日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

ブログの効用

2006-09-29 00:03:19 | 学問・教育・研究
「フーテンの寅さん」に嵌って葛飾詣でまでした私である。その寅さんが裏の印刷工場で働いている若者に「労働者諸君、元気で働いているかね」などと声をかける。あの独特の口調が気に入っているので私もよく真似をする。ついつい昨日のブログで「真の研究者諸君」と呼びかけてしまった。

なぜ『真の』なんて、居座りの悪い言葉が入り込んだのか、私なりの思考経緯はあるのだが、その根底に「研究が好きで好きで堪らない」と研究の道に入った人が、一体どれくらいいるのだろう、というややシニックな思いがあるからだ。そして『真の』は年齢に関係がない。

私の身近には極めつけの『研究大好き』人間がいた。学部長になっても、時間を上手にひねり出して、自分で実験台に向かう。面白い結果が出ると、周りにいる人間を捉まえてはその結果を嬉々と喋りまくる。秘書が呼びに来ても目に入らない。学長になって他大学に転じてからも「学長は実験なんてするものではありません」と事務方に言われながらも、実験を楽しんだと聞いた。

そのような人と私の波長はピッタリと合う。そしてこれが真の研究者のあるべき姿なのである。

その私の目に写る阪大杉野研究室、あくまでも限られた報道を介しての姿であるが、データを作って教授に手渡したらあとは野となれ山となれの教室員、テータを取りこんだらそれを素材におのれの描いたストーリーに合わせて加工しては論文捏造にふける教授。この人たちにとって何が研究の喜び、楽しみなんだろう。

杉野研究室に限らず、最近の生命科学系の研究室といえばすべてが『データを作る人、ペーパーを書く人』という分業体制になってしまっているのだろうか。若い学生が研究室に入って来たときから、そのような分業体制しか見ていなかったとしたら・・・。

研究とは何かを教え込むのが大学では教授を初めとする教員である。だからこそ最大の責任を担う教授の選考が正念場になるのではないか。杉野教授を阪大に迎えたときの人事委員会のメンバーは、今改めてその時の推挙の言葉を繰り返して云ってみよ。


私の思いを素直に書いているつもりであるが、考えてみるとそのように出来るのがこのブログの効用、そしてハンドルネームを使うことの大きな利点と云えよう。研究公正委員会の名簿を見ると、私が直接言葉を交わしたことのある方が二人居られる。生命機能研究科の教授全員を含めると、数はぐんと増える。なんせ後輩がいるんだから仕方がない。そういう状況で、私が本名で上のようなことは云えないし、云わない。私の素性なんてその気になれば直ぐに分かるが、分かっていてもお互いにそれを表にださない、粋なマスカレードのような世界が自由な意見の開陳を支えているように思う。

このようなハンドルネームを使った掲示板・伝言板を研究室、教室に置いたらどうだろう。「あいつ、こんなことを云いやがって」と相手が分かっていても、それを本名相手に返したらお終いよ、とするのである。どれほどか、そのコミュニティの風通しがよくなることだろう。

早すぎる杉野教授を懲戒解雇とする処分案(追記あり)

2006-09-28 13:58:49 | 学問・教育・研究
私はこのニュースに接してしばし考えた。そして「しばし」が今日まで続いた。

報道によるとその処分理由が《「共著者の名誉と将来を傷つけた。教育者、科学者として模範たるべき教授による不正行為の責任は重い」》とのことである。

「将来を傷つけた」という言葉遣いは「未来を閉ざした」と聞こえて、私には馴染まないがそれはさておく。

私が引っかかったのは「不正行為」という文言である。

「不正行為」があったから論文を取り下げた。この誰にも目に見える『論文取り下げ』をもって「不正行為」の証(あかし)とするなら、同じく大阪大学下村教授等による『論文取り下げ』も歴とした「不正行為」の存在を示している。ところがその責任を担う責任著者の下村教授に対する処分は短期間の停職であった。「不正行為」の責任者の処分が一方では懲戒解雇、一方では短期間の停職では一大学の処分として整合性が欠けていると云わざるを得ない。

私は整合性の問題もさることながら、今回の事件では杉野教授の『常習性』の有無が処分の妥当性を決めると思う。

たとえば刑法に触れる犯罪でも、初犯と常習犯では言い渡される刑に軽重があるのは常識である。この状況を今回の事件にあてはめると、もし杉野教授がたとえ行為は誤っていたにせよ、筆頭著者に良かれと発作的にこの行為に走った、というのなら、私は懲戒解雇という処分は、教授がすでに学界における社会的制裁を受けていることでもあるし、重すぎると思う。

私は個人的には『Ph.D.』が『常習者』ではなかろうか、との疑念を抱いた。杉野教授を除いて著者が重ならない第1論文と第2論文でともに不正行為が確認されていることも杉野教授の常習性を強く示唆している。しかし『常習性』の証明はそれだけでは不十分である。

研究公正委員会は少なくとも過去五年間に遡り、杉野研究室がジャーナルに発表した論文を、今回と同じように精査して、『常習性』を証明すべきである。それがあって初めて懲戒解雇の処分が説得力を持つ。

どうも今回の処分は急ぎすぎである。


【追記 (9月28日)】

上の記事をアップロードしてから、<阪大論文ねつ造>別の2論文もデータ改ざんの疑い [ 09月28日 03時04分 ]毎日新聞社 の存在を知った。杉野教授が『常習者』ではないのかとの私の疑いが当たっているようである。しかしその一方、非常に気が重い。そして、今回の問題論文で異常に気づいた筆頭著者の存在がまだ救いであるだけに、今やこの2論文の筆頭著者のあまりの軽さに、唖然としている。

最初の論文。
《この論文の筆頭著者で、実験データの一部を出した研究員は、毎日新聞の指摘に対して「杉野教授にデータを渡し、教授が論文を執筆した。確かに同じ写真を切り張りしたように見える。初めて気づいた」と戸惑った様子で答えた。》

二番目の論文。
《筆頭著者の大学教員は毎日新聞の取材に、「データはすべて杉野教授に渡し、知らないうちに論文発表されていた。今月22日に大学がねつ造について発表した後、以前の論文も調べてみて、ねつ造の疑いがあることに気づいた」と話した。近く、同委に連絡するという。》

自分の実験データに対する愛情のひとかけらも感じ取れない。データを渡したら、はい、それまでよ、である。冗談じゃない。研究者としては失格、というよりたんなるテクニシャンに過ぎないのに研究者と一人合点しているだけだ。いや、テクニシャンと自覚しているからこそ身の程を弁えていたのか。

このような姿勢が諸悪を生むのでもある。

この頽廃の極致にあるとも云える研究室は崩壊してよい。しかしすでに費やされた国民の税金はかえってこない、せめて杉野研究室員全員をはじめ関係者が真摯な自己反省を行い、二度と自己責任を放棄することで科学捏造に荷担することがないように、誓いを新たにすべきであろう



大学助手とは何だったのか

2006-09-27 18:03:28 | 学問・教育・研究
阪大助手の頃、恩師の使いで七月に亡くなられた江橋節郎先生を東大医学部薬理学教室の教授室にお訪ねしたことがある。そこは教授室というよりは、モノが沢山詰め込まれた洞窟のような感じの部屋で、周りを見回す心のゆとりもなく、あの『伝説の先生』に初めてお目にかかりお話しすることで緊張していた。

少し回り道になる。

私の助手時代は長かったが、三十代に入ってまもなく独り立ち出来たのは幸せだった。恩師は定年、私の直接の指導者であった先生はすでに亡くなられていた。そして周辺の兄弟子である先輩たちは私の気ままに極めて寛大であった。研究に関しては私は自分の思い通りに進めることが出来、恵まれた環境であったと思う。ところが10年以上も助手をやっていると気分的にはうだつが上がらないのである。

この助手という身分が定められたのは、明治時代なのではなかろうか。大学を卒業して晴れて『学士』様になり、まずは助手として大学に残ったのだろう。大阪大学理学部生物学科の第一期卒業生で、卒業して直ぐに助手になった人が何人かいた。四年制大学の卒業生である。なんだか頼りなげであるが当時はそれでもよかった。

現在の学校教育法に次のような条項がある。必要箇所のみを抜粋する。

第58条 大学には、学長、教授、助教授、助手及び事務職員を置かなければならない。
2 大学には、前項のほか、副学長、学部長、講師、技術職員その他必要な職員を置くことができる。

6 教授は、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。
7 助教授は、教授の職務を助ける。
8 助手は、教授及び助教授の職務を助ける。

第58条8項にあるように、助手は「教授および助教授の職務をたすける」のが職分であったのだ。

しかし大学院が博士を定常的に送り出すようになって、制度はこのままであるのに実態が大きく変わっていった。特に自然科学系では学士はおろか大学院博士課程を修了した博士にも助手ポストにつくのが至難の業となってきた。ポストに空きがなければ無職、博士浪人がぞく続々と出て来たのである。制度が出来たときは『学士』のためのものであったのが、いつの間にか『博士』がその職についているのである。この制度と実体の乖離が助手を冷酷にも痛めつけることになった。制度そのものが人権侵害を生み出したと云えるのではなかろうか。『博士』の誇りを完全に踏みにじっていたからである。

まず『助手』の名称とそのイメージが悪い。たとえばこれを直訳調で英語に直すと「Assistant」となる。この肩書きにだと、アメリカの大学で仕事をしようと出かけても、鼻にも引っかけてもらえない。たんなるお手伝いさんだからである。アメリカの大学で日本の『助手』に相当するポストはAssistant Professorになる。そして世間の人はプロフェッサーと呼んで敬意を表す。私も三十代の助手時代に何度か短期間ではあるが招聘されて出かけたことがあるが、そのときのタイトルの一つはVisiting Professorというのであった。日本流に云えば客員教授ということになるのだろう。世間の見る目の違いが大きすぎる。

「助手は、教授及び助教授の職務を助ける」の文言のどこにも教育・研究における助手の主体性を認めていない。かっては『末は博士か大臣か』と人口に膾炙したあの博士様を、たんなる下働きに縛り付けているのである。

もちろん大学はそれなりに実力がものを云う世界でもある。身分は助手でも研究では教授を凌ぐ成果を挙げてきた人は枚挙にいとまがない。その業績に便乗するコバンザメのような教授が結構居るものだが、大学によって、人によって、それが教授のあるべき姿になっておりそうな気もする。

話を元に戻すが、このような助手という身分に長く繋がれていると心が屈折してくるものである。教授になるにはまず助教授というのが普通の筋道であるが、自分に合った助教授の空きポストなんて皆無に近い。その私の心の揺らぎを感じ取ってか、また励ましか、恩師が話されたのである。

「いい仕事をすればちゃんと世間は認めてくれる。東大医学部の薬理の教授はカルシウムで画期的な仕事をしたものだから、並み居る先輩を押しのけて助手から一足飛びに教授になることが出来た」と云うようなことであった。この話を時々聞かされているうちに江橋先生は私にとって『伝説の先生』になっていたのである。

ある会議に関する打ち合わせは簡単に終わった。緊張もほぐれしばらく雑談を交わした覚えがある。実験の合間だったのだろうか、着込んだ感じの白衣をまとっておられたのが印象的だった。現役のベンチ・ワーカーの匂いを感じたからである。自分も心がけている現場主義を実践しておられる先生に、共感の思いをお伝えしたような気がする。先生も私もある学際的な色彩の強い学会の会員であったことから、その後お会いすると言葉をかけていただいたものである。そしてどうした因縁か、この時の用件が、私に転機をもたらしてくれた。一足飛びに教授とはいかなかったが、ようやく助手の身分を離れることができたのである。

かくも時代錯誤的な職制である助手が大学で終焉を迎えようとしている。学校教育法が改正されて、来年、平成十九年四月一日から制度が変わるのである。

従来の助教授は准教授になる。アメリカのAssociate Professorに相当する。そして一定の資格を満たすこれまでの助手を「助教」という昔軍隊用語で見かけたようなポストに格付けすることになっている。

ここで改正後の教授、准教授、助教がどのように規定されているかを比べてみる。

教授:教授は専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の特に優れた知識、能力及び実績を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。

准教授:准教授は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の優れた知識、能力及び実績を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。

助教:助教は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の知識及び能力を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。

強調の部分を消せば分かるように、基本的に三者は全く同じ、准教授は助教より『優れて』おり、教授は『特に優れた』とされるが、これはたんなる恰好付けにすぎない。職務上の支配・被支配関係は条文上は撤廃される。これは大学制度の革命といっていいだろう。これで制度的には従来の教授、助教授、助手がだれでも一国一城の主となれる。またそのようにしなければならない。研究成果において下剋上の出現することが日本の研究環境を大きく変えるであろうと期待している。

真の研究者諸君、大いに奮起せよ!である。

大阪大学大学院生命機能研究科「調査報告書」の外部公開を歓迎

2006-09-26 18:49:37 | 学問・教育・研究
このようなものが出て来るとは正直なところ驚いた。この「調査報告書」のかくも迅速な外部公開は『快挙』とも云える。納税者に対する説明義務を真摯に考えられたからであろう。関係者の苦渋が滲み出ているだけに、背筋を正して拝見した。

「不正行為があった疑いのある2論文に関する調査報告書」として、不正行為の存在を断定するにいたる経緯は極めて説得力がある。関係者の献身的な努力を高く評価したい。

しかし、この報告書では時期尚早とみたのか、不正行為を生み出した『背景』には全く触れていない。第二弾としてぜひ時間をかけて、なぜこのような不正行為が起こりえたのか、その分析を進めていただくことを期待する。

その『背景』に関連して、私が気になることを二点ほど挙げる。

第一は不正行為の規模である。

データの改竄に、私の長年の友Photoshopが使われたと知って「さすが」と思った。杉野教授はPhotoshopの持てる力に、かねてから気付いておられたのであろう。『報告書』に改竄手法が詳しく述べられているが、それが杉野教授の行為を再現したものとすると、杉野教授はなかなかの使い手だと云えそうである。さすがPh.D.(Doctor of Photoshopの方の)のタイトルにふさわしいと云いたいが、私なら資料10に示されているような白点、黒点を残すようヘマはしない。スポイドツールを使い周りの色に溶け込ましてしまう。白点、黒点を残したことが『改竄』の汚点であったと云えよう。

それはともかく、私は杉野教授はかなりこの手法を使いこなしておられる印象を持った。特に別の実験のデータを横に並べて、あたかも一つの実験の結果であるかのように仕上げた作品には、実戦で鍛えられた冴えがある。

そう、データの改竄は今回問題になった二論文に止まらず、過去にもなされたのではないか、と私は疑っているのである。本当にこれまで杉野研究室関係者は誰一人気付かなかったのだろうか。

そして未だに解けない謎がある。9月22日のエントリーからの再録である。

《教授が単独で不正を働いたといっても、道ばたで大金を拾ってネコババしたような、場合によっては隠し通せるような話ではないのである。論文の投稿に至る経緯がいかなるものであれ、無断で名前を盗用された(とされる)いわゆる共著者の目に論文が触れれば、『不正』がすぐにばれるのは最初から分かっているではないか。このような幼稚な行動を大阪大学教授がとるとは・・・、この報道内容自体が私には信じられないのである。》

今でもこの疑問は残ったままである。大阪大学での定年を目前に控えた杉野教授が、突発的に『ご乱心』とは私にはどうしても理解できない。考えたくはないが、これまで周りが支えてきた杉野教授の『独断専行』が、ようやく見放され始めたということなのだろうか。

第二は論文共著者の私には理解できない行動である。

「報告書」の示す第1論文に関する時系列は以下の通りである。

  ①旧原稿は以前に(年月日なし)Molecular Cell誌に投稿、掲載拒否。
  ②平成17年12月17日、杉野教授が他の著者に最終原稿を見せずにGenes to Cells誌に投稿。
  ③平成18年1月16日、大幅な改稿を要求される。
  ④同年3月9日、同誌に改訂稿を再投稿。
  ⑤同年4月3日に掲載拒否。
  ⑥同年4月13日にJBC誌へ投稿
  ⑦同年5月28日に改訂版投稿。
  ⑧同年7月11日に最終的に受理、電子版が発刊。

この「報告書}によると、まず筆頭著者は①の旧原稿はは杉野教授から示されていた。ただし「示されていた」とはどういうことか、この報告では分からない。表紙だけチラッと見せられたのだろうか。

そして筆頭著者は《4月13日の杉野教授によるJBC誌投稿後、5月28日までの間に、論文が投稿中であることを杉野教授より聞いているが、その投稿原稿は見ていない。》とのことである。

少なくとも筆頭著者はそれが何時のことか分からないけれど平成17年12月17日よりも前に、旧原稿がMolecular Cell誌に投稿されたことは承知していた。それがどうなたのか、知らないままに⑥平成18年4月18日以降になってJBC誌へ投稿中と知らされたのである。

筆頭著者が自分の投稿論文についてこれほど無関心でいられるのか、私には全く信じられない。私と云わず、研究者は投稿したときからそわそわどきどき、さあ、先方から何を云ってこられるか、千秋の思いで待つのがふつうではないのか。「どうなりましたか」とか、「まだ、何とも云ってきませんか」とかの会話がどうして成り立たないのだろう。

同じことが筆頭著者のみならず他の共著者にも云える(追記あり)。自分たちの投稿論文がどうなったか、気になるのが研究者ではないのか!何が楽しくて実験なんぞしているのだろう。この『無関心さ』と杉野教授の『独断専行』に相関を感じるのは私だけだろうか。

しかし第1論文の筆頭著者が『異常』に気づき、川崎助手に連絡したとのことに一抹の救いを見た。しかし私が救いと見たことが、同時に川崎助手の自死に関わりがあるとしたら、と粛然の思いがある。

『背景』の解明はこれからである。それがあってこそ研究科長談話にある、科学研究上の不正防止の強化の具体的な方策が生まれることだろう。

【追記 (9月26日)】

「調査報告書」には明記されていないが、私は①旧原稿を投稿した時点では、ほかの共著者は共著者であることを知っていたとの前提で話をすすめている。たとえ杉野教授がこの人たちに旧原稿を示していないとしても、杉野教授から示された筆頭著者が、他の共著者にこの件に関して口を閉ざしていたという可能性を私は全く想定していないからだ。

贅沢な「日露交歓コンサート2006」

2006-09-26 12:16:45 | 音楽・美術

昨25日夜、NHK大阪ホールで開かれたこのコンサートに出かけた。

演奏者はチャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院の教授陣を初めとして、世界の主要コンクールに優勝や入賞歴をもつ超一流のアーティストと紹介された。16歳の神童ヴァイオリニストや、22歳の超美人のピアニストを含む総勢6人。それぞれが広く親しまれている楽しい曲をソロや合奏で披露してくれた。

なにが贅沢かというと、この素晴らしかった演奏会の入場料が無料なのである。主催が国際音楽交流協会となっていたが、一流の企業が多数その会員となっていることから察するに、これらの企業がこの事業資金を支えているのであろう。今回が15周年記念というからこれまでも地道な活動が続いていたことになる。私もたまたま入場券を頂いたからその存在を知ることが出来た。なんとも心温まることでもある。

演奏はクレバノフ親子のバラライカとギターの合奏で始まった。クレバノフ編曲の「イマジネーション」、なんと昔懐かしい「ボルガの舟唄」に始まり「カチューシャ」、「ともしび」、「カリンカ」・・・と続いていく。周りを見渡すと私ぐらいの年配者が結構多い。心憎い演出だとおもった。

アンコールがよかった。

バラライカとギターで沖縄民謡の「花」。チェロによる「みかんの花咲く丘」では思わず口ずさむ始末。その気配を察してくれたのか「故郷」では皆さんどうぞ、とキューを出してくれる。遠慮なく声を出せた。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ三重奏の「証城寺の狸囃子」には身体もうきうき、なんとも楽しいフィナーレだった。



実験をしない教授に論文書きをまかせることが諸悪を生む

2006-09-25 14:13:13 | 学問・教育・研究
大阪大大学院生命機能研究科の研究公正委員会が今回の『阪大疑惑論文』問題の調査報告を9月22日に行った。その概要を各報道機関が報じているが、骨子は《杉野明雄・同科教授(62)が論文責任者を務める2論文の計八つの図で、データのねつ造・改ざんがあったと発表した。いずれも杉野教授が単独で操作して、共著者に無断で投稿していた。一部のねつ造・改ざんは認めたという。》(毎日新聞 9月24日)とのことである。

杉野教授を何らかの形で処分することで、大阪大学は幕引きを終えるであろう。おそらく大阪大学がこれ以上のことを明らかにすることはないだろう。大阪大学の隠蔽体質というのではなく、今の法的強制力を伴わない調査方法では、単独行為と認定された杉野教授が口を閉ざしてしまうとそこで終わりになるからだ。

私は以前に論文に名を連ねる資格のない教授とはと論じたが、実は杉野教授のようなお方は『想定外』であった。

上の報道を手がかりに、杉野教授が投稿に至った経緯を私になりに推理を進めてみる。

杉野教授は論文内容のすべてを創作したのではなさそうである。なにがしかの実験データが手元にあったからこそ、それを『改竄』できたのであろう。では杉野教授はその実験データをどのようにして入手したのだろう。まさか深夜人気のない研究室を歩き回り、机の上に置かれた教室員の実験ノートをメモしたわけではあるまい。となると、教室員がどのような形であるにせよ、実験データを杉野教授に提出したのであろう。

そう言えばどこかで、亡くなった助手が実験して杉野教授が論文を書いていた、との記事を見たような気がする(思い出せないのでソースの確認は出来ていない)。すなわち論文の著者と云っても、杉野教授は論文を書く人、その他は実験をする人と、分業になっていたもであろうか。在米期間が長かったと伝えられる杉野教授が、アメリカンスタイルをどうも持ち込んでいたらしい、と私は推測した。

アメリカンスタイルの典型的な例はこのようなものである。研究費を獲得した『ボス』がテクニシャン(実験助手、実験補助)を雇い、事細かく指示をあたえて実験をさせてそのデータをすべて取り上げる。テクニシャンは実験をするたんなる働きネズミに過ぎない。それに基づいて『ボス』は論文を書き、投稿する。テクニシャンの名前は普通は論文に載らない。頭脳労働の『ボス』はいわばローマ時代の貴族のようなもので、肉体労働のテクニシャンは奴隷のようなものと思えばよい。ポストドクを雇った場合は細部でこのケースとは異なるが、雇用主、被雇用者の関係は変わらない。

アメリカンスタイルはそれなりに評価できるところがある。ところがそれを日本に持ち込むと大変なことが起こる。私も過去いくつかの例を身近に見聞きしてきた。

今の制度ではどうだか知らないが、日本では研究費でアメリカのテクニシャンに相当する実験補助員を雇うことは出来なかった。もし雇えたとしても身分が不安定だから質の良い人は来ない。せいぜいアルバイター程度である。ではどうするか。教室員をテクニシャンとして使うのである。もし使われるのに甘んじたくない教室員がいたりすると軋轢が生じる。しかし生存を賭けた戦いでは十中八九教授が勝つ。そして自分の思い通りの研究システムを作り上げると、あとはオールマイティである。研究者の生命、論文発表を一手に押さえることで、教室員を思いのまま動かすことが出来る。これがさらに諸悪をまき散らすことになるのだが、ここでは立ち入らない。

このシステムで教授だけが得をするのなら、いずれは崩壊する。しかし、このシステムが順調に動き出すと『教室員』にも一定の恩恵が与えられるから、簡単には壊れない。自分の名前の載った論文がどんどん増えていく。それを業績としてよりよいポストを狙うことができる。だから『教室員』もいずれは解放される時を夢見つつ、ひたすら『ボス』の言いなりに甘んじる。ここに一種の『共犯関係』が成り立っているのである。

杉野教授が共著者に無断で投稿していた。これが事実だとすると、私の上の推測はまんざら的はずれではあるまい。『共著者』はこれまでもそれを当然としていたのではあるまいか。自分の実験データを教授に手渡したら、不備を指摘されないだろうか、と普通は気になって、「先生、あれでよろしかったですか?」と聞いたりするものである。論文の著者名の順番が気になっては、「もう論文、書き上げていただきましたか?」とか「どのジャーナルに投稿されますか?」など教授に打診するのではなかろうか。たいていの教授はそのように催促されるのが気になって、教室員から提出された論文草稿のチェックを急いだり、また催促されると、何もかもうっちゃってとにかく自分の責任を果たす。これが多くの研究室での光景であろう。自分の実験データの行方に全く無関心ではあり得まいし、あってはならないのである。杉野研究室の実体はどうであったのだろうか。

『単独犯行』と報じられた杉野教授を非難するのは、尻馬に乗ればいいだけのこと。しかしそこからは何も生まれてこない。この事件をも契機に、私は『若い人』に研究者としての新たなる自覚と奮起を促したいと思う。その思いを上のタイトル「実験をしない教授に論文書きをまかせることが諸悪を生む」に込めたのである。『まかせる』とは自己責任の放棄であるからだ。

ここにほんの表面的なものに過ぎないが、研究グループの『若い人』に向けての私の具体的な提言がある。目新しいことでもあれば、自分の出来ることから始めていただきたいと思う。

①たとえ教えられる身であっても、研究では対等であるとの気概をもちましょう。データの解釈、論理の構築、なんら先達に気後れすることはありません。

②もう実験できない教授でも、その過去に敬意を払いましょう。それはひるがえって現役である自分の誇りに繋がります。「先生、口では偉そうに言っているけれど、もうバッファーの作り方も忘れたでしょう」とか、軽口を叩ける関係が出来上がっておれば上々です。

③実験できない教授は仲間はずれにしてもよいから、研究グループ仲間の間でリーダーを作りましょう。尊敬できる人は身近にいるはずです。そしてお互い同士、何事でも話し合える信頼関係を築きましょう。

④実験できない教授に実験データを渡してはいけません。猫に小判、豚に真珠、見せるだけに止めます。変な創作欲から教授を守るためでもあります。

⑤研究グループでは必ず定期的に『検討会』を開きましょう。出来れば週に一度、最低でも月に一度は開かないといけない。その席には実験出来ない教授にも加わっていただきましょう。僻まれたら大変ですから。討論していると教授のおつむの程度がちゃんと見えてきます。「あほか」と思ったら、表情、仕草でその気持ちを遠慮なく表現しましょう。「さすが」と思ったら自分のもてる限りの国語能力を使って讃辞を呈しましょう。それで心が通い合います。そして出された素晴らしいアイディアをちゃんと研究に反映させましょう。

⑥そろそろ研究がまとまってきたら、リーダーが音頭をとって論文の草稿作りに入りましょう。リーダーを中心に、全体の構成をまとめます。図表を中心に分担をきめましょう。そして論文草稿を完成させます。

⑦著者名の順番はお互いが納得できるかたちに大体は納まるものです。『阿弥陀』も場合にはあるかも知れませんが、これは便法と割り切りましょう。そして教授の名前抜きで草稿を教授に提出します。人と猫は一日でも先に生まれた方が偉いとか、年長者の教授として礼を尽くされると嬉しいもので、研究費稼ぎも苦にならないことでしょう。「先生のお名前はご自分でお書き下さい」と申し添えればいいでしょう。時には書き加えるのを遠慮される場合もありますから。

⑧投稿に先立って儀式を行います。この論文を投稿することに同意します、との書類に著者全員が署名するのです。後日、版権譲渡の書類に責任者がサインする際の裏付けになります。そして郵送であれメールであれ、柏手を打って送り出しましょう。

⑨ちなみに、実験の出来ない教授も加わったコンパの席上でこのような歌を歌って気勢を上げたらどうでしょう。心からニコニコ笑ってくれる教授は大物で、信頼にあたいします。丹波篠山、デカンショ節の節でどうぞ。

♪教授、教授といばるな教授、ヨイヨイ
 教授 おいらの なれの果て
 ヨーイ ヨーイ デッカンショ

阪大疑惑論文のフロントページをなぜ引用掲載したのか

2006-09-24 11:42:54 | 学問・教育・研究
私が9月8日にこのブログに問題のJBC論文の「WITHDRAWN」のスタンプのついたコピー引用掲載したことに関して、23日になってお一人の方からコメントを二つ頂いた。最初のは「空念仏に終わった大阪大学総長見解」で、二つめは「間違いであって欲しい「論文不正、阪大教授が単独で捏造」の報道」についてである。

ご指摘の要点は「お前がFirst authorだったらこういうことされていい気分になるのか?」ということであった。なるほどそういう立場からの批判もありうると私なりに納得したが、私がこの二つのエントリーで主張した趣旨は、大阪大学が問題を適切に処理して再生を果たして欲しいと云うことであった。22日にはこのように文を結んだ。《『天上天下唯我独尊』的教授の横行を許した背景を、教授選考の過程にも遡り徹底的な検証を行わなければならないし、それを行うのが国民に対する大阪大学の最低の責務であると私は思う。》

これが私の主題であったが、それについては一言の言及もなく、「だからといってJBCのAbst pageを公開する必要があるのか?」というコメントであった。私の意図とは異なる方向に話が持って行かれたのは残念であったが、私の手法に疑問が呈されたことでもあるので、ここで私の考えをはっきりさせておきたいと思う。

私はいまだに好奇心の塊である。現在の境遇はその好奇心を満たすのに絶好であり、その好奇心の赴くままの私の行動を記すことがブログにもなっている。

9月8日のエントリーでこのように述べた。

《たとえ論文が取り下げられても記録は残されているので、私は適当なキーワードを手がかりに件の論文に辿り着いた。次に問題の研究室に大阪大学のホームページからアクセスしようとしてもデータが消されていた。しかしキャッシュが残されているので、それを再現することで、この研究室が大阪大学大学院生命機能研究科細胞ネットワーク講座染色体複製研究室(杉野研究室)であることが分った。》

私に限らずこのようにして問題の論文に辿り着いた人は大勢居ることと思う。コンテンツそのものが公開されているからである。誰もが利用可能ではあるが、そうかと云って誰でも彼でもそのコンテンツを簡単に見付けられるものではない。それなりのノーハウが必要だからだ。そのノーハウを心得ておれば大学人と限らず誰でも容易に見付け出すことが出来る。今回の問題論文を自分で目にした人は、関連分野の研究人口を考えてみると全世界で数千人はくだらないとだろう。場合によれば数万人という可能性もある。日本だけでもその可能性がある。

私はその問題論文を見付けたとき、まず「WITHDRAWN」のスタンプが珍しかった。初めて見たからである。「おもしろいな」と思った。私と同じく好奇心が旺盛、でもノーハウがない故に知りようのないほかの人に、これがあの論文ですよ、と知らせてあげようと思った。それが引用掲載に至って経緯であるが、その裏に私のある理念があった。

私もそうであったが一般に大学人は極めて『情報』の蒐集・保持に敏感である。自分だけが独占している『情報』が力を生み出すことを知っているからである。それが高じてあらゆる情報を秘匿しようとする。この習いが性となって自分が知り得たことを外に漏らすまいとする。今回の件でも問題論文の著者が誰々でとは大学人の間では秘密でも何でもない。しかしそれを外部に、すなわち世間一般には隠すことで、自分の優位性を維持したつもりになったりする。

公開された情報を大学人だけが独占することがあってはならない。これが私の基本理念であり、フロントページを引用掲載した動機でもある。

ここで既に使ってきた言葉であるが、問題ページの『公開』と、その『引用掲載』の違いをはっきりさせたいと思う。両者を区別できない人の存在を知ったからである。

私の行為はコピーの『引用掲載』なのであって、『公開』ではない。私の『引用掲載』したページを含めて全ページに「WITHDRAWN」のスタンプを押した問題論文を『公開』しているのはJBCなのである。『公開』されているからこそ私も、またその他の大勢の方もアクセス出来たのである。「だからといってJBCのAbst pageを公開する必要があるのか?」との問いかけが私に向けられたが、それはお門違いというもの、『公開』に文句があるのならそれはJBCに向けられるのが筋なのである。

私を批判するのであるのなら、私が問題のフロントページを『引用掲載』したことに対してでなければならない。しかし私は自分の責任において『引用掲載』したのであって、それは第三者が取り沙汰することではない。私がかりに不適切な引用を行ったとしても、それを法律的に告発出来るのは問題論文の版権を所有するJBCだけなのである。

JBCは情報公開に極めて積極的である。以前は高額の料金が科せられたコンテンツの閲覧が今や完全無料になっている。ノーハウを心得ておれば大学人に限らず誰でもアクセスが可能である。それなのにたまたまノーハウのお蔭でそれを知り得た人物だけが自らの優位性を誇示せんばかりに、第三者に知らせるには時期を選ぶべきである、などと説く。このような時代錯誤の権威主義的な発想は私には馴染まない。

ちなみに、今回、読売新聞の22日の記事が出るまでは「空念仏」のエントリーに9日から21日の間に2511(プラスアルファ)件のアクセスをいただいた。しかし『公開』『引用掲載』のいずれであれ、けしからんとの指摘は皆無であった。

確かに私の『引用掲載』に対する情念的な反発はありうる。「お前がFirst authorだったらこういうことされていい気分になるのか?」とのコメントを頂いている。これに対しては5月19日ののエントリーで、堀川哲著「エピソードで読む西洋哲学史」を取り上げた際の引用、《「答えが成立するときだけ問いも成立し、そして何かが語られうるときだけ答えも成立する」》でお答えしたい。First Authorでもない私には答えられないのである。



【コメント受付一時停止のお断り】

昨23日の朝、自分のブログを開いて驚いた。上に記した二つのコメントが目に入ったからだ。なんたる乱暴な言葉遣い、家に泥靴で上がられた思いがした。最初はブログ世界のちんぴらヤクザかと思った。暴言で脅しつける手口だからだ。しかし『罵詈雑言』を無視すると、この方なりの思考経緯が察知でき、たんに言葉の暴力を楽しんでいるちんぴらではなさそうに感じた。ということで私のコメントをお返ししたのである。後ほどこの方から自発的に暴言に関しての謝罪を頂いたので、この件は落着である。

しかし、朝食を挟んでであるが、3時間ほどこの一件に時間を費やした。いろんなご意見を寄せていただくのは有難いことではあるが、このブログへのアクセス増加に伴って頂くコメントも増えだしたら私は対応できそうもない。そこで自分の自由時間を確保するためにコメント受付を一時停止することにした。ご了解を乞う次第である。


【追記 (9月24日)】

このブログを書き終えて、ふと私が「WITHDRAWN」スタンプ付きのファイルをダウンロードしたサイトを訪れると、なんと有料になっていた。スタンプ無しのファイルは無料でダウンロードできる。

それに加えて、私は昨日頂いた「大楽人」さんのご意見に惹かれるところもあった。《私もできればああいう貼付けは取り下げて頂きたいと思っています。もう2週間も周知したのですから、もうそろそろ?》である。「もうそろそろ?」と云われると、「それもそうですね」と応じたくなる、そこでそのお誘いに乗らせていただいた。

という次第で、9月8日のエントリーの貼りつけを最初に私が面白いと思ったことが分かる程度に縮小することにした。文字は読み取れなくても、情報を含んだサイトには依然として誰でも無料でアクセスできるし、簡単な情報は8日のエントリー、「件の論文」の部分をクリックすれば得られるから、『公開情報』を秘匿したことにはならないと思う。

間違いであって欲しい「論文不正、阪大教授が単独でねつ造」の報道

2006-09-22 11:18:41 | 学問・教育・研究
論文不正、阪大教授が単独でねつ造 (読売新聞) - goo ニュース

《論文のデータの捏造、改ざんは教授が単独で行い、共著者の関与はなかった。また、教授は共著者から、本来必要な原稿の確認や投稿の同意を取らず、無断で論文に名前を加えていた。》がこの報道の骨子である。

正式な調査結果の報告を待つべきであろうが、もしこの通りだとすると、この教授の行動は常軌を逸しており、常識人の私には理解できない。

教授が単独で不正を働いたといっても、道ばたで大金を拾ってネコババしたような、場合によっては隠し通せるような話ではないのである。論文の投稿に至る経緯がいかなるものであれ、無断で名前を盗用された(とされる)いわゆる共著者の目に論文が触れれば、『不正』がすぐにばれるのは最初から分かっているではないか。このような幼稚な行動を大阪大学教授がとるとは・・・、この報道内容自体が私には信じられないのである。

仮に報道が事実であったとして、この天をも恐れぬ行為が罷り通る土壌は一体何なんだろう。

教授が白を黒と云えばそれで通る研究室だったのだろうか。だからこそ、まさか身内の造反が起こるなんてこの教授は夢にも思っていなかったのかも知れない、とすると事態はますます深刻である。

この教授の『独断専行』はいつ頃から始まっていたのだろう。大阪大学に赴任して直ぐに始まったことだろうか。それとも研究環境からのプレッシャーで徐々に変貌を遂げていったのだろうか。

大阪大学での以前の論文捏造事件では学生一人に責任があるとされた。今回も教授単独の行為とされそうな気配だ。しかしこれだけで幕引きをするようでは、大阪大学は再生の道を自ら閉ざすようなものだ。

『天上天下唯我独尊』的教授の横行を許した背景を、教授選考の過程にも遡り徹底的な検証を行わなければならないし、それを行うのが国民に対する大阪大学の最低の責務であると私は思う。

中之島国際音楽祭 「オペラにおける合唱の魅力」あれこれ

2006-09-20 20:25:26 | 音楽・美術

9月18日のお昼はシティホールでオペラの合唱曲を聴いた。シティホールてどこだろうと思っていたら、大阪市役所のことであった。その建物の中にホールがあって、壁も床も天井も大理石造りだとか(写真はホール正面上部)。今は赤字に苦しんでいる大阪市であるが、私はこのようなお金の使い方には賛成である。

演奏はザ・カレッジ・オペラハウス合唱団、大阪音楽大学が建設したオペラハウスである「ザ・カレッジ・オペラハウス」の専属合唱団として組織されたプロ合唱団とのことである。

当日はソプラノ、アルト、テノール、バス各四名編成での出演であった。ヴェルディ、ビゼー、モーツァルト、マスカーニ、ワーグナーの七つの歌劇から、ポピュラーな合唱曲を計11曲を聴かせて貰った。少人数の編成であったが目を瞑って聴いているとそうとは思えないフルヴォイスのとても迫力のある演奏で、すっかり堪能させて貰った。「椿姫」の『乾杯の歌』ではソリストがいないのにどうするのだろうと思っていたら、ソプラノの一人が椿姫を、テノールの一人がちゃんとアルフレッドを演じなさる。さすがプロ合唱団でメンバー一人一人がソリストとしての実力を持っているとの紹介が頷けたのである。

オペラ合唱曲ばかりの演奏会なんて非常に珍しい企画ではなかろうか。それを地元の一音楽大学専属のプロ合唱団が演じるとは大阪の誇りでもある。音楽ファンの一人として嬉しい限りであるが、この合唱を楽しむまでが私には難行苦行であった。

この催しは「レクチャーコンサート」との副題が付いていた。《大阪音楽大学学長による解説とザ・カレッジ・オペラハウス合唱団による素晴らしい合唱》というわけである。私はこのレクチャーというのを少し甘く見ていた。「さぁー皆さん、楽しんでください!」ですぐに合唱が始まると思っていた。ところがなんとこのレクチャーが50分続いたのである。

学長さんが話し始めた。「私の話は刺身のツマのようなもの、これがあると刺身が美味しく味わえるように、私の話を頭のどこかに入れておいていただけると、合唱の魅力が一段と味わえるでしょう」という趣旨である。

ところが、学長さんには申し訳ないが、話が退屈なんである。自分がオペラを観にいった話しなどが混じる。何とかのオペラを観たときは入場料が6万円だったとか、世界の歌劇場で観てきたとか・・・・。そんな話はいらん!と云いたいのだがまず我慢した。

外国のどこかで「アイーダ」を観たときは舞台に馬が出てくる。それも舞台の奥行きがあるから馬が駆けてくる、そしてターッと止まる。いやー、大したものだ、と仰る。ところがこの日の演奏には「アイーダ」からの合唱曲は含まれていないのだ。ご本人がそのように断りになりながらも「アイーダ」の話を長々とされる。「乾杯の歌」を聴いている時に馬が走ってくる話しを思い出したら大変、と自分に言って聞かせる。

この類の話が続くのである。10分、20分、30分・・・・・。

オペラ合唱曲ばかりのユニークな演奏会に、聴衆はわざわざ足を運んでいるのだ。たとえ舞台を観るチャンスはなくても、DVDとかテレビ、またはCDなど、それぞれの楽しみ方をしている人々である、と思うのが常識であろう。そういう聴衆を相手にどのような話をすべきであるのか、レクチャーと銘打つ以上その組み立てをしっかりと考えないといけないのに、それが出来ていないのである。

歌われた合唱曲は七つのオペラから選ばれていた。どういうオペラのどの場面で歌われる合唱だなんて解説が要るのだろうか。逆にどのような解説が出来るのだろう。オペラ一つの筋書きを分かりやすく説明するだけでもおおごとである。それが七つ分、いくら時間があっても足りないではないか。だからどうしても説明が等閑になり、話を聞いても少しも賢くなった気がしない。

40分過ぎた。学長さんが「私に与えられた時間は後10分ですので・・・」と云われたときに、周りの聴衆が一斉に私の方を向いた(ように感じた)。後で妻に確かめると、私が「エッ」と声を出したそうである。「まだ10分も?」という私の思いが、無意識に「エッ」という声になったのだろう。しかし私の僻目でなければ、「ほんと、ええかげん話は止めにして、はよう歌を聴かして欲しいわ」と皆さんが表情に出しておられた。

レクチャーが50分、そして演奏が小休憩を含めて50分、刺身のツマにしてはかさが高すぎる。しかもこの大根、鬆が入っている。オペラの合唱を楽しむのに、余計な説明はいらない。何をイメージしながら楽しむのは人それぞれでいいではないか。これは企画が間違っていたと思う。

上の紫色の部分、これは学長さんの話されたことである。話はこれだけで十分、10分もかからないではないか。

合唱が素晴らしかったので私のいらだちも納まった。でもこれから今日の合唱を何かで聴くたびに、鬆の入った刺身のツマを思い出しそうである。

中之島国際音楽祭のソプラノ佐藤康子

2006-09-19 12:12:15 | 音楽・美術

声楽のコンサートは大好き、そのチケットを頂いたものだから、いそいそと会場の大阪市中央公会堂に出かけた。何年か前、大がかりに改修された建物の中に入れるのも楽しみだった。

遙か舞台を見やると、ある種の懐かしさがこみ上げてきた。戦後引き揚げてきた町の芝居小屋に忍び込んで、旅役者の「またたびもの」に引き込まれていた、その頃の感触が蘇ってきたのだ。大都会大阪とはかけ離れた田舎の芝居小屋の雰囲気、要するに「ダサイ」のであるが、それがたまらなく良かった。

私は佐藤康子さんて方をこれまで特に意識したことがなかった。クラシックの歌手の名前を覚えるのはまずはCD、演奏会のチラシやテレビなどを通じてであるが、その何れでもお目にかかった覚えがなかったのである。佐藤さんには申し訳ないことであるが、同じくソプラノ歌手の林康子さんが結婚して名前を変えられたのかな、と妻に話したぐらいである。もちろん全くの別人、ところがお二人とも海外でイタリアオペラを中心に活躍されているし、また柴田睦陸さんに師事されるという共通点もあることを知った。なぜだか女性は年を隠しては人の関心を引き寄せる術に長けているので、正確なデータではないが、イタリアでのデビューは佐藤康子さんがどうも先のようなので、お歳も年長なのかもしれない。

このコンサートは楽しく面白かった。

歌は【イタリア篇】では歌曲とオペラのアリアから、【日本篇】ではいわゆる日本歌曲、そして【カンツォーネ・ミュージカル篇】と分かれていた。【イタリア篇】では印刷されたプログラムからの変更がアナウンスされた。これはあり得ることなのであるが、【日本篇】では時間の都合で六曲あるうち二曲を割愛します、とのアナウンスにそこは大阪人、かなり大きなブーイングが起こった。どういう手違いがあったのか、これはマナー違反である。ざわざわが収まらない会場であったが、佐藤さんが登場するに及んで、ようやく「では歌を聴かしていただきましょうか」という雰囲気になった。

私は佐藤さんを一目見て、これはいけそう、と思った。外国の歌手とならんでもひけを取らない堂々たる体格なのである。妻はオペラ界の上沼恵美子と囁いた。しかし身ごなしが軽快で、飄々としているのがいい。

知ったかぶりで音楽的な批評をするのは意味がない。大阪にこんな歌手がいるんだと思って、嬉しくなってしまったからである。1970年にカラカラ浴場跡でのローマ歌劇場夏季公演「アイーダ」にアイーダ役でイタリアデビューという実績をお持ちの方なのである。

舞台の上での存在感が抜群、なんせ自分が歌い終わって舞台から下がるのをけろっと忘れてしまって、賛助出演のメンバーが舞台に並んでからはじめて気付き、わざわざその旨をことわって引き下がる始末、これでいっぺんに好きになってしまった。引き下がるときもドレスの裾を自分で踏んで、倒れそうになりながらもちゃんと体勢を取り戻すのだからにくい。

極めつけはこれ。日本歌曲から二曲省いたときに、「時間の都合で」とアナウンスされたのであるが、山田耕筰作曲の「この道」の楽譜を持ってくるのを忘れてそして誰も持っていなかったので、とわざわざ舞台の上で告白されたのである。

とにかく私はこの「大阪のおばちゃん」が大好きになってしまった。CDでも探し出してそのうち秘かに二重唱をしてみよう。