為と、どれだけの差があるのだろうか?
歳老いた男が、今更、自己発見や自分の魂を浄化するためにこのようなサロンに通っているという話は聞かない。殆どが20代30代40代であり、この先の人生をもとよりよくして、幸せに成りたいと思っているかこそ、ヒーリングサロンに通うのあり、死を現実のものとして見えかけてきている人は、ある意味、すでに今世では達観している。でも最後に、気持ちよいことをしてもらいたいと、もう一度だけSEXがしたい思う心は、人間らしくて私は好きである。その要望に答えてくれる風俗嬢も、セラピストであり、癒し家業>ヒーラーなのだ。
風俗嬢が、自分の境遇、自分の今の様子に対して自分を褒めることが出来ない理由は世間体であり、特に自分の今の仕事を堂々と言えないことで自分を信じられなくなり、心に偏重が起こり、必然的に生活にその余波は襲う。
一方では、全てとは言わないが、他人の人生に無責任に入りこみ、心の浄化や、カルマや、魂の目覚めなどと言って、商売をしているヒーラーたちは、ここぞとばかりにブログやホームページで自分の考え、その方法を肯定している。お金を取らずに人をリラックスすることならまだ話もわかるが、お金をとって、宇宙の法則を支配しているようなその態度は、体をはり、気持ちよく、してやろうとする風俗嬢より、なんか下衆と思うことがあるのだ。

障害者の性の処理と言う問題がある。やはり元風俗嬢の方が活躍されていると本で読んだ。
障害者の方が、チャクラや、宇宙の光がどうのこうのが理解できる訳がない。しかし男性の障害者も女性の障害者も人間の持つ「性欲」を満たすことが出来きることで、どれだけ癒され、生きるということに勇気をもらったことだろうかが判る。
そんな風俗嬢が、元来持っている資質(気を発しやすい)に気が付き、自分の手、自分体、自分の性器から伝わる、気が性的なものと合わさったら、どれだけ気持ちのいいものになるのか、
どれだけ、ストレスが発散され、明日の活力になるのか?至極の気持ちよさだ。・・・
私はあえて極端なことを言う。風俗嬢も巷のヒーラーも本質的には一緒であると。だからあの小説(私のブログにある)のように、風俗嬢が取得したレイキを、それがどれだけの力かをこの国で、見つけることができなったことで、やっぱり所詮・・・・風俗上がりのヒーラーなんか駄目だと、がっくりするのではなく、、その素晴らしいSEXが癒させることがいつか判るときがくると思っている。

今彼女は,外国にいる。多分向こうで彼氏が出来、幸せにくらしているだろう。
元風俗嬢の過去は海を渡ると同時に消える。また消えて欲しいと思い海外に旅立った。
そして今、愛する人だけにその癒しのヒーリングタッチをしてあげているのではないか!
すくなくとも、その彼は、死をイメージできる歳になっても最後の射精はこの元風俗嬢の愛する女性の手のなかのはずである。

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とにかく生きてみるvs負荷をかける

2011年05月08日 | 日記

とにかく生きてみる。深夜バイト7日連続があけたのち、1日休まさせていただいた。
ゆっくり眠ることができた。この日があるからまた頑張れるという気がした。そしてまた5日間の深夜バイトが始まる。刑務所に入ったつもりで頑張決めたのであり、私の刑期が終わるまでは、やめたくてもやめることは出来ないと、想定している。だから辞めるという言葉が、今存在しないのだ。しいて言えるのなら模範囚となり、早く刑務所を出ることに努力することであろうか??

この間、通勤の途中の中古専門のバイク屋さんで、安い50ccの原付が展示されていた。
今自転車では片道45分かかるのである。原付だと15分くらいにはなる。かねがね、この深夜作業をやめたいと思う理由のひとつが、この通勤にあるのではと思う節がある。結構、激しい登りを2箇所と、歩行者の陸橋を2箇所越えなければならないのだ。まっすぐな道なら「自転車、自転車ランラランン」と色々と考えながら走れる所を、その登りにさしかかる前に、シンキングブレーンが、現実に戻り、「坂や!!」と一度気合を入れ直さなければいけない。そこには「頑張るぞ!・・」との思いもバイトを始めたころなら多少あったが、今は日本の国土交通省の道路政策の無策ぶり、もっと言えば自転車移動族のことを全く考えていない道の設計に、腹をたてているのだ。しかし自動車は税金を支払っているの、自転車は税金も払っていない。只で道を使っているのだから・・・・と夜中の坂道を「しゃあないな・・」と思いながら、力を入れて漕ぐ。
私は健康のために自転車通勤をしているわけでない。お金がないからである。
金がなければ・・・文句も言えない。自分に負荷を賭けるしか生きていく方法はない。

しかしその効果はある。災い転じて福となる。ではないが、まずお金がかからないのが一番であり、体が鍛えられるし、街の風景が車よりもグーンとアップで見つめられることである。
これも通勤途中の話しであるが、毎朝7時ころには、玄関先で魚をさばき、仕込みしているすし屋がある。夫婦でやっているのだろうか、店は目立たない小さなところであるが、清潔にしていいる感んじのよい店である。毎日魚を仕込みこの店は、お客さんが多い>ネタが残らない>朝から仕込む>ネタが新鮮>お客さんが来るという、好循環で商売をされているように思う。
昼もやっているのだろう。一度食べに行きたい。などなど貧乏人中年崖ぷち男の心象風景が、楽しいときもある。でもわくわくしながら自転車を漕いで仕事にいく感じにはならない。

今までの人生があまりにも責任感のないような生き方だったのだから、この位のことは耐えなければと思う。周りの方達も内容こそちがえど、自分に負荷をかけて生きていらっしゃるのだろう。
自転車の負荷がなんだってんだ!!!。弱い私であるけどもっと自分に負荷を掛けていかなければ、またゴミの中に埋もれてしまうような気がする。

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