日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

パトカーを追跡する車を追う

2010-10-30 18:36:34 | Weblog
昨日は夕方に外出したものだから帰りが遅くなった。わが家は最寄りの地下鉄の駅から坂を10分ほど登ったところにあってふだんから人通りが少なく、夜ともなると屋外は無人の境となってしまう。それでも近所にひったくりご用心の張り紙があったりするので、暗くなると適当なところでJRに乗り換えて、JRの駅からタクシーで帰宅することにしている。

夕べもJR駅からタクシーに乗ったのが10時20分頃で、走り出すとすぐに信号にひっかかった。するとタクシーの運転手が、前のバンはテレビ局の車で「警察の24時間」(?)に出てくるものだと教えてくれた。パトカーのあとにピタリとくっついているはずだから、動き出したらパトカーが見えるはずですと言う。確かにそのパトカーが目に入った。パトカーがなぜかトロトロと走るものだから運転手がいらついているのが分かる。そして腹いせだろうか暴露話を始めた。実見談と私は受け取ったが、一方通行をバイクが逆方向に走っているのを見つけてパトカーがサイレンを鳴らしながら追い始めたら、その後を取材車が同じように追っかけていったけれど、結局バイクが上手に逃げ切ってしまった。そう簡単に捕まえられるものではない。それよりテレビの車がパトカーの後について同じように一方通行を逆送したけれど、それこそ違反の現行犯でしょう。それを警察が許しているのは絶対にけしからん、と息巻いた。

タクシーには行く先を告げているのでいつものコースを走っているが、道の半分を過ぎてもまだ目の前にパトカーと取材車が走っている。「お客さん、ついていきましょうか。何か見られるかもしれませんよ」なんて運転手が言う。好奇心は旺盛だけれどもそれほどの酔狂でもないし、第一、タクシー代が跳ね上がる、ということで丁重にお断り申し上げた。その代わりに取材車のナンバープレートをしっかり覚えたのでここに残しておく。「なにわ300 ゆ 12○1である。一字だけ隠したが、なんせ二、三日前の高齢者講習のテストで記憶力に磨きをかけられたばかりなので、絶対に間違っていない。イッヒッヒッヒッヒ・・・。
コメント

運転免許証更新の高齢者講習で時計の絵を描かされた

2010-10-28 23:38:58 | Weblog
運転免許証更新の高齢者講習は何のため?を書いてから三年が過ぎ、一昨日、三年前と同じところでまた高齢者講習を受けてきた。前回と違うところは講習予備検査(認知機能検査)なるものが増えたことであった。

受講生は全員で九人。腕時計をバッグなどに仕舞うように指示される。そして共通一次試験の答案用紙の様なものが配られて、指導員(と言うそうである)の指示に従いページをめくり、解答を書き込んでいく。最初に講習当日の年月日と時刻を記入する。午後2時きっかりに検査の説明が始まると同時に部屋の時計が隠されてしまったので、時刻とは2時を起点として、時刻を書き込むまでの経過時間を推測することで決まる。

次ぎにイラストが四つ描かれているパネルを一枚見せられた。そのイラストが何であるかを記憶するのである。覚え方としてヒントが与えられる。たとえば「兵器」といえば「大砲」、「乗り物」といえば「オートバイ」、「昆虫」といえば「てんとうむし」、「文房具」といえば「ものさし」というように。四枚のパネルが示されるから全部でイラストが16あることになる。それを覚えているものから答案用紙に書きこんでいく。時間は三分間。実際は覚えさせられた後に「あいうえお」を逆に書けとか、どうでもいい設問があるが、これに集中するとせっかく記憶したイラストを忘れてしまう。だから私のこのレポートを読んだ人はこの設問を無視すればよい。記憶を錯乱させるためのもので、採点には関係ないのである。私はまんまとそのトリックにひっかかって16のうち12しか書けなかった。もっとも次にはヒントの後にイラストを書くテストもあって、これは全問正解だった。

最後に時計の絵を描かされた。ページ一杯に大きな円を鉛筆で書く。円周の内側に1から12までの数字を書き込む。そして11時10分の針の位置を書かされた。幼稚園の入園試験のようである。これで検査は終わりである。結局30分近くかかった。

私の総合点は-2.842点で、判定は「記憶力・判断力に心配ありません」だってさ。-(マイナス)の採点なんて生まれて初めて。これだけでも受けた甲斐があったと慰める。講習予備検査というから建前はこの検査を通らなければ講習を受けさせて貰えないのである。面白くないことに全員が合格であった。それにしてもようこんな阿呆なことをやるわいな、と思っている反面、面白がっている自分がいるものだから始末におえない。三年後はこの検査に落ちるのがいかに難しいか試してみるつもりである。この検査、考えてみたら年寄りの暇つぶしにもなっているが、検査自体にどのような意味があるのか、脳科学者先生に解説お願いしたいものである。と言われて得々と講釈を垂れる方はよほどのお人好しか暇人であろうと断定してさし上げる。計3時間の遊興費は6千円であった。


コメント

「世界童話大系」、そして「ひょっとこうどん」と「ひょっとこ温寿司」

2010-10-27 23:30:02 | 昔話
あの暑かった夏がようやく過ぎ去ったかと思ったら、早々と厳しい冷え込みの襲来である。大阪管区気象台によると、近畿地方の27日朝の最低気温が大阪市と神戸市で9.0度、京都市では7.8度で、11月中旬並みの寒さだそうである。夕べは机の下のハロゲンヒーターに点火した。寒暖の移りゆきがどうも過激である。そして寒くなると子どもの頃、朝鮮で過ごしたオンドルの生活を思い出す。

オンドル(温突 on-dol)とは床下暖房の部屋で、次のように説明されている。

床下からの暖房装置。朝鮮のオンドルは、床下に石を数条に並べて火炕をつくり、その上に薄い板石をのせ、泥をぬり、さらに特殊な油紙を張って床とするもので、室外や台所のたき口で火をたくと、その煙が火炕を通って部屋の反対側の煙ぬきから出るあいだに床下から部屋全体を暖める仕組みになっている。(中略)
朝鮮のオンドルは、床にじかに座る生活様式を反映して、部屋全体の床下に火炕を設けている。燃料は葉のついた松の枝が主であったが、最近では練炭が多く用いられている。朝鮮のオンドルは高句麗時代からみられるようである。(世界大百科事典)

オンドルの部屋は6畳ほどであった。たき口は庭から石段で少し降りた半地下室にあって、無煙炭を焚いていたように思う。庭の一角に炭水車のような区画があって、寒くなると無煙炭が山積みされていた。戦争が深まるにつれて大きな練炭を使うようになったと思うが、その辺りの記憶は定かではない。いずれにせよ、朝鮮の冬はいったん家の中に入ると寒さ知らずで、食事時には折りたたみ式のちゃぶ台をオンドルの上に広げたし、就寝時はちゃぶ台を片付けて部屋一面に布団を敷き詰めた。ここに父母と弟妹に私、あわせて六人が頭を並べて寝た。

布団に潜り込んで本を読みふけるのが至福の時であったし、枕元に本があると安心して眠れた。父の書棚に「世界童話大系」というシリーズものがあって、それこそ世界各国の物語の総集成であった。なかでもロシア民話というか童話に惹かれて何度も何度も読み返した覚えがある。朝鮮から引き揚げの時に一冊でもいいから持って帰りたかったが、願いがかなうすべもなかった。現役時代、東京出張の折りには時間を作って神田の書店街に出かけては探し回ったが、残念ながらお目にかかることがなかった。ところが退職後になって腰をすえて探したところ、ようやくそのうちの三冊が見つかり、嬉しくて躍り上がったものである。しかも二冊が「露西亜篇」(一、二)だったのである。それを背表紙、見開き、それと三冊目である童話劇篇の「ペールギュント」からの1ページの順でお目にかける。




ところで今ふと気になってこの「世界童話大系」のことをネットで調べたところ、この全23巻(完揃)がつい最近オークションに出されて、2010年09月28日 08:43に終了していることが分かった。開始価格218,000円 (税込)とは凄いが、落札者はいなかった模様である。私も欲しいがそこまでは手が出ない。それはともかく商品説明からこの大系が世界童話大系刊行会により大正十三年から昭和二年にかけて出版されたもので、菊判丸背上製天金函入仕様であることが分かる。ちなみにこの写真の「露西亜編二」は928ページもあり、重量は1.3キロをやや超える。たしかに子どもが持ち帰る引き揚げ荷物には大きすぎた。

写真からもお分かりいただけるように、童話ということでわれわれが普通想像するような全集とはまったくことなり、大人のための出版物なのである。奥付きには非売品とあるので、おそらく全巻予約で売り出されたものだろう。かなり高価で子どもが買える代物ではなかったことは確かである。そして本文自体、子どもに読ませようという格別の配慮はなにもない。ただ当時のことで難しい漢字にはルビが打たれているので、ひらがなを知っていてそれなりの想像力を働かせるすべを心得ておれば、私のように国民学校の三、四年生でもちゃんと物語を楽しむことが出来たのである。それとも昔の子どもは今の子どもにくらべて遙かに大人びていたのだろうか。

話が横に逸れたが、大人の物語と言えばバートン版の千夜一夜物語も布団の中で読んだ。伏せ字の多い本で、なぜそうなっているのかにも思いが及ばない年頃であった。伏せ字のお陰か、こんな本を読んでいても両親からとがめられることはなかった。「世界童話大系」にもひけを取らない立派な本で、クラスの友達から借りたのであるが、誰だったのか今は思い出せない。私も父の本を持ち出しては人に貸していたのでお互い様である。このような貸し借りで読む本には不自由しなかった。もちろん子ども向きの本も読んでいた。そのうちの一冊にはぜひお目にかかりたいと思いながらも、こちらにはまだ残念ながら出合っていない。「ひょっとこうどん」という童話の入っている本なのである。もしかして雑誌であったのかも知れない。

寒い最中、旅人が連れ立って山を越えている。ここらでちょいっと一休みと峠の茶屋に入って、腹ごしらえをしようとする。品書きに「ひょっとこうどん」とあるのをみて、これは珍しいとばかりに注文する。ところが出てきたのは変哲もないふつうのうどんである。熱いのだけが取り柄で、ふうふうと息を吹きかけ冷ましながらうどんを食べていっても、他には何も入っていない。そこで亭主にいったいこれがどうして「ひょっとこうどん」なのかと尋ねると、亭主がお互いをごらんなさいと言う。旅人が顔を見合わせると、二人とも口をとんがらせてふうふうとうどんを吹いている。「どうです、お二人ともひょっとこになっていませんか」と亭主が言って物語はお終い。こういうあらましなのであるが、この物語を探そうにも手がかりが何も無い。機会があれば手当たり次第に童話本を調べてみても見つからない。ところがつい最近、似たような話に出くわしたのである。それが高田郁著「今朝の春」((ハルキ文庫)に出てくる「寒紅―ひょっとこ温寿司(ぬくずし)」である。


「つる家」の女料理人澪が主人公の人情時代物で、文庫本の四冊目である。澪は今で言う創作料理人で、いろいろと新しい試みにチャレンジしては客の反応に胸を踊らせる根っからの料理人なのである。元は大阪の出の澪が江戸で名のある料亭と料理を競いあうが、江戸の人間には思いもかけない料理が時には飛び出す。師走に入ったある日、夜食に大阪での家庭料理でもある「温寿司」を出す。

 朝から戻しておいた干し椎茸と干瓢、人参に甘辛く味を入れる。海老は色よく茹でておいた。酢飯にそれらをざっくりと混ぜ合わせ、飯椀に装って、錦糸玉子を散らす。蓋をしてそのまま蒸籠で蒸し上げるのだ。

そして熱々の飯椀を蒸籠から取り出して、店主とお手伝いの亭主が食べ始める。

「熱ちちち」
「熱つ」
 二人は同時に言って、ふうふうと飯に息を吹きかける。

それを見たお手伝いとその子どもが吹きだした。「何だよぅ」「何でい」と二人は同じように言って、また、ふうふうと熱い飯に息を吹きかける。そしてお手伝いがこう言う。

「いやだよ、お前さん、それに旦那さんも。まるで『ひょっとこ』みたいじゃないか」

作者の高田さんもどこかで「ひょっとこうどん」を目にされたのだろうか。それともまったく偶然の一致の思いつきなのだろうか。私はこの方のサイン本を一冊持っているが、次ぎのサイン会の折にはぜひこのことをお聞きしよと思う。しかしそれより先に、この文庫本の巻末にちゃんと「ひょっとこ温寿司」のレシピが載せられているので、まずそちらの試食が先である。読んでいるだけでよだれが落ちてきそうで、こういう喜びが味わえるのであれば、寒くなるのも悪くはないように思う。
コメント

「手書き」の大切さ、そして字にまつわる話

2010-10-25 18:07:49 | 昔話
産経新聞に【国語逍遥】という清湖口敏さんによる続きものの記事が載っている。今朝はその八回目で《「手書き」の衰退》がテーマであったが、その中の文章になるほど、と相づちをうった。

 小社や各界の講師が政治、経済などさまざまな分野について解説する「大手町Newsカレッジ」(産経新聞東京本社内)で、「国語力」の講座を受け持っている。国語の話だから当然、ホワイトボードに字を書く頻度も高く、「板書」の難しさを思い知らされている。

 受講者はほぼ全員が成人なので、悪筆の恥ずかしさに耐えさえすれば、それ以上の支障はまずなかろうと思われるが、これが児童相手の授業となると、先生はとてもそんな悠長なことを言ってはおれまい。

 子供は黒板を見てノートを取る際、知らぬ間に先生の字をまねることが多い。先生の字が稚拙だと子供の字もおのずと乱れてしまう。今の若い先生は文字を「打って」育ってきた世代だけに、板書はことのほか苦手だろうと想像される。
(産経ニュース 2010.10.25 07:42)

確かにそうだと思う。先生がしっかりした字を書かなければ、それを真似る子どもが先生を超えることはなかろう。その子どものなれの果てであろうか、たまたま政治家になった人の稚拙な文字に驚いて、以前に政治家の「字は体を表す」か?なる文章を書いたことがある。しかし実を申せば私も人のことを言えた義理ではない。子どもの頃から字を書くのが苦手で、自慢ではないがその証拠がしっかりと残っている。元在朝日本人の『自分探し』でお見せした国民学校三年生の時の通知表である。二学期も三学期も習字を注意されている。それに比べて当時二十歳前後の先生の字の美しいこと。そういえば昔の教育を受けた人の字は立派なのが多い。


兵士として戦場に駆り出された人たちが家族と交わした軍事郵便や遺書など、遺された自筆の文章を目にするたびに私は戦慄におののく。自分の思いや考えをしっかりと伝えようとする力強い意志が、文章のみならず文字そのものからも伝わってくる。それなのに乱文乱筆を謝するという奥ゆかしさを弁えた崇高な人たちの多くが戦争で命を落としていった非条理を思うとただ茫然となる。手書きの立派な文字には人を感動させる力がこもっているのだと思う。

清湖さんの文章は続く。まったく同感である。

 漢字にかぎらず、およそ手で文字を書くという行為は、脳の活性化に加えて人格の涵養(かんよう)にも大きく寄与するはずである。手書きの字は情報機器で打ち出す字とは違って、書き手の一刻ごとの心理や気息が反映するため、一つとして同形の文字はない。「文字は人なり」といわれるゆえんがここにある。

阪大時代の恩師があるときに「ボールペンで手紙を書いてくる人がいる。わたしはそのような手紙は読まない」と言われたことがある。先生はいつも太字の万年筆を使い風格のある字を書かいておられた。先日紹介したが、神戸女学院の外国人教師がジーンズばきの女子学生に立腹したころのことだと思う。まだ「かたち」が大切な意味をもっていたのである。

つい最近も京大時代の恩師からペン書きのお手紙を頂いた。ある調べごとのちょっとしたお手伝いをさせていただいたことへの礼状なのである。この先生は新幹線で文化勲章クラスの書家に書を習いに通われたぐらいだから、その書はもう別格なのである。滋賀県のある古刹で鐘を新に鋳造することになり、その銘の揮毫を依頼されたぐらいなのである。初代の鐘に遺された銘は菅原道真公によるものであったというから、もって瞠目すべきなのである。そういう方がおられたこともあって、なんとか自分の字を書きたいという欲求はこの年になってますます掻きたてられる一方である。しかし今さら先生について一から直されるのも間尺に合わないので、独学の道を選んだ。

2007年に台北故宮博物館を訪れて数々の名筆に触れ、感動を新にしたが、ちょうどその頃二玄社が「大書源」全三巻(索引とDVDの付録つき)を刊行することを知ってさっそく購入した。楷書、行書、草書、隷書、篆書の五体の字例を収載した書体字典で、『合計二十一万字にも及ぶあらゆる時代の様々な書きぶりの書が余すところなく収められ、まさに質量ともに空前絶後の書の宝庫』なのである。


「東」だけでも二百三十六文字が収められている。眺めているだけで空想が羽ばたき、いろんな時代の人と心を通わせているような気持ちになるが、実を申せばもうそれで十分とばかりに、手習いにはなかなか進まないのが現状である。



清湖さんは次のようにも述べている。

 手書きが中心だった時代、人は手紙やはがきを受け取るとまず、字を眺めたものである。そして「あの人らしい誠実な字だ」「乱暴な字で、挨拶(あいさつ)にも誠意がこもっていない」などと書き手に関心を寄せた。人に惚(ほ)れる前に字に惚れることもあった。『枕草子』には、届いた文を見た中宮が真っ先に「めでたくも書かれたるかな」(立派な筆跡だわ)と字を褒める場面がある。もっとも書いたのが三蹟(さんせき)の一人、藤原行成だったから、上手なのも道理ではある。

《人に惚(ほ)れる前に字に惚れることもあった》にはドキリとした。妻とのなれそめを見抜かれたと思ったからである。




コメント

私の疑問に答える二つの新聞記事 特別公務員職権濫用罪と村木さんの監督責任

2010-10-23 17:34:45 | 社会・政治
昨日の新聞朝刊は大阪地検特捜部前部長と副部長が懲戒免職された上、犯人隠避罪で起訴されたことを大きく伝えた。もっとも起訴された二人は罪状を全面否認しているとのことだから、郵便不正事件での村木裁判の状況とよく似ているのが皮肉である。この二人が犯人隠避罪に関してはまた無罪になるのも面白いかなと思っている、というより期待している。前田前検事による「FDデータ書き換え」は確かにあってはならないことで、それで前田前検事が懲戒免職されて刑事罰をも受けるのは当然のことであるが、そのかっての上司が「FDデータ書き換えについての関わりだけで処分をされるのはおかしいと私はかねてから思っているからである。このことに関して三週間ほど前に「FDデータ書き換え」もさりながら「犯罪捏造」の罪の方がはるかに重いで次のように述べた。

公判での証拠にはならなかったが、「証拠品」に手を加えたのは確かに悪い。しかしこのことは、私が前田検事の「FD書き換え」より大事なこと  検察に踊らされた朝日新聞?でも述べたことであるが、郵便不正事件で無罪となった村木厚子さんに無実の罪を着せようとした「犯罪捏造」に比べると、敢えて言うが、取るに足らない些末なことである。

村木さんの無罪確定で明らかなように、もともと「村木事件」はあり得るはずのものではなかった。断片的であれ報道を通じて分かったきたことは、そもそも村木さんの起訴どころか、逮捕すらあってはならないことであった。(中略)

検察の仕組みは私は知らない。しかし大阪地検では特捜部自体も一つの組織で、だからこそ主任検事、副部長、部長が存在し、地検ではさらにその上に次席検事、検事正が存在するようである。村木さんの逮捕、起訴に際して「はんこ」を捺した人間にはすべて直接の責任がある。科学者が論文を発表する際の著者に名前を連ねるのと同じだからである。

その意味で昨日の朝日朝刊社会面の次の記事が、この事件の本質をついた弘中弁護士の意見を伝えているのはよかったと思う。

">

白抜きの部分は市井人の常識的な見方に法律の専門家が与えたお墨付きと言えそうである。遅きに失した感があるが、まずは前田前検事を特別公務員職務乱用罪で追起訴することから出直しを計るべきである。それが社会正義というものだろう。刑法に次の条項のあることを今回始めて知った。

 (特別公務員職権濫用)
第百九十四条 裁判、検察若しくは警察の職務を行う者又はこれらの職務を補助する者がその職権を濫用して、人を逮捕し、又は監禁したときは、六月以上十年以下の懲役又は禁固にしょする。


もう一つの記事は今朝の朝日新聞である。


私は五日前のチリ・落盤事故全員救出と村木厚子さん完全無罪の裏にあるもので次のように述べた。

当時の村木課長が知らない間に、彼女の公印が捺された証明書が現に存在したのである。もし公印の管理が厳正に行われていたら、上村被告といえども偽の証明書を作成出来なかったはずである。自らの公印であるからもちろんその管理責任は村木さんにある。村木さんが公印の管理さえしっかりしておれば、偽証明書が作られようがなく、郵便不正事件そのものも発生しなかった筈である。

公印の管理は落盤事故防止に比べればはるかに容易であろう。それを怠ったばかりに、世間が大騒ぎする羽目になったのに、その反省と対策の話がほとんど聞こえてこないのはどういうことだろう。「完全無罪」の興奮から覚めた村木厚子さんに、国民に対する管理状況の説明と謝罪があってもいいように思う。部下に対する監督責任は当然追求されるべきであろう。それともすでに処分は下されたのだろうか。

その監督責任について、これから答えが出てくるようであるが、そのうえに公印管理を怠った職務怠慢が責められるべきなのではなかろうか。
コメント

三島由紀夫の素晴らしい言葉

2010-10-22 21:50:35 | 
昨日の産経新聞がとてもいい記事を載せていた。私はiPhoneでダウンロード可能な無料の紙面で見たのであるが、こういう記事に接すると無料が申し訳ない気になる。

「音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」(三島由紀夫)

 渡欧から2年後の昭和36(1961)年4月、小澤征爾は数々の栄冠を手みやげに凱旋(がいせん)帰国を果たした。翌37年6月、26歳の小澤はNHK交響楽団と契約を結ぶ。すべり出しは上々だったが、5カ月後、楽団員が小澤が指揮する演奏をボイコットするという事件が起きる。(中略)

38年1月、そうそうたる文化人たちが「小澤征爾の音楽をきく会」を開催、小澤は、日本フィルと満員の聴衆を前に、涙と汗のタクトを振った。

 冒頭は、発起人でもあった三島由紀夫が小澤に贈った一文。
(MSN産経ニュース 2010.10.21 03:18 )

成熟したそして深みのあるこの言葉をおくられた小澤は26歳で、おくった三島は38歳。天才は天才を識るとはこういうことかと思う。若い人たちに三島のような心強いメッセージを発することの出来る大人が、今の世に一人でも多からんことを願う。
コメント

神戸女学院あれこれ

2010-10-21 18:44:23 | 昔話
昨日は内田樹さんの講演を聴きに、久しぶりに神戸女学院を訪れた。阪急電車宝塚線の門戸厄神駅で下車、表示に従っててくてく歩く。坂道に差し掛かり正門をくぐってキャンパスに入ると一挙に勾配が険しくなる。汗が思いっきりで始めたので、これはやばいと立ち止まってはシャツの下まで手を伸ばし、厚手のタオルで汗を拭った。この異常に暑かった夏、女子学生も同じようなことをしていたのだろうかとふと思う。私が以前ここを訪れたのは少なくとも30年以上も前のことである。今回が2回目の訪問になるが、前に来たときは駅からの距離が長いとか坂道が急だとか、そんなことは思っってもみなかったはずである。30数年の重みを感じた。

30数年前は図書館にやってきた。阪大にも無かった化学文献が、近いところでは神戸女学院にあることが分かり、電話したところどうぞおいで下さいとのことだったので、図書館を訪れたのである。簡単にコピーを取れる時代ではなかったので、要点を手書きで書き写したと思う。天井の高い広々とした閲覧室なのにほとんど人がおらず、こんなところで毎日時間を過ごせたら天国だな、と思った覚えがある。傘立てのような立派な陶器製の便器を男子トイレで見たときにあれっと思った。なんと、神戸元町にあるきんつばで有名な高砂屋の喫茶店(そのころは元町本通りから少し南に下がったところにあった)にあった便器と同じだったのである。

神戸女学院大学のホームページには次のような沿革が記されている。

1933(昭和8)年
西宮市岡田山キャンパスに移る。伝道者・建築家ヴォーリズによってスパニッシュ様式の校舎が完成。現在の文学館、理学館、図書館本館、音楽学部1号館、講堂・チャペルを含む総務館などは当初の建物。

図書館はあのヴォーリズの建物だったのである。なぜスパニッシュ様式なのかそれなりの謂われがあるのだろうが、その昔、米国のカリフォルニア大学サンタバーバラ校にいた頃に慣れ親しんだスペイン風の建物に街並みを今回も思い出して懐かしさを覚えた。

それにしてもキャンバスに緑豊かな自然が満ちあふれているのが印象深かった。この中を歩いているとまるで山砦を跋渉する思いがする。実に起伏が多いのである。こういうところで在学中に足腰を鍛え上げた女子学生は、やがては健康な赤ん坊をバンバンと産み落としてくれそうに思えた。そういえば昨日内田さんの講演を聴いたときにも、講堂の木製ベンチの間隔が狭く、否応なしに背筋をまっすぐに伸ばして坐らざるを得なかったことを思い出す。腰を鋳型にはめたように長時間直角に折り曲げていたので、講演が終わって立ち上がるのに往生したが、若い女子学生の姿勢を正す訓練にはもってこいである。彼女らが電車の座席に腰を下ろしている姿は、行儀の悪い若者の中にあって、さだめし異彩を放つことだろう。

そして神戸女学院にまつわる思い出はさらにさかのぼる。私が教養部の二回生で自治委員をしていたときに、文学部から女子学生が新入り委員として加わった(のだと思う)。自治委員はクラス単位の投票で選ばれていたから、なにか人目を引くところがあったのに違いない。その彼女が神戸女学院(高等部)出身ということで一躍注目を集め、私も「クノッソスの美女」なる美称を献じた。エーゲ海に栄えたミノス文明の遺跡がクレタ島に多く残るが、そのクノッソス地方から出土した陶器に描かれていた乙女の横顔が彼女のイメージにピッタリだったのである。幸い仲間の、と言っても五、六人であったが、賛同を得て彼女のことを秘かにそう呼ぶことになった。ところが夏休みを終えた頃だろうか、自治会室に衝撃が走った。「クノッソスの美女」が心中をはかり、彼女だけが絶命して相手は生き残ったというのである。動機の詮索などをはじめとして大騒ぎとなり、寄るとさわると侃々諤々、口角に泡を飛ばし合ったが、なかには「ほんまはわしに気があったんや」と言い出すものまで現れたりした。そういえば私も彼女と文学論議を何回か交わした覚えがある。文学部だから、というぐらいの理由だった。自治会でなければ接点が考えられないので、そうだったと今では思っているが、今や真実を確かめようがない。彼女がその後自治会室に姿を現すことはなかった。わが青春の一齣である。

こういう昔話を始めるとまた次が出てきそうなので、「昔話」というカテゴリーを新しく作ることにした。

コメント

内田樹さんの講演を聴く

2010-10-20 22:52:55 | Weblog
今日の午後、神戸女学院大学の講堂で催された内田樹さんの講演会に出かけた。西宮市文化振興財団が主催する「西宮文学案内」の第一回で、ネットで申し込んだところ受講票が送られてきたのである。これまで何回か内田さんのこと(文章)を取り上げたこともあって、実際はどういう方だろうという野次馬根性がなせる技でもあった。

上下揃いのスーツ姿、もちろんネクタイもぱしっと決めて登場の内田さんがぶら下げているのは何冊かの本を放り込んだ紙袋、このアンビバレントなところがなかなか良かった。同じアンビバレントでも私ならがっしりした皮のトートバッグにノーネクタイ、チノパンツで登場したことだろう。その昔、この大学の外国人教授が、女子学生がジーンズを穿いて教室に現れたと怒り狂ったことが大きく報道されたが、礼節を守るのは教師からを今でも体現しておられるのか、と嬉しくなった。しかしその反面、あまりにも端正なのでつけいるすきがなく、野次馬根性が萎んでしまった。

配られた講演資料によると今日の演題は『村上春樹と「阪神間」の文化』で、それに資料1として『阪神間少年・村上春樹クロニクル(年代記)』が、資料2として『阪神間少年 村上春樹をたどる旅(2009年12月4日 毎日新聞夕刊コピー』が添えられていた。資料1によると、村上春樹は京都で生まれたものの9ヶ月で西宮市香櫨園に引っ越して、西宮市立香櫨園小学校、芦屋市立精道中学校、兵庫県立神戸高校をそれぞれ卒業しているのである。これまでどこの生まれでどこの育ちとか気にもとめていなかったので、この阪神間で育ったということが私には新発見であった。それがどうした、と言われればそれまでであるが、神戸高校が学制改革の前は神戸一中と呼ばれていた頃の神戸二中の後身を私は卒業しているので、ある種の親近感を覚えたのである。

資料2には村上春樹の小説に出てくる阪神間の風物が解説されていたのでなるほどと思ったが、まさか内田さんがこのような話を繰り返すはずがないと思っていたらその通り、ここに来る途中で思いついたことを、と話を始められた。この方独自の衒いで、実際は頭の中に話の材料はぜんぶ揃っていて、それをどう組み合わせて何に焦点を当て、どのように話を進めるのか、来る途中、頭の中で想を練っていたということであろう。

世界性とか地域性とか、話をうかがっている最中はなるほど、なるほどと頷くことばかり。視点がとても新鮮で喋りたい内容を的確に言葉で表現されていく。これはいいな、と思う言葉を頭の中に留めようと気をつけたつもりだったが、この小文をしたためている今、さっと思い出せない。村上春樹の執筆姿勢を忖度した内田さんは、感覚が受け付けたものを後で思い出そうとすると、現場では見えていなかったものまで思い出すようになる、と話された。その流儀でいくと、私も話を思い出そうと真剣に努力したら、内田さんの言葉に含まれた以上の豊かな中身を思い出すことだろうと安堵して、今は無理に思い出さないようにする。講演の後、近くの女性が内田さんの結婚指輪が輝いていたと興奮していたが、これも内田さんが口にもしなかったことをちゃんと受け取れる人がいるという実例である。

こういうことを気楽に言えるのは、実はこの講演のビデオがケーブルテレビで来年初めに放映されることになっているので、興味をお持ちの方をそれを観ていただいたらいいと思うからである。1時間をかなり上回る内田さんの話であったが、その間とても快い緊張感が持続した。


過去ログ
文学者の文章 MetaphorがJargonを生む
文学者の文章 内田樹さんの「壁と卵(つづき)」を再考
「師」ならではの本 内田樹著「日本辺境論」
若い世代に読んで欲しい内田樹さんの「基地問題再論」
コメント

チリ・落盤事故全員救出と村木厚子さん完全無罪の裏にあるもの

2010-10-18 18:34:28 | Weblog
報道されてまだ一週間にもならないが、この14日の午前10時ごろ、ネットの画面に「チリ・落盤事故33人全員救出」のようなテロップが流れたので、テレビをつけてチャンネルを回すと、10チャンネルだけがその現場の様子を中継していた。最後に救出されたのはリーダー格のルイス・ウルスアさんで、救助活動に感謝すると同時に、出迎えたピニェラ大統領に「二度とこういうことのないようにしてほしい」と訴えたのはさすがだと思った。事故発生以来69日目、奇跡とも思える33人の作業員の救出劇に、私もその一人であるが、世界中の人が固唾を飲んだことだろうと思うが、考えてみれば落盤事故さえ起こらなければ、救出劇に釘付けになることもなかったのである。ということでなんだか割り切れない思いが残った。

落盤事故の背景を朝日新聞は「危険鉱山 もうごりごり」の見出しで次のように伝えた。

 チリの鉱山は、世界一の銅の埋蔵量と生産量を誇る。南米の中では安全性が高い方だと言われているが、作業員300人規模のサンホセ鉱山のような中小規模の鉱山には問題も多い。サンホセ鉱山では2004年から06年にかけて死亡事故が頻発。通気口に付いているべき脱出用はしごも不備だった。04年から今年までに安全基準違反で42回も罰金を払った、と地元メディアは伝えている。
 07年には操業停止を命じられたが、翌年、国の監督機関は再開を認めた。その妥当性が問われている。営業再開に必要な安全基準が守られているかどうか確認もせずに再開を認めたとんみられるためだ。作業員の家族らは、鉱山会社と監督機関を告訴している。
(朝日新聞朝刊 10月15日)

鉱山会社と監督機関が真剣に安全対策に取り組んでおれば、今回のような落盤事故は避けられたであろうし、「感動物語」も生まれなかったことだろう。「感動物語」に耳目を奪われることなく、安全対策の徹底に世間は厳しい目を注ぐべきで、ピニェラ・チリ大統領が「二度とこのような事故が起きないように、安全が確保されない限り、サンホセ鉱山を閉鎖する」と述べたのは至極当然のことである。

この「感動物語」で私が連想したのは、地球の反対側での出来事である郵便不正事件で、村木厚子さんが完全無罪になったことと、それに関連した前田恒彦元検事の「FD書き換え」事件の事の起こりについてである。村木厚子さんが問題となった裁判で完全無罪となったのはよかった。私もいつの間にかそれを確信していたのである。しかし、である。郵便不正事件の行方 村木厚子元雇用均等・児童家庭局長が無罪であれかしで謎として述べたことであるが、当時の村木課長が知らない間に、彼女の公印が捺された証明書が現に存在したのである。もし公印の管理が厳正に行われていたら、上村被告といえども偽の証明書を作成出来なかったはずである。自らの公印であるからもちろんその管理責任は村木さんにある。村木さんが公印の管理さえしっかりしておれば、偽証明書が作られようがなく、郵便不正事件そのものも発生しなかった筈である。

公印の管理は落盤事故防止に比べればはるかに容易であろう。それを怠ったばかりに、世間が大騒ぎする羽目になったのに、その反省と対策の話がほとんど聞こえてこないのはどういうことだろう。「完全無罪」の興奮から覚めた村木厚子さんに、国民に対する管理状況の説明と謝罪があってもいいように思う。部下に対する監督責任は当然追求されるべきであろう。それともすでに処分は下されたのだろうか。

そういうケジメの付け方は、チリの国民に見習った方が良さそうである。
コメント

「溜息3秒」?

2010-10-17 11:32:55 | Weblog
朝日朝刊「兵庫」面の記事を見て、これだと思った。


かなり以前のいただき物であるが重宝していたボールペンスタンドがあった。電話機の横に置いてメモ用に使っていたが、インキがなくなってしまった。ところが製造メーカーの表示がどこにもないので、正しいリフィルのタイプが分からない。文房具店で合いそうなサイズのを探して三種類ほど次々に購入したが、どれも合わない。また探そうと思っているうちに、ただの置物になってしまった。そのボールペンスタンドとおぼしき品物が、この記事の写真に出ていたのである。さっそくこのメーカーのホームページにアクセスしてみた。

この製品は次のように紹介されている。

航空宇宙産業の精密技術が活かされた製品
スタンドにペンを挿入し手を離すと、まるで安堵の溜息をつくように、 優雅にスタンドの中にペンが沈んでいく・・・。
ペンの外径とスタンドの内径の差を20ミクロンとすることで、ペンの重力により、 スタンドの隙間から少しずつ空気が押し出され、ゆっくりとペンが沈み込む仕組みとなっている。

そしてリフィルのタイプもちゃんと記載されている。これこれ、と思いかけたがとうも上の文章が気にる。ペンの外径とスタンドの内径の差を20ミクロンとするとあるが、私のはペンを挿入しようとすると、スタンドからまずスリーブが飛び上がり、そのスリーブ内をペンが滑り落ちてからスリーブがまたスタンドに収まる動きをするのである。上の説明にはこのスリーブのことが出てこない。とすると似て非なる可能性がある。

手元のスタンドには実は「退官記念○○○○ 平成九年十月」と刻まれている。ところがこのメーカーのホームページの会社概要には「創業 平成16年10月16日」と記されている。したがって正確にいうと、私のスタンドはこのメーカーの作った「溜息3秒」ではないことになる。おそらくその原型であろうが、その詮索はさておいて、まずは推奨リフィルを参考に私のボールペンにちゃんと合うのを探してみることにする。

その動きをお目にかける。スリーブが収まるまでだと10秒はたっぷりとかかるので、その意味でも「溜息3秒」とは似て非なるものか。



コメント