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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

前科者のクリスマス

2008-12-21 04:34:26 | 60~70年代音楽


 ”浅川マキの世界”by 浅川マキ

 ネット仲間のプカさんからいただいたメッセージにあった浅川マキの曲、”前科者のクリスマス”が気になってきて、唯一持っているマキのCD、”浅川マキの世界”を引っ張り出し、聞き返してみる。

 ”今頃どこにいるだろな 同じ刑務所を出たあいつ
  クリスマスに一人ぼっち 思い出せば雪が降る”

 作詞・寺山修司、作曲・山木孝三郎。久しぶりに聴いてみたのだが、賛美歌調のハモンドオルガンのソロにファンクなリズムが忍び入る感じで打ち込まれて始まる、マイナー・キーのジャジーなナンバー。なかなか新鮮でかっこいいんではないか。クリスマスに浮かれる世情に倦んでいる身としては、その落ち込み気味のファンクなリズムが暗いなりに心地良く、救われた気分になったりもする。

 これは浅川マキのデビューアルバムである。オリジナル盤は1970年の秋に発売されている。

 アルバム全体としては、基本的にはジャズ系列のアレンジが成されているのだけれど、当時(海外で)流行していたブラスロック風のアレンジが強引に持ち込まれた曲があったりして、その頃の音楽の潮流というか、ロックやソウルに興味を示したジャズマンの血の騒ぎなんかが伝わる瞬間があり、その辺りから生々しい時代の空気が感じられる。
 それに呼応して、こちらの心に眠っていた時代への思いが深いところで揺らぐような瞬間もあり、真正面から向き合っていると、なのやらドギマギしてみたりもする。

 ”俺も同じ一人ぼっち 酒場の隅のろくでなし
  泣きぐせ女からかって あとは一人寝 橋の下”

 ついでに、「これ、イマドキのクラブ方面で結構受けるんじゃないか」とか言ってみようか。
 いやなに、イマドキの若者なんかに受けようと受けまいと、私としては知ったことじゃないんだけど、以前この場で言ったとおり、浅川マキが出して来た何枚ものアルバムはいまだ、そのほとんどがまともな形で復刻が成されていないのだ。
 何をやっているんだレコード会社よ、という意味も込めて書いてみた。

 寺山がこの世を去ってから、もう何年になるのだろう。夭折した寺山は、いったい今年でいくつ、私より”年下”になってしまったのだろう。彼が生きていた時代は、もうずいぶん遠いところに行ってしまったように思える。

 ”さよならだけの人生も しみじみ奴が懐かしい
  賛美歌なんか歌っても 聞いてくれるのは雪ばかり”

 今どき聞かない類の”無頼の面影”が、マキのレイジーな歌声とミディアム・テンポのファンク・サウンドに乗って流れて行く。面影は、空疎に淀む年の瀬の風の中で凍り付いている。

グッバイ、デイヴ

2008-11-11 05:38:03 | 60~70年代音楽


 ゴールデン・カップスのボーカル、デイヴ平尾氏が死去(読売新聞 - 11月10日 21:29)
 デイヴ平尾氏(でいぶ・ひらお、本名・平尾時宗=ひらお・ときむね=歌手)10日、食道がんで死去。63歳。告別式は近親者で行う。
 1967年にデビューしたゴールデン・カップスのリーダー。ボーカルとして活躍。「長い髪の少女」などをヒットさせ、グループ・サウンズブームの一翼を担った。

~~~~~

 もう何度もした昔話だけどさ。
 入った高校が、教師も生徒も鼻持ちならない、かつ中途半端なエリート意識の塊みたいな臭い臭い学校でさ。うんざりだったんだよ。で、半ば登校拒否状態に成り果てた。
 ほんとは手のつけられない不良という方向も考えたんだけどね、ああいうイナカにおけるそれってのはホコリ臭いばかりの体育会系の腕力自慢ばかりでね。しかもヤクザ社会へ直結だから、それはない、と。

 その頃、学校への反発と比べあうようにロックへの思いが自分の心ではメチャクチャ重くなっていった。安物の再生装置にすがりつくようにして、手に入れたロックの新譜を聴いていた。それだけが生きる証しみたいに思えた。それこそRCが歌っていたみたいな”ベイエリアからリバプールから”って奴だね。
 何度も夢見たんだよ、ギター一本抱えて家出して、夜汽車に乗って東京へ行き、当時全盛を誇っていたGSの世界にもぐりこもうなんて。まあ、東京へ行くまではいいけど、その先どうすれば芸能界への道が開けるのか見当も付かなかったから、実行に移しようもなかったんだが。

 それでも、あれは高校2年のころだったなあ、あるつてを辿って某弱小プロダクションが新たにデビューさせるGSのメンバーにスカウトされるところまで行ったんだけどね。あんまり話したくない理由でその話はポシャってしまった。
 今でも時々思うけどね、あのままGSの世界に身を投じていたら、その後、俺の人生はどんなだったろうなあ、なんてさ。まあ、ろくなことにはなっていないだろうけど、今送っている人生と、ろくでもなさにおいてはどっちがましか、なんて。

 こんな話をダラダラ続けていてもしょうがないんだが、自分としては追悼の辞のつもりなのさ。その当時の、まあGSの世界におけるヒーローがデイブの率いるゴールデンカップスだったから、という次第でさ。

 かっこ良かったよねえ、カップス。やっぱり”本牧ブルース”が一番深かったか。あの当時憧れた、なりたかった、”都会の不良”の匂いを強力に漂わせていた曲だから。もちろん、ルイズルイスの高速リード・ベースが走りまくる”銀色のグラス”やら、カップス自身はむしろこちらを聞いてもらいたかったんだろう、外国曲のカバーなどなど、忘れられない曲を挙げていったらきりがない。

 そういえばその当時、「この唄は、オトナになって歌ったらしっくり来るんだろうなあ」なんて思えた”もう一度人生を”なんて歌があったが、冗談じゃないやね、この歳になったら、リアル過ぎて歌えるもんか、”もう一度人生を 遅くはないのさ今からでも”とか、”歩くのに疲れた私に 新しい靴をおくれ”とかさ。

 というわけで、グッバイ、ディブ。あの頃は、いろいろありがとう。あなたがあちらで、具合の良い新しい靴とゴキゲンなR&Bの新譜に出会えますように。


 最後に。以前、ある雑誌社で書評の仕事を一緒にしていた尊敬するM女史が、ご自身のブログで”アンチエイジング”について述べておられた。それに対してふと寄せてみた私のコメントなど、ここに再録します。

 ~~~~~

 アンチエイジング以前の問題というのでしょうか・・・私の場合、十代の頃の人生上の悩みとかの前でいまだに先へ進めずにいる私自身を置き去りにして、現実の年齢だけがずっと先に歩み去ってしまったような気がします。
 ××××さんが挙げられているような、”かくあるべきである”みたいな事は考えたこともありません。私はただ途方にくれつつ、日々に流されて行くだけ。
 自分の実年齢は遥か彼方に歩み去って、もう追いつくすべもないように見えます。もっとも、見晴るかす山は夕焼け、残された時間は決められている通りなのですが。

小山ルミ再発見

2008-09-21 04:42:45 | 60~70年代音楽


 ”ドラム・ドラム・ドラム”by 小山ルミ

 小山ルミといえばリアルタイムでテレビ等でその姿を見ているはずなのだが、不思議になんの記憶も蘇らない。今で言うバラドルみたいな事をやっていたような記憶もあるのだが、他の誰かについての記憶と混同している可能性も大いにある。
 などと思いつつ、クソ、もっとよく見ておけば良かったなあなどと30年遅れで悔しがってみるのも、今年になってCD再発された、この1972年に世に出ていたアルバムが、かなり良い感触の作品になっているのに気が付いたからである。

 結構カッコいいんだよ。平山ミキの”フレンズ”とか朱理エイコの”北国行きで”などなどカバー曲が多いのだが、今聴いても全然古臭くない”ロックな”歌唱法が切れまくり、へえ、小山ルミって、こんなに良い歌手だったのかと驚いている次第。
 もっとも当時、ゴリゴリのロック少年で歌謡曲などバカにしていた私が、リアルタイムでこのアルバムを聴き、その良さを素直に認めていたかどうかは分からないのだが。

 しかもこのアルバム、発売当時は8トラックのカートリッジ・テープでしかリリースされなかったのだとか。この扱いが何を意味するのか、今となっては実感として理解は出来ない。軽い扱いだったのか、それとも”めちゃくちゃナウい”処置といえるものだったのか?
 ともかくこのアルバムは普通の”レコード”という形ではなく、もっとラフに時代の中に放り出された。そんな”生の感触”が収められ音の中にも息ずいている、時代の熱さが脈打っている、そんな感触がある。

 ”フレンズ”などは平山ミキのオリジナルよりも、よりロックな手触りの出来上がりで数倍カッコいいし、終わり近くに収められている”許されない愛”の、自分の出せる最高音ギリギリまで使っての熱唱など、ちと胸が熱くなる感がある。そうだ、今頃になって”歌手・小山ルミ”の熱烈なるファンになっている私だ。

 ところで”許されない愛”って曲は、誰か男性アイドルの持ち歌との記憶があるが、誰だったか思い出せない。ここまで出ているんだが、という奴で。まあ、男性アイドルの名前なんてどうでもいいんだが。
 むしろ聴いているうちにこの曲、早川義夫が1969年に出したソロアルバム、”かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう”の中に入っていた曲、なんて気もしてくるのだった。そんなはずはもちろん、ないのであるが。

 この錯覚の原因は実は分かっている。早川のアルバムの一曲に、一部これと似たようなリズムとコード進行の曲があるのだ。そのあたりから生じた錯誤なのだ、おそらく。
 が、元の男性歌手の歌からはそのような錯覚は生じなかったのであって。これはやっぱり、小山ルミの歌唱の内に流れている時代の魂がロックだったからと言えるのではないか。

 早川のあのアルバムにおける、ピアノの弾き語りのみの死ぬほど地味な音楽に、60年代から70年代にいたる、屈折しつつ燃焼していた時代の魂が脈打っていた。その鼓動と共鳴するなにかが、この”ドラム・ドラム・ドラム”にも流れていることを今頃発見して、なにやら、どこかへ駆け出したいがいまさら行く先もない、みたいな妙な血の騒ぎをもてあます私なのだった。

風は知らない

2008-05-20 05:23:05 | 60~70年代音楽


 人生にはさまざまな局面がある。その一方の極限はトイレで用を済ませた直後、ズボンのファスナーにオチンチンの皮を挟んでしまうことだろう。これは進退窮まる。

 どうするったってファスナーを押し下げてオチンチンを責め苦から開放してやるしかないのだが、しっかと皮に食い込んだファスナーを動かすのは痛いだろうなあと当然予想はつき、容易に決心はつかない。男なら誰でも一度はやったことがあるはず、と言いたいところなのだが、いや、そう決まったものかどうか。まあ、とりあえず、私には経験がある。それも、いくらなんでも、と言った状況下に。

 あれは高校3年の春だったと記憶している。放課後、下校しようとして私は、ちょっとオシッコしたくなったので下駄箱の隣にあるトイレに入ったのである。そこは、男子トイレの”小”をする場所に曇りガラスの嵌められた窓があり、オシッコしながら微妙に外が見えるようになっていた。さすがに場所が場所なので窓は全開にはならず、外の様子はちょっとだけ開けられたガラス戸の向こうに見えたり見えなかったり、と言ったところである。

 そこで私は用を済まし、さて、とズボンのファスナーを上げたのだが、これがどういう成り行きだったかオチンチンの皮に食い込んでしまった。うわっ、こりゃ困ったな、とファスナーを下げようとしたのだが痛くてできない。とはいえ、そのままにしておくのも痛いのに変りはなく、ええいどうすりゃいいんだ、こんなザマを晒しているのを悪友たちに発見されたらえらい事だぞと焦れどもいかんともしがたく。
 
 その最中。窓の向こうで聞き覚えのある声がした。それはなんと、私がその頃、”これはちょっと注目ではないか”と意識しかけていた隣のクラスのM子と、生徒会でなにやら役をやっている、学生運動の闘士で何かとうっとうしいTだったのだ。おやおや、なんて組み合わせだい。

 ファスナーのもたらす激痛と戦いつつ二人の話を聞いていると、さらになんてこったい、どうやらTがMに思いを告白などしているようなのだ。おいおいTの奴、政治の話が大好きでえらく堅物のキャラ設定で行ってるくせして、M子みたいな、おとなしそうでいて実は男から声のかかるの待ってそうなタイプが好きなのかよ。おいおい。などと意外に思いつつ、ええいくそ、ここで思い切ってファスナーを下げてしまおうか、このままドツボにはまり続けていても埒があかないものな、ええいくそっ!

 ・・・と私が渾身の力を込めてファスナーを押し下げるのと同時に、M子はTに対し、交際をOKする言葉を口にしたのだった。

 私はファスナーのアギトから救い出したオチンチンをパンツの中に納めた。皮が破れて出血、と想像していたのだが、そちらはどうやら無事だったようだ。そして。股間の痛みにガニマタとなってトイレから出た私が見たのは、なにやら親しげに話しながら下校して行くM子とTの後姿だった。
 校門を出ると、薄汚い感じの青空がドヨ~ンとどこまでも頭上に広がっていた。
 高校の前を通る国道を、土埃を上げて何台も何台もの建築資材を積んだトラックが走り過ぎて行った。

 どこからか当時流行っていたグループサウンズの”タイガース”が歌う、「風は知らない」というフォーク調の歌が聞こえてきた。そうかあ、あれが俺のブザマな青春の思い出の一曲になるんだなあ、などとぼんやりと思ったものだった。その通りになったのだったが。

 しかし人生、何があるやら分からんよ、あなた。あなたが愛の告白を受けている、その同じ場所、同じ瞬間に、オチンチンの皮をズボンのファスナーに挟んで悪戦苦闘している男がいて、しかもその男もあなたをにくからず思っている、なんて事だってあるんだからね。

 ”昨日鳴る 鐘も明日は無い 大空の広さを 風は知らない~♪”ってかぁ・・・

テルスターのいない空

2008-02-18 05:03:22 | 60~70年代音楽


 本日、所用あって昨年の暮れの出来事を思い出さねばならなくなり、そうしてみて、たった2ヶ月ほど前の出来事の一つ一つがもうすでにセピア色の甘やかな霧に包まれているのに呆れた次第。
 駅前のクリスマスの装飾、時節外れに催された冬の花火大会を寒さに鼻水を垂らしながら見入っていた観光客たちの嬌声などなど年末の風物。それらがもう、還れるものなら還りたい、取り戻せるものなら取り戻したいとの熱い想いを伴いつつ記憶の中に息付いている。

 それに比し、来るべき明日には、もはや不安や絶望の翳りしか覗うことが出来ない。いや、それゆえに過ぎ去った過去はますます美しげに輝くのだろう。なにしろ過去はもうそれ以上悪くなることは無い、それだけは確かだから。
 子供の頃には考えられなかった事であって、あの頃未来は輝いていて当たり前だった。明日は今日より素晴らしいものである、それはもう当然の了解時とされていたものだった。
 
 小中学校時の同級生のYの具合が良くない。町の病院から地域の総合病院、それから某センターへと転戦し、が、すでに病巣は転移を起こし、経過ははかばかしくないとの事。
 柔道の達人で、街で子どもたち相手に個人の道場など開いていた猛者も、さすがにヤマイには勝てない。というより、体力自慢のものほど悪性の細胞の活力も優れているのだ、なんて気がしてくる。

 いやほんとに。”神は、力持ちの男にはより優しい心を与える。彼に猛々しい心を与えたら、この世は修羅場になってしまうから”なんて考え方があるらしいが、それを地で行くようなYであり、彼が性格歪んだ言動を成す場面に出くわしたことがない。いつも大きな体の上から世の中を静かな目で見守っていた。

 生業であるスナックの経営でも人望ありで、その方面の組合の長になるところだったとも聞いたが。ともあれ、彼の店に行けば小中学校時代のクラスメイトが常時集っているので、万年同窓会状態ではあった。
 しかし、幼馴染みの私にとってYは柔道の先生でもスナックのマスターでもない。まず第一に、”中学生の頃、当時流行っていたベンチャーズのギター演奏を仲間内で最初に完全コピーに成功した奴”なのである。

 忘れもしない、中学の2年だった。近所の仲間の家に放課後、何人かで集まり無駄話をしているうち、その家にあったギターを使って”エレキの曲”をやろう、なんて話が急に盛り上がった。一人は自分の家にとって返し、買ったばかりの自慢のエレキギターを持ってくる入れ込みよう。

 まだ音楽ファンではなかった私としては、なんだなんだ妙なことが始まったものだなと戸惑っていたのだが、そんな私にも古ぼけたクラシック・ギターが手渡され(いったい、あの家には何本のギターがあったのだ?)て、「この弦を押さえて、リズムに合わせてダダダダダと弾いていればいいから」とか指示が下った。
 いま思えば、ギターの最低音弦でルート音を弾き続ける事でベース的効果を出させようという意図だったようだが。ギターに触れたこともない奴を演奏に加わらせる方法としてはうまい事を考えた、というのかどうか。

 そしてその時、私は幼馴染みのYがギターを弾くのを始めて見たのだった。曲はなんだったのか、ともかくベンチャーズのヒット曲のどれかだったのだろうが。

 Yはその巨体のおかげでなんだか小さく見えるフェンダーのギターの模造品を抱え、まったく楽々と、という感じで当時ラジオなどから頻繁に流れていたその曲を弾きこなし、ついには簡単なアドリブさえ差し挟んで見せたのだった。あれれ、いつの間にこんなに弾けるようになっていたんだ?こいつにこんな事を愛好する側面、あったのかなあ?

 そして私は、ギターを奏でるYがあんまり楽しそうなのでなんだか羨ましく、その楽しみを自分も享受したくなり、そしてそのギターの音が”ラジオから聴こえてくる音楽”の立派な再現であることに、まったくシンプルに感動していたのだった。

 つまりは、その時の俄か作りの”バンド”体験が意外に楽しかったので、私はそれまで”特殊な人種の行く場所”と認識していたレコード店などに足を運ぶようになり、小遣いを貯めてギターを買い込み、ついには音楽マニアと言う無間地獄に堕ちて今日に至るのであるが。

 冒頭に掲げたのは、あの頃、値段が手ごろなのでよく買っていた”コンパクト盤”のジャケだ。ヒット曲ばかり4曲入ったミニ・ベストアルバムとも言うべき内容のものがシングル盤とさほど変わらない価格で手に入るので嬉しかった。

 これに収められた曲が私のハンドル・ネームの由来なのだが、「英語の正しい発音で行くと”マリナー号”が正しいのだろうがベンチャーズのシングル盤では”夢のマリーナ号”となっていたから」とこれまで言い張っていたけど、こうしてみると、このコンパクト盤でも”マリナー号”だなあ。まあ、”シングル盤ではマリーナ号”である事実に変わりはないものの。

 Yの見舞いにはいまだ、行っていない。痩せこけてしまったという奴の姿を見るのはいやだったし、そもそも病室にどういう顔をしていれば良いのか、彼と何を話せば良いのかが分からない。
 それに、そんな現実を見さえしなければ、ある日、Yがかってと変わらぬ姿でひょいと通りの向こうから姿を現し、いつものように髭面をほころばせ、「やあ、久しぶり!いや、俺さ、ちょっとひどい病気をしちゃって。いやもう大丈夫なんだけどさ」などと元気そうに言うのに出会えるような気がするのだ。

 さっき、あまり腹が減ったので近所のコンビニに行って来たのだが、帰り道の国道沿いに広がる海岸通りは、Yや私が子供の頃、時の経つのも忘れて遊び呆けた頃とはすっかり様相を変えてしまっている。
 国道沿いに並んでいた高層ホテルはことごとく解体され、なんだかよそよそしい風体のリゾート・マンションと成り果てているし、そもそも肝心の海自体が自然のものではなく、湘南方面から砂を運んで作り直した人工海岸だ。

 そんな夜の海の上に広がる夜空は、”テルスター”も”マリナー号”も飛び去って久しく、ただ冷え冷えと凍りついている。
 

ウィスキー・ア・ゴーゴーを遠く離れて

2007-10-30 23:02:05 | 60~70年代音楽


 ”At The Whisky A Go Go”by JOHNNY RIVERS

 音楽ファンとして目覚めたばかりだった中学生の頃。

 通い始めたレコード屋の壁に、当時、つまり60年代に”ミスター・ゴーゴー”とあだ名され、いくつものヒット曲を放ったアメリカのロック歌手、ジョニー・リヴァースの、ライブ・スポット”ウィスキー・ア・ゴーゴー”において録音されたライブLPが飾ってあった。
 その頃の私は彼がどんな歌を歌うアーティストなのかは知らなかったが、ギターを抱えたジャケ写真がかっこ良かったので、店に行くたびに見とれていた。というか、彼が抱えているギターが欲しくてならなかったのだった。

 すると、私をよほどのジョニー・リヴァースのファンなのだろうと誤解したらしい店員が、好意でそのアルバムをある日、聞かせてくれたのだった。
 初めて耳にする彼の音楽は。チャック・ベリーのカヴァー等、あえて死語を使うがノリノリのシンプルなロックンロール連発で、あ、こいつはごく当たり前にかっこいいなと思えた。「かっこいい曲なら何でもホイホイ歌ってしまう」みたいな腰の軽さはむしろ、”フットワークの軽い自由な魂の発露”と感じられ、それにも好感が持てた。

 とは言え、当時私がもらっていた小遣いでは、すでに忠誠を誓っていたローリング・ストーンズのシングル盤を買うのが精一杯で、ジャニー・リバースのアルバムなどとても手が届かず、それはそのままになってしまったのだが。
 そしてその後も、ある程度の金が自由になってからジョニー・リバースの盤を買う、と言うこともなかった。それよりも当時、よりナウだったニューロックやら、その後にはシンガー・ソングライターやらアメリカ南部サウンドなど追いかけるのに忙殺されて、いつの間にか”ミスター・ゴーゴー”のことは忘れて行ったのだった。

 さらにそれから長い長い年月が過ぎ・・・私はロック好きのおにーさんからロック好きのオヤジになっていた。
 そんなある日、ネットの上のみの知り合いだった音楽ライターのYN氏が突然、田舎の私の家を訪ねてきた。呆れたことに「レコーディングをしないか?良ければ自分がプロデュースをするが?」との提案だった。

 当時、70年代音楽の掘り起こしがちょっとしたブームで、その時代、レコーディングの機会にも恵まれないまま、ライブハウスや路上やらで歌った過去しかない私にまで、お呼びがかかってしまったのだった。そんな名もないシンガーの、どこを流れていたやら?の伝説(?)を追いかけて、「あ、それはあいつのことじゃないか?」と私に思い当たる彼の執念にも呆れるが。

 「その歳でデビューでもいいじゃないですか、イアン・デュリーの例もあるし」と彼は笑って私の肩を叩き、私の心の底でくすぶっていた青春残侠伝に火を注ぐのだった。
 いつの間にか乗せられて、ギターの弾き語りでデモテープを取った。ギターの腕は昔よりマシになった気がしたが、歌はひどいもので、何より自分の作った歌なのに歌詞がまるで覚えられないのに、我が事ながら閉口した。

 しばらくして、デモを聞いた、YN氏のお仲間の音楽評論家氏からメールをもらった。

 「あなたのその、ジョニー・リバースのライブみたいなワイルドなノリを生かした盤を作るといいんじゃないでしょうか」

 うわぁ・・・これにはビックリしてしまったのだった。

 そのデモテープの中の私は、そう言われてみると確かに、あの日店員が聞かせてくれた壁のレコード、”ウイスキー・ア・ゴーゴーのジョニー・リバース”みたい、とは言わないけれど、そんなものになったつもりのミスター・ゴーゴー気分でギターをガシャガシャかき鳴らしつつ、歌いまくっていたのだった。いや、確かに「こいつ、影響受けやがって」みたいなものが感じられるの、その時初めて気が付いたんだけど。

 三つ子の魂百まで、と言うのはここで使ったら見当違いの言葉ですな。なんて言ったらいいんだろうな。

 ともかくあの時、店員が聞かせてくれたレコードのたった一回の記憶が、パフォーマーとしての私をずっと”あんな風にやりたい衝動”と言う形で支えて来ていたのかなあと、なんだか”遠い目”気分になってしまったのでありました。
 (あ、私のレコード・デビューはその後、プロデューサー役のYN氏とひどい喧嘩して、オジャンになりました)

 いやあ、想えばはるか遠くに来たものです。あんまり成長はしていないんだけどね。歳だけは取った。それにしても、その後、ジョニー・リバースはどんな歌手人生を歩んだんだろうな。それも知らない。ひどい話か。

とかくこの世は

2007-10-11 15:27:50 | 60~70年代音楽


 ネット上の知り合いである”神風おぢさむ”さんが、”とかくこの世はLet It Beと、おぢつぶやく ”というタイトルで日記を書いておられる。そのタイトルを見ているうちのふとした思い付きを下に書いてみます。
 まあなんだか分からないネタけど、面白いと思って笑ってくれる人も一人くらいはいるだろう、と・・・ちなみに私、とくにビートルズのファンでもないんですが。

とかくこの世はNo Reply
とかくこの世はTomorrow Never Knows
とかくこの世はI'm a Loser
とかくこの世はTaxman
とかくこの世はHello, Goodbye
とかくこの世はWithin You Without You
とかくこの世はCome Together
とかくこの世はHoney Pie
とかくこの世はLove Me Do
とかくこの世はShe Loves You
とかくこの世はFixing a Hole
とかくこの世はWhen I'm Sixty-Four
とかくこの世はSomething
とかくこの世はI'm So Tired
とかくこの世はAll My Loving
とかくこの世はKansas City
とかくこの世はOh! Darling
とかくこの世はHere Comes the Sun
とかくこの世はI Me Mine
とかくこの世はBack in the U.S.S.R.
とかくこの世はHappiness Is a Warm Gun
とかくこの世はRock & Roll Music

テスコのギターが欲しかったんだよ

2007-10-09 03:05:06 | 60~70年代音楽


 正式名称はしらねど・・・上の写真のギターが欲しかったんだよ。
 まだ私が音楽ファンとして目覚めて間もないガキの頃。このギターが凄くかっこよく見えたものだった。

 これ、テスコのアンプ&スピーカー内蔵ギターです。今で言えば”ZOO-Ⅲ”みたいなものだね。ボリューム・コントローラーの隣に開いた斜めの切り込みから覗いているちっちゃなスピーカーがお洒落だった。
 と思えた、当時は。いや、今だってモノが目の前にあれば、同じように感じると思うよ。

 このギター、中学校の帰り道にある楽器屋のショーウィンドウに飾ってあって、学校の行きかえりに嫌でも目に入り、そのたびに悩ましい思いにさせられるのだった。

 やっと念願のギターを手に入れたものの、さっぱり上達する気配のない自分の指先にまだるっこしい思いをさせられていた、その頃の私としては、あのギターさえ手に入れば、バチバチにかっこいいギターが弾けるようになれるんじゃないか、そんな気がしてならなかった。
 だからそのギター、メチャクチャ欲しかったが、もちろん買う金なんかなかった。

 こうして今見るとダサいものだろうけどさ。まあ当時、今の青少年みたいに、いきなりファンダーだギブソンだと抜かすなんて思いもよらなかったからね。外国製のギターを持っている奴なんて見たことはなかったもの。ディスコに出ているGS予備軍の連中だって国産の安物を使っていた時代だよ。

 あの頃ちょうど、スパイダースの”夕陽が泣いている”が流行りかけていたっけ。GSブームがやって来る兆しは見え始めていたが、まだまだ”エレキブーム”の流れが主流で、加山雄三がモズライトのエレキ片手に”ランチャーズ”を従えて自作の歌をヒットさせまくっていた。それがメチャクチャかっこよく思えた、そんな時代の話なんだけどさあ。

宵の明星

2007-09-06 23:01:26 | 60~70年代音楽


 ”Salty Dog”by Procol Harum

 今回の台風9号は私個人に危害を加えるべく、つけ狙っている。それだけは確かだ。テレビの気象情報など見ても、台風は私の地方、というより明らかに私の家を目指して進んで来ているからだ。

 昨日からの風雨は一段と勢いを増している。さっきちょっと外を見てみたのだが、国道沿いに植えられた椰子の木は風に煽られて葉のすべてが風下になびき、妙な姿となってしまっている。真ん中で折れるのではないかとも思える。
 電柱もかなりの勢いで揺れていて、こいつも本気でぶっ倒れるのではないかと心配になるほどである。

 停電は、ともかくしないで欲しい。なにしろひどい風でまったく外に出られないし、私には、こうしてネットするくらいしかやることがないからだ。

 これで台風自体はまだずっと南の海のむこうだというのだからなあ。私の住む、この地方に上陸するとすれば、明日の夜明け頃とか言っているが、この荒れようでは街自体が持つかどうか分からないぞ、そんなに先まで。

 外を眺めると、夜の街の外周が白くけぶり、淡く光っているのが不思議だ。あれは風に吹き飛ばされた雨が霧状になって空間を埋め、それが街の生活光を受けて光っているのだろうか。
 風は、町の通りの、普段は音なんか立てないような場所までも入り込み、ガタガタと大きな音を立てて走り抜けて行く。

 通りを行き交う人も、車の影もない。そりゃそうだよな。というか、こんな時に出かけねばならない用事が出来ない事を祈るばかりだ。本来であれば興味本位で海でも覗きに行きたいのだが、この風雨ではとても無理であって。
 子供の頃、台風の日の海は波が荒くて面白かったので好んで泳ぎに行ったものなのだが、今日ではそんな事は考えられないだろう。台風の荒れようも昨今は余裕がないなあ、などと呟いてみるが、科学的根拠というものがない。

 嵐を描いた音楽は、などと考えてみると私の場合、英国のロックバンド、プロコルハルムの1969年度作品、3rdアルバムの”ソルティ・ドッグ”に収められた”宵の明星(Wreck Of The Hesperus)”なんて曲をまず、思い出してしまう。

 曲の冒頭の性急な感じのピアノの分散和音や、間奏で奏でられる緊迫した表情のストリングスが、嵐による大波に翻弄される大航海時代の帆船の姿など、見事に描き出している。
 しわがれた声で歌い上げられる教会っぽい和音進行のメロディは、信心深い水夫が、マストにすがりながら挙げる神への祈りを想起させる。そして彼の頭上に輝く不可思議な聖跡、セント・エルモの火。中天に懸かる宵の明星・ビーナスは、彼等水夫の守り神なのだろうか、

 なんて光景があの歌を聴くたびに浮かんでくるのだが、歌詞の意味をきちんと聞き取ったことがないので、そのようなテーマの音楽なのかどうか、実は私は知らない。いい加減な話である。

 ともあれ。あの頃のプロコル・ハルムは良かったなあ。船の側面に縛り付けられている木製の浮き輪の中にヒゲ面の水夫が下品に笑っている意匠の、”ソルティ・ドッグ”のジャケ画。あれからしてもう、海の、潮の香りが漂ってくるものだった。

 プロコルハルムというバンド自体にも、どこかしら海の匂いがしていて、いかにも七つの海を制覇した大英帝国のバンド、という感じだった。
 そいつがいつの間にか潮の香りをぬぐい捨てて内陸性の(?)クラシカル・ロックのバンドになってしまい、私の興味の外に去ってしまった。

 私を魅了したプロコル・ハルムの”海のロマン”は、偏屈なキーボード奏者、マシュー・フィッシャーがバンド退団の際に一抱えにして持っていってしまい、そして彼は自身のアルバムで、そんな海への視線を感じさせる歌の数々を発表し続けた。
 けどマシュー・フィッシャーなんて、聴いたことのある人も、あんまりいないみたいですね。もったいないなあ。いい歌、歌うんですけどね。まあ、しょうがないか。

ブライアンこそストーンズ!

2007-09-05 03:33:43 | 60~70年代音楽


 ネット上の知り合いの”バッキンガム爺さん”さんのところでうかがったのだが・・・いまどきの”自分はローリング・ストーンズ通である”と自称する連中においては、

>どうしても『ベガーズ・バンケット』『レット・イット・ブリード』
>『メイン・ストリート』そして『スティッキー・フィンガーズ』じゃないと
>ストーンズではない

なんて事になっているそうなのである。

 な~にを言っておるのかと。いまどきの”自分たちはストーンズのコアなマニアである”などと自称している連中は、まさに”半可通”の典型例みたいな奴らなんだなと、私は呆れてしまったのである。情けなくなってしまったのである。
 何も分かっておらん。バンケットからフィンガースまでだと?ああ、嫌になるくらい普通のロック観をお持ちで、まことに結構なお話でございますなあ。

 そんなものを”傑作”として褒めそやす感性、なんて月並みな”ロック理解”なんだろう。
 そんな退屈な価値観しか持ち合わせないなら、ストーンズの理解者ぶるなどやめておくがいい、片腹痛いわい。
 そんな凡庸なロック観を並べ立ててストーンズの通のような気分になっている連中がでかい顔をしているのがマニアの世界とは、いまどきのストーンズ・ファンも不幸だ。

 ストーンズが最高だったのは、ブライアン・ジョーンズがメンバーだった頃、彼が生きていた頃、それに決まっているじゃないか。60年代、あの”スゥインギン・ロンドン”の熱くてヤバい空気が伝わってくるようなヒット曲群、あの妖気漂うスリリングな感触を理解できないのか!
 あそこでブライアンがかき鳴らしていたVOX製のビワ型ギターの、ブルース・ハープの、スライドギターの、そして時にはシタールやマリンバの響きの、聖なる猥雑さが聞き取れないのか?

 ストーンズとはすなわちブライアン・ジョーンズなのであって、彼の死後のストーンズなど、単なる出しガラに過ぎない。

 ”バンケット”から始まる70年代の一連のストーンズ作品、そのラフでタフなブルース・ロックの響きを評価したがる気持ちもわからないでもない。正直を言えば私も、”メインストリート”の発表当時、そのアーシーなロックの響きに、その出来上がりの見事さに舌を巻いた記憶はある。
 だがしかし、同時に、不思議も感じた。そんなに良い出来上がりのロックのアルバムであるにもかかわらず、なぜ自分は、このアルバムに愛着を感じないのか?
 今なら、その答えは簡単に分かる。そこにブライアン・ジョーンズがいないからだ。

 ストーンズの一連の70年代作品。それは実は遠い昔、まだロンドンの不良少年だったブライアンが夢見たロックの道の果てに、当然の帰着として現われたものに過ぎない。ミックもキースも、とうの昔にあの世に旅立った者の引いたレールにただ乗り込んで旅をしただけ、それだけに過ぎないのだ。
 そこに素晴らしいサウンドはあっても、そこに核となる魂が不在だ。だから私は”メインストリート”を客観的評価はしても愛することは出来なかった。

 そして・・・だから見ろ、ストーンズはいつの間にやら歌う蝋人形、クリエイティヴな側面など見るべくもない、単なる”大企業”と化してしまったではないか。

 もう一度言う。実はブライアンがストーンズだ。ブライアンだけがストーンズだ。だから、ストーンズが最高だった頃は、ブライアンが生きていた60年代でしかありえないのだ。