「フーテンの寅さん」に嵌って葛飾詣でまでした私である。その寅さんが裏の印刷工場で働いている若者に「労働者諸君、元気で働いているかね」などと声をかける。あの独特の口調が気に入っているので私もよく真似をする。ついつい昨日のブログで「真の研究者諸君」と呼びかけてしまった。
なぜ『真の』なんて、居座りの悪い言葉が入り込んだのか、私なりの思考経緯はあるのだが、その根底に「研究が好きで好きで堪らない」と研究の道に入った人が、一体どれくらいいるのだろう、というややシニックな思いがあるからだ。そして『真の』は年齢に関係がない。
私の身近には極めつけの『研究大好き』人間がいた。学部長になっても、時間を上手にひねり出して、自分で実験台に向かう。面白い結果が出ると、周りにいる人間を捉まえてはその結果を嬉々と喋りまくる。秘書が呼びに来ても目に入らない。学長になって他大学に転じてからも「学長は実験なんてするものではありません」と事務方に言われながらも、実験を楽しんだと聞いた。
そのような人と私の波長はピッタリと合う。そしてこれが真の研究者のあるべき姿なのである。
その私の目に写る阪大杉野研究室、あくまでも限られた報道を介しての姿であるが、データを作って教授に手渡したらあとは野となれ山となれの教室員、テータを取りこんだらそれを素材におのれの描いたストーリーに合わせて加工しては論文捏造にふける教授。この人たちにとって何が研究の喜び、楽しみなんだろう。
杉野研究室に限らず、最近の生命科学系の研究室といえばすべてが『データを作る人、ペーパーを書く人』という分業体制になってしまっているのだろうか。若い学生が研究室に入って来たときから、そのような分業体制しか見ていなかったとしたら・・・。
研究とは何かを教え込むのが大学では教授を初めとする教員である。だからこそ最大の責任を担う教授の選考が正念場になるのではないか。杉野教授を阪大に迎えたときの人事委員会のメンバーは、今改めてその時の推挙の言葉を繰り返して云ってみよ。
私の思いを素直に書いているつもりであるが、考えてみるとそのように出来るのがこのブログの効用、そしてハンドルネームを使うことの大きな利点と云えよう。研究公正委員会の名簿を見ると、私が直接言葉を交わしたことのある方が二人居られる。生命機能研究科の教授全員を含めると、数はぐんと増える。なんせ後輩がいるんだから仕方がない。そういう状況で、私が本名で上のようなことは云えないし、云わない。私の素性なんてその気になれば直ぐに分かるが、分かっていてもお互いにそれを表にださない、粋なマスカレードのような世界が自由な意見の開陳を支えているように思う。
このようなハンドルネームを使った掲示板・伝言板を研究室、教室に置いたらどうだろう。「あいつ、こんなことを云いやがって」と相手が分かっていても、それを本名相手に返したらお終いよ、とするのである。どれほどか、そのコミュニティの風通しがよくなることだろう。
なぜ『真の』なんて、居座りの悪い言葉が入り込んだのか、私なりの思考経緯はあるのだが、その根底に「研究が好きで好きで堪らない」と研究の道に入った人が、一体どれくらいいるのだろう、というややシニックな思いがあるからだ。そして『真の』は年齢に関係がない。
私の身近には極めつけの『研究大好き』人間がいた。学部長になっても、時間を上手にひねり出して、自分で実験台に向かう。面白い結果が出ると、周りにいる人間を捉まえてはその結果を嬉々と喋りまくる。秘書が呼びに来ても目に入らない。学長になって他大学に転じてからも「学長は実験なんてするものではありません」と事務方に言われながらも、実験を楽しんだと聞いた。
そのような人と私の波長はピッタリと合う。そしてこれが真の研究者のあるべき姿なのである。
その私の目に写る阪大杉野研究室、あくまでも限られた報道を介しての姿であるが、データを作って教授に手渡したらあとは野となれ山となれの教室員、テータを取りこんだらそれを素材におのれの描いたストーリーに合わせて加工しては論文捏造にふける教授。この人たちにとって何が研究の喜び、楽しみなんだろう。
杉野研究室に限らず、最近の生命科学系の研究室といえばすべてが『データを作る人、ペーパーを書く人』という分業体制になってしまっているのだろうか。若い学生が研究室に入って来たときから、そのような分業体制しか見ていなかったとしたら・・・。
研究とは何かを教え込むのが大学では教授を初めとする教員である。だからこそ最大の責任を担う教授の選考が正念場になるのではないか。杉野教授を阪大に迎えたときの人事委員会のメンバーは、今改めてその時の推挙の言葉を繰り返して云ってみよ。
私の思いを素直に書いているつもりであるが、考えてみるとそのように出来るのがこのブログの効用、そしてハンドルネームを使うことの大きな利点と云えよう。研究公正委員会の名簿を見ると、私が直接言葉を交わしたことのある方が二人居られる。生命機能研究科の教授全員を含めると、数はぐんと増える。なんせ後輩がいるんだから仕方がない。そういう状況で、私が本名で上のようなことは云えないし、云わない。私の素性なんてその気になれば直ぐに分かるが、分かっていてもお互いにそれを表にださない、粋なマスカレードのような世界が自由な意見の開陳を支えているように思う。
このようなハンドルネームを使った掲示板・伝言板を研究室、教室に置いたらどうだろう。「あいつ、こんなことを云いやがって」と相手が分かっていても、それを本名相手に返したらお終いよ、とするのである。どれほどか、そのコミュニティの風通しがよくなることだろう。