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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

嫌いだったんだね、「たどりついたら・・・」が

2007-03-15 02:21:59 | 60~70年代音楽


 モップス時代のヒット曲に、吉田拓郎作の「たどりついたらいつも雨降り」があるが、ヒロミツ氏は「嫌いな曲だけどヒットしたから仕方なく歌っていた」と語っていたそうだ。

 死去を伝えるニュースのハザマでそれを聞いて、なんだか「せめてもの救い」みたいな気分になった。

 昔々、モップスは好きだったけど吉田拓郎は大嫌いで、だからなんか釈然としないものを感じていたんだ。でも、そうかそうか、商売だから嫌々歌っていたのか。それならいいや。

 いや、良くはないけど。まあ、しょうがないやね、世の中、ままならないものだから。

 グッバイ。

 ○鈴木ヒロミツさんが死去
 (日刊スポーツ - 03月14日 14:31)
 歌手やドラマの脇役などとして活躍した俳優の鈴木ヒロミツ(すずき・ひろみつ、本名=弘満)さんが14日午前10時2分、肝細胞がんのため東京都千代田区の病院で死去した。60歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。
 1967年、グループサウンズ「ザ・モップス」のボーカルとしてデビュー。「たどりついたらいつも雨ふり」「気らくにいこう」などのヒット曲を出した。
 その後、俳優に転身。「夜明けの刑事」などのテレビドラマや映画などの脇役として多数出演したほか、歌番組「レッツゴーヤング」の司会などで幅広く活躍した。

エレキの魂

2007-03-03 05:58:21 | 60~70年代音楽


 エレクトリック・ギターを”エレキギター”、あるいは単に”エレキ”と呼ぶようになったのはいつ頃なのだろう?命名者は誰で、どんないきさつが?全然知らないのだが、どのみちあんまり立派な日本語とも思えない。と言っても、そんな言い方をするな!とかいきり立つほどの意味も無いだろう。まあ、日本でベンチャーズの人気が沸騰し、アマチュアのコピーバンドが日本に溢れた60年代中頃、”エレキブーム”の頃だったのだろう。

 その当時、”かまやつひろしのギターアンプ調整法”なるものを噂話として聞いた。まあ、たわいのないもので、”かまやつはアンプの高音部をすべてカット、低音部を思い切りブーストして使っている。そうすればカッコ良い音がするとイギリス公演の際、学んで来たからである”なんてのが話のすべてだった。

 ギターに夢中になり始めだった当方もすっかりその気になり、かまやつを真似してアンプの高音をゼロに、低音を全開にしてギターを弾いていたものだったが、安物の楽器ゆえ、どれほどの効果が出ていたものか。

 頃はといえば60年代終わり、GSブームも末期にさしかかった頃なのだが、”尾藤イサオのR&B天国”なるテレビ番組があった。ゴールデンカップスなど”実力派”のGSがよく出ていたので欠かさず見ていた。
 番組中の”勝ち抜きバンド合戦”のコーナーなども、”自分と同じように世に打って出る予定の者たちの実力と傾向を知る”という意味においても興味深いものだった。確か、そのコーナーの勝ち抜きバンドから、プロになったものもいたと記憶している。

 そこに出てくるバンドが次々に取り上げていた曲がジミ・ヘンドリクスの”紫の煙”だった。当時としてはその辺りのコピーを行なうのが最先鋭だったわけだが、問題はあの歪みきったギターの音をどうするか、だった。

 すばやい奴は”ファズボックス”などという、まあ、今で言えば雑なディストーションとでもいうべき出始めのエフェクターを仕入れてきて思い切り汚い音をスタジオに響かせていたが、そのようなものを持っていないバンドも多く、彼らはともかく異様な音が出ていればいいだろうとの解釈の元、深過ぎるエコーを効かせて、あの印象的なイントロを引き倒していたりしていたものだ。

 その後、いつのまにかフェイザーやらコーラスやらと、凝ったエフェクターが巷に流れ出し、誰もが簡単に、いかにもそれらしい快い歪みを手に入れることが可能になっているが、そういうのもつまらない気がする。なんかさあ、あまりにも安易に目的地に着いてしまうのって退屈じゃないか。

 などと、昔の不器用な”エレキ”の音が妙にいとおしく思えてきたりするのだ。ギターの音ばかりじゃない、音楽そのものも簡単に”一丁上がり”で、安易なものが、流行りものとして軽薄にもてはやされる世の中にうんざりした時などに。

 (と、他人事のような話をしているが、私も一時、ギターを弾く際の足元に色とりどりのエフェクターを並べて悦に入っていた過去はある、こっそり認める)

 まあ、そのうち、日々の暮らしに取り紛れて楽器に手を触れることもいつしかなくなって行くのが人生と言うものだが。そしてある日、ふと久しぶりにギターを引っ張り出してみる、なんて時には、懐かしの”かまやつ式アンプ調節”を行なう。高音はカット、低音はフルに。エフェクターなんて使わないよ、アンプ直、だね。この渋い音が我がふるさとって気がするよなあ。

 やっぱりかまやつ式音作りがいいな~♪と、この意味不明の文章を”チキンライス”の替え歌で締めておく。

銀座ACB、1968年・冬

2006-12-30 01:54:14 | 60~70年代音楽


 ACB、と書いて「アシベ」と読む。グル-プサウンズがブ-ムだった頃には、その生演奏に接することの出来る店があちこちにあり、それらは「ジャズ喫茶」と呼ばれていた。「ジャズのレコ-ドを聞く場所」と、名称としてはごっちゃだが、誰も気にしてはいなかった。今でいうライブハウス、と言ってしまうとどこかニュアンスが違うような気もする。もっと「芸能界」っぽい匂いがあった。芸能大手プロダクション系列の経営が多かったのかも知れない。
 名称から察するに、戦後すぐのジャズブ-ムの際に生まれ、そのままロカビリ-・ブ-ム、GSブ-ムと、洋楽指向の日本のバンドの最前線の現場として受け継がれていったのだろう。マスコミが「今日の奇矯な若者風俗」を取り上げる場合、客席で熱狂する女の子たちの様子とコミで、そこにおける「青春スタ-」たちのステ-ジ写真を添えるのが、まあ、当時の定番だった。

 東京の銀座ACBは、その本家みたいな存在で、新宿ACBというのもあった…ような気がする。ジャズ喫茶チェ-ン店「ACBグル-プ」が存在していたのだ。あのタイガ-スなども、確か大阪のACBに出演していた際に内田裕也オヤブンに見いだされ、デビュ-のきっかけをつかんでいる。

 あれは1968年のクリスマスも近い頃と記憶しているが、当時、そこら辺のガキだった私は、東京のイトコの家に遊びに行ったついでに、その銀座ACBを覗いてみたことがある。

 妙に天井の高い、が、それ以外は単なる普通の喫茶店だな、というのが第一印象だった。思っていたより古び、薄汚れた感じだな、とも感じた。店の片側に、不自然なくらい高くそびえ立った、円筒形のステ-ジがあった。(立ち上がった状態の、私の肩より高かった)あるいは2階席があったのかも知れないが、その時には気がつかなかった。8分の入りくらいで、席を探す必要もなかった。

 ステ-ジは、まず、店のハウスバンド?の演奏で始まり、全体の司会も兼ねるそのバンドのボ-カル氏に呼び出される形で、その日の出演バンドが登場する仕組みになっていた。今思えば、その「座付きバンド」は、演奏はそつがないが花もなく、陽の当たるチャンスもないまま、とうにアイドル年齢は過ぎていた、みたいな哀愁があってなかなかイイ味を出していたのだが、もちろんバンド名なんか覚えていない。

 私が行った日の出演バンドは、491とジャガ-ズだった。491について説明の必要があるかどうか分からないが、フォ-・ナイン・エ-スと読み、GS時代のジョ-山中の在籍バンドだ。と言って、期待を抱かせてしまったとしたら申し訳ない。ジョ-は、というより491というバンド自体、特に光るものを感じさせるバンドではなかった。(その日は、なのか、その日も、なのかは分からないが)バンドのユニフォ-ムである白いス-ツに七三分けサラリ-マン髪形でシャウトするジョ-の姿だけは記憶に残っているのだが。491のシングル曲なんて知らないし、それ以外にやったのは地味なR&Bのカヴァ-ばかりで、盛り上がりようがなかった、という事情もあったが、客席の反応も、冷やかなものだった。

 そういえば、忘れないうちに書いておくが、当時、私は、主に2流のGSのライブを幾つか見ているのだが、どのバンドも、ライブでやる外国曲のカヴァ-は、ロックよりもR&Bネタの方が多かった気がする。この傾向はカップスばかりではなかったのだ。タイガ-スとかテンプタ-ズとかの「一流の」バンドはどうだったのか、見たことがないので分からないが。

 491のパッとしないステ-ジが終わり(ヤバイなあ、ジョ-、読まないだろうなあ、この文章)、バンドチェンジの際、近々レコ-ドデビュ-すると言う女の子の歌手が「本日の特別ゲスト」として出てきて、座付きバンドをバックに「いかにも歌謡曲」な歌を歌った。この辺が、今日のライブハウスと違う「芸能臭」が漂うところだな。バンドの演奏の慣れ具合から、彼女が向こう一ヵ月位の間、連日、この店で「本日の特別ゲスト」を勤めて来ただろう事は、想像に難くなかった。更に1曲、当時流行っていた「サマ-ワイン」を、バンドのボ-カル氏とデュエットで歌ったが、彼女は、それだけ覚えているらしい1コ-ラス目の歌詞を、2コ-ラス目も3コ-ラス目も繰り返し歌っていた。うら寂しい光景だった。

 短い中休みをはさんでジャガ-ズ。やはりヒット曲のあるバンドの華やぎを、そこそこ感じさせつつの登場。しかし意外にも、と言うべきか、客席の冷やかな反応は491の時と大した変わりはなかった。そして私の関心も、演奏自体よりメンバ-の持っている楽器に向かっていた。「おお、本物のリッケンパッカ-だ!」などと。それは、彼等が私にとって、特に思い入れのあるバンドでなかったせいもあるが、なんというか、彼等の演奏自体も、客席の温度の低さに呼応するように、とりあえず予定をこなしただけと言うか、あまり熱の感じられないものではあったのだ。

 演奏はそのまま、ヒット曲にR&Bカヴァ-(彼らもだ!)を取り混ぜて淡々と進み、そして終わった。数人のファンの女の子がステ-ジ下に行き、飛び跳ねながら(なにしろステ-ジは高い位置にある)去りかけるメンバ-に握手やらサインやらをねだっていたが、ほとんどの客は、三々五々、特に感動も無さそうに席を立ち、出口へ向かった。

 まあ、私のその日の目的は「あのACB」をこの目で見ることだったので、十分目的は果たした筈だったのだが、妙な割り切れなさが残った。だって、491はともかく、「若さゆえ~」のジャガ-ズと言えば、GSとしてはビッグネ-ムなんじゃないのか?にもかかわらず、あの「現場」の、ヒンヤリした空気はなんだ?オトナたちに顰蹙を買っているはずの「GSに熱狂する頭のおかしいムスメたち」は、どこへ行った?「八分の入り」の客席はなんだ?ステ-ジ上のメンバ-に飛びつこうとするのが「数人の女の子」でいいのか?

 1968年といえば、例えばタイガ-ズの「君だけに愛を」や、テンプタ-ズの「エメラルドの伝説」「純愛」オックスの「スワンの涙」等々の、GSを象徴するようなヒット曲が大量に生まれた年であり、ついでにいえばカップスだってこの年にデビュ-しているのだ。そんなレコ-ドのリリ-ス状況、売れ行き状況だけ見れば、豊作といえる年だった筈だ。

 私は恐らく、GSブ-ム退潮の、最初の波の一つに立ち合ったのではないか。変わらず全国に吹き荒れているかに見えた「GSの嵐」も、その時、「ジャズ喫茶」という最先鋭の場では、もはや女の子たちの興味の中心からは外れ始めていた。都市の奥深くで発生した「ヒップな現象」(それの源流の多くは、都市辺縁部やら本当のイナカであったりするのだが)が、商業化しつつ、始めは無関心だったイナカ方面へ支持を広げ、やがて全国的な流行現象としてビッグ・ビジネスと成り上がる、が、その頃、実はその現象の発生源、根っこの部分はすでに腐り始め、シ-ン全体の崩壊への序曲が奏でられている。あの日私が見たのは、そんな現場だったのだろう。

 良いものを見た、ある意味では。と、思う。そして、明けて69年、GSの終焉は予感から現実へとなって行くのだが。


GSとコークハイとキャバレーの椅子

2006-12-06 01:49:57 | 60~70年代音楽


 ”カルトGSコレクション 日活編・麻生レミ&フラワーズ ”

 うん、これはなかなかいいんじゃないかと思ったのだった。各社横断の形で以前よりリリースの続いている、この”カルトGS”のシリーズが現在のところ全部で何枚に及ぶのか知らないが、”あの時代”の雑然とした熱気をかなりリアルに伝える一枚になっていると信ずる。あの時代、つまりグループサウンズ全盛の60年代をリアルタイムで知っている者として。

 フィーチュアされているのが麻生レミとフラワーズであるのが良い。グループサウンズ時代の末期に内田裕也によって結成された、サイケデリックを標榜するバンドである。GS時代以前からのロックの歌い手だった麻生レミをフロントに置き、腕達者なプレイヤーを揃え、当時としてはなかなかに刺激的なイマジネーションに溢れる音を聞かせるバンドだった。

 彼らはその後、ジョー山中をボーカルに迎え、フラワー・トラベリンバンドなる”ロックバンド”に生まれ変わり、彼らなりにきちんと割り切れた”ハードロック”を聞かせるようになるのだが、そうなってしまうとそれはまた別の時代、70年代の話となってしまう。新しい時代を模索し、手探りでもがいていたフラワーズの織り成す不器用な狂気と妖気こそ、60年代末期の熱さの味わいどころなのだ。

 これは当時の映画の、たとえばディスコのシーンなどに登場していたグループサウンズの音を集めたアルバムである。映画用に録られた音源であるゆえに、より自由度の高いラフな世界が展開されていて、聞く者の血を騒がせるものがある。フラワーズの”ラストチャンス”なども、正規のレコーディングのものより間奏の長いサイケ度の高い仕上がりとなっていて、興味深い。

 その他、ファズ・ギター爆発のモップスあり、そうかと思えばワイルドワンズやブルーコメッツらの健全路線のバンドが入り乱れ、さらにジュディ・オングの”チビのロビー”などという珍品もありの混乱状態は、これもまた映画用の音源、という囲いで編まれた盤ゆえであり、いや、だからこの状態がそのまま、あの混迷の時代の現実を正直に映している訳なのさ。

 妙な話をするが。私の記憶する当時の青少年の”不良の現場”には、キャバレーの椅子やテーブルの手触りや匂いがあった。その後の時代のように若者文化がでかい顔をして横行していた時代ではないのだ。”大人の社交場”のハコの中に、ついでのようにドサクサではめ込まれていたのが当時の、たとえばディスコであり、そこに置かれていた調度は、会社の金で酒を野飲むオトナたちがホステスを口説く現場に置かれていたそれの流用だった。

 だからそこの椅子やテーブルからは、若者のではなく、オヤジの体臭やホステスの脂粉の染み込んだ匂いと手触りがあった。そんな現場で若き不良諸君はコークハイなどという妙なアルコール飲料を飲み、それらを包む空気の中で”サイケなGSの熱い音”は流れていったのだった。

 このアルバムにはそんな、本来場違いのはずのキャバレーの椅子の匂いや感触が確かに生で伝わってくる瞬間がある。これもまた、”映画用の音源”という特殊要件ゆえにこそ捉え得た空気の感触と思われるのだが。
 それをこそ時代解明のキイとして味わっていただきたい。などと言っても、あの時代を体験していない者には、ほとんどインネンでしかない困難事ではあるのだが。いや、でも、ともかくそういうことなんでよろしく。シェケナ・ベイベ。
 


未踏の重金属、DEW

2006-11-24 22:59:31 | 60~70年代音楽
 前回に続いて、またも別の場所で発表済みの文章で恐縮なんですが。今回も30年以上前の日本ロック界の話など。

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 野音通いを続けておりますと、野音の「通」としての贔屓バンド、なんてえものが出来てまいります。知る人ぞ知る、みたいなバンドをつかまえて、「凡人には分からねえだろうが、アタシなんかはこの頃、あのバンドでなくっちゃあいけません」などと粋がったりする。当時の我々にとってはDEWなんてバンドが、それにあたりますな。(何故、落語口調になるのだ?止め止め)

 DEWとは、ブル-ス・クリエイションの創設メンバ-だった布谷文夫が結成した、ハ-ドなブル-ス・ロックのバンドなのだが、これが1度見たら忘れられない個性を持っていた。と言って、その「個性」はエグ過ぎて、一般的な人気に繋がる性質のものではなかったので、通ぶって贔屓にするには実に好都合だったのだ。

 どんな個性かと言うと、このバンド、楽器の音もボ-カルも、とにかく全てTOO MACHだった。すべての針が振り切れていた。誰かが布谷のボ-カルを「すべての音に濁点が付いている」と表現していたが、まさに彼はその通りの個性の持ち主で、そんなリ-ダ-の重苦しいケダモノのオタケビに引きずられるように、ギタ-もベ-スもドラムス(4人編成)も、地面をのたうち回るような臨界点ギリギリのブル-スを奏でていた。各人が力みすぎ、コントロ-ルが効かなくなって分裂する、その寸前で危うく踏みとどまっているような、そんな彼らの「やり過ぎ」のステ-ジ。我々は失礼ながら、そんな彼等に、「因果物」的な面白さを見いだしていたのだ。

 暗くなりかけた野音のステ-ジ、照明の中に浮かんだ彼等が演奏を始めると、そこだけ煮えたぎる坩堝に見えてきて、しかもそこから生まれ出るのは、ことごとく歪んだ鋳物ばかり。そんな彼らを我々は、こちらも負けずにオ-バ-過ぎる喝采を持って迎えたものだった。もちろん、そんな悪のりのカラ騒ぎをしているのは我々(注)だけで、隣に座った「凡人」たる他の客たちは、きょとんとして「有名なバンドなんスか?」とか尋ねてきたものだ。もちろん我々はにっこり笑って答えた。「ううん、無名のバンド」と。
 (注・この野音シリ-ズにおける「我々」とは、例の「はっぴいえんど関係アンプ運びバイト軍団」を指します)

 レコ-ディングの機会には恵まれなかったDEWだったが、何故か、71年のライブ音源が98年になってCD化された。が、このCD、ライブにおける彼等の「針の振り切れ具合」までは、残念ながら捉えきれていない。ミキシング云々とか言うより、例の「村八分のライブの凄さ」と同様、それは、音盤に収めることの不可能な「何物か」なのか、とも思う。

 DEW関係の逸話二つ。

 一つ。オ-バ-アクションで歌っていた布谷が、完全にボ-カルマイクから外れて歌ってしまったことがある。が、あの男、どういう喉の構造をしているのか知らないが、その声は、PAを通した際と全く変わりない音量で我々の元に届いてきたのである。やっていたのがスロ-ブル-スで、出ていた音数が比較的少なかったとはいえ。ちなみに我々は、野音の外延近く、一番後ろの席で、まさに高みの見物をしていたのだ。
 あまりのことに我々は、驚くより前に笑い転げてしまったものだ。聞いたかよ、今の。マイクから外れても音量が変わらないって何なんだよ、と。

 二つ。当時、友人が、遠藤賢司のコンサ-トを企画して、が、どんな宣伝をしたのか、あるいはしなかったのか集客に失敗、ひどい状態になってしまったことがある。その悪夢のコンサ-トのオ-プニングに起用されたのがDEWだった。

 すべてが終わり、エンケンに「ボクだってプロだからお金は欲しいしね」と、しごくまっとうなお叱りを受け、ボロボロとなった友人が、DEWの連中にその日のギャラ(大した金額ではなかった)を差し出すと、彼等は「そ、そんなにくれるの!?」と青くなってのけぞった。そこで友人は頭を掻き、「あ、間違えた」と言って、そのギャラの半分をポケットに戻し、残りを再度、差し出したのである。と、DEWのメンバ-は「そ、そうだよね」と安心顔となって頷き、それを受け取り、そしてなぜか両者とも冷や汗を流しつつ、握手をして別れた。大好きなエピソ-ドである。

 DEWというバンドがいつまで続いたのか、寡聞にして私は知らない。その後布谷は、たしか73年にソロ・アルバム「悲しき夏バテ」を発表する。冒頭に「現役でバリバリやってる布谷くんです」との紹介コメントがあり、それに周囲の者が失笑する、というギャグ?が挿入されているところから、この時点で布谷はすでにステ-ジを降りていたようだ。

 さらにその何年後かに布谷はカムバック、大滝詠一のナイアガラのお笑い企画の一貫として、着流しに妙な眼鏡や帽子、といったバカな姿で「ナイアガラ音頭」を吹き込むことになる。
 真っ昼間の主婦向けTV番組の「売れない芸能人特集」みたいなコ-ナ-に出て、その姿でそれを歌い、清川虹子かなんかに「芸能界以外に本業があるなら、それに打ち込んだら?」とかアドバイス?されていたのが印象に残っている。
 
 現在でも布谷は、自己のバンドを持ち、どうやら副業ながらも歌い続けているようだ。マニアとしては「もう一花」と願わずにはいられないところなのだが。


初期の”はちみつぱい”

2006-11-23 01:27:58 | 60~70年代音楽


 えーとですね、以下は現在のムーンライダースの前身となる”はちみつぱい”ってバンドに関する思い出話です。以前、別の場所で公開した文章なんですが、読みたいと言う人がおられたんで、こちらにも転載する次第です。さあ、30年以上前の日本のロックの世界をお楽しみ(?)ください。

 ~~~~~

 で、はちみつぱいの話。まあ、私は「初期の」はちみつぱいしか見ていないんで、その分、話を割り引いて聞いていただきたいんですが、それにしても印象の薄い連中だった。

 何人で、どの様な楽器編成でやっていたのかも思い出せないし、演奏の細部も、漠然としたイメ-ジ以外、記憶に残っていない。あえて思いだそうとして甦るのは、そのくすんだギタ-の音色だった。ハ-ドな音を聞かせるバンドの歪んだ音でもなく、といって、クリアな音でもないそれは、他のバンドにはないものだったから。また、何時も彼等のステ-ジには照明が当たっていなかったような、あるいは常に照明から外れる位置で演奏していたような記憶がある。まさかそんな筈はないだろうが。「煙草路地」と「こうもり飛ぶ頃」の2曲ばかりを演奏していたような気がするんだが、まさか。いや。これは本当に、そうだったかも知れない。

 そんなふうにウスバカゲロウの如き、儚いイメ-ジばかりが残るバンドだったのだけれど、私は彼等に、言葉にしてみれば「彼等はどうやら、俺の知らない美学にもとずいて音楽をやっているようだ。なんかパッとしないのは、それがまだ完成の域に達していないからなのであろう」といった感想を抱き、一応、彼等に敬意を表することに決めたのだが、その決定にはあまり自信はなかった。それは私ばかりではなく、当時の観客たちは皆、「初期のはちみつぱい」にどう対処すべきか、見当がつきかねていた筈だ。

 ところで、「百軒店のグレ-トフル・デッド」なる言い回しが当時あったとすれば、それは、関係者の間で無理やり言っていただけの事でしょうね。その言い回しが公共のものとして成立するためには、1、はちみつぱいというバンドを知っていて、その演奏への理解が、ある程度出来ている。2、グ-トフル・デッドというバンドを知っていて、その演奏への理解がある程度出来ている。3、「ロック」がまだ未成熟だった日本において、その両者を並列させるという洒落を理解する能力がある。最低、この3つをクリア-している人間が一定量必要と思うのだが、当時、日本に何人いたというのだ?

 はちみつぱいの演奏に、私が初めて強力な自己主張を感じたのは、まだ無名だった頃のあがた森魚のバッキングで、だった。その日あがたは、ステ-ジ上でマンガの単行本を広げてみせ、「これが幸子さんで、これが一郎君です」とか説明したあと、例の赤色エレジ-を唄いだしたのだが、スネア・ドラムだけを鼓笛隊風に肩から下げてあがたの隣に立ちジンタのリズムを刻んでいたドラマ-をはじめ、「ぱい」の連中はその日、「大正末期から昭和初期にかけての日本のロックバンドは、こんな音を出していました」みたいな時代錯誤でピント外れの妖気を発していて、ああ、こいつらはこんな方向を指向していたのかと、勝手に合点したものだった。

 ついでに報告しておくと、その際のあがたの唄いっぷりは、今日、レコ-ド等で知られているものとは違い、絶唱というか、とにかく全面的に泣き叫ぶスタイルのものだった。あの状態でアルバムを1枚でも出しておいてくれたら面白かったような気もするのだが。彼がメジャ-から同曲をリリ-スするのは、それから半年以上も後のことだ。

 やがて私は、彼等の演奏に接する機会を失ってしまう。いつの間にかコンサ-ト通いからレコ-ド収集へ私の興味の中心が移ったせいもあろうが、その頃の彼等も、主戦場をレコ-ディング・スタジオに移していたのかもしれない。

 その後、大分経ってからリリ-スされたはちみつぱいの初のアルバムを聞き、腕を上げた彼等に舌を巻く一方で、なんだか私は、戸惑いも覚えた。そこにいたのは、当時の我々の興味の中心にあった外国のロックを巧みに消化した、「立派な」ロックバンドの姿だった。それは確かに好アルバムで、愛聴もしたのだが、ただあの捉えどころのない、儚くも怪しげな「初期のはちみつぱい」は、そこにはいなかった。

 私が勝手に幻視した「彼等の未来」はむしろ、ぬぐい去られるべき「若気の至り」の残滓として、そこに微かに漂うのみだった。その時の気分を例えれば、「友人と居酒屋に行って騒ぐ約束だったのに、約束の場所に行ってみたら、そこはなんか高級そうなバ-だった」みたいな。
 いや、良いんだけどね、ここでも。でも。あれ?そうだったの?ここでいいの?そんな戸惑い。(こんな話、当の「ぱい」のメンバ-にぶつけてみても、見当違いの思い込みと笑われるだけだろうが)

 そしてその「残滓」は、彼等がム-ンライダ-スへと進化し、そのアルバムが重ねられるごとに薄れ、やがて消え去って行った。いや、彼等ばかりでなく、バンドごとにそれぞれ事情は異なるものの、そんな風にして「日本のロック」は成熟して行ったのだ。行ったのだが、本当にこのバ-で良かったの?と、時に思わないでもないのだ、私は。



ビートルズを迎え撃ったキスマーク

2006-11-15 01:50:34 | 60~70年代音楽


 プレスリーの”ハートブレイク・ホテル”の日本語版を歌っていたのは誰だったかなあ?まったく記憶が無いのだけれど。
 小学生の頃、悪ガキ仲間と学校の帰りに声を合わせて歌っていたような場面を覚えている。なんとなく歌ってはいけない歌のような雰囲気があり、それがタブーを犯す楽しみみたいに感じられていた。ロックンロールだなあ。

 日本語の歌詞はこうだ。

 ”恋に破れた 若者たちで いつでも混んでる ハートブレイク・ホテル”

 まあ、傷心の若者たちが集まる宿、なんてのは、そりゃあってもおかしくないけど、歌が先に進むと、こんな一節がある。

 ”ホテルの人も 黒い背広で 涙ぼしてる”

 客がセンチメンタルになるのはともかく、従業員はきっちり仕事せんかい。

 まあ、漣健二調というんでしょうか、50年代ロックンロール期の日本語訳詞の世界もあなどれません。

 ”買いたいときは 金出しゃ買える プールの付いた家でも買える
  それでも買えない 真心だけは キャント・バイ・ミーラ~ブ”

 ってのが東京ビートルズが歌っていたビートルズ曲の訳詩だったっけ?残念なことに私は、テレビなどで”動いている東京ビートルズ”をみていない。同趣向の、”国産ビートルズ”連中も、また。

 東京ビートルズってのはビートルズ旋風が世界を席巻した60年代初めに日本で生まれた、まがい物のビートルズ・コピーバンドならぬコピー・コーラスグループだった。コーラスグループってのはつまり、楽器の演奏が出来ないメンバーもいたそうで。ほぼ歌だけのグループだったみたいだ。まあ、当時の水準としてはそんなものだったんだろうな。

 その種のグループは当時、いくつも生まれていたようだ。そんな連中に関する記事なら私は、まだ音楽ファンでもなんでもないプラモデル好きの小学生時代に、家に転がっていた芸能週刊誌で見ている。
 それは、日本版ビートルズの座を奪い合う2つのグループ、なんて提灯持ち記事であって、さあ、どちらが日本のビートルズとしてファン心をとらえるでしょう、そんな趣向で話は進行していた。2つのグループの名?もちろん覚えていない。

 でも、そこで紹介されている二つのグループは、音楽にさほど興味のないガキの私が見てもなんだか妙で、なにしろビートルズみたいに楽器を持っていない。二組とものちのフォーリーブスみたいな”踊りの達者な4人の若者、将来はミュージカル出演が目標です”なんて雰囲気の連中だったのだ。
 
 まるで分かっていなかったんだろうな。旧来のショービジネスの常識なんかぶっ飛ばしてやって来た、それゆえに人気を博していたビートルズなのに、当時の日本の芸能プロダクションはその辺を理解できなくて、旧来の日本のショービジネスの匂い丸出しの”歌えて踊れる明るい若者たち”を引っ張り出してきて、振り付けをしたダンスを踊りながら日本語訳詞のビートルズの歌を歌えば、それで十分、世界を覆ったビートルズ人気にあやかれると信じていた。死ぬほどピント外れな発想だったのに。

 その記事の中でひときわ印象に残ったのが、どちらのグループだったか忘れたが、”首筋に貼ったビニールテープ製のキスマーク”をセールスポイントとしていた事だ。紹介記事は、そんな彼らを「たまらなくセクシーなキスマーク姿」とか持ち上げていた。
 ジャズダンスで鍛えた振り付けでクルリとターン、首筋のキスマークを客席に誇示しながら妖しげな流し目を送る。女の子はキャー!一発で彼らの虜だ。そんな計算でいたんじゃないの?いやあ、こんなマヌケ話、大好きだなあ私は。

 その後、海外から”本物のロックバンド”なども来日し、ロックの実例など目の当たりにした日本の若者たちは”まともなロックバンド”の道を突き進むこととなるのだが、私はどうしてもこの黎明期の日本ロックをあざ笑うように歴史の闇の向こうに身を潜めているビニール製のキスマークが気になってならないのだ。いやあ、恥ずかしいなあ、嬉しいなあ、まったく。




夜明けのニューロック

2006-11-11 03:17:51 | 60~70年代音楽


 たまに、夜明け近くのラジオの深夜放送というものを聞くのだけれど、もうその世界では視聴者としてのターゲットを中高年に絞っていたりするのだった。私なんかにはメチャクチャ懐かしい音楽がかかりまくる。総人口に対する高年齢層の占める割合の増加はこれからもいや増し、そんな状況に対応しての事だろう。

 けれども、その中高年層にまさに属する立場で、「我々の時代が来た」とか能天気に喜んでいる人なんているんだろうか。ラジオの送り手は、そんなニュアンスで番組を作っているみたいだが。気分としては、「こんなことになっちまって・・・大丈夫なのかよ?」みたいな湧き上がる時代への不安を握り締めて、なんて感じじゃないだろうか。

 などと言いつつ、オノレもまたその中高年層としてその番組を寝入りばなにふと聞いているわけだが、昨夜、というか昨朝(?)にかかったタイガースの、あれは解散真近かのシングルみたいだったが「ラブラブラブ=愛こそすべて」なんて曲には「おおおっ」などと、面目ないが血が騒いでしまったものだった。

 60年代末のグループサウンズ流行時、私の好みは実力派のゴールデンカップスやサイケが売り物のモップスだったのであって、タイガースなんてメジャーで甘口のバンドに興味はまるで無かったし、そのような曲があったことも忘れていた。

 だが、時代が30数年も遠方に過ぎ去った今となっては、「ラブラブラブ」なる歌の、そのサウンドのうちに立ち込める時代の空気に、もう辛抱たまらん!みたいな気分になってしまったのだ。ガオガオと鳴り渡るハモンドオルガン、エリック・クラプトンに影響を受けた、なんてものじゃない、レコードからコピーしたフレーズをそのまま歌にはめ込んだギターの響き、あっと、クラプトンはもちろん、クリームの頃の、だぜ。当たり前じゃないか。

 そうそう、あの時代はそんな感じだったんだよ。この雰囲気、ニューロックだぜ、アートロックだぜ、イェイ!タイガースも俺もまた、同じ時代を過ごしたんだよなあ。俺の青春を返せ!くっそう!・・・とまあ、絵に描いたようなオヤジの感慨なんだけれども。

 こんな話をはじめてしまっても、その後のまとめが思いつかずに困るんだが。同窓会で「やあやああの頃は」なんてニコニコ出来るのは、それなりに”あの時代”の決算がついてしまっているからで、いまだ、当時の懊悩を引きずっています、みたいな私のような者には、どうにも居場所がない。

 いや、居場所はあの、空っ風吹き抜ける60年代末のあの街角なのであって、そこに戻る方法が無い以上、「あの時、こうだったら」みたいな、考えても取り返しの付かない、人生に対する中途半端な後悔をかみ締めつつ生きて行くしかないんだが。

 なんて事を思いつつ、居心地の悪い眠りに落ちる夜明けなのだった。懐かしのメロディなんてものは心の奥底に秘め、普通は鍵をかけて、そんなものは無かった顔をしているべきものであって、日常的に垂れ流されてもちょっと対処に困るんだよなあ。

 むしろ、聞きたくも無い”最新流行”に囲まれて不愉快な思いをしているほうが居心地は良いのかも知れない。過ぎ去った時代に思いを残して後ろ向きのまま年老いて行こうとしている者にはね。



UK盤の”ハイタイド&グリーングラス”を返せ!

2006-10-18 01:26:03 | 60~70年代音楽


 ”High Tide and Green Grass ”

 だからストーンズの”ハイ・タイド&グリーングラス”のUKヴァージョンはどうなっちゃったんだよ?カタログから消えたままじゃないか、どうなっているのだ。
 私がローリングストーンズの”60年代もの”限定のファンであること、この場でも何度か述べてきたのだが、ストーンズが60年代のリリースした初期のベストアルバムが、このハイ・タイド・・・”である。

 当時、母国英国ではすでに大スター、そしてアメリカでもその位置に付けんとパワー全開となっていたストーンズは、マネージャーの戦略としてイギリス国内向けとアメリカ市場向け、2種の異なる内容のアルバム”ハイ・タイド&フリーングラス”をリリースしたのである。
 すでに彼らの曲のいくつかを知っている英国ファン向けと、このアルバムで彼らの音楽に初めて接するかも知れないアメリカのファン向け、それぞれの内容の。

 そして今日。ストーンズ位の”格”のバンドの歴史的盤となれば当然、アメリカ盤もイギリス盤も手に入るようになっているかと思いきや。現在、カタログに乗っている”ハイタイド・・・”のCDは、アメリカ盤仕様のものだけなのである。日本盤だけではない。各通販サイトを検索してみた結果、どうやら諸外国においても”ハイ・タイド・・・”の英国仕様の内容のものは商品としては流通していないようなのだ。どういうことだ、これは?

 ここで両者の収録曲と曲順を比べてみたい。

☆アメリカ盤

1. Satisfaction, (I Can't Get No)
2. Last Time, The
3. As Tears Go By
4. Time Is On My Side
5. It's All Over Now
6. Tell Me
7. 19th Nervous Breakdown
8. Heart Of Stone
9. Get Off My Cloud
10. Not Fade Away
11. Good Times, Bad Times
12. Play With Fire

☆イギリス盤

1. Have You Seen Your Mother, Baby, Standing in the Shadow?
2. Paint It Black
3. It's All Over Now
4. Last Time
5. Heart of Stone
6. Not Fade Away
7. Come On
8. (I Can't Get No) Satisfaction
9. Get off of My Cloud
10. As Tears Go By
11. 19th Nervous Breakdown
12. Lady Jane
13. Time Is on My Side
14. Little Red Rooster

 やはりなんというか本場英国版の方が気合の入り方が違うというか、秀逸な内容だ。
 ことに冒頭、”マザー・イン・ザ・シャドウ”から”黒く塗れ”へと、60年代”スゥィンギン・ロンドン”の息吹を生き生きと伝えるまがまがしきざわめきを秘めた2曲がたまらない。
 これだけでも完全にイギリス盤の勝ち!である。しかもクロージングはブライアン・ジョーンズのスライドギターがうなる名演、”リトル・レッド・ルースター”となれば、もう言うことはないではないか。

 ジャケット写真だって、現在流布しているアメリカ盤より、上に掲げたイギリス盤の方が圧倒的にカッコ良いのである。当時、最先端だった魚眼レンズを使ったシャープな手触りがたまらない。

 何だってこれが現在、入手不能なのかね?調べてみると、当時のストーンズのアルバムは”米国アブコ社”なるものが権利を持ち、そちらの意向によりアメリカ盤の内容に準じたCD再発がなされている、とのこと。なんじゃいそれは?何のために、そんな規制が敷かれているのだ。
 どうにもならないことなのか、それは?英国ヴァージョンのCDは、その”アブコ社”なるものに交渉しても発売不能なのか?ええい、これもアメリカ式の全世界愚民化計画の一環なのかと、ますます我がアメリカ嫌いに拍車がかかる秋なのであった。

 欲しいなあ、UKヴァージョンの”ハイ・タイド&グリーングラス”のCDが。




「フォークであること・・・高田渡と高石ともや」

2006-09-13 06:07:44 | 60~70年代音楽


 ひょっこり録画したビデオが出てきたので、2年ほど前にNHKテレビの”ETV特集”で放映された「フォークであること・・・高田渡と高石ともや」なるドキュメンタリーを見直す。ともに、60年代から”日本のフォーク”を唄い続けて来た二人の、それぞれの人生を追ったもの。

 これは何度も繰り返した話なんで、聞かされる人には「またか」であろうが、私の通った高校はフォークソング大好き、それも、当時流行の学生運動と絡めて反戦フォークを聞いたりするのが極めて意識の高い人間である、との認識が多数の暴力といいたいような形で出来上がっている学友諸君が跋扈する場所だった。その中での少数派、ロック大好き少年だった私には、そんな環境は居心地のいいものではなく、”日本のフォーク”なるものにも、当然、反感を感じずにいられなかったのである、当時は。

 そんな私にとって、高田渡は、反感を抱く事のない、数少ないフォーク歌手の一人だった。勝手な正義を声高に叫ぶ事もなく、飄々と世相を皮肉る姿には、なかなかに好もしいものを感じていたのだった。一方、番組のもう一人の主役、高石ともやは、まさに反戦フォークの嚆矢とも言うべき存在だったのだが、私がフォークに反感を感じ始めた頃には、後発の岡林信康が”フォークの神様”として崇められる時期に入っており、高石はもはや”硬派のフォークファン”にとっては鮮度の落ちた存在であった。あまり学友諸君も熱い思いを語ったりする対象ではなくなっていた。のであったので、岡林に対するほどは反感を抱く事もなく、まあ、特に関心もない人物、というのが正直なところであった。

 そんな二人の人生に、”テレビの中の映像”として、あらためて向かい合ってみたのだが。

 ごひいきであった高田渡が、飲んだくれつつステージでギターを弾き語り、単なる酔っ払い状態の語りを披露する、そのありさまを見ているうちに、なんだか”高田渡演ずるところの高田渡”なんてショー見物の気分になってきたのだった。

 ことに、”ステージの最中、酔って寝てしまう”なる伝説を、カメラの前で”実演”して見せた際には。ほろ酔いシンガーたる高田が、時にそのような惨状を呈するとは聞いていたが、こうも都合よくテレビカメラの前で実例を見せられるとは。それを見て、「あ、始まった!」と笑い転げる客たち。これでは、ジェームス・ブラウンの”マント・ショー”ではないか。

 いや、わざと演出で、高田がそのような振る舞いに出たとは思わない。そこまで器用なことの出来る男ではない。偶然、テレビカメラの回っている場所で、”例の奴”をやってしまったのだろう。
 が、無意識に自分の”高田渡ブランド”をなぞって生きてしまっているってのは、あるのではないか。作り上げた自己のイメージをなぞり、再生産する事。それが、ステージ上で、というより生き方そのものになってしまっているのでは?そんな風に、実年齢より以上も老けて見える高田渡のすっかり白くなったひげなど見ながら考えた。
 そして・・・そう、高田はもう、帰らぬ人となってしまっているんだなあ。

 ステージの前にあおる酒、場末のたち飲み屋での、”そこらのオヤジ”たちとの交歓。などなど。テレビサイドの演出もまた、伝説の再現に興味の中心はあるかに思えた。
 狭いライブハウスのステージ。客たちは、すでに持っているレコードで聞き覚えているはずの風刺ソングの歌詞に、まるでその場で初めて聞いたかのように反応し、「これはやられたな」みたいな思い入れを込めて苦笑してみせる。それらもまた、”共犯”としての伝説の再現。
 などと因縁をつけても仕方がないだろう。そのような”芸能”として、高田渡は完結したのだ。そして多分私も、客席のその場にいたら、”ショー”を十分に楽しんだに違いないのだ。そのようにして時は流れた。今更、何がどうなるというのだ。

 高石ともやは。
 アメリカの”社会派フォークの第一人者”であるピート・シーガーに感動し、自身の”社会を鋭く斬る”歌を歌い始めた。それが当時、60年代末の”造反有理”の風潮に乗り、今風に言えば”ブレイク”するのだが、その風潮のエスカレートにより、「もっと意識の高い歌手であれ」との、今にしてみりゃよく意味の分からない(というか、当時だって皆、訳も分からなかったはずだ。にもかかわらず、そんな事を怒鳴りあうのが流行だったのだ)非難を、かっての支持者から浴びせられ、嫌気がさして田舎に引きこもる。田舎の生活の中で、自分にとって自然な唄とは何かを再発見し。ついでに、市民マラソンランナーとしても、名を馳せてしまう。

 こうして彼の歌手としての人生をなぞって書いていても、・・・まあ、なんというベタな人であろうか、と感心してしまうのだが。そんな彼は、所望されれば番組の中でも自分の唄を朗々と歌い上げる。しかも、フルコーラス。照れとか、そういうものはない。普通に嬉しそうだ。そういえば高石の顔の照り、なんだか長嶋監督のそれとよく似ている。同じ人種なのではないかと、ふと思った。