図書館の新着図書のコーナーで見つけ、背表紙に惹かれて手にとりました。
あけるな と言われても、「谷川俊太郎 作 安野光雅 絵」 だったら、
絶対に開いてみたくなりますよね。
『あけるな』
谷川俊太郎 文 安野光雅 絵
本のページをあけてみたら‥こんなやりとり。
あけるなったら
へんな とびらだなあ
これが あけずに いられるかい
あけるとたいへん
とびらってのはね
あけるために あるんだよ
あけてはいけない
おどかしたって だめさ
さあ あけるぞ!
あけるなと
いっているのに
だめと言われれば言われるほど、いけないことだと知れば知るほど、その先に
進んでいきたくなりませんか。
我慢しようと思ったことを、我慢できるほうだとは思うのです。すこしくらい痛くたって
泣かないし、出産の時も、「冷静な人はスムーズに進みますね」なんて言われたし。
でも、そういうことと「堪える」というのとは、また別なのかなと思います。
そこに扉があって、扉の向こうに何があるか知りたいとちらっとでも思ったら、私はきっと
扉を開けてしまいます。それがいけないことだとわかっていても、たぶん、きっと、開けてしまう。
扉の前で、深く考える賢さや、踏みとどまる勇気に欠けているのかもしれません。
それとも、好奇心が断然勝る、ということにしておきましょうか。
ところで。
暮れからお正月にかけて『ナル二ア国ものがたり』を読んでいました。最終巻の
「さいごの戦い」では、扉がキーワードになっているのです。現実の世界からアスランの
居るナル二アへと通じている扉。終焉を迎えるナル二アから、新たな世界へと繋がっている扉‥。
大地に忽然と現われた扉を抜けて、彼らはどこへ行こうとしているのかー。
その「扉」のイメージが頭の片隅に残っていました。
それとはまったく別で。
窓辺に置かれたお人形が、別のお人形に恋をする、短いお話を読み終えたばかりでした。
そんな時に、図書館で見つけた本がこの『あけるな』だったので、読み進めていった私は
びっくり。気になっていた言葉が二つとも、そこに重要なモチーフとして描かれてあったのですから。
そういえば、夜中に少しづつ読んでいた本の題名も『十一月の扉』‥でした!
これも、シンクロニシティ&セレンディビティでしょうか?
シンクロニシティは、意味ある偶然のことで、私たちに何かを伝えるために、導くために、
偶然を装い、必然的に訪れるというもので、そして偶然から何かを発見する力のことを
セレンディビティというのだそうです。 ※のコメント欄を通して、珊瑚さんが教えてくださいました。
いろんなことがどこかで重なったり、繋がったり。
ひとつのイメージが別のイメージへと導かれ、本を通しての楽しみは尽きることがありません。
『あけるな』は1976年に銀河社より発行された「あけるな」を底本に、昨年の11月
ブッキングより復刊されたそうです。
70年代にはあった絵本なのですね~。当時読んだことも見たこともなかったけれど、
どうりで懐かしい匂いがしてきたわけです。
先週、定形外の郵便が2通着きました。
ひとつは、夫と私の連名で、もうひとつは娘の名前で。誰からだろうと、裏返して
見るまでもなく、表に「のぞきみ人形在中」の文字が‥。
昨年の11月14日にマルプギャラリーで、絵本作家の早川純子さんに教えてもらいながら
作った指人形が、返ってきたのです。
開けてみた封筒の中味に感動を覚えつつも‥その時買って帰った早川さんの絵本の
こと、まだここに書いていないのを、再度思い出しました。指人形を作った時の記事(※)を
読み返してみたら、サインが入った絵本を選んだとありましたが、題名さえも記して
いなかった!(すぐにでも紹介するつもりでいたのです‥)
ギャラリーに置いてあった、早川さんの絵本と挿絵を描いた本の中から、私が選んだのは
こちらです。
すごく色がきれいで‥そして、タイトルがとっても魅力的。
『まよなかさん』
早川純子 作
まよなかさんは 夜中のコーヒー屋さんです。
夕方になると、お店をあける よういを はじめます。
表紙の真ん中で、オールを持っているのがまよなかさんで、まよなかさんは、
「まよなかや」というコーヒーのお店をやっています。
夜中が開店なので、仕込みは夕方からですね。1ページ目を開くと、それはそれは
きれいな夕焼け雲の下を、トンガリさん(新鮮な牛乳を運んできてくれる牛さんです)が、}まよなかやを目指して歩いてくるシーンが描かれています。お店の屋根というか、
屋上?には、カップにたっぷりのコーヒーが‥。丸い看板の文字の下には、コーヒーカップ
から顔を出しているうさぎさん‥?
まよなかさんは、うさぎなのかな、それともシカだったりして。
そこのところが、読み返すたびにいつもひっかかる楽しいところです。耳が長いので、
おそらくうさぎなのでしょうが、体の色と模様、そしてきびきびとした動作が、なんとなくシカのイメージ?
まよなかさん、まんまる島で行われるかんそく会に〈満月コーヒー〉を持っていくのです。
ポットにたっぷり煎れ立てのコーヒーをつめて、そのポットを出前用の(?)乗り物に乗せて。
表紙の絵では、その乗り物、「船」の役目を果たしていますが、地上では、真ん中から
まよなかさんの足が出て、まよなかさんは、おなかのまわりにその乗り物を「巻きつけた」
ような格好で、ひたすら走っていくのです。オールは一体どこに内蔵されていたんだ???
という疑問は残りますが‥。この「乗り物」、コーヒーをカップに注ぐときにはテーブルにもなる
という優れもので、しかもとってもかわいいです。
冒頭に書いた「のぞきみ人形在中」の封筒には、人形本体のほかに、手紙と写真と
ポストカードが入っていました。それが下の写真です。
それと、娘の分を別の封筒にしてくれた理由は「自分の名前で届くと嬉しいのでは?」
という配慮と、指人形を作った時に使った原毛(の残り)を入れてくれたからなのです。
手紙もちゃんと添えられていて、またなんか作ってみてね、というようなことが
書かれていました。嬉しいですね~こういうの。娘も喜んでました。
お知らせがあと2つ。
★早川さんの版画(↑のポストカードもそうですが)、すごくいいのです。版画で、
毎年作っているカレンダー、HPで見ることができますし、トムズボックスでも販売もされて
いるそうです。
★★もうすぐ新刊が出るそうです。ほるぷ出版の[おうち絵本シリーズ」の第3弾。
楽しみですね。
冬晴れの日が続いています。
休み明けの、つらい1週間がやっと終わりに近づきました。
今年最初に紹介するこの本は、昨年の夏、京都の恵文社一乗寺店で買いました。
さらっと一読して、そのまま本棚にしまわず、なぜか机に積んだままで数ヶ月が過ぎ‥。
年末になんとなく手にして再読してみたら、しみじみとしたおもしろさがわいてきて、
本の帯に書かれていたコピーの通りだと感心してしまいました。
‥こんなふうに書かれていたんです。
100人が1回読む本ではなく、
10人が10回読んでほしい
そんな本ができました。
『モザイクの馬』
小薗江圭子 文 和田誠 絵
文庫本よりすこし大きいくらいのサイズに、18のお話がおさめられています。
そのどれもが200文字で完結していて、どのお話にもすべて「馬」が関係しているのです。
見開きの右ページに、200字でできたお話。左ページには、どれもそのお話にぴったりの
和田誠さんの絵。
たとえば、表題作の「モザイクの馬」は、14番目にある、こういうお話です。
(お正月なのでお話ひとつまるごと載せてしまいます)
モザイクの馬
王宮の南の壁は、モザイクの馬で飾られて
います。何世紀もそこにいた馬は、たいくつ
しきっていました。ある日、同じようにたい
くつしていたクモが、馬の鼻先で、大きなた
め息をつき、馬はクシュンとやりました。す
ると、なにぶんにも古い馬なんで、バラバラ
になってしまいました。翌日、修理に来たタ
イル屋さんは、まちがえて、目をしっぽの先
につけました。おかげで馬は、ちがう窓の景
色が見られるようになりました。
他にも、縞馬あり、ペガサスあり、ユニコーンあり、回転木馬あり、王さまの馬あり、
木馬あり、ぬいぐるみの馬あり‥。
よく「馬」だけで、18個ものお話が作れたなあと、思っていましたが、ひとつひとつこうして
挙げてみると、そのどれもが、その名だけで、なんとなくドラマチックに思えてくるから
不思議です。
200字といえば、原稿用紙の半分です。そこの升目を埋めた文字だけで、こんなに
豊なイメージを広げることができるのです。しかも、心のつぶやきのような「言葉の断片」
ではなく、「お話」としてちゃんと完結しています。
今年の1冊目にこの本を選んだのは、指針と掲げておきたかったからかもしれません。
あまり実感はないけれど、今年ももうすぐ終わりです。
色々なことがあった1年でした‥。別れがあれば、出会いもあって。
このブログを通してしか、知り合いようもなかった方々と、ほんとうに会うことができ、
親交を持たせていただいたのはとても嬉しいことでした。
新しい友の新しいお店と、古くからの友の新しいお店。梅ヶ丘と日本橋浜町、
出かけて楽しい街が増えました。
たくさんの絵本を知り、たくさんの絵本を読み、1年間ずっとブログを続けられたことは、
私にとってとても貴重な経験になりました。PCを開き、ここをクリックしてくださった皆様の
おかげです、ほんとうにありがとうございます。
さてさて。
今年最後の絵本は、こちらに決めました。
「みどりの船」のフラニーさんの記事を11月に読み、それから市外の図書館より取り寄せてもらい、
先日、ことり文庫で見つけて、私の本棚の1冊になりました。
『あな』
片山令子 文
片山健 絵
朝から、何もする気になれない日。のうさぎさんもそんな時、ただ テーブルに
ほおづえを ついて、ぼーっと している だけです。
が。のうさぎさん、いつまでもいつまでも、「ぼーっと」しているばかりではありません。
「いま、どんな きもちかって
いうと‥。
そうね、
たとえば この からっぽのカップ。
そう。わたしは からっぽの
きもちなんだわ」
自分のぼーっとの気持ちのわけは、どこからやってくるのかを、冷静に見極め
始めるのです。
目の前にあった、からっぽのカップのような気持ちかな、と思っては、カップほど
「べたべたしていない」(ゆうべミルクこうちゃを飲んだままだったのです)と思い‥。
ろうかに落ちていたバケツを頭にかぶってみて、テーブルにぶつかってころんでは、
「わたしの からっぽは こんなに うるさくない」と思います。
庭に出てみたらシャベルがあったので、のうさぎさん、土に穴を掘り始めます。そして、
どんどん大きな穴を掘っていき、
「そうそう。このくらい おおきな
からっぽの きもちなんだ」
穴の中に座り、空を見上げていたのうさぎさん。
からっぽの きもちの
あなの そこから みると、
いつも みなれた 雲や空が、
おどろくほど きれいなものに
みえるのでした。
ここまで読んで。のうさぎさんなかなかいいなと、思うのです。
気持ちがマイナス方向に行きそうなときや、いっちゃったとき、いつまでもそれに
どっぷり浸かっていないで‥よーく自分の気持ちを覗き込み‥そして、自分の力で
立ち上がれたらなあと思います。
バケツはちがうかな?と思いつつも、まあかぶってみて、シャベルが見つかれば、
取り合えず掘ってみます。見当ちがいなことのように思えても、遠回りで辿り付けるかも
しれないし。動いて、体をつかってみれば、それだけで気持ちも晴れるし、居心地のよい
「場所」も見つかるかもしれないし。
お話の後半。穴の中で「いいこと」を思いついたのうさぎさんは、今度はその「いいこと」の
実行に夢中になり、なんのための穴だったのかを忘れていきます。
季節が移り、翌春、からっぽのきもちの あなは、きれいな 花と実がいっぱいの、
かわいい まあるい花だんに なったんです って。
からっぽの気持ちに、きれいな花が咲くなんて、不思議な話ですよね。
でも、お話を追っていくと、のうさぎさんの思い込みと、空想癖と、行動力と、偶然の賜物
であることがわかります。
新しい年。
何かいいこと思いついたら、頭の中でめぐらせているだけでなく、体をつかってみようと
思います。的はずれの「バケツ」の場合もあるかもしれませんが、ちがうなと思ったら、
庭に落ちているかもしれないシャベルを探し‥ひたすら穴を掘ってみようと思います。
目標は、のうさぎさんのように、です。
変わらぬおつきあいを、どうぞよろしくお願い致します。
(勝手に)思った絵本ー『いつかはきっと』※と『もりのてがみ』※ーのことを書きました。
今日これから紹介する本は、題名からはクリスマスの絵本だということはわからない
けれど、正真正銘、ほんもののクリスマス絵本です。

『ちいさな曲芸師 バーナビー』
バーバラ・クーニー 再話 絵
末盛千枝子 訳
この話は、元々古くからフランスにあったものを、絵本作家のバーバラ・クーニーさんが、
自ら絵をつけて絵本に仕上げたものです。(絵も色使いもとても素敵です)
クリスマスにラジオから流れていたストーリーに魅せられて、自分に息子が生まれたら
「バーナビー」と名づけることを決め(実際にそうなったそうです)、絵本にふさわしい形を
求めて、パリの図書館にある古書をみたり、フランス各地を旅して歩いたと知れば、
クーニーファンなら誰でも、そこまで惚れこんだ話っていったい???と興味をひかれることでしょう。
ずっと昔、もう何百年も前のことですが、旅から旅へと曲芸をして歩くバーナビー
という名の少年がいました。今からお話するのは、私がきいたこのバーナビーの
お話です。
少年にはお父さんもお母さんもいませんでした。自分の家というものも
ありませんでした。彼は、あっちこっち、遠く近く、いろいろなところを旅しました。
バーナビーのお父さんも曲芸師で、彼は10歳の春に父と死に別れるまで、父とともに
芸をしながら旅をしていました。跳んだりはねたり、ボールを空中にバランスよく投げたり
することは誰よりも上手でしたが、他のことは何も知りません。本を読むことも知りませんでした。
そんなバーナービーの暮らしと心持ちは、冬になり、修道士に声を掛けられたことで
変わっていきます。
修道院に居ると、着るものにも、食べるものにも不自由はないのに、自分がなぜか悲しく、
みじめなことにバーナビーは気が着きます。それは、修道士みなが自分に与えられた
仕事をして働いたり、祈ったりしている姿に触れたからでもありました。
クリスマスが近づくにつれ、修道士たちは今までよりももっと忙しく働くようになり、
バーナビーはますます悲しくなりました。イヴに向けて、誰もが一年かけて作った小さな
贈り物をするのに‥歌だったり、写本だったり、木彫りの柵だったり‥自分にできることなど
なにもないと、彼は嘆きます。自分の「能力」や「範囲」を知ってしまったのでしょうね。
自分にできること、できないこと。
自分のしたいこと、したくないこと。
これだけの中から選ぶのなら簡単ですが。
自分がしたくても、できないこと。
本当はしたくないけど、やろうと思えばできること‥。
一番いいのは、自分がしたいことを、できること。
お話のクライマックス、クリスマスイヴの日がやってきます。
バーナビーは、聖母子像の前で泣いた日に、啓示を受けてから実践してきたことを
やってみせます。自分の力を出し切って、精一杯。それはマリア様のためであり、
自分自身のためでもあったと思います。
誠意をつくすこと。自分に与えられた力を知ってそれを発揮すること。
バーナビーが私に教えてくれたのは、これらのことです。
2ヶ月くらい前から、図書館で借りては延長し、返してはまた借りてきて‥を
繰り返していました。
すっごく、女の子こころをくすぐる本なんです。
『いつかはきっと‥』
シャーロット・ゾロトフ 文
アーノルド・ローベル 絵
やがわすみこ 訳
ONE DAY と「限定されている」日も、安心できていいけれど。
SOME DAY は、いつになるかわからない分、楽しみが倍増されるような気がします。
どのページも始まりは 「いつかは ね‥」というエレンの語りかけ。
いつかは ね‥
あたしが がっこうへいくと
みんなが いうの。
「まあ きょうは すごく すてき あたしも こんなかみのけ ほしいわ!」
いつかは ね‥
バレエのおけいこに いくと
バードせんせいが おっしゃるの。
「エレンを ごらんなさい あの じょうずなこと」
いつもは「うちのちび」と友だちに言っているおにいちゃんも、ちゃんと「ぼくのいもうと
です」と紹介してくれるようになり、かわいいブルドッグを飼ってそのお世話をして、
とっておきのお皿で、ママにディナーテーブルの用意を頼まれる‥空想の中で、
エレンはどんどんレディになっていくのだなあと、思います。
レディ(大人の女の人)になる前は、みんなレディに憧れるけど、大人になってしまったら、
レディになる前の少女だった頃が懐かしくなるのかな‥。
でも、「むかし女の子だったこと」を覚えている人は、いつもどこかに その時々の
SOMEDAY を持っていられるような気がします。
私も、まだまだ負けないぞ~(笑)。
この本を、繰り返し手元に置いてきたのに、今頃ここで紹介しているのには(実は)
わけがありまして。たった見開き1ページだけですが、とってもクリスマスというものを
よく表しているページがおしまいの方にあるのです。
いつかは ね‥
クリスマスツリーだって すきなように かざらせてもらう。
パパも ママも おにいちゃんも てつだいっこ なしよ。
たった3行のテキストだけれど、クリスマスツリーがいかに「特別」なものであるかが、
とってもよくわかります。憧れであり、喜びであり、うーんあとは何だろう。クリスマス精神の
すべてが集まっているような‥そんな感じを受けたのでした。
一般的にはぜんぜん「クリスマスの絵本」に入らないのだけれど、私が勝手に
「クリスマスっぽい」と思った絵本があと2冊あって‥今週と来週で、それについて
書けたらなあと思っています。
今日は、「出会えた2冊」のうちの、もう1冊の本の話をしようと思います。
『しょうぼうていハーヴィ ニューヨークをまもる』
マイラ・カルマン 作
矢野顕子 訳
「しょうぼうてい」って聞きなれない言葉ですが、漢字にすると、「消防艇」‥
消火活動をするための船のことですね。題名についている「ニューヨーク」は
イコール「マンハッタン島」のこと。
1931年にハドソン川へ初出航した、ハーヴィと名づけられたこの船は、桟橋の火事を
いちはやく消し、セレモニーではびゅうと水を噴き上げて(表紙の絵ですね)、ニューヨーカーの
人気ものでした。1931年という年は、ベイブ・ルースがヤンキースタジアムで611本目の
ホームランを打った年であり、スニッカーズというお菓子がお店に並んだ年でもあるそうです。
その頃、一番高いビルといえばエンパイアステイトビルで、まだツインタワーはできていません。
そう、ハーヴィは実在の船で、このお話は「ほんとうにあったこと」なのです。
ハーヴィには5つのディーゼルエンジンがあって
時速20マイルで走る。(これってすごい はやさなんだよ。)
1分間に16,000ガロン(消防車20台分!)
の水を吹き出すパイプが8つ。
ハンドルはきれいなまんまるだ。
真ちゅうでできた吹き出し口は
ゴールド・ルームに保管されてた。
火事のしらせをうけたら
2分以内に消防隊員はあつまる。
もちろん火をこわがるような人なんか
ひとりもいないさ。
それとまぁ火は消せないけど、
スモウキーっていう名前の犬が乗ってる。
大活躍のハーヴィでしたが、時代の流れには逆らえず、1995年には消防艇としての
役目を終え、鉄くずとして売られるまで、ただ川に繋がれていました。
そんなハーヴィに転機が訪れます。
フロランというレストランに集まっていた仲間たちが、お金を出しあって、ハーヴィを
買おうということになったのです。
きれいに修理されたハーヴィは、ついにハドソン川に戻ってきます。2艘だけ残っていた
消防艇とも「友だち」になりトゥー トゥー トゥー トゥー と汽笛で「こんにちは」を
言い合ったり。でも‥
「ハーヴィは古くてすてきな船だけど、
まあもう消防の仕事をすることは
ぜったいないよねえ」
とみんなは言っていました。
お話は、ここまでで3分の2ほど進んでいます。この後、どこかの桟橋か橋のたもとで
火事が起こり、たまたま近くを通っていたハーヴィが、その火事を消し「ニューヨークの街を
守りましたとさ」で、お話がおしまいになっていたとしても、はたらきもののじょせつしゃ
けいてぃーや、ちいさいケーブルカーのメーベルのように、「はたらきものの車(船)の
話」で、めでたしめでたしだったと思います。
役にたたなくなった消防艇を、「おもしろそうだから」という理由で復活させてしまう
試みそれ自体が、ニューヨーカーの遊び心そのものだと思うし。
しかし。
これ以上劇的なことは、生きている間にはもう2度と起こらないのではないか
(起こって欲しくない)ということが、ニューヨークの街に、ニューヨークに住む人たちの身に、
起こってしまいました。
2001年9月11日朝8時45分の出来事です。
本文では、こう記されています。
あの高くそびえていたツインタワービルに
飛行機が2機
ものすごい力で 突っこんでいった。
庭の木の手入れをしていたボブ・レイも、キッチンでお茶を飲んでいたトムも、犬の
レイダーと散歩中だったチェイスも、小説を書いていたジェシカも、溶接工事中だった
アンドリューも、新聞を読んでいたティムも、『デイヴィッド・カッパーフィールド』を読んでいた
ハントリーも、仕事にでていたジョンも、みんなニュースを聞いてハーヴィのところに集まりました。
そして、消火栓ががれきに埋り困っていた消防士たちは、すぐにハーヴィにホースを
繋ぎ、それから4日4晩、交代での消火作業は続きました。
いろんな人たちが いろんなものを持ってきてくれた。
船の燃料とか セーターとか手袋とか ピッツァとか
サンドイッチとか コーヒーとかを。
みんないっしょにはたらいた。
みんな いっしょに泣いた。
火がおさまるまで ずっとそうだった。
私は、政治的な背景とか、策略とか共和党とか、ヒロイズムとか、その他もろもろの
そういう話をしようとは思っていません。
ただそういう場面に(そういう時代にかな)、居合わせたしまったハーヴィの不思議を
思い、ハーヴィとともに消火活動に携わった多くの人たちが、顔を大きくゆがめて泣いたり、
励ましあったり、呆然としたり、また静かに涙を流したりしている姿を、思い浮かべるだけです。
誰もが、自分にできる何かを懸命にしようとしているその姿を。
スピリッツ・オブ・ニューヨークは、働くハーヴィと「イコール」で結ばれます。
さてさて。
私の「細い糸」はどこから繋がってきたのかというと‥。
この絵本の作者であるマイラ・カルマンさんの絵。買った時からどこかで見たような‥と
気にはなりつつも思い出せずにいたところ、ある日家の本棚(夫の仕事部屋の奥にあって
普段は見にくい状態)で、別の本を探していて、↓の絵本を見つけたのでした。
Ooh LA LA (Max in Love)
これこそがマイラさんの絵本。1992年4月から1993年8月まで、夫と二人でニューヨークに
住んでいた時に、唯一私が買った絵本だったのですね~。
私たちが住んで居たアパートメントは14丁目にあり、南を向いた10階の窓からは、
右手に少しだけハドソン川が見え、ツインタワーがそれはきれいに見えたのでした。
ほんのちょっとの、語るのもオコガマシイ「ニューヨーカー生活」が、それまでの私と、
それからの私を、大きく変えてしまいました。
3日で恋に落ちることがあるように、街に恋してしまうこともあるのです。
2004年に「ハーヴィ」が出版された時、ほぼ日のサイトで、購入することができたようですね。
当時はまったく何も知りませんでした。
最近になって、毎日のようにほぼ日を訪れるようになり、今「矢野顕子について
アッコちゃんと語ろう」という糸井さんと矢野さんの対談があって。それを読んでいたら、
過去記事の中に、「矢野さんの語る しょうぼうていハーヴィ」というのを見つけました。
こういうのを偶然見つけた時も「繋がってる」と思えて、嬉しいです。
ぽつんと落ちたしずくのような点が、頭の中で、いつまでも消えずに残っていて、}でも普段はちっとも意識とかしてなくて。なのに、ある日突然目の前にそれが現れると、私は
ずっとこれを探していたんだ、という深い喜びが沸いてくる‥。
11月の初めに、目白のブックギャラリーポポタムで、イラストレーターの山本祐布子さんの
絵本『ZOE』を見つけた時の気持ちは、そんなふうでした。ポポタムには、その日はじめて
行ったのですが、「絵本屋さん」っていうのともちがうし。大きな棚に、新刊本も古本も一緒に
置いてあるところが新鮮でした。
私が山本祐布子さんを知ったのは、hinataさんこと、稲垣早苗さんが送ってくれた1枚の
切り絵のポストカードがはじまりでした。素敵だね、と話したところ、ギャラリーらふとの
「工房からの風」のポスターをお願いしている話を聞き、同じ頃『旅日和』という、山本さんの
本の存在も知りました。(その時の記録は※と※)
『旅日和』は、切り絵のシャープさと、落ち着いた色合いが魅力的な、画集のような本ですが。
それより以前に出版されたこの『ZOE』は、キュートなティーンエージャー、ゾエの誕生日
パーティーの絵本で、紙を切って貼り合せている手法は同じですが、もっとポップで、もっと
自由な感じに仕上がっています。
黒のサインペンと、包装紙‥みたいな組み合わせとか。
フェルトのアップリケ、その上にさらに刺繍とか。
コラージュとも違う、山本さんの切り絵を見ていると、紙をじょきじょき切っていく時の、
自分の耳元に届く音とか、手元に残る感触とかが、とてもリアルに甦ってきます。ただの
紙が、「かたち」になっていく過程で、そこに気持ちがはいっていくのではないかな、と思えるのです。
四角く切られた「ただの紙」なのに、ほんとうにゾエへのバースデープレゼントが、
中に入っているみたいなんです。
画像でお見せできないのが残念です。
『ZOE』 illustrated by YUKO YAMAMOTO
227×177 size full coror.32P
TRICOROLL BOOKS november 2000 releases.
* * * * *
「出会えた2冊」のうちの、もう1冊も、同じ日に同じポポタムの棚で見つけました。
題名は『しょうぼうていハーヴィニューヨークをまもる』
マイラ・カルマン 作 矢野顕子 訳
タイトルに“ニューヨーク“がついていて、訳者が矢野顕子さん、しかもユーズドブックスで
お値段もお手頃。それだけで、あとは何も知らずに選んだ1冊だったのですが、結果的に
「出会えた本」となりました。
10年以上前からの、細い細い糸が、その本にも繋がっていたことがわかり不思議な
気持ちになりましました。ハーヴィの話は、次回に続きます。
ささめやゆきさんブームは、私の中で静かに続いていて‥ここにたどり着きました。
『ガドルフの百合』
宮沢賢治 文
ささめやゆき 絵
百合の花が、すべての花の中で、1,2位をあらそうくらい好きです。
みどりの固い蕾がふくらんできて、薄く白い筋が入ってくるところも、ある朝、ぱっちりと
開くところも。中でも一番好きなのは、居場所を教えてくれているかのような、その香り。
開き始めと、花びらが散る前とでは、その匂いも変わってくることに、つい最近気が
つきました。だから正確に言うと、百合の花の中で一番好きなのは、花のピークがすこし
過ぎた頃からの匂い、ということになります。
ささめやさんが描いた、この表紙の百合を見つめていると、その匂いが喉の奥を通り、
胸の中に満ちてきて、いつまでもいつまでもその匂いの中に居たい、と思っている自分に
気が着きます。それくらい、私にとっては、特別な匂い‥。
ガドルフは、百合の匂いに気がつかなかったのでしょうか。
激しい雷雨に遭い、思わず駆け込んだ家のガラス窓越しに、ガドルフは、
何か白いものが五つか六つ、だまってこっちをのぞいているのを見ました。
「どなたですか。今晩は。どなたですか。今晩は。」
人影かと思い、声をかけた後、稲光によってそれが百合の花だと知らされます。
シャツが濡れるのも覚悟で、窓から外に体を出して、次の光が花の影をはっきりと
映し出すのを待っているガドルフは、その時点で、すっと引き寄せられたにちがい
ありません、「百合のある風景」に。
合計で、4度。稲妻が映し出す百合の美しい姿をガドルフは眺めるのですが、
2回目のピカッの描写がとても感動的です。
間もなく次の電光は、明るくサッサッと閃いて、庭は幻燈のように青く浮び、
雨の粒は美しい楕円形の粒になって宙に停まり、そしてガドルフのいとしい花は、
まっ白にかっといかって立ちました。
(おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。)
そんなにも惹きつけられた百合の花なのに、ガドルフはその香りには何ひとつ
触れていないのです。
灼熱の花弁は雪よりも厳めしく、ガドルフはその凛と張る音さえ聴いたと思いました。
くっきりとした花の姿はこんなにも伝わってくるというのに、芳香は、ガドルフのところまで
たどり着くことなく、雨粒にかき消されてしまったのでしょうか‥それとも、目と耳に届いた
情景があまりにも強かったため、匂いは記憶の隅に追いやられてしまったのでしょうか。
もしも、後者なら、ある時突然に匂いの記憶は甦ってくるでしょう。その時、ガドルフが
それに何を思うのか聞いてみたい気がします。
雷雨の中に立つ百合の姿はあまりにも鮮烈で、別の「似たような何か」があったことが
気になってしかたありませんでした。
ガドルフ(宮沢賢治)の百合は、まるで梶井基次郎の『檸檬』のようではないですか。
突然の嵐に見舞われて疲れきっている男が、雷雨に打たれても気高く咲き誇る百合に
希望を見出している姿は、重ねた本の上に、爆弾に見たてた檸檬を置いて帰った男と、
とてもよく似ているように思われます。
もしやお二人は、同じ時代を生きたのではと思い調べてみたら、ほんとにそうでした、
驚きました。
宮沢賢治 1896年ー1933年
梶井基次郎 1901年ー1932年
宮沢賢治作品&ささめやゆき では『セロひきのゴーシュ』もあります。昔むかしに
読んだ文庫本の段ボールを開けて、『檸檬』を探してこようと思いました。
これまでに、何冊くらい絵本を買ったことでしょう。
今年になって数が増えたものの、それまではそんなに多くはなかったと思います。
そのほとんどが、娘の成長に合わせて彼女のために買ったものでした。そして時折、
どうしても欲しくなった自分のために‥。
娘以外の誰かに贈るために買った絵本は、いつ、何の本を、誰に、とはっきり記憶しています。
それぐらい数が少ないのです。まして、おとなへ贈ったとなると、それはたったの2冊しか
ありません。
1冊目は、コイビト時代の夫に、五味太郎さんの『絵本ことばあそび』(1982年岩崎書店発行)。
私も、もちろん夫も、絵本のエの字も口にしなかった頃。五味太郎さんがどんな方なのかも
知らずに、ただ中味の言葉遊びのおもしろさゆえに、誕生日プレゼントにしたのでした。
そして、もう1冊は、今年の10月22日に、大学時代からの友人にこの本を。
『森の絵本』
長田弘 文
荒井良二 絵
大きくなって。自分で、自分の進む方向を決めなくてはいけない時期がやってきて。
さてどうしたもんだろう、と考えるー。
それは、大きな木の茂る森の入口に立ったときと似ているかもしれません。踏み入って
行くには勇気がいる。けれど入口で立ちすくんでいるわけにもいかない‥。
そんなとき、声が聞こえます。
「いっしょに ゆこう」
すがたの見えない 声が いいました。
「いっしょに さがしにゆこう」
「きみの だいじなものを さがしにゆこう」
すがたの見えない 声は いいました。
「きみの たいせつなものを さがしにゆこう」
声に誘われて進んでいくと、目の前が開けていき、大切なもの、忘れてはいけないものを
教えてくれます。たとえば、
「だいじなものは あの 水のかがやき」 というふうに。
誰の声なんだろう、と思いました。森の中へと誘い、導き、諭し、励まし、ともに歩んで
くれるその声の持ち主はー。森の入口に立った時、そんな人がすぐ近くに居てくれたなら、
とても心強いにちがいない‥。
すこし前の私は、その声が誰の声であったのかわからなかったし、わかろうとして
いなかったのかあと思います。でも、今は、それが「自分の内なる声」だということに、
気がつきました。
そう。励ましてくれたのも、思い出させてくれたのも、忘れちゃだめだと戒めてくれたのも、
自分自身にほかならないのです、きっと。
それは、こう言いかえることもできると思います‥。
自分の内側から響いてくる声に、しっかり耳を澄ませていないと、森が息している
ゆたかな沈黙 や 森が生きている ゆたかな時間 を知ることもなく、ただ森の中を
さまよい続けることになるかもしれない、と。
この本を、喜んで受け取ってくれた彼女は、「内なる声」に、耳を澄ませる努力を惜しまない
人にちがいありません。だからこそ、ゆたかな森を築きつつあるのです。
私を、20年来の友人としてくれていることへの感謝と、『森の絵本』を選んだ、今の私を
知って欲しくって。彼女の誕生日と、本が出版されたことと、ギャラリーショップオープンの、
すべてのおめでとうをこめて、贈りました。
「ほら、この本」と その声は いいました。
その本は 子どものきみが とてもすきだった本。
なんべんも なんべんも くりかえして 読んでもらった本。
「その本のなかには きみの だいじなものが ある。
ぜったいに なくしてはいけない きみの思い出がー」
こんなに大好きな本になったのに、自分のを、まだ持っていません。でも、今度の
クリスマスには買おうと決めています‥。
ささめやゆき さん。
挿絵はよく描かれているけれど、文ともに ささめやさんの絵本となると、その数は
めっきり減ってしまいます。
『マルスさんとマダムマルス』
ささめやゆき 作
だから、この本はとても貴重な1冊です。しかも、ここで描かれているのは、ささめやさんが、
はる なつ あき ふゆ を、実際に過したノルマンディ半島の先端に位置する海辺の小さな村‥
エッケールドルヴィル。パリ、ニューヨークと暮らしてきた後に、ひとりの知り合いもいない
その村にやってきたのだそうです。
あとがきにはこう記されています。
こんな地図にものっていない村で、誰も怨まず誰にも憎まれず、心はすみずみまで
澄んで、ずっと絵を描いてくらしてきたのだ。もし人にその核となる時間と空間が
あるとするならば、ボクはまちがいなくこの村をさすだろう。
私は、今までに一度も、ひとりで暮らしたことがありません。
自宅から高校へ通い、自宅から大学へ通い、自宅から通勤して‥そして結婚してしまいましたので。
実際的な意味での、孤独も寂しさも経験してこなかったのだろうと、思っています。
でも、この本を開いていると、なにもない海辺のこの村に自分が居て、すぐそばで聞いて
いたかのように、大家のマルスさんの声を感じます。
「サリュー、絵はうまくいってるかい」
そうなると、サリューの淋しさややりきれなさは、私の内なるものでもあることがわかってきます。
どこに居ようと、誰かと暮らしていようがいまいが、コドクはいつもひっそり「内側」に潜んでいますので。
しかし、コドクが悪者であるわけでもありません。純粋な喜びがあるように、純粋な孤独も
あり、そのどちらも欠くことができない大切なものです、きっと。何にとって欠くことが
できないかといえば、サリューにとっては、もちろん絵を描くこと。
では、わたしにとっては‥?
答えは返らぬまま、また最初から本をめくります。
日めくりカレンダーをめくってもめくっても
同じような一日しかやってきません。
でも本当は今日は昨日ではないし、
明日は今日とはちがう一日なのです。
たまには、ひと目惚れで、絵本を買ってもいいかなと思いました。
だって、表紙もタイトルもこんなに素敵なんです。
『ブリキの音符』
片山令子 文 ささめやゆき 絵
表紙を開いてから、本文が始まるまでの、見返しや中扉や、扉の構成がとても見事。
目と、手に触れる紙の感触を楽しんでいると、巻頭の詩が出てきます。
まばたきの音がして、まるい涙がこぼれおち、
ブリキのお皿とスプーンがあいさつをする音が
して、おいしいスープがやってきた。
スカートをひろげて、こころが音符の階段を
かけ降りて、またのぼっていく。どんな時も忘
れないでいよう。これは、みんな、音楽なのだと
いうことを。
この言葉が書かれている見開きページの色が、またなんとも美しく、ここまでで、
もうこの本は私のもの、と思ってしまいました(笑)。
家に帰る途中で、つらつらと思い返しているうちに、ひと目で惚れたと思っていたことが、
実は誤りであったことに気が着きました。
前に借りた『絵本の作家たちⅠ』の最後に、ささめやゆきさんのページがあり、そこで
この『ブリキの音符』も紹介されていたのです。
それによると、雑誌「MOE」から世界の街角シリーズという企画の依頼が、ささやめさんの
ところに来て、「そんな絵絶対に描けないと思ったから、僕が絵描くから、それを見て文章
書く『挿文』ていうのはどうか」と言ったそう‥文章のほうは最初から、片山令子さんと
決っていたそうです。その後1994年に白泉社から単行本化され、そして、今回それを底本
として、アートンより、「巻頭の詩を除いて、単行本化する際に改めた稿を雑誌『MOE』
発表時の稿に戻し、造本を変え刊行」したそうです。
いろんな事情が出版サイドにあるのでしょうが‥とにかくこの絵本が、手元に届いて
よかったです。
初めに絵が描かれ、それを受けて文を書く。
だから、この絵は、こんなにストレートに働きかけてくるのだなあと納得しました。
前出の『絵本の作家たちⅠ』の中で、片山令子さんもこんなふうに、ささめやさんの絵に
ついて書いていました。
『ブリキの音符』を本棚から出してくると、いつも表紙を撫でてしまう。
たとえば、女の人が立っているステージの黒、緞帳の重いみどり。
広げられた白いシーツの長方形と、その下の濃い青い草むら。
空のブルー、壁のグレイ。
四角い箱のような音楽スタジオ、写真スタジオのそれぞれの壁。
背景の上に描かれた人物の表情にも味わいがあるのですが、でもなぜか、筆の跡も
感じられる、塗り込められた背景を、そっと撫でたくなってしまうのです。油絵の具を、
キャンバスではなく、板の上にのせていったのかなあと思う、その色がどれも美しく、
そっと触れてみたくなる気持ちを抑えたままにしておくのはもったいなくって。
こういう種類の絵本のことを「大人のための絵本」というのでしょうか。
大抵の絵本は、声に出して読み、それをもし聞きつけて子どもが「ママ読んで」と
言ってくれば、ともに読み楽しみますが、この絵本はどうかな。それができるかな、と
自分に問います。
どのページの文章も、一篇の散文詩のようなので、思いっきり贅沢した詩集、という
ふうにも受け取れて‥。そう考えれば、読んであげてもいいかな。でもね‥。
走らなくていいのに。今まで起きたこと
のひとつでも違っていたら、二人ともここ
へ来られなかったと考えると、おこる気に
なんてなれないんだ。ぼくにはもうわかる。
彼女が息を切らせながら謝ろうとするのが。
謝らなくていいのに。きみは、ぼくとい
う時間にまにあった。〈生きている時間〉より
「きみは、ぼくという時間にまにあった」が胸の真ん中に響いてこない子どもに、読んで
あげることもないか、とも思うのです。
ほんとうの年齢とは関係ないところに、(半)永久的に存在する「少女の気持ち」。
震える心を落ち着かせるために息を吐き、すこし前に届いた言葉を、忘れないようにと
何度も唱えてはまた胸を熱くする‥。
読んで、そういう気持ちに浸るもよし。そういう時があったことを思い出すもよし。
そんな絵本が、すぐ手の届くところにあってもいいかなあと、思うのです。
おかあさんは24時間おかあさんをやっているように見えても、気持ちは、いろんな
「場所」へ「いつでも」でかけることができるのです。
昨年は、その実行委員をしていたので、とても忙しかったのですが、今年は、別の役員
なのでそれほどでもありません‥と思っていたら、「おまつり」で、開き読みをすることに
なってしまい、また別の慌しさが漂っています。(何の絵本を読むことに決ったかは、また
後日お知らせします)
私が所属している開き読みの会は、司書も兼ねている小学校の先生の発案で、
立ち上げられたボランティアなので、ほとんど全員が、その学校に子どもが通っている
お母さんです。私のように、PTA役員とボランティアの両方をやっている人も半分ぐらいいます。
普通に考えれば、そういう構成員のもとで学校の「おまつり」に参加するのだから、
どこにも問題など起こりそうもなく、歓迎ムード一色だろう、ですが。大勢の人が集まれば、
いろんな意見の方がいて、「開き読み」に対しても、なんで「まつり」の場所で絵本なわけ??
わざわざ出てこなくってもいいんじゃない的な雰囲気もあるようなないような。
もっと優しい気持ちで‥いろんなことに対して‥大きな目で物事を捉えて欲しいなあと
思うこの頃なのでした。
でも、ゆうべこの絵本を読んでいたら、正攻法で正面からぶつかっていくばかりが、
勝利に繋がるわけではないということに気がつき、みんな知恵を使って、理不尽なことを
やり過ごしてきたのだなあと、妙なところに感心してしまいました。

『魔法のホウキ』
C・V・オールズバーグ 作
村上春樹 訳
この絵本、以前も借りてきて紹介しようと試みたのですが、なんとなくうまくいかず‥
秋になって、10月になったらもう一度借りてきて、挑戦しようと思っていました。
なんで、「10月」と限定したかというと(読んだことがある方はおわかりの通り)、
文章がある側のページの上下に、どのページにも、かぼちゃが描かれているのです。
かぼちゃ→ハロウィーン→10月 という実に単純な発想なんです。
魔女の乗るホウキはいつまでもいつまでも永久に使えると
いうものではありません。それは年月とともにくたびれて
きますし、たとえどんなに立派な最高級ホウキといえども、
いつかは空を飛ぶ力を失ってしまうのです。
‥こういうものらしいです。魔法のホウキって。
それで、ある日、急に力を失ったホウキに乗っていた魔女が、ミンナ・ショウという名前の
後家さんの野菜畑に落っこちてきます。ミンナ・ショウの介抱で魔女は回復し、別の魔女を
呼んで、ホウキに「二人乗り」して帰って行ってしまいます。
古いホウキが後に残されているのを見ても、ミンナ・ショウは驚きません。もう魔力が
残っていないと思ったからです。けれども、そのホウキには、まだ魔力が残っていたようなのです‥。
オールズバーグのほかの絵本と、この『魔法のホウキ』が違う点は、セピア一色で描かれて
いるところと、主人公が女性のところ(他の絵本では主人公はみな男性or男の子ですよね?)。
その両方が、実にストーリーを引き立てている、というか、その二つなしには、この絵本は
成り立ちません。
ミンナ・ショウが、魔法のホウキを守るために使った「知恵」という名のマジック、とっても
見事なんです。
私も、何かの時に、とっておきのマジックが使えるよう、日頃から頭を柔らかくして
おかなければ、と思います。
柔らかいあたまと柔らかい‥やさしい‥こころ。
5月に買った本なのに、夏が来て、夏が去ってしまった今頃になって、ようやく
登場させることができました。お気に入りのあまり、大事にし過ぎてしまったかもしれません。
『ここってインドかな?』
アヌシュカ・ラビシャンカール 文
アニータ・ロイトヴィラー 絵
角田光代 訳
この絵本には、私の気持ちをぐいっと引き込むものが3つあります。
まず、題名。
Excuse me,is this India? を ここってインドかな? と、魅力的に
訳したのは作家の角田光代さんです。
次に、絵。
絵は、全部パッチワークされたキルトの作品なんです。巻末の作者プロフィールによると、
絵のアニータさんは世界的に著名なキルト作家で、1999年にインドを訪れた時とても感銘を
受け、たくさんの布や織物のはぎれを集め、インド旅行の思い出として作品を作ったそうです。
文章を読む前に、キルトの作品だけを見てページを繰っていくのも、とても素敵です。
使われている布の柄やその合わせ方、ステッチ、刺繍の入れ方などなど、見る度に
何かしらの発見があり、飽きることがありません。
そして、何より私をひきつけたのは、テキスト終盤で、主人公の青ネズミちゃんに、
ひげの紳士が言うこの言葉。
「どこにいるかなんてかんけいないさ、
もんだいは、どこにいくかなんだから」
ストーリーは、主人公の「わたし」が、アンナおばさんからもらったキルトにくるまって
眠ったら、青ネズミちゃんになって、飛行機に乗って、何処か知らないところを旅している
夢を見た‥というものです。
アンナおばさんは、インド旅行から帰ってきて、そこで見た色々な景色を、キルトに縫いこんで
「わたし」にくれたんです。だから、青ネズミちゃんになった「わたし」が旅した場所も、
インドっぽいんです、とっても。でも、旅している青ネズミちゃんには、そこが何処なのか
わからなくって、会う人や、そこに居る動物に聞いてまわります。
「あのね、ここは、なんていう国?」 とか
「わたし どこにいるのかしら?」 とか
「本当に知りたいの。
わたしがどこからきて、
どこへいこうとしているのか、おしえてちょうだい」
聞かれた人や動物たちは、好き勝手に、とても哲学的な(?)答えを返してくれるだけ。
青ネズミちゃんには、わけがわかりません。ひげの紳士の言葉も、そういうもののうちの
一つなのでした。
角田光代さんは、訳者あとがきで、こんなふうに述べています。
私はこれを訳しながら、ふと思いました。ひょっとしたら私たちの毎日は、
どこにいるのかわからない、青ネズミちゃんと同じなのではないか、と。
見知った場所で暮らす私たちは、ここがどこか、なんて問わずとも、しぜんに
暮らしています。けれど、「ここ」は、昨日とは同じではないような気がしませんか。
あるいは、昨日と違うのは、私たち自身かもしれません。
どこにいるかなんてかんけいないさ、もんだいは、どこにいくかなんだから
私にとって、この言葉が引き出すイメージの行き着く先は、Road to Nowhere
という歌なんです。
Talking Headsの、↑ LITTLE CREATURESの9曲目に入っています。
『ここってインドかな?』のストーリーから、何らかの繋がりがあるわけでもないし、
筋道だった説明もできないんです。
ただ、「どこにいくかなんだから」のひとことが、歌の中にあるこの箇所に結びついて
いくのです。
♪We're on a road to nowhere
Come on insaide
Takin' that ride to nowhere
We'll take that ride ♪
僕らはどことも知れぬ所へ向かっている
さあ 中へお入り
当てのない旅に出かけよう
行き先知れずの旅に (訳詞 山本安見)
現実から逃避しているのでも、実生活を否定しているのでもないのですが、気がつくと、
気持ちは「どこかへ」向かっているような気がしてなりません。夢のような楽園が、どこかに
あるわけではないこと、もうようく知っているけれど。植物の蔓が、からまる物があれば
その高さまで、どんどん伸びていってしまうのと、似ているでしょうか‥?
それとは違うかな(笑)。
どこにいくかなんだから どことも知らない場所
それは、「まだまだ諦めていない」とか、「ドキドキを呼び起こしてくれるもの」と
同じ意味なのかもしれません、私の中では。
road to nowhere はキーワードであり、総称とも言えるかもしれないなと思います。
ひしゃげた野菜のおしりや、ヘタの部分を利用して、顔に見立ててあるんです。
目は、(うちの方のお赤飯にはかかせない)「ささげ豆」を使っているそうです。

『どんなきぶん?』
サクストン・フライマン&ユースト・エルファーズ作
アーサー・ビナード訳
ストーリーはなくって、「顔」の出来た順に野菜や果物を並べて、次々と写真を撮って、
あとからそれにふさわしい言葉をつけていったんじゃないかなと、思います。
でも、何回か見ているうちに、お話ではないけれど、ゆるやかな「波」みたいなものを、
本全体から感じることができるような気がしてきます。英語も日本語もわかる訳者の
力でしょうか。
真っ赤なトマトとそれに寄り添うミニトマト。その脇には、そのふたりをうらめしそうに
眺めるミニトマトが居て‥。
すきな こを とられてしまったから
くやしくて かおが まっかっか?
おおっきなたまねぎと、らっきょう型のたまねぎ。情けない顔の二人のページには、
だめなとき
だめを どうなぐさめてもらえるか
それがだいじ。
いくら言葉で説明しても、百聞は‥ですので、ぜひ一度本のページを繰ってみて
ください。すごーくよくできている「顔」に驚くと思います。
表情の決めては、やっぱり「目」なのでしょうか。にやっと笑った口元や、口の中までも
上手に作ってあるのもありますが、それでも、目が入るのと、入らないのでは全然違うはず。
普段の自分の表情をちょっと考えてしまいました。両方向から。
何も言葉に出来ない時でも、目だけで、笑ってあげたり、安心させてあげることもできる
よね、ちゃんとやってる?というのと。
いくら楽しそうなふりをしていても、目にはきちんと気持ちが表われてしまうんだよ、というのと。
この本から思ったことが、もしかしたら「下敷き」になっていたのかもしれませんが。
お見舞いの品は、今回は本をやめて、俣野温子さん作「タオルぬいぐるみ・クマ」にしました。
(それと、クマのベージュ色に合う、緑のタオル)
ちょっとしたかわいいものを、その先輩からもらったことがあるのを思い出したのと、
ベッドサイドのテーブルの上に、ティッシュの箱や薬だけでなく、かわいいクマがちょこんと
座っていたら、それだけでも和むかなあ、と思って‥。そして、本は自分で開かなければ
ならないけれど、クマちゃんは、2つの目で、いつまでも見守ってくれているかなあという
気持ちから‥。