スピリチャルTIMES 「とにかく生きてみる!」

スピリチャルTIMESの編集長北村洋一が、この不確定な社会に生きている人々の喜怒哀楽をレポートする。

風の人vs聴こえるかvs愛の風を

2015年07月28日 | 自分的エッセー
とにかく生きてみる。有難いことに、今は生きさせられているということなんだろう、今の状況から言えば。それは決して悪い意味でのことではない。
今月1日に父が亡くなった。常識破りの弔いをさせていただいた。その時の思いはまだ語る事はできない。もう少し時間が経てばこのブログに載せてみる事もある。
ただ、これで良かったのか?という切迫だけが今もつきまとう。
ただこの「やりたりなさ!」が弔いを担保するのだと思う。
聞こえる事のない亡くなった父の言葉にチューニングを合わせて、耳を澄まして微かなメッセージを聞こえないけど聞こうとする事でしか今はやり足りなさを補えない。

さて、昨日ある人に「貴方は風の人」なんですよと言って貰った。

この話から、この夏の自分モードが決まった。
「風になる~~~~」のだ。
まずそう簡単に、それに預ける事が出来るのかと?ご指摘がありますが、僕のスタンスとして、自分の事は他人から言ってもらう事が大まか正解である事が多い。
そしてもう一つ
「そのことを僕に話すことで貴殿は何のメッセージを伝えようとしているのか?」を考え、それが良いことならそれに従う様にしている。
昨日の、その時は緩やかな空気の中、微笑ながらの言葉は祝福を乗せて贈らてきたと感じたから、僕はそこに有り金を置こうと決めた。


さて風ーーになる
暖かい凱風も、追い風も向かい風も、つむじ風も突風も色々とある。
しかし「風」は全く視覚的には捉える事が無理な代物である。このブログを書く為に「風」の画像を探してみてもどれも風を表現する為には必ずもう一つの対象が存在する事に気がついた。雲、木、水面、曲がりかけの傘など。
風は対象物が変化をする事によってしか風と認知されない、要はその現場で吹かれなければ風を認めることが出来ない。
だから絵や写真では分からないのだ。実在主義なんだとすれば、風は視覚的でない。風は偶像にならないし、風のみでの存在は無いのだ。
何か、誰かが「風」と呼んでくれて、初めて「ハイ」と答えることが出来るのです。

風は聴こえるし運んでくる。
風は見えない。聴かれる事でその存在感を表すし、運んで来ることでそれは自分宛であると知る。
もっと言えば、誰もが自分宛に届いたと思うメッセージを「風」と呼ぶのだろう。

では、この夏「風」となる僕は、何を喋り、何を運び、何を届けるのか?
誰だって弱いから愛が欲しいのだ。僕もそうだから「愛」なのだ。力になる物、贈る物といえば愛しかないから、そう決めた。
愛は唯一他者からしか貰えない物だから、風が贈る物は昔から愛なんだ。
僕の風は愛を乗せる。心地よく吹き、背中から吹き、正面から吹き、触れるだけでも痛い傷にはシミない風をゆっくり吹いてあげる。

今のところは「貴方は一人では無いのだから」
「寂しくはないから」という想いを僕の「愛風」のキャチフレーズとして、愛言葉の中からチョイスをした。
僕の風が誰かの一歩を助けて、誰かの涙を乾かして、誰かの汗を心地よいものに変える様に吹いてみる。そしてその風を貴方に届けよう!風の正体がバレぬ様に何気なく届ける。
千の風まではなれないけど、僕の周りだけでいいから20の風でスタートしようか!



そんな「風の人」の僕にも風が少し必要だった。
吹き始める為に、誰かから風を受けなければ僕の風は立ち上がってこないのだけれど
昨夜、ゆるいエスニックレストランで、
蝶々の羽ばたきくらいの風だったけど
僕に届いた風は優しかった。
だから僕は風になれる!