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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

60年代の3年間

2007-08-01 02:04:42 | 60~70年代音楽


 またも過去検証ネタで申し訳ない。他の人が”60年代ロック・ベスト25”をやっているのを見ていたら、自分もやってみたくなってしまったのだ。もっとも60年代の場合、当方には問題がある。

 ともかく私のポリシーとしては、自分が体験していない時代のベストを選んだりしたくないのだ。リアルタイムで知らない時代のベストを後追いの知識だけで選んだりしたくない。そして私は、音楽ファンになったのが60年代の後半なので、65年以前のベストは選出できない。

 なおかつ。これは別の場所で違和感を唱えたりしたのだが、主にシングル盤で音楽を聴いていた60年代のベストをアルバム単位で選出するのも筋違いという気がする。ゆえに、私としてはLPで音楽を聴き始めた69年とそれ以前とは、同じ基準でベストを選びようがないのだ。

 そんな事情がありで、以下は1966、67,68年の3年分のみから選んだシングル盤のベスト25となっている。まあ、あまりにも特殊な年だった69年の分は、それだけで一本、別立てのベストをアルバム単位でいつか選んでみたい。(とかなんとか言っているが今回、65年や69年発売の盤も入っているかも知れない。まあその辺は、誤差の範囲内ということでよろしく目こぼしのほど、お願いしたい)

 また、上で述べたように、下のベストには後で得た知識によって選出した盤は入っていない。すべて、リアルタイムで体験した結果、選んだ音楽である。そして選出の基本は”優れているか否か”ではなく、”楽しめたかどうか”だ、あくまでも。
 結構、凡人のベスト、という気もするが、そりゃしょうがないじゃないか、はじめから通人なんて奴はいないよ。でも、後の好みの萌芽など垣間見えて自分としては楽しい。

 11)17)20)あたりの甘ったるいコーラスものとか14)24)などのムードミュージックまがいのインストものとかを挙げるのをかってはかっこ悪いと思っていたのだが、今では”甘ったるい音楽の深さ怖さが分からない奴は人生の深淵が分かっておらん”と断じる様になっていて、もはや平気である。

 まあとりあえず私はこのあたりからやって来た、ということだ。

1)ギミ・サム・ラヴィン=スペンサー・デイヴィス・グループ
2)孤独の叫び=アニマルズ
3)黒く塗れ=ローリングストーンズ
4)グッド・ヴァイブレーション=ビーチボーイズ
5)ブラック・イズ・ブラック=ロス・ブラボーズ
6)サマー・イン・ザ・シティ=ラヴィン・スプーンフル
7)サニー・アフタヌーン=キンクス
8)ワンモア・タイム=ゼム
9)CCライダー=アニマルズ
10)マザーズ・リトルヘルパー=ストーンズ
11)ビコーズ=デイヴ・クラーク5
12)キープ・オン・ランニング=スペンサー・デイヴィス・グループ
13)ミスター・タンブリンマン=バーズ
14)ブルースター=シャドウズ
15)ラストタイム=クリス・ファーロー
16)ヴィレッジ・グリーン=キンクス
17)恋はお預け=クリッターズ
18)アイム・ア・ボーイ=ザ・フー
19)レイン・オン・ザ・ルーフ=ラヴィン・スプーンフル
20)サイレンス・イズ・ゴールデン=トレメローズ
21)霧の五次元=バーズ
22)ハンバーグ=プロコル・ハルム
23)悪魔とモーリー=ミッチー・ライダーとデトロイト・ホイールズ
24)霧のカレリア=スプートニクス
25)リリー・ザ・ピンク=スキャッフォールド

ディランへの道・第1章(?)

2007-07-30 02:16:39 | 60~70年代音楽


 先日来のベストアルバム選考騒ぎ(?)の余波、いまだ治まらず、音楽ファンとしての自分の過去検証が実は面白くなってしまって、ついでに、ボケて思い出せなくなる前に昔の事を書いてしまおうという思惑もありで、昔話が続きます、お許しを。
 で、今回のテーマは、”日本の音楽ファンは、そして私は、ボブ・ディランをいつ頃から普通に聴くようになったのか?”である。

 まあ、ディランの昔の記録フィルム、”ドント・ルック・バック”の完全版のリリースが音楽雑誌で大きく取り上げられたり、ベスト企画でディランのアルバムがランクインしたりしているのを見て、「そういえばディランて、いつ頃から普通に聞かれるようになったんだろう?」と不思議に思ったのがそもそもの話で。だって、ディラン個人の日本におけるヒット曲なんてあっただろうか?

 いや、史実なんてものはレコード会社の売り上げ資料でも当たってもらえばいいとして、私は音楽ファンとしての断片的な思い出話を並べ立てるしかないのだが。
 そもそも私が音楽ファン稼業をはじめた当時、ディランなんか日本の音楽ファンは聴いていなかったと思うのだ。

 当時、有力な海外の音楽情報を得る場だったラジオのヒットパレード番組でディランの曲がかかるなんてこともなかったわけで。「風に吹かれて」なんて曲が森山良子ヴァージョンの甘ったるい”訳詞”を付けられた状態でアマチュアのフォークグループに愛唱はされていたものの。また、当時のフォークファンというのは、まあ90パーセント以上はピーター・ポール&マリーの小奇麗なコーラスのファンで、ディランのようなアクの強い歌手に注目はしていなかったはずだ。

 おっと、当時というのは大体60年代半ばくらい、ディランが生ギター弾き語りからロック路線に転じた頃を指す。これに関してはちょっと挿話あり。

 当時、私は音楽雑誌でニューポート・フォークフェスティバルに関する記事を読んだ。普通のロックファンだった私はフォーク情報に興味はなかったのだが、好きだったロックバンド、”ラヴィン・スプーンフル”のステージ写真が掲載されており、気を惹かれたのだ。
 そこには、「昨年、フォークのプリンス(と書いてあった)のディランがロックバンドをバックに歌を披露して観客から顰蹙を買った同じステージで、今年はロックバンドのラヴィン・スプーンフルがトリを取り逆に大喝采を浴びた。たった一年でずいぶん観客の意識も変わるものである」なんて文章があった。

 まあ、それだけの話なんだけど、ディランが顰蹙を買った話は何度も語られているものの、翌年のラヴィン・スプーンフルとの対照の妙の話は誰もしていないようなので、ここに記録しておく。

 かく言う私自身も当時、ディラン本人の歌は聴いていない。その代り、バーズをはじめとして、ちょっと面白い音を出す興味を惹かれるバンドが決まってディランの歌を取り上げているので、「こいつは何かありそうだ」とは感じていた。ロックバンドの音を追いかけるのに忙しく、ディランの音楽まで聴く気まぐれは起こす余裕はなかったが。

 そんなある日、東京でフォークゲリラをやっている高校の先輩なる人が帰郷してきた。その辺の運動に興味を持っている友人に誘われ、その先輩の家に遊びに行ったのだが、そこで私はディランの音楽に初対面したのだった。

 先輩が彼のコレクションの中からまず聴かせてくれたのが、”ライク・ア・ローリングストーン”だった。
 予想したよりワイルドな音で感触は良かったのだが、レコード購入予定に入れるほどほれ込みはしなかった。私がその頃好んで聴いていたストーンズやアニマルズの音楽にあった禍々しい不良性が、ディランの音楽には感じられなかったのが大きいだろう。

 それにそもそも、その音楽のうちでもっともかっこよかったのはディランの歌声ではなく、アル・クーパーの弾く(と、後で知った)ハモンド・オルガンの響きだったのだし。

 その先輩の部屋には、モジリアニの展覧会のポスターが貼られ、いかにも「愛読書」といった感じで”都市の論理”なんて本が書棚に置かれ、”フォークリポート”やら”ガロ”なんて雑誌が積み上げられ、まだ会員制でしか手に入らなかったURCレコードの全種揃いがあり・・・というかそもそも彼がレコードをシングルではなくLP中心で持っている事実に圧倒された。先輩は、彼の戦ってきた学生運動の話を聞いて欲しそうだったが、我々はそんなものには興味はなかった。

 今思い返せば、その先輩氏はいかにも当時風のスノッブだった気がしてくるのだが、まだ純朴というかアホだった私は、「うん、こんな部屋に住むようなかっこいい人になりたいかも」などと志を持ったりもした。
 まあ当時、ディランのレコードが流れるのはそんな場所だった、というお話。文章が長くなるばかりで話がさっぱり進まないなあ。退屈だろうと思われるので、とりあえずここで中断しときます。

60'ハコバン事情

2007-07-05 03:13:07 | 60~70年代音楽

 さらに先日の”日本のロック・ベスト”の余波が続いていて恐縮ですが。
 たとえばダイナマイツのアルバムなどを高評価する根拠としての”60年代末のディスコの湿った空気感”などと言った話。

 とりあえず当時、街には不良少年少女たちの遊技場としてのディスコ、当時は”ゴーゴークラブ”なんて呼び方もあったのだが、そのようなものが日々の娯楽を提供していたものだ。ただそれは今の”クラブ”なんてものの持つ、まるで運動会みたいな日向臭さを持ったものではなく、より湿った後ろめたさ、陰気さが支配していた。

 当時、”不良であること”は明らかに”いけないこと”であり、今日のようにそれなりの認知はされていなかった。その証拠に、その場には、シノギにつながるなにやらおいしいネタが転がっているのであろう、”営業中”のヤクザが当たり前の顔をして徘徊していた。
 あの頃の日本のバンドの持つ湿った暗さ重さは、そのような”都市の悪場所”の発していた感触と無縁ではないと思う。

 当時は、そのような場には生のバンドが入るのが流行しており、多くの場合、一晩に二つのバンドが交互に演奏して、喧騒のうちに朝を迎える、そんな仕組みになっていたのだった。店の専属となる事を”ハコバンで入る”などと称した。

 そんな”ゴーゴークラブのハコバン”の身分からスカウトされ、人気GSとして名を成す、なんて道は狭いながらも開けていた。たとえばタイガースやらテンプターズやら、といった超人気バンドは、そのようにしてスターになっていったのであり、それに続いた有名無名のバンドは数知れない。それらすべてが、過ぎてしまえば虚しい日々の泡であるのは、言うまでもないが。

 そのうち家出をしてGSの世界に身を投じようか、などと半分本気で思いつめていた私としては、そのような連中の底辺とそれなりの繋がりもあるにはあったのだが、たとえば彼らは、広間は仕事場であるディスコの床で寝ていた。GSとして名を成す道は開けているとはいえ、それはまさに雲を掴むような話であり、彼らの日々は目先の小金、女とクスリ、なんてものの間で荒み、鈍磨して行った。

 ディスコの客の中には、その店を”締める”番長、なんて存在もいて、バンドの演奏上のとりあえずの使命としては、彼がかっこよく踊れるようなリズムを提供することにあり、それに答えることが出来れば、番長お気に入りのバンドとしてそれなりの扱いのよさを手に入れることが出来た。

 なかなかな情けない話だが、そんなバンドに時に加わって演奏していた私としては、そのような”ともかく踊りに奉仕するリズムを繰り出すこと”を体の芯から覚えたことは意味がなくもなかったな、とは思っている。「タラタラ演奏していたらぶっ飛ばされるぞ」なんて恐怖を背に感じながら、その感触を身に付けていったのだ。

 そのようなヒリヒリした空気感を伝えるものがあるゆえ、ダイナマイツやらの演奏するR&Bナンバーなどに高評価を与えずにはいられない私なのである。まあ、場末もいいとこ、の私の体験と最前線で戦っていたダイナマイツを同列に語るのも申し訳ない話だが。

 まだ”青い珊瑚礁”のヒットを出す以前の”実力派GS”たるズー・ニー・ヴーのデビューアルバム、”ズー・ニー・ヴーの世界”などは、GS歌謡の1曲も収められていず、当時のR&Bの定番メニュー連発の、まさに当時のディスコから直送の雰囲気を伝える。
 
 ホールド・オン -HOLD ON I'M COMING
 マンズ・マンズ・ワールド -IT'S A MAN'S MAN'S WORLD
 青い影 -A WHITER SHADE OF PALE-
 グリーン・オニオン -GREEN ONIONS
 ドック・オブ・ザ・ベイ -Sittn' On THE DOCK OF THE DAY
 僕のベイビーに何か? -WHEN SOMETHING IS WRONG WITH MY BABY
 マイ・ガール -MY GIRL
 アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー・トゥ・ロング -I'VE BEEN LOVEING YOU TO LONG
 リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア -REACH OUT I'LL BE THERE

 そうだよあの頃、こんな曲が受けていたんだよ。・・・と、これらのラインナップが喚起するあの頃の個人的な思い出には事欠かない。

 ”実力派R&Bバンド”と高評価を受けつつデビューしたものの、あまり後味が良いとは言えないある事情で、アルバム1枚を世に問うただけで消えていった”ボルテージ”の残した音などは、今でも有効と感じられる独自のファンキーさに捨てがたい魅力を感ずる。

 そぞろGS時代にも陰りが差した時期にデビューした彼らは、ゴールデン・カップスのようにアーティスト然としたアピールではなく、無口な職人ぽい姿勢で黒人音楽に対峙していて、なんだかそれも魅力に感じられた。
 が、本当の成果が問われる前に彼らは、メンバーがファンの女の子に性的暴行したとかつまらない事件が原因で、芸能界を追われていった。

 先に述べた”ゴーゴークラブの番長”をやっていた男の一人と私は、30過ぎてからある飲み屋で再会し、しばらく飲み仲間として付き合った事がある。

 「その後、学校を中途で放り出された後、遠洋漁業の仕事に就いた」と、大の男が辛さに涙さえするというあるいは南太平洋の、あるいはアフリカ沖の体験を語る彼に私は、ははあなるほど、あなたがあんまりおっかない人だから、日本国内に誰も置いておきたくなかったんだね、と言ってはおいたが。

 それから私は店に置かれていたギターで思い出のR&Bあれこれのフレーズを弾き、歌ってみせた。相好を崩して頷き、良い調子で酔っ払った彼は、「日本中のディスコのバンドは俺が鍛えた!」とグラスを掲げて叫んだ。

 次の漁に出た後の彼はなぜか街に帰っては来ず、私もそんな夜があったのも忘れたまま、もう長い歳月が流れ過ぎた。彼や私がダルい青春を燃やした”ゴーゴークラブ”はとうの昔に建物ごと取り壊されて英会話学校となっており、そのようなものがあった面影さえ残っていない。

”ラストチャンス”に耳をふさいで

2007-07-03 03:15:01 | 60~70年代音楽

 ”日本のロック・ベスト”の企画の余波がまだ心のうちに残っていて、ゆえにまたも日本のロック昔話をしてしまうが、どうかお許し願いたい。

 麻生京子=麻生レミに関しては以前、文章を書いているが、まだ書き足りないものがあるのでこれも再登場お許しを。
 麻生京子は1960年代はじめに、そのワイルドな歌声を売り物に”日本のブレンダ・リー”などとも仇名されつつデビューした、のだそうだ。さすがに私もそこまでリアルタイムに知ってはいない。

 デビュー当時の彼女の録音を集めたP-VINE編集盤の”ハンガリアロック・麻生京子”を聞くと、フルバンドとともにスイングしまくる表題作やブルーコメッツをバックにワイルドなシャウトを聞かせる”のっぽのサリー”などなど、当時としてはかなり濃厚にロックの魂を持っていた歌い手と思え、嬉しくなってしまうのだが。

 私にとっての彼女の最初の記憶は、ある日のテレビの画面にエレキギターを抱えて現われ、男どもによるエレキバンドを従えて”セブンアップ!セブンアップ!のっみっまあしょう~♪”とCMソングを歌う姿である。

 1960年代半ばである。ギターなど弾く者は即、不良の判定が下ったそんな時代において、女だてらにエレキを抱えてロックを歌うその姿のあまりのかっこ良さにすっかり魅せられてしまったのだが、その時期、そのCM以外に彼女の歌うのを見たことはなかった。ヒット曲ってなかったんだろうなあ、彼女には。

 というか、”日本最初のロック少女”とも言うべき彼女にふさわしい活動の場は、当時の日本にはまだ存在しなかったと考えたい。そして、そのすぐ後に、すべてを少女たちの嬌声で塗りつぶしてグループサウンズの全盛時代がやって来る。

 麻生京子が麻生レミと改名して、内田裕也が”日本発の本格的サイケデリックバンド”として組織した”フラワーズ”に加入したのは資料によると1967年の出来事となっているが、私の記憶ではもう少し後、GSが完全に退潮の兆しを見せ始めた頃に、ジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンのコピーをメインに押し立て、盛んに活動をはじめたような印象がある。

 どちらかと言えば旧来のポップソングの枠組みの中で窮屈そうにしていたデビュー当時に比べ、その資質をより生かせる”ロックバンドのボーカル”のポジションを得た彼女は、ずいぶんと生き生きとして見えた。

 また、サイケバンドと名乗りつつもバンドの中央になぜかペダル・スチールギタリストがいたフラワーズのサウンドも、独特の色合いを持っていた。
 ファズのかかったリードギタリストのインド音楽色濃いアドリブと、スライド・バーで押さえるがゆえに微妙に揺れ動くスチールギターの響きは不思議なブレンド具合を示し、何がなにやらまだ分かっていない少年ロックファンの当方は、なるほどサイケなサウンドだと大いに納得させられたものだった。

 当時のロック少年の”聖典”の一つであった、土曜の午後のフジテレビで放映されていた”ビートポップス”への出演時、番組司会の大橋巨泉に、「あんたはサラブレッツってジャズバンドを持っているらしいが、俺にはこのバンドがある!」などといいつつ、本来ジャズ畑の曲ではある”サマータイム”をフラワーズに演奏させた内田裕也の心の高ぶりなど、今思い出すとなかなか微笑ましいものがあった。

 まあ、その”サマータイム”は、フラワーズの演奏も麻生レミのボーカルも、ジャニス・ジョプリンとそのバックバンドの丸々コピーではあったのだが。いや、当時はそれで十分に驚嘆に値したのだった。日本のロックのレベルから言えば。

 だが、もう残された時間は少なかった。フラワーズはその頃、”ラストチャンス”なるシングル盤を発売する。それは彼らが標榜していた最先鋭のサイケなサウンドではなく、ブルーコメッツの井上忠夫のペンになるマイナー・キーの辛気臭い、典型的な”GS歌謡”だった。要するにサイケの理想は理想として、とりあえず手っ取り早く金が必要だったのだろう。GSのブームはとっくに去り、有名バンドにさえ解散の噂が出ていた。

 もっとも私は、この”ラストチャンス”なる曲、嫌いではなかった。
 歴史の転換期とて激動していた時代の空気と、そいつに追立てられる様にして暮れていったあの頃の街角のあちこちに、そして人の心に淀んでいた陰りを、あの物悲しい別れの歌がとてもよく表現していたと思えるからだ。
 それは滅び失われて行くGSたちへの挽歌であり、抱え込んだ激しい熱を、だがどこへも叩きつける道を見つけられずに忘れてしまうしかなかった”60年代の終わり”への頌歌だった。

 フラワーズ自身にしてみればおそらく好きでもなんでもない、ただ金儲けのために歌わされたのであろう歌が、奇妙に歪んだ輝きで時代の貌を映し出して見せる。そんな瞬間もまた、大衆音楽の孕みうる栄光と言えよう。もちろん、誰もそれを讃えたりはしない、それでいいのだが。

 やがて、あっけなく年は明けて1970年がやってきて、麻生レミはフラワーズを脱退してソロの道を歩んだ。フラワーズは代わりのボーカルにジョー山中を迎え、ご存知、フラワー・トラベリンバンドとして、ハードロックのバンドに生まれ変わった。
 そして私は、ジャニス・ジョプリンに傾斜するあまり、そのそっくりさんと化して行く麻生レミにも、あの不安定な音を出すサイケのバンドから、”ハードロック”とはっきり割り切れる音を出すようになったトラベリンバンドにも、もう興味が持てず、そんなもののファンであったことなど一度もないような顔をして暮らす事を覚えていったのだった。

はっぴいえんど伝説を疑え

2007-07-02 02:32:30 | 60~70年代音楽

 昨日の日記に書きましたけど、あの【マイミク横断企画・日本のロック・アルバム・ベスト25】企画は私などが予想したよりずっと参加者も多く、凄い盛り上がりで。やっぱ、良いよなあ、音楽の話は。

 で、他の人のセレクトを覗かせていただいたり自分の選んだものの再確認などして、いろいろ、はからずも見えてきたものがあったり。これは思っていた以上の収穫がありそうです。

 たとえば、過去の名作の掘り起しなど進んでも、岡林信康なんて存在は蚊帳の外である、なんてのは痛快な話ですわな。そういえばそうなんだよ。あの男、今、あんまり語られることはないですね。
 いや私、あの男の正義のヒーロー気取りって、大嫌いだったんです、昔から。ああいう奴の再評価の動きとか始まらない事を切に願う、いやほんとに。

 それとも、そのうち、「あのような、本当のメッセージソングが歌える人に、もういちど注目が集まるべきなんです」とか余計な事を言い出す奴が出てくるんだろうか。いるかもな。レコード会社が岡林をもう一度売りたくなれば、当然。勘弁して欲しいなあ。他にも金儲けのネタはあるでしょ?

 それから、うん、こちらの話をしたかったんだ、ほんとは。

 はっぴいえんどの”日本語のロックの問題”は、ここでもいまだ持ち出されています。
 あの、もはや伝説のバンドなんでしょう、”はっぴいえんど”が、ロックを日本語で歌うべくさまざまな実験を重ねた、とか言う話。

 これも”日本のロック史”を語る際、繰り返し語られるわけですが。
 私は、この話題も昔から不思議でならなくてねえ。
 はっぴいえんど登場以前のGS連中や、さらに以前のロカビリーの歌手の人たちって、英語だけで”ロック”を歌っていたの?違うでしょ?

 ”恋に破れた 若者たちで いつでも混んでる ハートブレイク・ホテル~♪”なんて具合に、はっぴいえんどなんてバンドが世に出るずーーーっと以前から、日本の歌手たちは日本語でロックを歌って来たんだから。漣健児の必殺訳詞ワールドをなめるなよ、やいこら。

 あ、漣健児氏というのは、60年代アメリカンポップスの日本語訳詞を大量に行なった、当時の訳詞界の大家です。今挙げた”ハートブレイクホテル”や”恋の片道切符”や”シェリー”や”ダイアナ”などなど、人々に愛されたその訳詞作品は枚挙にいとまがない。

 そんな人もおられたというのに。
 それをねえ。皆はまるで、はっぴいえんどがデビューするまで誰も日本語でロックを歌ったことがなかったかのように言う。なにこれ?いっそ不気味でさえあります。

 はっぴいえんどが、GSや日本のロカビリー歌手たち、あるいは漣健児先生の作業と、革命的に違う事をしたとは思えないのです、私には。違うとすれば、何がどう違うの?説明して欲しいや、一度、きっちりと。誰にも分かる形で。
 という問いにまともに答えの返って来たためしもないんですが。

 なんか無理やり事を神秘めかした過大評価に思えてならないんですがね。

70'野音・尋ねバンド

2007-06-30 23:21:39 | 60~70年代音楽


 野音、といいますが、要するに東京は日比谷の野外音楽堂。そこにおいて70年代のドアタマに、もう毎週のようにロックコンサートが行われていた時期がありましてね、まあ、ちょうど東京に出たばかりの私などは好きなものだからさんざん通いつめた。その頃見聞きした事を記憶の彼方から掘り起こして書いてみようかな、と思った次第。

 まあ当時は”ウッドストック”とか、あんな大型の野外ロックフェスティバルが話題になっていましたからね、それに刺激されて、という側面は大いにあったでしょう。
 コンサートは大体、昼過ぎ頃始まって、夜、8時9時頃まで行われた。出演したのは有名無名の日本のロックバンドたち。それが入れ替わり立ち代り、何曲かずつ演奏を披露して行く訳ですな。
 当然、というべきか、まだ日の高い頃に出てくるのはアマチュアに毛が生えたようなというか、いや、アマチュアそのものだったかも知れないバンドたちでした。
 やがて夕暮れが迫る頃にはだんだんと大物が登場して来る訳だけれど、大物ったってレコードはまだ出していなかったりするのが”日本のロック”の当時の状態だった。

 そもそも、そんなにも頻繁に、そのような総花的なコンサートがたびたび行われたというのも、当時は今日のようにあちこちにライブハウスなんてなかったし、演奏者側にもファンの側にも、他にロックのための場が無かったからだ。”ロックが存在可能なのは、東京の山手線の輪の内側だけ”なんて言葉もあった。当時、町に流れる流行歌といえば演歌が大々的に主流だったし、ロックで食って行けてるバンドなんてあったのかどうか。レコードだって、リリースは簡単なことではなかった。
 ロックを演奏できる場って、そんな野音みたいな所にしかなかったし、当然、ロックを聞きたい側にとっても事情は同じだった。

 その野音の「8時間ロックフェスティバル」の入場料、よく憶えていないんですが、500円だった時があって、「高いなあ」と感じたのを記憶しています。だから、普段の料金、推して知るべし!現在との物価の違いを考えても。やっぱり安い!
 まあ、当時はロックそのものが商売にも何もならなかったし、そこで採算取るとか考えていなかったんじゃないでしょうか。まず、日本にロックを根付かせたい、そしてなにより、自分たちの音を聞いてもらいたい、そんな情熱優先でやっていたと思います、皆。それは観客も同じ事、でしたね。そんな熱気に溢れていた時代でした。

 その一方で、出演するバンドの側も、そりゃ、トリを取ったりする大物連中はともかく、早い時間に出てくる無名のバンドに関しては、今から考えると、かなり貧相な音を誇る(?)連中も、相当数、いたわけでしてね。そうそう、”バンド変われど音変わらず”なんて言葉もありました。まだまだ幼かったんですよ、日本のロック全体のレベルも。
 どいつもこいつもジミヘンやクリームなんかの下手な模造品を演じていただけって事実は確かにあった。きっちりとしたバンドとしてのパフォーマンスを提示出来る実力を持つバンドなんて珍しかったし、独自のサウンドなんて、ほとんどのバンドにとって、まだずっと先の話だった。

 だから、同世代で”野音通い”をしていた人と話なんかすると、夕闇迫り、最後の方の大物バンドが出る辺りを見計らって野音に出かけた、なんて体験談を聞くこともあり。まあ、そちらのほうが賢い選択といえるんでしょうが、私は、そんな”昼の部”のパッとしない無名バンドもまた、愛していたんで、昼過ぎには必ず出かけていきましたね。それに、そんな時間帯だって、思わぬ拾い物がないでもなかった。まれではあるけれど。

 たとえばそんな”昼の部”で一度だけ忘れがたいステージを見せてくれたバンド、なんてのもいた訳です。ライフだったかライブだったか、よく名前を憶えていないってのも間抜けな話なんですが、彼等なんかもそんな忘れがたき無名バンドの一つでした。

 ギター二人にベースとドラム、4人組のバンドでしてね、見た目もなんだかアマチュア臭く。ステージに出てきて開口一番、「僕たち、解散する事になりました。これが最後のステージです」とか言って演奏を始めた。
 それがまた渋く、されど軽快なブギの連発だったんです。当時の流行で、重苦しいブルースを延々とやるバンドは多かったけれど、同じブルース族でもブギ専門とは一本取られたね、でありました。聞く側にとっても。

 とにかくバンドの個性、一言で言えばマニアックで、かつ人懐こい!矛盾している表現ではありますが、だって、そうだったんだもの。
 自然に手拍子が起こりましたね、観客の間から。当時の野音で、そんなの初めて見たなあ。一発で観衆の心を捉えた、って奴だった。1曲2曲と演奏が続くうち、野音を埋めた観衆の中に、非常に和やかな空気が広がって行くのが見えるようだった。
 彼等自身も、解散するってんで気分的にも吹っ切れていたんじゃないですか。飄々としたステージには、凄く好感が持てた。

 だから、そんな彼らが10日ほど後の、やはり野音のステージに「この間のみんなの声援に力を得たんで、もう一度やってみることにしました」と言いつつ帰って来た時は、皆、歓声を持って、それに答えたものでした。
 その日の彼らのステージは、やはり飄々としてリズミックで、非常に楽しめるものだった。けど結局、それが私が見た彼らの最後のステージでしたね。その後、どうなってしまったのだろう、彼等。予定通り(?)やっぱり解散してしまったんだろうか。今頃になって、彼らのその後を知りたくて、当時に詳しい人に尋ねたりもしたんだけど、そもそもそんなバンドを記憶している人に逢った事がない。

 どうなったのかなあ、彼等。まだ青臭いガキで、そんな世代の思い込み一杯でコチコチになっていた私に、楽しみながら音楽をする道もある事を教えてくれたバンドだったんだけど。せめて日本のロック史にひとかけらでも足跡が残らないかと思って、折あらば彼らの事を語ってみるのだけれど。などと言ってはみても、なにしろバンドの名前自体がはっきりしないんでは、どうしようもないんだけど(苦笑)

 どなたかご存知ありませんかねえ、このバンド?何かご存知でしたら、あるいは”そのバンド、見たことがあるぞ”という方、おられましたらご一報をいただければ幸いです。それにしても、どうしてるんだろうなあ今頃、あの連中は。

パンク嫌悪・白人嫌悪

2007-06-09 03:11:00 | 60~70年代音楽


 先に、レコード・コレクターズ誌の60年代ロックに関する記事が納得行かない、などとこの場に書いたものだが、70年代に関してはもっと納得行かない(笑)なにしろ、アルバム・ベスト100のトップに位置するのがパンクのセックスピストルズとは何ごとであるか、と言う・・・

 私はパンクという音楽にはまるで興味がもてなかった。というか、非常な嫌悪を感じていた。あれをロックの再生であるとか持ち上げる人が結構いたのが、と言うかいまだにそのような評価をする人も多いのが、まるで納得行かないのである。

 他の人が公にしたパンクの評価で非常に共感できたのが、”パンクは虚弱児の居直りである”という、あれは確かミュージック・マガジンに載った記事の中にあった表現で。うん、あれを読んだ時は思わず、「わが意を得たり」と膝を打ったものだった。

 そうなのだ。パンクに存在意義を認める人には、”複雑になりすぎたロックに原初のエネルギーを取り戻した”なんて評価の理由があるらしいが、私には連中の音楽、こけおどしばかりで、その芯は相当に虚弱なものとしか感じられなかったのだ。

 パンクのもっとも不愉快な部分は何だったかと振り返るに、ともかくあれは「白人どもが”自分たちの終末”を”全世界の終末”として他の民族にも押し付けようとするもの」ではなかったのか。

 なにやら得意げに旧世代のロックの終末など宣言して見せるが、その話題がそんなに重大なのは、欧米を価値観の頂点と定める白人種の都合においてなのであって、イトゥリの森のピグミーは、メナム河の渡し守は、ロックなんかが滅びようとどうしようと昨日と変わらぬ朝を迎える。オッケイだよ、お前らに滅びてもらったって。

 ・・・。私も、かなりムチャクチャな話をしているんだろうけど。

 ともかくパンク全盛時、私は強力な”白人嫌悪”のうちにあった。音楽雑誌にギターをかかえた白人青年の写真が載っているのを見るだけでも腹が立ったものだった。

 なんかさあ、パンクをやってる白人って、でかい顔してたでしょ。無教養な白人青年が安全ピン刺してそこに立っている。パンクの御旗の元で、ドサクサで白人たちの雑な世界理解が大手を振って歩き出す。そんな感じが凄く嫌だった。

 パンクの奴らってさあ、なまっ白い額の隅にニキビかなんか作ってるんだよ。鼻なんか妙に赤くてさ。

 70年代前半、パンク登場以前の時代に、”放浪のシンガー・ソングライター”たちの顔をレコードジャケットで見ていたときは伸ばし放題の長髪と顔を覆う髭で目につかずにいた、彼ら欧米人の、”いかにも白人”のバタくさい生理の生々しさ、そんなものが気持ち悪くて仕方なくなっていた、いつのまにか。

 いまだに、どう説明したら分かってもらえるのか良く分からない話ではあるのだが。そして私はいつしか、あんなに入れ込んでいたロックの新譜に興味はなくなり、カリブ海のポップスやアラブの民俗音楽のレコードなどを漁り始めていたのだった。

続・60年代の切片

2007-06-01 21:38:34 | 60~70年代音楽


 というわけで、5月30日の”60年代の切片”の続編であります。これは、私の記憶に残る当時のヒット曲をあえて無秩序に並べ、レコードコレクターズ誌の特集によって整理整頓されてしまった”60年代”というオモチャ箱をもう一度ひっくり返し、失われたカオスを取り戻そうという試みです。それでは、いざ。

魔法を信じるかい?(ラヴィン・スプーンフル)
ビレッジ・グリーン(キンクス)
レッド・ラバーボール(サークル)
霧の五次元(バーズ)
ウイチタ・ラインマン(グレン・キャンベル)
太陽の当たる場所(スティービー・ワンダー)
悪魔とモーリー(ミッチー・ライダーとデトロイト・ホイールズ)
今夜は眠れない(エレクトリック・プルーンズ)
グアンタナメラ(サンド・パイパーズ)
グリーン・タンバリン(レモン・パイパーズ)
インセント・アンド・ペパーミンツ(ストロベリー・アラーム・クロック)
ジス・マジック・モーメント(ジェイとアメリカンズ)
悲しきラグドール(フォー・シーズンズ)
ソウル&インスピレーション(ライチャス・ブラザース)
素敵な貴方(ナンシー・シナトラ)
ロング・ロング・ホワイル(ローリング・ストーンズ)
ワン・モア・タイム(ゼム)
ワン・モア・タイム(ゴールデン・カップス)
本牧ブルース(ゴールデン・カップス)
もう一度人生を(ゴールデン・カップス)
トンネル天国(ダイナマイツ)
初恋の丘(ビーバーズ)
君に涙と微笑を(ボビー・ソロ)
ナポリは恋人(ジリオラ・チンクエッティ)
花咲く丘に涙して(ウイルマ・ゴイク)
2万4千回のキッス(アドリアーノ・チェレンターノ)
イザベル(シャルル・アズナブール)
インシャラー(アダモ)
自由への賛歌(ラスカルズ)
アイ・セカンド・ザット・エモーション(スモーキーロビンソンとミラクルズ)
スインス・アイ・ロスト・マイ・ベイビー(テンプテーションズ)
カモン・レッツゴー(マッコイズ)
ウィンチェスターの鐘(ニュー・ボードヴィルバンド)
アイキャン・ヒァ・ミュージック(ビーチボーイズ)
キープオン・ランニング(スペンサー・デイヴィス・グループ)
サムバディ・ヘルプ・ミー(スペンサー・ディヴィス・グループ)
グッドモーニング・スターシャイン(ロックミュージカル”ヘアー”挿入曲)
メランコリー東京(ブルー・インパルス)
明日なき世界(高石友也withジャックス in”ヤング720”)
ホワイトルーム(クリーム)
メンフィス・アンダーグラウンド(ハービー・マン)
ホームワード・バウンド(サイモンとガーファンクル)
サークルゲーム(ジョニ・ミッチェル)
ウッドストック(CSNY)
オン・ザ・ロード・アゲイン(キャンド・ヒート)
風は知らない(タイガース)
スタンド・バイ・ミー(当時、生バンド出演が普通だった我が日本のディスコで、夜毎演奏に興じていた無名のGS予備軍全員)

 だめだ。100書こうと思ったんだけど、結構疲れるわ、これ。

港の彼岸花

2007-04-07 05:58:05 | 60~70年代音楽


 まれに、「夫がオオアリクイに殺されて1年がたちました」とか、ムチャクチャな発想の代物に出会えて笑わされるスパムメールの世界だけど、このところ、ろくな代物が入信しませんね。あの世界にも好調不調があるんでしょうか。

 まあ、ろくな代物であろうとなかろうとスパムはスパム、ハナからろくでもないんですが。入信しないのが一番いいんですが。それはそうなんですが。
 最近の印象に残ったものといえば、こんなところですかね。

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 送信者・stotomi
 件名・目隠ししたままボンジュール

 本文

 先日男の鳥だった私は、赤い箸を髪に刺し、船に乗せられてまわされました。

 http://-----

 ~~~~~

 これだけなんですが。何を言いたいんですかね、これは?これを読んで、なにをどう騙されたらいいんでしょうか?送信者は、受信者がどんな期待やら妄想を抱いて、貼られたURLにアクセスする事を想定しているんでしょうか?さっぱり分からない。

 しかし、意味不明ながらも独特の雰囲気は醸し出されています。タイトルと内容のミスマッチのようなこれでいいような感じもいい。送信者の名前も、なんと読んでよいのかわからないのが逆に不安感をかき立て、面白い味となっています。

 なんだか、和風のシュールレアリズム絵画を見ているような手触りもあり、また、寺山修司の世界なども思い出させる。

 そういえば昔々、まだ寺山色の濃かった頃の浅川マキが歌っていた”港の彼岸花”なんて歌を思い出してしまったりします。
 曇り空が広がっていて、灰色一色の世界にポツンと一色、赤が置かれている。そんな風景。シンと静まりかえり、思い切り呼べども声はどこへも届かない、そんな寂寥感に満たされて。

 あのような感覚も、もうずいぶん遠い気がします。ふと目覚めた深夜に聞いた夜汽車の汽笛と、それが呼び起こす身を引き裂くような孤独感。夜はいつの間にか光に満たされたもう一つの昼間””になってしまって、あの秘めやかな夜の感触は失われて久しい。我々はずいぶん遠いところに来てしまった。

 浅川マキといえば。以下は私のつまらん思い出話ですが。
 
 ~~~~~

  あれは70年代の初め、場所は東京は新宿の厚生年金会館だったはずだ。私の立場としては、毎度お馴染み、”はっぴいえんど”のアンプ運びのバイト君であって、コンサートの形も、はっぴいえんどをバックにした岡林信康がトリ、その他、何組かのミュージシャンが出演と言う、当時ありがちな幕の内弁当的各種詰め合わせコンサートだった。

 楽器の搬入も終わり、あちこちでステージの進行に関する最終打ち合わせなどが行われるなかで、ステージ中央、突然にそれは始まったのだった。まあ、時間が空いたからちょっと音を合わせておこう、くらいの事の次第だったのだろう。
 バラバラとバンドのメンバーが集まり、いつの間にかその中央に浅川マキ本人がやってきていて、いかにもプロの音って感じのピアノのイントロが流れ、「え?なに?」と振り返ったら、それは始まっていたのだ。

 黒く長い髪で黒く長い服を着た人という、写真でさんざん見てきた浅川マキのイメージそのままの彼女がそこにいて、バンドのリズムに合わせてゆらゆらと揺れていた。始まった曲がなんだったのか、まるで覚えていない。「カモメ」だったような気もするが、何の確信もなし。
 ともかく、仕事仲間同士で立ち話をしていたら音楽が始まって、振り向いたら手を伸ばせば届くあたりで浅川マキが歌っている、と言うのはなかなかに不思議な気分だった。

 不思議と言えば、そこは開演前のステージであり、変哲もない照明が点けられているだけだったのに、彼女のいる周辺だけがなんとなく”夜”の雰囲気に染まって行く気配があり、これも相当な不思議現象。
 コンサートの開演前だから、まだ時刻としては夕方早くであり、周囲には舞台装置の直しのためにトンカチを持った人がウロウロするという色気のない環境にも関わらず、浅川マキが歌うその周りだけが勝手に”深夜”にタイムスリップしてしまって、なんだか照明までもが暗くなって来ているようで、これも芸の力と解釈するべきなのか、ちょっと感心してしまったなあ。

 とりあえず、その場を去りたくなかったのであくまで関係者ズラをしつつ、が、心中は完全に野次馬状態で音合わせの進行を覗いていたのだが、そこで気がついたこと。彼女のバンドの体制は、歌がどこから入ってもかまわないような構造になっているようだった。
 何小節イントロがあり、そこで歌が始まる、と言う構造ではないような。一定のフレーズを適当に繰り返しているから気が向いたら入って来て。あとは俺たちが適当につじつまを合わすから。そんな乗りで彼女を支えるバンドの空気が、至近距離で見ているからこそ、生々しく肌で感じられた。

 そのようなルーズな乗りこそ彼女の音楽世界に、まさにふさわしいのだろう。もしかしてそうしないと歌えない、なんて事情もあっても意外ではない。そしてそれは彼女の不名誉でも何でもないわけだけれども。
 時間としては、ほんの数分間の出来事だったのだが、貴重な体験ではあった。

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ブラインドバード喪失

2007-03-16 00:15:56 | 60~70年代音楽


 ヒロミツ氏の死去を悼む特別企画として。ヒロミツ氏が彼のバンド、モップスを率いて70年代はじめにヒットさせた「月光仮面の歌」って、ありましたよね。昔のTV番組の主題歌をスロ-ブル-ス形式に変えて歌った他愛ないコミックソング。それをモップスが野音でやったある夜のことなど思い出してみたい。

 時は1970年代の極初期、場所は日比谷の野音、ということで意識のタイムスリップ、の上、読んでいただきますようお願いします。

 今、まさに売れている最中のヒット曲であり、と言うことで、皆、そこそこ喜んで聞いていたのだ、その曲を。が、その途中。
 ギタ-の星勝がデタラメ言語で何やら喋り、それをヒロミツが「月光仮面のオジサンは、こう言っております」とか「翻訳」してみせる、まあ、曲の笑わせ所、そこにさしかかったとき。

 それまでステ-ジのすぐ下で、シンナ-とかやってたのかなあ、寝ころがっていた、年季の入った感じのヒッピ-氏が。いや、古い言い方でフ-テン族と言ったほうが雰囲気が出るが、彼が「ウエアアアアアア」とでも表記するしかない奇声を大声で発したのだ。
 すると、なんとなく。何となく、一瞬、その場の空気が白けた。星勝のデタラメ語も急に元気がなくなってしまい、ヒロミツの「翻訳」も「う-んと。え-と」とほとんど絶句状態になってしまった。
 
 そんなしどろもどろのまま演奏は尻すぼみで終わり、その後のモップスの演奏も、調子を取り戻す事のないままだったと記憶している。

 つまりフ-テン氏は、モップスのステ-ジを奇声でブチ壊してしまったのだ。が、私の心のうちには、なぜかその時、彼に対する怒りはなく、それどころかむしろ、「正しいのは彼のほうだ」みたいな思いがあった。
 おそらく、会場にいた他の皆も同じ思いだったのではないか。皆のあいだにも彼に腹を立てる雰囲気はなく、むしろ急に夢から覚めたように、モップスの演奏が失速して行くのを、静かに見守っていたのだ、なぜか。

 さらに言えばモップスの面々も、恐らくは何らかの思いを味わっていたのではないか。それはたとえば、”後ろめたさ”といったような。でなければ、あれほどのベテランバンドが、客席からのたった一度の奇声で、あそこまで調子を狂わせてしまう筈がない。

 そのフ-テン氏はあの時、まるで、「王様は裸だ」と叫んだ子供のように、その奇声によって皆を、一時、目覚めさせてしまったのだ、と私には思えてならないのだ。
 彼は、おそらくは無意識に、皆に問いかけたのだ。「そんな幼稚な悪ふざけではなく、今、この場で、もっと切実なロックが奏でられるべきではないのか?」と。そして、モップスの面々も含め、その場にいた者すべてが、冷水を浴びせかけられたように、一瞬、無邪気な祭りの夢から覚めてしまったのではないか、あの時?

 もちろん、「何故、彼のその一声が、それほどの力を持ちえたのか?」と問われたら、「ツボに入った」とか「何となくそう思う」等という間抜けなものしか私に答えはないし、その時遭遇した状況を、勝手に自分の思い入れで解釈してしまっているだけと言われればその通りなのだが。しかし、「夢の70年代」の終わりは、もうその頃には始まっていた、そんな気がする。

 その後モップスは、フォーク歌手の吉田拓郎の作になる”たどりついたらいつも雨降り”なるフォーク曲を歌い、”ジーンズと下駄履きの、白いギターを持った気の良いお兄さん”を求める当時の日本の大衆の心情におもねる道を歩き始め、多くの支持を集めた。そして私は、彼らに興味を失っていった。

 言い切るが、モップスはデビュー時、1stアルバムを出した5人組だった頃だけがロックだった。サイケだった。
 まだまだぶきっちょだった黎明期の日本のロックの極北からファズ・ギターの響きとともにやってきて、もう一つの世界の扉を開けてくれたように思えた。当時、田舎で一人、孤独にフィルモアの夢など見ていたロックファンのガキたる私には。
 なのにのち、4人組になってからは坂道を転げるように退屈になって行った。

 と言っても、秘密の鍵を抜けた一人が持っていたって話じゃない。毎度おなじみ、”生きて行くのはなかなか大変なんだよ”って話をしているわけだ。
 こいつに勝てた奴はいないから仕方がないし、これからは4人組になってからのモップスのことは思い出さないでいてあげよう。