ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ブルー・スピリット・ブルース

2011-02-15 02:02:13 | 60~70年代音楽
 ”Blue Spirit Brues”by 浅川マキ

 この間も書いたけど、事情が事情だけに「待ちに待った!」とか書くわけにも行かない複雑な成り行き。
 自作のCD化を強硬に拒んでいた歌手本人の死去によって、やっと再び世に出ることの可能になった、浅川マキ70年代作品の一つ。今回が初CD化である。
 などと言っているけど、このアルバムは当方も聴いたことはなかった。オリジナルは1972年度発売ということで、その頃には私も、それほど気の入ったマキ・ファンでもなくなっていたということか。

 飛び出してきた音の、ある種の湯上り感覚に、こちらの方の力も抜ける思いがした。湯上り感覚ったって、冒頭の曲は”自分が死んだ夢を見て、夢の中で地獄の鬼にフォークで差されて・・・」なんて歌詞内容のドロドロのブルースなんだから、こんな不適当な表現もないものだが。
 それでも。なんかマキの背負っていたいろいろなものが洗い流されていて、そのスッキリ感がまず印象に残る。

 淡々とリズムを刻むギターとブルージィに合いの手のフレーズを入れるギター、これだけをお供のブルース小唄集だ。細かく見れば、それにトランペットが入ったりピアノが入ったりはあるけれど、基本はシンプル、モノクロな音像で事は淡々と進んで行く。マキの歌声も明るい。いや、明るくはないか、暗くはあるが湿度がずいぶんと排除された歌声である。
 そこにはデビュー当時色濃く影を落としていた寺山修司もいなければ、60年代末の重苦しいアングラ魂も淀んでいない。フフン~♪と好きなブルースをハミングしてみるマキがいるだけだ。

 ある日ふと立ち止り、歌手稼業をここまで続けて来た自分を振り返ってみた。そして、いつのまにか背負わされていたさまざまなものを、いったん地面に下ろしてみた。そんな盤じゃないのか、これ?
 そうだよ、重過ぎる曲、”奇妙な果実”だって、「あのビリー・ホリディの」なんて考えすぎずに歌ってしまえばいいんだ。という次第でここに収められたそれは、”洋楽好きなマキ”の横顔をがうかがえる嬉しい作品となった。

 それから。ライブや別の盤で聴いてよく意味の分からなかった"大砂塵”なんて曲がスッと心に入ってきた。何でそんなことになったのかまるで分からぬままに見知らぬ街の夕暮れを見上げる永遠の迷子。それにしても、”ハスリン・ダン”みたいな歌、もっと歌ってくれたら良かったのにな。
 とはいえ荷を下ろし一息ついたのもつかの間。人間は生きて行くうちに、またいつかいろいろ余計なものを背負い込んでしまうわけなんだけれども。




鍵盤バイオリンの怪異

2011-02-13 02:55:29 | ヨーロッパ

 ”ASA JINDER (nyckelharpist) ”

 な~んかこの週末には、さらなる寒気がやって来るそうですね。もう、いい加減にしろよなあ。風邪を引く半歩手前くらいで踏みとどまっているワタクシですが、もう我慢ならん。こうなりゃヤケだ、酒飲んじゃおうかな、今夜。
 飲んでいい日じゃないんだけどね。それ以前に寒さと何の関係もないが。逆に明日の朝、ただでさえクソ寒いのに二日酔いで起きるんじゃ、ますます良いことないんだけど。
 という訳で、寒いからってアイスランドの話ばかりもしていられないんで、今回は北欧の伝統音楽をある面で象徴するような楽器、鍵盤バイオリンなど。

 この呼び方、現地ではキイ・フィオールとか呼ばれているのを直訳したみたいだけど、他にもnyckelharpaとか、いろいろ呼び方はあるみたい。まあ、上に張った絵や下の映像を見てもらうのが早いだろうけど、異様と言っていい外見の楽器です。基本はバイオリンの左手部分の操作を直接弦を押さえずにキイを使って行なう仕組みになっている。
 かってはヨーロッパ中で見られた楽器で、私もスペインの古い絵画に、この楽器と同様の構造を持つ楽器が描かれているのを見たことがあるけど。でも次第に使われることがなくなって、今では北欧民謡の世界の片隅で命脈を保っている状態のようだ。

 ともかくそのキイの数だって何本あるんだ?弦だって20本以上張られているんじゃなかろうか。楽器全体の構造もめちゃくちゃ複雑で、こんなものの操作を習得してめんどくさい思いをして演奏するより、普通のバイオリンを練習して弾いちゃったほうが効率的じゃないか?とか思ってしまいますな。コスト・パフォーマンスが悪すぎるって奴だ。違うか。
 まあしかし、普通のバイオリンでは、この楽器の深く暗い闇に沈みこむような独特のタッチは出せないんでしょうね。重厚にして翳りのある、とでも言うのか。ここでは北欧民謡の一典型が演奏されているわけですが、こんなメロディにはいかにも合う感じは確かにいたしますな。



遥かなるノース・カントリー・メイド(後編)

2011-02-12 02:59:07 | フリーフォーク女子部

 ”Come My Way”by Marianne Faithfull

 という訳で。昨日に続いて今度は、マリアンヌ・フェイスフルの”もう一枚のデビュー・アルバム”について。ちょっと送れて世に出たゆえ2ndアルバムと認識されている、フォーク色の強いほうの盤だ。
 昨日は、「レコード会社の方針が定まらなかったゆえにデビューアルバムが2種類も出てしまった。そう考えるほうが面白い」なんて書いたけど、このアルバムを聴いてみると、「どうしてもフォークっぽいアルバムにしたかったマリアンヌの真意をレコード会社が受け入れた」という解釈のほうが当たっていそうだ。

 ほとんどギター一本がバックみたいなシンプルな音つくり。ギター弾きのスタイルは、当時のアメリカのフォークロックの影響が色濃く、デビュー当時のバーズが偲ばれたりする。
 その中にマリアンヌのキリッと背筋を伸ばした感じの歌声が響く。前作のポップな装いに戸惑い、自信なさげだったボーカルとはかなり違う。そもそもが実力派といえるような歌唱力の持ち主ではないが、自分の信ずる音楽に筋を通したという思いが凛と通っている感じだ。

 声の出し方は当時の女性フォークシンガーのトレンドというか、高音をきれいに響かせるジョーン・バエズっぽい方向。歌われている曲目は、ポートランド・タウン、朝日の当たる家、スペイン語は愛の言葉、風は激しく、などなど。アメリカのフォークの影響が強かった当時のイギリスのフォーク・シーンをそのまま映し出している感じだ。
 ウッドベースが唸り、ジャズィーに生ギターがスイングする「朝日の当たる家」のアレンジは、どう考えてもそこで浅川マキが出て来そうな雰囲気が漂い、そう気がつくとおかしくてたまらない。
 ともかくもどの曲もみずみずしい情感に溢れ、窓際に置かれた一輪挿しの花みたいな瀟洒な出来上がりのフォーク・アルバムなのである。これはもっと早く聴いておけばよかったよなあ。

 そしてここで展開された世界のさらに高次な結実が次作、「ノース・カントリー・メイド」なのだから、これは聴きたい。が、これが手に入らないのだな、最初の話に戻るが。
 何年か前にボックスセットの中の一枚として再発売になったもの、どうやら「ノース・カントリー・メイド」のCD化の例はそれだけのようで、それもとうに廃盤。今はただただ無駄にオリジナルのアナログ盤が高値を呼ぶばかり。なんとかしろよ、レコード会社。

 ところで。「2種類出たマリアンヌのデビュー・アルバム」の、どちらが商業的に成功したかといえば、最初のポップアルバムがこちらの倍の枚数、売れたのだそうな。まあ、あちらにはヒット曲も含まれているし。
 いずれにせよ、これは勝った負けたの問題ではない。だってこのあと彼女は先に述べたセックスやドラッグにかかわる芸能スキャンダルに巻き込まれ、なにもかもがフイになってしまうのだから。マリアンヌがミュージシャンとしての自分を取り戻すのは、音楽シーンが次の展開を迎えた後のことである。
 そして、ハードなサウンドをバックに強力な声で人生にかかわる重い歌を歌う今のマリアンヌに、あまり私は興味をもてない。まあ、時の流れは過酷なもの、失われたものは2度と戻ってこないのだから、そんなことをブツクサ言ってみても詮無いことではあるのだが。



遥かなるノース・カントリー・メイド(前編)

2011-02-11 02:44:44 | フリーフォーク女子部
 ”1st”by Marianne Faithfull

 という訳で、あいかわらず肝心の3rdアルバム、”ノース・カントリー・メイド”が手に入らないマリアンヌ・フェイスフルなのだが。興味を引かれている彼女の”フォーク期”のその他のアルバムなどは、手に入りつつある。
 たとえば今回のこれは1965年4月、英国デッカから発売された彼女のデビュー・アルバムのようなもの(?)である。
 ようなものってのも変な言い方だが、当時、レコード会社は彼女を普通のポップスを歌わせるか、その時点で流行だったフォークっぽい方向で売り出すか決めかねていた形跡がある。で、めんどくさいから両方出しちゃえというんで、ほぼ同時と言っていいタイミングで2種のデビュー・アルバムが出ている。ポップスよりのものとフォークよりのものと。

 あるパーティでマリアンヌを見かけ、その清楚な容貌が気に入ってしまったストーンズのマネージャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムの鶴の一声でショー・ビジネスの世界に引っ張り込まれたという彼女らしい、ドサクサ話であります。
 あ、これには「心ならずポップス歌手としてデビューさせられた彼女自身が、フォーク歌手への転身を望んだから」との説もあります。そちらの方が本当かもしれない。でも、こちらの話のほうが好きなんで、ドサクサ説を取ってしまいます。いずれにせよ彼女のデビューにあたって、趣きの異なる2種のアルバムがほぼ同時にレコーディングされた、というのは事実のようだ。

 で、有名な”アズ・ティアーズ・ゴー・バイ”を含むこちらはポップスよりのものということになる。実際、いかにも1960年代の英国ポップスっぽいというか、当時のヨーロッパのどちら方面に行きましても見かけることが可能だったような軽い流行歌を歌う、清純なる美少女マリアンヌ・フェイスフルの姿がここにある。当時マリアンヌ、19歳。
 古きヨーロッパの都会の石畳の道。雨上がりの日曜日。流行のファッションに身を包んで現われたマリアンヌの青春の輝きに被さるように、ロックのリズムに乗ってチェンバロの間奏が、チンチロリンとバロック音楽のフレーズで駆け抜けます。

 さて、フォークとポップス、彼女にはどちらが向いていたろう?とかいうほどの問題じゃない、まずデビュー当時の浅田美代子など思い出してしまった歌唱力の新人歌手マリアンヌの何を論ずれば良いというのだ?か細く震えながらフラフラとメロディにすがりつくように歌い継ぐ彼女の歌唱は。まあ、ロリコン趣味の人にはたまらんでしょがね、と申し上げるよりない。で、ちなみに。すいません、私、結構、その趣味があります。
 そんな事情を加味して話を聞いていただけるなら、これは60年代英国ポップスの傑作のひとつと言えるんではないか。可愛いしね。爽やかだしね。不安定な、ハラハラさせるような部分も、キュートな味わいとしての作用をしているし。良い出来上がりだと思う。

 こうして、ストーンズのミックやキースなどをお相手に配し、ドラッグとセックスと、その他さまざまな芸能ゴシップ満載のマリアンヌの青春が幕を開けるわけだが、あ、その前に、もう一枚のデビュー・アルバム、フォークよりのほうのものの話を(続く)



チムサァチョイの十字架

2011-02-10 02:17:57 | アジア
 ”New Bigining”by Jade Kwan

 いけね、これ、去年のクリスマスに取り上げるつもりのCDだったんだが忘れてしまったと頭をかきつつ、まったく時期外れの今頃、引っ張り出した次第である。

 クリスチャンの中国国民、なおかつ根っからの香港っ子という自らの足元にあるものをじっと見据えつつ、聖夜、喧騒の香港の通りに降り注ぐ神の祝福の美しさを清冽な余情を込めて歌ったアルバム、”Shine”を発表し、私のような俗人をもシンとした気分にさせてくれたジェイド・クヮンである。あれはきれいな音楽だったよなあ。
 昨年の年末にも彼女は、このアルバム”New Bigining”を世に問い、クリスマス気分を盛り上げてくれるはずだったのに、何に気を取られていたのか忘れたが私は、せっかく買い込んでいたこのアルバムを聴きもせずに歳を越してしまった。
 それでもまあしょうがない、今日あたりを”旧”のクリスマスってことにしようよ、などと言いつつ、どんどん聴いてしまう。

 今回もまた”聖夜”からみのアルバムであることは、中ジャケに載せられた写真が雪まみれであることからも明らかだ。深夜、雪明りの荒野に一人、アップライト・ピアノだけをお供にジェイド・クヮンは立っている。
 しかし、前作よりも彼女の歌が線が細く、思いつめた表情になってしまったのが気がかりではある。前作では彼女は暖かい部屋のソファに座ってさまざまな思い出にふけりながら聖夜を祝っていたはずなんだが、今回の彼女はキリストの舐めた苦しみを我が身にも、とでも言うように裸足で雪の降り積む荒野に立っている。そりゃ、そこがスタジオであり彼女に降りかかっているのが発泡スチロールや白色のスプレーによる積雪ではあるにせよ。

 音楽も同じノリであり、先のアルバムで微笑みながら祝福を与えていた周囲人々への思いが、今回は、「どうかこの人たちに幸せを」と、イエス・キリストにすがりつかんばかりの勢いである。
 収められた各曲のメロディラインも、いつものように美しいスロー・バラード中心のものなのであるが、今回は心を絞り上げるような痛切な想いの吐露の趣きが濃く、ある種、痛々しさを伴う感もある。
 いや、それは私の勘ぐり過ぎで、彼女の表現の個性がそのようなものである、だけのことかも知れないんだけど。
 その一方で、それはジェイド・クヮンという感受性の強い娘の意識を通って表に出て来た時代の貌、なんて気もしているんだけどね。




オ・ジウンに淫して

2011-02-08 01:48:57 | フリーフォーク女子部
 ”1st”by 오지은 (OH JI EUN )

 なんか自分でもよく理由が分からないけど偏愛してしまう歌手というのがいて、たとえばこの韓国のシンガー・ソングライター、オ・ジウンなんかもその一人だ。ネットで彼女の写真を見て、いかん、これはすぐにこの子の歌を聴かねばいかんとYou-tubeに飛びつき、歌を聴いて、慌ててCDを取り寄せた。
 別に凄い美人ってわけでもなく、歌だってそれほどとっつきやすいものばかりでもないのに、そもそもアイドル歌手なんかとは真逆のスタンスにいる子なのに、もう恋してしまったノリで彼女にのめりこんだ(その時点でまだ、彼女のCDはウチに着いていない)なにをやっているのかなあ、オレは。

 彼女のキャリアなど知ってみると、「同種同士、引き合うもんがあったのかなあ」などと思ったりもした。
 子供の頃から相当の洋楽ファンだったようだが、高校2年のとき釜山に転校し、そのおかげで見ることが出来るようになった日本のMTVに夢中になる。大学に入ったものの気ままな生活が改まらず、即除籍。その後、日本語の習得のために札幌あたりにいたようだが、何をしていたのやら。その遊学のために親に借りた金を返すために通訳などの仕事に従事、やっと返し終わった時にはもう22歳になっていた。翌年、大学に復学。その年、自主制作盤を出すつもりでいたが、そのための資金は友達とヨーロッパ旅行に行って使ってしまう。
 などなど、もう堂々の行き当たりばったりぶり。なおかつその芯に、何かに夢中になってしまうとあとさき見えなくなる”業”みたいなものがある。他人と思えないんだよなあ。

 そんなこんなで彼女が念願の自主制作盤を出せたのは26歳になってからだったのだが、それまでのクラブ出演やら音楽コンテスト応募などで徐々にオ・ジウンの音楽への注目がなされ始め、ついに自主制作盤がメジャーから発売されることとなる。それが今回取り上げたこの盤なのであるが。
 以上、さまざまな理由で遅いデビューとなったが、オ・ジウン自身はそんな事は気にせずにマイペースで自分の音楽を追求しているようだ。最近、自身のバンドを結成してアルバムを製作、とも聞いている。

 その後はまた別の展開があるのだが、メジャーでは2008年の発売となった、オ・ジウンのデビュー作であるこのアルバムでは、まだ素朴なシンガー・ソングライター色が強い。幻想的な、たゆたうようなメロディ・ラインで気ままに心象風景を歌いつずって行く様子は、初期のジョニ・ミッチェルの系列の、と言いたいところだが、ぶっといオ・ジウンの歌質ゆえ、そうは聞こえないかもしれない。また、さすが日本ポップスのマニアだっただけあり、というべきか、突然一曲だけ矢野顕子っぽく飛び跳ねるナンバーなどがあり、苦笑させられる。ちなみにアルバム全曲、オ・ジウンの作詞作曲。

 ともかく今どき流行らないディープな低音の歌声、ギターの弾き語りやピアノのみバックというモノクロームなサウンドで地味に迫るが、気がつくと彼女の体温をすぐ身近かに感じてしまうような独特の存在感は、すでにその内に宿っている。うん、妙に心に残るんだよ、彼女の歌は。で、気になって気になって、もう一度聴きなおしたくなってしまうのさ。




モロッコの一夜

2011-02-07 01:19:52 | イスラム世界
 ”La Plus Grande Soiree Marocaine ”by YOUMNI RABHI & ORCHESTRE CHEMSSY

 モロッコの民族ダンス音楽界の人気者。現地の人々には非常に大切なイベントである結婚式のパーティーには引っ張りだことか。

 機械の打ち込みのリズムと民族打楽器の生打ちの音と手拍子がひとかたまりになって押し寄せてくる。安物のCDラジカセで聞いていた当方、この楽器三種の聴き分けが出来なかったりする。
 前に突っ込み気味の高速ハチロクのリズムがヒョコヒョコと揺れながら北アフリカの茶色の大地を疾走する。それに乗せて交わされる、シワガレ声の男たちによるコール&レスポンス。シンプルなメロディのやり取り怒鳴りあいのうちに、次第にトランス状態に入って行く、もやはモロッコ名物といいたい呪術的サウンドが爆走する。聴き手のこちらもすでに、血の騒ぎを押さえられない。

 鄙びた響きの撥弦楽器が砂漠の砂嵐のイメージを運び、安物のシンセがピロピロと妙に哀切な調べを奏でながら、リズムの奔流を渡って行く。
 彼等がこれまで評判を取ってきた曲17曲が収められているとのことだが、曲の切れ目はないノン・ストップ状態の構成になっている。どれもハチロクのアップテンポで、曲と言っても似たようなイスラミックなコブシ声の交し合いだから、一曲一曲の区別はなかなか付かない。実質的には”全1曲”なのである。

 気が付けば2曲目が3曲目が4曲目が始まっている。時々唐突にリズム処理が変わる瞬間があり、そこが曲の変わり目かとも思うのだが、音楽の非常に高揚した瞬間にそれが訪れることもあり、編集点としてはまことにふさわしくなく、むしろ盛り上げるためにそのようなアレンジになっているのかも知れない。
 とはいえ、そんなほんの”中途のインフォメーション”レベルの仕掛け以外、特にサウンドの構成上の工夫というものはあまりみられず、基本的には一本調子の豪腕による突撃のみのようである。韓国のポンチャクあたりに通ずる”美は単調にあり”の法則はここにも生きている。

 ボーカル陣はいつしか、ほんの短い吠え声の応酬となっている。打楽器間のリズムのやり取りもきわめて熱を帯び、おお、これは凄まじいことになってきたなと期待したところで、「毎度ありがとうございます。これで終わります」という冷静過ぎるコメント(そう言っているのかどうかは知らんよ。ニュアンス的にはそう聴こえるというだけの話)をもってCDは演奏終了。そのミもフタもなさに吹き出しつつ、なぜか故・三波春夫先生の「お客様は神様です」なんてセリフを思い出していた。

 そしてプレイヤーからCDを取り出すと遠い砂漠の冒険行の幻は消え去り、私はやっぱり憂鬱な日曜日の終わりを、一人居間でもてあましているのだった。






合わせ鏡の欺瞞の夜

2011-02-06 02:05:20 | イスラム世界

 ”Mounqaliba”by Natacha Atlas

 昨年、ナターシャ・アトラスのこの最新作を聴いて、「しまった、あのまま聴き続けていれば良かったなあ」などと臍を噛む思いだったのだ、実は。
 初期の彼女のアルバムは、いかにもクラブ仕様みたいなクールなリズムトラックに乗って凍りついたアラビック、みたいなナターシャのボーカルが闇に響くって感じのお洒落なものだった。そいつがある種ワールドミュージックを一歩引いた場から覚めた目で見ている者の批判的な視線に感じられて、彼女のアルバムを聴くたびに、ワールドミュージックに熱くなっている頭をクールダウン、そんな気分になっていた。

 このアルバムだって、生楽器アンサンブルのバックで地味にアラブの古い曲とか歌っているから”アラブの伝統への回帰”とか解釈する人がいるけど、そういうことじゃないでしょ?それは見せかけだけのこと。もともとがアラブとヨーロッパにまたがった血と教養を持った彼女、素直に”回帰”なんてする場所はないんだよ、どこにも。どちらに身を置いてもはみ出してしまうところが出て来てしまうであろうこと、想像に難くない。いなかったところには帰れませんて。

 ピアノが演奏の中央に位置しているけど、これ、演奏のスタイルは完全にジャズピアノじゃないか。で、アレンジもアラブっぽい素材を、”その辺に理解のあるジャズマン”がそれらしくまとめたものの響きがする。
 ストリングスなんかも、あのアラブ音楽の妖しげに揺れ動くユニゾンの香気よりは西欧っぽくバランスの取れた”アンサンブル”を感じさせるものだ。で、ピアノやウッドベースが長い”ジャズィな”ソロを取る場面も中盤にある、と。
 アラブの音楽素材も使われる伝統楽器も、「借り物の表看板」扱いであり、サウンドの全体は白人ジャズマン的統制の元に、”アラブ音楽の分析と新構築”が行なわれている。

 そんなサウンドをバックに憂いを秘めコブシを利かせてアラブの古い歌を歌うナターシャ・アトラス。でも、なんかどこかに、”異国の音楽を相手に、器用に役をこなすジャズシンガー”の面影がないかな?
 このアルバム自体がそのような虚構を楽しむ趣向になってはいないか?ニック・ドレイクとかフランソワーズ・アルディなんて妙な取り合わせのカバー曲の組み合わせも、迷宮を更なる混乱に陥れる罠じゃないのか。うがち過ぎですか?

 それにしても彼女をそのまま聴き続けなかったのは、なぜなんだろうなあ?これから”中途より後追い”でアルバム集めるのもきついぜ、うん。




誰も言わない、そんなこと

2011-02-05 21:29:34 | 時事
出ました!”スゴレン”名物、「女性記者が妄想ででっち上げたアンケート結果を、”これが男性のものの見方と考え方”と称して発表する釣り記事」のコーナー!記事の署名が男名前なのも嘘くせ~。これ、どう考えても女性記者が書いた文章でしょう。
 こんなこと言う男はまあ、いないよ。この俺だって、女におごった後は、その事に一言も触れずに店を出る。
 本当にここにかかれているような結果が出たとしたら、相当に特殊な男たちの集団を相手に調査したんだろうし、そんな調査結果にどれほどの意味があるだろう。
 まあこのシリーズの記事は、”女性は男性の内面に関して、どのような幻想を抱いているか”を知るための資料として、あくまでも参考のために読むにとどめておいたほうが無難でしょうな。

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 ☆食事をご馳走した直後に、女性をキュンとさせる一言9パターン
                  (スゴレン - 02月04日 07:14)

 デートで食事をご馳走するなら、女性からカッコイイ男だと思ってもらいたいものです。会計直後にどんな一言を発するかで、獲得できる好感度に差が出るといえるでしょう。そこで今回は、「オトメスゴレン」の女性読者に行ったアンケートの結果を参考にして、「食事をご馳走した直後に、女性をキュンとさせる一言9パターン」をご紹介いたします。

【1】「○○さんは特別だからね」
【2】「男として当然だよ」
【3】「雰囲気もいいし、おいしかったね」
【4】「今日一日付き合ってくれたお礼だから、気にしないで」
【5】「君の笑顔をご馳走になったお礼だよ」
【6】「この間、臨時ボーナスが出たからさ!」
【7】「次はお寿司でも食べに行こうよ!?」
【8】「俺の手料理はこの店よりもおいしいから、今度食べにきな」
【9】「大した金額じゃないから、気にしないで」

 食事を奢った後、他にはどんな一言が女性から「カッコイイ!」と思われるでしょうか? 皆さんのご意見をお待ちしております。(浅原 聡)

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海熊の遠き呼び声

2011-02-04 01:56:55 | ヨーロッパ

 ”The Ghost That Carried Us Away”by Seabear

 まだまだ寒いですね~。という事で、またもヤケクソでアイスランドの音楽です。こちらも2ndアルバムを発表したばかりの新人バンド。とはいえ、私はまだ今回取り上げる2006年のデビュー盤しか聴いていませんが。

 それにしても、この妙なバンド名はどういう意味だろうな、何かこの言い回しによる深遠な意味でもあるんだろうか?と思ったけれど、ジャケ裏には表ジャケの児童画みたいなタッチの絵の延長で、川で魚を取る熊が描いてある。これは”海熊”でいいんだろうか?
 サウンドは、あくまでも淡い感じの田園調フォークロック。バンドの中心人物、Sindri Mar Sigfussonがまるで無防備にかき鳴らす生ギターに率いられ、ドラムスとバイオリンが、そしてトコトコとのどかに響くバンジョーやトイピアノが、寄り添うように音を重ねて行く。

 Sindri のボーカルはあくまで淡く決して激することはない。自身の紡いだちょっぴり切なく内省的なメロディを、独り言を呟くみたいに物語る。
 田園調、と言ったけど、私はあのキンクスの田園調ロックの傑作盤、”ヴィレッジ・グリーン”なんかを思い出してしまった。歌詞のほうは分析できるほど聞き取れてもいないんだけど、裏ジャケに下手くそな手書き文字で書かれた、”おはよう、カカシさん””猫のピアノ””フクロウワルツ”なんて曲名から、こいつもレイ・デイビスばりに相当ひねくれていると読んだが、どうなのかな?このアルバム・タイトルだって決してまともじゃないものね。

 などといろいろ空想を広げつつ、新録音なんだけどどこか過ぎた時間から響いてくるみたいな、時代の流れから一回降りてみた感じのノリで鳴り渡る彼らの音楽に身を任せていたら、”遠くから呼びかけてくる淡い哀しみ”なんてアダ名をSeaBearのサウンドにつけてしまっていた。この夜風の向こうの、シベリア気団さえ飛び越えた先の小島、アイスランドから。