数日前より、めっきり涼しくなってきて、気が着けば
日の入りも早まって、午後7時にはあたりは暗くなっています。
あの暑さから解放されてほっとしている反面、夏の終わりの淋しさを
みんな感じていますよね、きっと。
そんな夏の終わりのひとりごとです。
私は、明治生まれのおばあちゃんのもと、自他ともに認める
「おばあちゃん子」で育ちました。だから、頭では割り切れない事、
理屈にあてはまらないことでも、案外すとんと胸に落ちていきます。
観念としてではなく、いつもそこここにあるもの‥庭の木だったり、
そよぐ風だったり、明るいおひさまだったり‥に感謝の気持ちを
抱くことが、=かみさまへの祈りなのではないかという気持ち。
特に言葉で教えられたわけではないのに、ごく自然にそう思えるのは
おばあちゃんの影響かなと思ったりしています。
すこし前、絵本おじさんのブログで、こんなふうな文に出会いました。
あなたの周りには素敵な人がいますか?もしそれがイエスなら
それは、あなた自身が素敵な人だからです。
なんで自分の周りにはつまらないやつしかいないんだと思っていませんか?
もし、そうならそれはあなた自身が、つまらないからなんです。
私は、大きく頷き安心しました。だって、私の周りには「すごく素敵な」
ブログともだちが大勢いますから。
そして、そのともだちは、前回エントリーでお伝えした「おとなの夏休み」の
ようなことにも発展してるし、パソコン内のハンドルネームを越えての繋がりも
どんどん広がっています。
このふたつの事柄には接点はないのですが、人と人の繋がりの不思議とか
心のもちようとか、そんなことを想っていたら、書いて残しておきたくなりました。
おばあちゃんは、強く願っていればそれはいつか必ず叶う、と
私に言ったことがありました。
自分の思うように物事が進んでいくと信じていた頃には、
そうだね、おばあちゃんと胸の中でも答えることができたけれど。
いつしか、願いや希望や夢なんて言葉は、口にしないのがおとな、
みたいになってきて‥。
でも、そんなある日、センダックの『ケニーのまど』の中に、
願いごとは、願った時点でもう半分まで叶っている
というような文を見つけたのでした。
あたりまえのことだけど、まず願いを持つことから始めなければ
その願いは、どこへも辿り着けません。(逆から言えば、願いさえ
持てば、もう半分まで叶ったのも同じなんて、うれしいですよね。
だってあと半分だけがんばれば、全部叶うんだもの。)