日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

ボストン・ローガン国際空港で交通渋滞に巻き込まれた時の「プルプル」

2011-04-04 17:54:35 | 海外旅行・海外生活
原子力発電所「Yankee Rowe」の静かな終焉とくらべてで「Bridge of Flowers」を最後に訪れたのが2000年9月であったと述べたが、これはニューイングランド・ドライブ旅行の途上であったのである。

その頃は母を自宅で介護していたが、停年退職した千葉にいる次弟がしばらく母の世話をするからと申し出てくれたので、われわれ夫婦で10日間ほどのドライブ旅行に出かけることにした。弟がわが家にやって来るのと入れ替えに出発して、個人美術館巡りをはじめとしてニューイングランドの風物を満喫した。日ごろの緊張と束縛感からから解放されて思う存分羽を伸ばせたことが、どれほどわあれわれを元気づけてくれたことか、母の最後を自宅で看取る原動力にもなったと言える。この時の旅行のことはほとんで記録していないので、また折に触れてブログにまとめようと思うが、今日取り上げるのはそのドライブ旅行の最後の最後に経験した貴重な?体験談なのである。

到着したボストン・ローガン国際空港でレンタカーを借り、ドライブ旅行を終えた後もローガン空港で車を返却してニューヨーク行きの飛行機に乗る予定だった。そしてその日、少しゆとりをもって空港に到着するつもりだったが、高速道路で思いがけず時間を取って空港の近くにたどり着いた時は夕方の5時ごろであったと思うが、渋滞で車が動かなくなったのである。次から次へと何本もの道路が合流するものだからほとんど動かない。動いたとしても文字どおり一寸刻みである。そしてまた止まる。飛行機の時間は夜遅くなので慌てなかったが困ったことに尿意を催しだした。もちろんトイレがどこにあるかも分からないし、分かったとしてもこの渋滞をかいくぐってそこまで行くのは不可能である。最初はなんとかなるさと鷹揚にかまえていたが、時間が経つにつれて真剣に考えざるを得ない羽目に陥った。いよいよ「プルプル」の出番である。これまでも旅行の際は持ち歩いていたが使ったことはなかった。その使い初めである。助手席の妻にそれを取り出させ、外を向いているように厳命して車が動かないのを幸いに、ハンドルから手を離してなんとか用を足すことが出来た。渋滞ならではの芸当である。あまりの心地よさに、つい目のあった隣の車の女性に微笑みかけてしまった覚えがある。その「プルプル」の片割れが残っていたのでお目にかける。


200円の値札を見ると当時京都河原町通りにあった丸善で買ったのであろう。この袋の中に粉末剤が入っていて水分を吸収すると膨潤して固体状になるのである。燃えるゴミとして処理出来るとのことだったので、レンタカーを返却するときにゴミ箱に捨てて一巻の終わりとなった。ここまでくるとなぜ私がこの話を持ち出したかはお分かりいただけよう。そう、この記事をご覧あれ。

投入したポリマーって? 水吸い膨らむ粉、おむつにも

 福島第一原発2号機の取水口付近にある作業用の穴(ピット)の亀裂から出ている汚染水を止めるため、東電は3日に、化学物質ポリマー(吸水樹脂)を上流に投入した。水を吸い込んで膨らむ物質だ。紙おむつや保冷剤、園芸用の保水材、携帯用トイレなどにも使われている。

 ポリマーは水がないときは体積が小さくさらさらとした粉状だ。一方、水を含むと風船のようにふくらみ中に水を蓄える。水をぐんぐん吸い込みゼリーのようになり固まる。水を吸うと元の粉の体積の20倍、重さは70倍になるという。

 3日には8キログラム分のポリマーのほかに、水を含ませてかさを増させるため、おがくず60キロや新聞紙なども投入した。
(asahi.com 2011年4月4日0時29分)

原発ピットの亀裂を防ぐためにこの吸水性の粉末剤を使ったというニュースから連想したのである。ただ亀裂をふせぐという目的から考えるとその効果について私は懐疑的なのである。というのも製品の性質が公表されていないので同じかどうか分からないが、似たような粉末剤を私はかって実験に使っていたからである。

商品名をSephadex(セファデックス)といったが、この粉末剤も水を吸収すると膨潤する。これをゲルと呼ぶが、底に溶融ガラス製の円形篩板で封じたガラスの細長い筒(これをカラムという)に積めて、何種類ものタンパク質を含んだ溶液を注ぎ入れると水分だけは下に流れてタンパク質がゲルに吸着して残る。そこで適当な展開液を上から流すとタンパク質の分子量に応じて大きなものほど先に下から流れ出てくる。このようにして分子量の異なるタンパク質が分離されるのであるが、この技術をゲルろ過クロマトグラフィーと呼んでいる。生化学実験に欠かせない手法なのである。

この粉末剤は水分を吸収すると膨潤して固形状になる、と述べたが、決して板やレンガのような硬い固形体になるのではない。明太子を想像して頂くとよいかと思う。小さな卵一粒一粒が水で膨潤した粉末粒子に相当すると思えばよい。粒子同士が接着しているわけでもないので型に填めるのならともかく、それだけで形のある構造体を作れない。だからちょっとした水流で流されてしまうだろう。また上のカラムも実はゲルの詰め物を通って水分が通過していく。その性質を利用出来るからこそのクロマトグラフィーなのである。だからかりにこの材料で亀裂を塞いだとしても少しの水圧で水分は容易に通過していく。これでは水の漏れを止めることはできない。

これはあくまでも私の現役時代の経験に基づく推測であるが、恐らく実情は大きくはかけ離れていないだろう。それよりも強力な磁力を帯びた2枚の鉄板で亀裂を挟み込めばその方が効果的なのではなかろうか。東京電力のすることなす事、口を挟むのも詮方ないこと思いながら、また口を出してしまった。





原子力発電所「Yankee Rowe」の静かな終焉とくらべて

2011-03-30 14:12:03 | 海外旅行・海外生活
1971年、米国ニューヨーク州の州都Albanyに仕事の関係で一夏滞在した。イエール大学に留学してから5年ぶりのニュー・イングランドである。単身の身軽さをこれ幸いと、週末になると一泊しながらよくドライブに出かけた。お気に入りのルートの一つがMohawk Trailと名付けられた2号線であった。Albanyから東行してマサチューセッツ州に入ると落ち着いた大学町でもあるWilliamstownが出迎えてくれるが、ここを起点としてやがてDeerfield Riverとつかず離れずの2号線をおよそ100キロほど走るとGreenfieldに着く。これがMohawk Trailであるが、Greenfieldの手前で道を少し南に逸れるとShelburne Fallsという小さな町があって、Deerfield Riverに架かっている「Bridge of Flowers」が名所になっている。


この橋のたもとに土産物店というか雑貨屋をかねたギャラリーがあって、中に入ると一見油絵のように見える人物画が目についた。よく見ると普通の紙に画かれているようである。店番の女主人に尋ねるとその絵は彼女が独特の「ろう画法」で画いたものだという。面白いので一枚買い求めたところ、台紙の裏に次のような説明書が貼り付けられていた。


1980年代の中頃このギャラリーを訪れたときは女主人の姿はなく、店番の男性に尋ねたらそれは母で何年か前に亡くなったとのことであった。「Bridge of Flowers」を最後に訪れたのは2000年9月で、その時は店が影も形も無くなっており、30年の変遷を思い知らされた。

つい昔話に身を入れてしまったが、これからが本題である。このMohawk Trailのほぼ中頃からZoar Rdに入り北上したところにRoweという町がある。Google EarthでRowe,Massachusetts,United Stateと検索すると連れて行ってくれる。ここが通称「Yankee Rowe」で知られた米国では3番目、ニューイングランドでは最初の商業発電のための原子力発電所が建設されたところなのである。1958年に建設を始めて1960年に完成し、1961年に運転を開始した。こんなところに原子力発電所があるなんてもっけの幸いとばかり、この時、「Yankee Rowe」の見学に出かけたのである。山中のそして湖の畔に作られた未来都市のような建造物に、これが原子力発電所かと感動した覚えがある。放射能が洩れてくるとかいうような恐れは何一つ感じることなく、見学者コースをたどった。

「Yankee Rowe」は本来6年間稼働の予定であったが、185MWのこの小型の原子炉は結局30年以上にわたって運転を続け、経済的な理由から1992年に運転を永久に停止することになった。1993年に発電所の解体が始まり、14年かかって2007年にその作業が終了した。その作業の様子は「Yankee Rowe」に簡潔にまとめられている。使用済み核燃料を保存・運搬用のキャニスターに収め、さらにそれを格納する大がかりな「使用済み核燃料保存設備」が新に建造されたものの、それ以外の一切の施設がすべて撤去されて建設用地が元の状態に戻された様子を写真で写真で知ることが出来る。これでかっては1600エーカーあった敷地が「使用済み核燃料保存設備」に必要な2エーカーだけになってしまった。撤去に要した費用は6億800万ドル。しかしそれで終わりではなく「使用済み核燃料保存設備」の維持に毎年800万ドルかかっているとのことである。

福島第一原発の原子炉も操業30年でお役目を終えて静かな終焉を迎える道もあったのでは無かろうか。そう思うと今回の悲運が痛ましい。




二泊三日ドライブ旅行の終わり

2010-11-09 23:42:31 | 海外旅行・海外生活
あっという間に友人夫妻とのドライブ旅行が終わってしまった。昨日は城崎から天橋立、舞鶴を訪れ、敦賀から北陸道で長浜に向かうところ、入り口手前の分岐点で一方は「北陸道」もう一方は「大津」の標示の出ていたところ、一瞬の判断ミスで「大津」の方に入ってしまい、暗闇に包まれた国道8号線を走る羽目になった。後で振り返ってみると「北陸道」には地名がないので???と迷ったのに、「大津」はまさに進行方向にあるのでそれに釣られてしまったのだろう。カーナビを備えておればこのような間違いは起こらないだろうが、それでは失敗をしてそれをどのように回復するかを考える楽しみもないので、まだまだカーナビは付けないつもりである。

昨日は天橋立と舞鶴で時間を取りすぎたせいで小浜辺りですっかり暗くなったのである。となると見知らぬ土地で目的場所を探すのは結構しんどいもので、昨夜も長浜市内のホテルになかなか行きつけず、市内をぐるぐる回る始末であった。そのうちにふと思いついてJR長浜駅前で客待ちしているタクシーの運転手さんに道を尋ねたら、とても分かりやすく教えてくれたお陰でなんとか辿り着いたのである。実を申せばホテルに電話をして道筋を尋ねたのであるが、それがまったく役に立たなかったどころか、かえって私の判断を狂わせたのである。これも後で振り返ると尋ねる方と答える方のお互いの思い込みがどこかで噛み合わなくなっていたのである。

いずれにせよ昨日の失敗を反省して、今日は長浜市内、彦根城に彦根市内、さらに近江八幡市を回る予定であったが、彦根城・玄宮園・彦根城博物館セット券を使って彦根城のみに集中することにしたのが功を奏し、すっかり暗くなる寸前に友人夫妻を今晩宿泊予定のホテルに送り届けることが出来た。

なぜ天橋立などで時間を取りすぎたかと言えば、景色を眺めるのもそこそこに、女性二人がお喋りを始めるともうどうにも止まらない、それの繰り返しばかりだったからである。その二人を眺めながら男二人もあんなことがありましたね、と話を始めるとこちらもお喋りが長くなる。あんなこととはこんなことである。

私たちは米国のNew Havenで出会い家族ぐるみのお付き合いが始まったのであるが、とくに女性同士が気があったのだろうかおしゃべり仲間になってしまった。ある冬の日、私が車を運転して友人と、その時にNew Havenを訪れていた二人に共通の知人の三人で、Boston郊外の知人の友人の家まで出かけたのである。Bostonでは雪が少し積もっていたので慎重に運転した記憶がある。行き着くのに3時間は優にかかったと思うが、着いたところで友人が無事に着いたことを家に伝えようと電話を何遍もしたが繋がらない。話し中なのである。ふとあることに気がついて私も家に電話するとやはり話し中なのでさてはと思い、お互いに電話するのを断念した。女性二人はいつの間にか電話で長話をする常習犯になっていて、この時もわれわれが出発するやいなや電話を始めてわれわれがボストンに着いてもまだ話しを続けていたのである。その頃は(今でもそうだろうか)米国では市内電話は何時間かけても無料で、電話代を気にする必要は無かったせいである。

お互いに話しているといつの間にか知り合った頃の気分に戻ってしまい、言いたいことを言い合っているのがお付き合いの長続きしている原因だろうかと考えたりする。友人は長年トロントに住んでいて、現地でよい話し相手であった同じ年頃の日本人男性が最近病気のせいで話が出来なくなり淋しがっているので、skypeならカナダと日本でも電話代を気にせずに話し合えますよと持ちかけた。しかし友人はパソコン毛嫌い人間なので、どうなるかは分からない。

ドライブ旅行記のつもりがこのような話になってしまったが、考えてみたら風物を眺めるのもそれなりによいが、それよりも人間同士が直接に語り合い、お互いが頭をそれぞれ働かせて、新しいことをまだまだ発見していくことへの感動のほうが大きくなってきたように感じる。と男性二人の意見が一致したのである。



消防自動車がやってきた パリ、オペラ・ガルニエでも

2010-01-24 12:17:09 | 海外旅行・海外生活
昨日の夕方、妻が「大変、消防自動車が家の前に止まった」と私の部屋に駆け込んできた。あることに熱中していたので私はサイレンの音にも気がつかなかったが、カンカンと半鐘をならしながらやってきたというのである。火は見えないし煙の匂いもしないのでわが家は大丈夫、と思いながらベランダに出て見下ろすと、すでに消防自動車と指揮車というのか2台とまっていて、道路の消火栓に消防士がホースを繋いでいる。そしてさらに応援の消防車とパトカーが駆けつけてくるし近所の人も表に飛び出してきたが、肝心の火や煙の気配がどこにも感じられない。


この消防車の少し先の左側に下り坂の横道があるが、ここには消防車は入れない。外に出てみるとそこを消火ホースだけが走っている。4、50メートル先に空き地があり、枯れ草が燃えていたようであるが、私が見たときはほとんど鎮火していた。現場は擁壁の上なのでどの程度燃えていたのか確認していないが、消防署に通報すべきだと発見者が判断した程度には燃え上がっていたのだろう。自然発火とは思えないし、通行人が吸いさしのタバコを投げ捨てるような場所ではないので、不審火の可能性が考えられる。私の家の裏も以前は長い間空き地になっていて、夏には雑草が繁茂し冬には立ち枯れになるので、万が一燃え上がると危険なので毎年自治会を通じて申し入れ、しぶる不在地主に枯れ草の始末をしてもらっていた。その危険が現実のものとなったが、大事にいたらずに何よりであった。

話は飛ぶが、かってパリ・オペラ座の中を見学していたときにも火事に出会ったことがある。近くで火事が発生したので出入り口を閉鎖するから避難する人はすぐに外に出るようにとのアナウンスが流れたが、舞台装置などを作り上げている最中だったので妻と私はのんびりと見学を続けることにした。


回廊に出ると窓越しに消防車がハシゴを伸ばしているのが見えた。消防署のヘリコプターまでがやってきて広場に着陸する様子を眺めていた。


やがて閉鎖が解けたので外に出たが、まだ周辺の交通は規制されており、鎮火はしたようであるが煙はまだ噴き上がっていた。改装中の工事現場で火災が起きたとのことであった。これは2002年4月4日のこと、記憶に残る経験だったので昨日の出来事に便乗して書き留めておく。






JALにはじめてのった時の話

2010-01-20 21:39:01 | 海外旅行・海外生活
日航、会社更生法を申請 再生機構が支援を決定

 日本航空は19日、東京地裁に会社更生法の適用を申請した。官民が出資する「企業再生支援機構」が同日、日航支援を正式に決め、政府が承認した。運航や営業は平常通り続ける。機構は日航を管理下に置き、3年以内の経営再建を目指す。グループの負債総額は2兆3221億円で、事業会社では過去最大の経営破綻(はたん)になった。
(asahi.com 2010年1月19日20時34分)

これは昔流に言えば倒産、すなわち会社が潰れたと言うことだろう。とにかく日本のフラッグシップ・キャリアであったJALの株券が文字通りただの紙切れになるのを目の前で見せられたわけで、これは凄いことが起こったのだと経済音痴の私でも分かった。しかし分かるのはそこまでで、先は分からないことだらけである。倒産したら会社が潰れるわけだから残るのは精算処理だけかと思うのに、また大金を注ぎ込んで再建させるという。いろんな立場からそれぞれの思惑があってこのような処理になったのだろうが、どれほどの成算があるのやら、門外漢にはさっぱり分からない。破産したのにJALの航空機が今も世界の空を飛び回っているとのことなので、ただただ安全運行を念じるのみである。

この日航機に私がはじめて乗ったのは1968年9月27日(アメリカ西部時間)のことである。留学のために一家でアメリカに渡ったのは1966年8月であったが、その時は船と汽車の旅だったので、アメリカから帰る時にはじめて飛行機にのったのである。昔の書類がたまたま目についたので整理していたら、偶然にもそのときのJALの航空券などが見つかったので昔懐かしさに取り出してみた。Santa Barbaraの旅行社にLos AngeresからHonolulu、東京経由で大阪(伊丹)までの切符の手配を頼んだのであるがその搭乗機がJALであった。当時、国際線はJALだけだったのでほかに選択肢はなかったのである。下図はその時に貰ったJALの時刻表の表紙と、太平洋路線西回りのスケジュールに旅行社からの旅程表を重ねたもの、さらに航空券の控えである。




これらを眺めているといろいろなことが思い出された。われわれ夫婦と子ども3人、計5人のご一行様が1968年9月27日11時30分にLos AngeresをDC-8機で飛びだち、同じ日付の13時40分にHonoluluに到着、そこでレンタカーをして予約していた市内のホテルに直行した。北極回りの路線はまだなかったので、大阪まで直行すると長時間のフライトになる。そこで途中で一息入れることにしたのである。一泊して翌日真珠湾を訪れようとしたがフェンスにはばまれて中に入れなかった。そしていよいよ空港に戻りかけた時に私の視力に異常が発生したのである。交通信号の赤、青、黄の三色がすべて灰色に見えて色の識別ができなくなったのである。今から思うと疲労困憊の極に達していたのだろう。出発までの1週間ほどは睡眠もまともに取れずに、引き揚げのための諸々の準備に大童となっていたからである。しかし空港には急がなければならない。手足は幸いなんとか動いたので交差点に差し掛かると、妻に信号灯の色とGo、Stopを叫ばせながら機械的に手足を動かしてなんとか空港に滑り込んだのである。色が分からなったのはこの時限りである。

東京まで私はぐったりとなってひたすら睡眠を貪っていたが、あとで聞くと生後一年半の次男を連れた妻がスチュワーデスの扱いにかなり不満を募らせたそうである。赤ん坊をなんとなく邪魔者扱いするスチュワーデスがきわめて慇懃無礼であったと言うのである。たとえば白湯を頼んでも何回か言わないと持ってきてくれなかったとか、おむつの取り替えに冷たい視線を向けられたとか、私に言わせるとその程度のことなのであるが、妻の神経の方が繊細であったのだろう。しかし私もカチンと来ることがその後であった。羽田で伊丹行きへの乗り換え手続きにかなり時間を取られて、国際線から国内線へ子どもを引き連れ徒歩で急いだが、ようやく間際になって牽引車のようなものに拾い上げて貰ったもの間に合わず、予定の便はわれわれを置いて出発してしまった。結局一便遅れたが、連絡がないまま搭乗機からわれわれが降りてこないものだから、出迎えに来た双方の両親が心配になって問い合わせて、ようやく様子が分かるという始末であった。妻はもう二度とJALには乗らないとお冠であったが、そんなに気張るまでもなく、JALの航空券はいつも割高で貧乏学者としては敬遠せざるを得なかった。

ちなみに1966年にアメリカから帰ってきた時のチケット代はLos Angeresから大阪まで大人が397.10ドル(子どもはその半額)で、360円の時代だったから約15万円、当時の物価水準を考えると結構高価であったが、それを十分に賄える給料をアメリカが出してくれていたのだからその度量には今さらながら敬服せざるをえない。

JAL破産が何故か昔話になってしまった。




「作家の家 創作の現場を訪ねて 」にマーク・トゥエインの旧居訪問の頃を思い出す

2009-07-30 16:01:35 | 海外旅行・海外生活
本屋で一冊の本が目を引いた。西村書店発行の「作家の家 創作の現場を訪ねて」である。本のタイトルは日本語になっているでおやっと思ったが、表紙の写真には見覚えがある。その昔、まだ京都河原町の丸善が健在であった頃、美術書売り場で見つけた買った本の翻訳らしい。もともとはフランス語の本で英語版が1995年に25ポンドで発売され、それを購入したのである。それに比べると今年2009年2月に発売された西村書店版は2940円なので割安感がある。ビニールで密封されていたので残念ながら中身を見ることは出来なかったが、多分同じであろう。しかしサイズ28 x 22.8 x 2.4 cmで、英語版の31.6 x 25.6 x 2.2 cmに比べると小さ目である。西村書店版は鹿島茂 監訳/博多かおる 訳となっているので、おそらくフランス語版からの翻訳であろう。


私は本が好きなものだから、他の人がどのように本と向かい合っているかが気になる、というより興味津々なのである。作家ともなれば当然本に囲まれているだろうから、まず収納の仕方が気になる。家の中で本を読む時の決まり場所があるのだろうかとか、また読書用に座る椅子の好みとか、寝転がるとしたらどのようなソファーなんだろうかと、とにかく好奇心旺盛なのである。そして作家の創作現場、原稿を書くときの机周りもしっかりと目に入れたい。だからこの本を見つけた時は中身も確かめずに手を出したのである。


英語版でほぼ20人の作家の住んでいた家が紹介されている。しかし名前を知っているのは半分少し、でもマーク・トゥエインの家が出てくるのは嬉しかった。その昔、訪れたことがあるからだ。1966年に家族と渡米してコネチカット州New Havenに最初の居を構えたが、その時に親しくなったMさんご一家とある日、コネチカット州の州都であるHartfordまでMさんのVWと私のFord Futuraを連ねてドライブをしたのである。目的場所はマーク・トゥエインの旧居。何かで「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリィ・フィンの冒険」を書いたマーク・トウェインの住んでいた家がそこにあることを知ったのだろう。その時の写真があった筈だと昨日からさんざん探し回って、やっと見つけ出した。


雪がうっすら積もっているから1966年から67年にかけての冬である。お互いに男女一人ずつ二人の子持ち、子供も幼く私たちも未来への希望に胸を大きく膨らませていた頃である。それから40年以上の星霜が流れ、トロント名誉市民となられたMさんご夫婦は今もトロントにお住まいである。奥様と妻は気が合うというのか、手紙をまめにやりとりしてしているものだから、ご健在の近況が伝わってくるのが嬉しい。

The Mark Twain House & Museumのホームページを見ると、このマーク・トウェイン・ハウスの修復工事が1960年代半ばから始まったとあるから、多分その直後だろうか。工事中のせいだったのかどうかほかに人影がなく、建物の中に入った記憶もない。修復工事は1974年の築100周年を記念する式典のために本格化したとのことであるので、この本でその内部を始めて見たことになる。

このような切っ掛けで昔を思い出すのはまた楽しいものである。


GMの倒産で思い出したこと思うこと

2009-06-02 15:49:52 | 海外旅行・海外生活
「米GM、破産法を正式申請-負債総額16兆円超」とのニュースが流れた。経済のことには疎いが、これはGMの倒産と言うことなのだろう。俗な言い方では「GMが潰れた」のである。アメリカにおける自動車産業のビッグ・スリーのうち、すでにクライスラーが潰れたので残るところはフォードのみ。あまりの呆気なさに私なんかはついていけない。かっての大日本帝国の崩壊を見る思いである。

私がまだ中学生か高校生の頃であるが、父が「Collier’s」というアメリカの週刊雑誌を購読していて、そこに出てくる衣食住すべての写真に圧倒されていた覚えがある。まさによその世界の話で自分にはまったく無関係に思っていたが、父はそのなかに日本の将来を夢見ていたのかも知れない。ページ全面に大きくカラー印刷された車でBuickとかPontiacという名前を覚えたのもこの時である。敗戦国民は言うに及ばず、アメリカ人にとってもこのような車で生活をエンジョイすることが「アメリカン・ドリーム」であったのだと思う。

BuickもPontiacもGMの車であったが、GMの作る最高級車であるCadillacは、当時の占領軍の最高司令官であるダグラス・マッカーサー元帥の乗用車として日本国民にもよく知られていた。このCadillacに一度だけ思いがけないことで乗ったことがある。1960年代の初頭、私は大阪大学の大学院生だったが、大学院入試の時の試験官であった赤堀四郎先生がまもなく大阪大学の総長になられて、その公用車がCadillacだった。丸みを帯びた車体で「ウィキペディア」の「キャデラック」で見ると、戦後型として写真の出ている「シリーズ59(1948年)」のようであった。ある日のこと、どういう成り行きでそうなったのか、またどこまで行ったのかまったく記憶に残っていないが、赤堀先生に「乗りなさい」と言われてそのCadillacでどこかに連れて行かれたのである。赤堀研にいた友人と一緒であったことだけははっきりと記憶している。ただそれだけのことであるが、それにしてもこのCadillacがどういう経緯で大阪大学に迷い込んできたのだろう。かなりの年代物であったように思う。

1966年に初めて渡米して中古車を買うことになった時に、ディーラーで一台のCadillacが目に留まった。かなり年代が古いがシートが総革製で窓の開閉が電動式なのである。予算は遙かにオーバーしていたが無理をすれば手の届く範囲なので一時は迷ったが、身の程知らずにそんなことを考える自分が滑稽になって止めた。その時に買った中古のFord・Futuraがトラブル続きで、Santa BarbaraからLos Angelesに出かけた帰り道に遂に動かなくなり、再生エンジンに取り替えることになった。その際に代替車として借りた大型車(多分フォード・ギャラクシー)の性能に感激したものである。ちょっとアクセルを踏み込むだけで、それまではよたよたと上っていた101のかなりの急坂を、他車をいとも易々と追い越しながら一気に駆け上がったからである。ガソリンをがぶ飲みしての頑張りであったのだろう。

1980年代の初め、デトロイトで一夏過ごしたことがある。週末になるとレンタカーであちらこちらを飛び回ったが、GM本社のあるルネッサンス・センターにもよく出かけた。映画館が何軒もありいつも長い行列が出来ているのが印象的だった。まだアメリカ映画が元気であったのだろう。どのビルだったか覚えていないが、その上にある回転レストランで食事をした覚えがある。昨夜、テレビニュースでこの一帯の夜景が写っていたが、ルネッサンス・センターとデトロイト川対岸のカナダ・ウィンザー市の灯火の輝きに、このレストランからの展望が重なってとても懐かしかった。デトロイト川をトンネルでくぐり抜け、カナダに入ってトロント辺りまでは何遍も足を伸ばしたものである。レンタカーはアメ車だった。日本の小型自動車の対米輸出が第一次石油ショック(1973年)、第二次石油ショック(1979年)を経て大幅に増加したことがいわゆる自動車摩擦を引き起こしていた。テレビでも日本車を米国人がハンマーでたたき壊すパフォーマンスが流されたこともあり、米国人が「デトロイト不況」と呼んでいた日米間の自動車摩擦が最高潮に達していたので、わざわざ日本車を乗り回して米国人を刺激することを避けたつもりであった。その後米国景気の回復につれて自動車需要が増大したものの、この間ビッグスリーのうち、何とか持ちこたえたGMがその体質改善に積極的でなかったと言われる。そういうことが今回の破局の淵源なのだろうか。

世界的に苦境にある自動車産業の行方に私は少々冷淡である。もうそろそろ次の新しい移動手段が現れてきてもいいのではないかと思うせいかもしれない。子供の頃何回も読み返した講談社の絵本に「魔法の杖」(?)と言うのがあった。目をつむってステッキをくるくると回しながら行き先を唱えると、次の瞬間にはもうそこに着いているのである。究極の移動手段ではなかろうか。私も呪文だけはよく唱えたものだ。せいぜい動き回るだけに車のような大げさな機械・装置を人間が作るのは、まだ知能が低いレベルに留まっているせいだろう。あの小さな身体で何千キロも移動する渡り鳥の飛翔能力ひとつを考えてみても、手つかずの研究領域があるように思う。

ビッグ3も日本の自動車産業もしょせんは虚業?

2008-12-05 16:13:45 | 海外旅行・海外生活
1981年の夏に4ヶ月間、Wayne State Universityの客員教授としてデトロイトに滞在した。デトロイトに到着した翌朝、ホテルの部屋から窓越しに見える巨大な建物がGeneral Motorsの本社であることを知って、自動車産業の世界の中心地に今いるのだと実感したことを覚えている。Fordの本社も郊外のDearbornにあり、Greenfield Villageと呼ばれる一郭にあるHenry Ford Museumを訪れて、米国における自動車産業の歴史を示す数々の展示品を観た時にその思いは一層深まった。しかしその一方、自動車産業の中心地にしてはハイウエイの傷み具合が目立って、これなら日本の道路の方が遙かましだなと思ったものであった。始めて米国に渡り映画の中さながらの豊かな暮らしに圧倒されてから15年経っていたのである。

それから四半世紀、昨日(12月3日)の日経夕刊トップに次のような見出しが踊った。



しかし支援策がとられたとしても先行きは暗い。自動車が売れないのである。次の見出しは前年同月比で11月の新車販売台数が36.7%も減少したとのことだが、GMでは41.2%、クライスラーに至っては47.1%とほぼ半減している。もちろん米国内での日本車の販売台数も減少して、トヨタ自動車で33.9%減となっている。そして今晩のテレビニュースでは「いすず」などで非正規雇用者の大量解雇の動きが報じられていた。自動車産業の大幅な凋落がいよいよ現実的なものになったのだろうか。



自動車の製造はまさに物づくりである。よりよい車を作り顧客に買って貰うまともな商売で、得体の知れない金融商品の売買とは比べもにならない健全な経済活動である、と経済音痴の私は信じてきた。いや、今でもそう信じたいのであるが、この期に及んでとてつもない疑問がわき起こったのである。米国相手に自動車を売りまくる、ひょっとしてこれは虚業ではなかったのか、と。

最初米国で暮らし始めて戸惑いを感じたのがスーパーなどで買い物した時に「Cash, or charge?」と聞かれることであった。現金で払うのか、付けにするのかを聞いているのである。付け買いは日本でもしたことがなかったので、私は現金払い一辺倒であった。と言っても小切手を切るのが普通であった。運転免許証のようなIDがあれば受け取って貰えたのである。付けで買おうと思ったら、その店であらかじめ手続きをしてクレジットカードを作らなければならなかった。今で言うVISAカードとかDinersカードなどがまだ私の生活の中には入っていなかった頃の話である。

一度だけ付けで買い物をしたことがある。毎日の暮らしに欠かせない自動車を中古で買った時のことである。代金の一部を現金で支払い残りを月賦にした。車のディーラーと提携している街の金融業者から借金したことになったのであろうが、勤務先と年収を聞かれたぐらいで面倒くさいやりとりは無かったように思う。ただこんな簡単な手続きで金を貸してもいいものか、と私がかえって不安に感じたぐらいであった。と言うのもその翌日か研究室の私に外部から電話がかかってきたのである。取り上げてみるとなんと私の身元調査のようなことで、実は私の教授のところにかかってきたものを、教授が出張かなにかで不在だったので交換手が教授室の隣室にいる私のところへ繋いだようなのである。どうしたことか先方は私が教授だと思い込んで、あなたのところに○○というポスドクが居るか、なんて聞く。私はことの成り行きで教授になりすます形になって、イエスと答える。すると先方は私が月賦手続きに書き込んだ内容をその通りかと確認してくるものだから、イエス、イエスと返事しているうにち身元調査が終わってしまった。もちろん月賦手続きが無事に済んだことは言うまでもない。これが私の信用調査の実態なのであった。

また勝手に借金させられそうになったことが一度ある。この車のオートマティック・トランズミッションの調子が悪くなって再生品に取り替えた時に、受け取りに行ったら業者がこの書類にサインをするようにと言う。よく見れば月賦支払いの手続き書なのである。私が貧乏人に見えたのか、私に確かめもせずに勝手にそういう書類を作ったのである。300ドルから400ドルの間だったと思うが、現金で支払えることを確かめて車を持ち込んだのであるから余計なお節介である。「I don't like this.」と言うと何故か聞き返す。そこで私は「I am not so rich to make you rich.」と答えた。相手に通じたかどうかは分からないが自分では名台詞のつもりだったのである。「How do you pay?」と聞き返すので「By cash」と答えて溜飲を下げた気分になったのであるが、先方には変わり者と映ったことだろう。

ことほど左様に米国人はローンで物を買うのが当たり前であるが、これはすべて借金なのである。それが生活に定着しているからこの国では借金することに後ろめたさを感じる人がいるとは思えない。それどころか、借金の額が高いほど社会的信用度があってのことと、ステータスを誇る感覚なのではなかろうか。そして借金させやすいようにいろんな仕組みを考え出すものだから、借金額は止めどもなく膨れあがる。しかし借金が嵩むと月々の返済額が増え、ある日、限られた稼ぎでは返せなくなる現実にぶつかる。

これに反して私が日本で車を買った時はいつも現金払いであった。というより現金で支払えるめどがついて新車を買ったのである。家も同じで、現金で払えるようになって隠居所を建てた。陋屋とは言え、風雨を忍べる親の家があったからこそのことではあるが、「I was not so rich to make banks rich.」なのであった。現金はまさにリアル・マネーであるから車や家を売る側からみて事故で代金の回収が出来なくなるなんて心配することはさらさらない。これに比べて、最終的にどこが被害を被ることになるのかはさておいて、ローン客相手に商品を売って手にするものは、いつ木の葉に化けてしまうかも知れない幻のお金である。トヨタ自動車が大きくなったのも考えてみれば私のようなガチガチの旧弊日本人だけを相手にするのが物足りなくて、ゆくゆくは破綻することが目に見えているはずなのにそれを知らぬ振りをしてか、稼げる間に稼げとばかりに借金まみれの米国人に車を次から次へと売りつけたからなのである。

米国が国家の総資産を堅実に増やしているのなら、いくら売りつけてもかまわない。国家全体で借金が膨れあがっているのを知りつつ、事業から撤退するどころか木の葉紛いの幻のお金欲しさに刹那主義的にますます売りつけるというのはもはや実業ではなくて虚業であろうと私は思うのである。素人談義ゆえにどこかが間違っているはずだと思いつつも、これが経済音痴の私がたどりついた結論なのである。売る相手を間違えて成長した虚業はいずれ衰退する。売る相手を見極めることが自動車産業の生き残りに欠かせないことなのではなかろうか。

これから数十年先、日本の総人口が6千500万人になった頃の車の使われ方を描いた物語が手元にあるある。『虚業』の行く末を暗示しているようでなかなか示唆に富んでいる。また折りがあれば紹介しようかと思う。

「恋のからさわぎ」に登場したウイリアム・ハズリットとの不思議なご縁

2008-08-17 21:13:54 | 海外旅行・海外生活
夕べ(8月16日)もさんまの「恋のからさわぎ」を観ていた。この番組とは長いお付き合いで、その経緯を以前ブログに書いたことがあるが、要するに私は亜流ではあるが(男という意味で)みいはあ族なのである。番組はいつも世界的文化人の箴言を奇妙きてれつなコントで演じることから始まるが、夕べはウイリアム・ハズリットの言葉が引用されていた。私は彼の書いたものをかって目にしたことはないが、脳中にインプットされていたその名前がにわかに甦り、昔のことをあれこれ思い出してしまった。というのも私はかって彼の住んでいた家に滞在したことがあったからである。

ウイリアム・ハズリットとは研究社の新英和大辞典(第六版)に《Hazlitt, William(1778-1830) 英国の批評家・随筆家》と出ているくらいだから、かなり著名な人物なのだろう。その彼が住んでいた家を「The Time Out London Guide」は次のように紹介している。



そう、かって彼が住んでいた築300年の家がB&Bタイプのホテルになっていたのである。1990年10月、私が英国で開かれる会議に招待されたのを機に、妻をロンドンに伴うことになり、その時に少し変わったB&Bのほうが面白かろうと選んだのがこのホテルであった。会議が開かれる場所はロンドンから列車で3時間ほど離れたところにあり、そこで3泊ほどする予定になっていた。その間、妻はロンドンに残って美術館巡りをしたいと云っていたので、Sohoの中にあり、動き回るのにも便利だし周辺には各国料理のレストランが多いこのホテルを拠点とすることにして9泊10日の予約を入れた。



タクシーで辿り着きチェックインを済ませて部屋に案内された。まず驚いたのが狭い周り階段を上っていく時に身体が倒れかけるような錯覚を覚えたことである。階段のステップが水平でなかったせいである。さらに部屋のドアが明らかに傾いているのに隙間が見えない。隙間を丁寧に木切れで埋めているのである。三百年の重みで建物の中身がかなり傾いていたが、それなりの手入れが行き届いているようであった。部屋にはベッドルームに居間、それに浴室・洗面所があり、心地よく落ち着ける感じだった。ドアには部屋名のプレートがあって私のはPrussian Blueの間だったように思う。浴室の様子は上の写真とは違っているが、浴槽の設えは同じようである。



到着した夜、荷物の片付けもそこそこに食事を摂りに外出した。ところが部屋に戻ってくるとなんだか様子がおかしい。散らかして出たはずなのに部屋が綺麗に片付き、スーツケースなども納まるべき場所に納まっている。あれっと思ってスーツケースを開くとなんと空っぽなのである。泥棒がこんなに綺麗に後始末するとは思えないので、時代物のタンスの引き出しを開けてみると、下着に着替えから小物に至までものの見事にびしっと整理されている。これにはびっくり仰天した。さすが鍵をかけたままのバッグ類には手をつけていなかった。

私はそれまでにもロンドンには何度も来ており、B&Bはもちろん一般のホテルも利用している。しかしこのような経験は初めてだった。なんだか由緒ありげなホテルと云うことで選んだのであるが、まさかこのようなサーヴィスまで含まれているとは思いも寄らなかった。しかし一方では考えた。これはサーヴィスのように泊まり客に思わせて、メイドが自分の好奇心を満たすために、お遊びでこのようなことをしたのだろうか。いやいや、そう疑った客がマネージャーに文句を云ったとすると、このような行為はすぐにばれてしまう。そのようなことをメイドがするはずがない、やっぱりサーヴィスなんだろうか、とあれやこれや考えた末、結局黙ることにした。

それにしてもわが身が丸裸にされた感じだった。そういえば日本でも殿様とかお姫様とか高貴なお方は湯殿でも前を隠すなど品格を貶めるようなまねはせずに、なにごともオープンに堂々とお付きの者に世話をさせたという話を思い出した。そのお殿様お姫様扱いをして貰っているんだ、と思うことにしたのである。あれがサーヴィスだったのかからかわれたのか、いまだに分からない。

ホテルのパンとコーヒが美味しかった。地下の調理場で焼き上げたパンと熱いコーヒを毎朝メイドが三階の部屋までコトコトと足音を立てながら持ってきてくれる。肉厚のコーヒカップがよかった。私が家で愛用している砥部焼とその頑丈な実用性が共通していたからである。底を見ると「APILCO FRANCE」と記されていた。英国製ではなくてフランス製だった。



Shaftesbury Avenueだったと思うが、偶然APILCOの製品を山積みにしていた厨房器具店で同じカップを見つけたので何点か買った帰った。気に入ったのでその後、別の機会に一式を買い求めて別送したことである。面白いことに先日佐渡裕プロデュースのメリーウイドウが西宮の芸文センターで公演された時に、テレビで佐渡さんの日常生活が紹介されて、そのなかにパリのカフェでコーヒを飲んでいるシーンがあった。よく見るとカップがこのAPILCOなのである。それにつられてわが家でもAPILCOにコーヒを入れた。



私が三、四日ロンドンを離れて会議に出席していた間、妻はこのホテルを根城に美術館を中心にあちらこちら行き廻ったようである。食事、とくに夕食をどうしたのか、聞いたような気がするがまったく覚えていない。考えてみるともう18年前の話である。今でもHazlitt’s Hotelは健在なのだろうか。また訪れたい気がする。

ライプツィヒへ日帰りの旅 ただしドレスデンから

2007-07-16 00:08:02 | 海外旅行・海外生活
知り合いが近々ベルリン、ドレスデン、プラハ、ウイーンなどに出かけるという。その話に刺激されて、昨日は三年前の東欧旅行の写真を眺めていた。台風4号の前触れに出足をくじかれての時間つぶしでもあった。ホテルに戻ると、NikonD70で撮った画像をDATA STATIONII(IO DATA)で640MBのMOに移した。今ならiPodに画像を移せば済む。たった3年の間にえらい様変わりである。

旧東ドイツとプラハを中心に廻りたいと思った。調べてみると大韓航空が便利だった。往きはフランクフルトまで飛び、プラハから帰ってこられる。ドイツ国内はGERMAN RAIL PASSを使って移動することにした。「5 Days in 1 Month Twin 1st Class 2Adults」だと二人目は料金が半分になる利点がある。利用する日だけ記入すればよいので、使い勝手が極めてよい。全行程はフランクフルト→ハイデルベルヒ→ベルリン→ドレスデン(→←ライプチィヒ)→プラハで、国境のSchonaからプラハまでの料金は、ドレスデン駅で列車を予約する際に別途に支払った。

ベルリンでは妻が路上で転倒し、救急車で病院に運ばれるというハプニングがあったが、今から思うとまたとない経験だった。重力には逆らわない素直な妻は、その後も私の知る限り二回転倒したが、とても転け方が上手になってか、かすり傷も負わなくなった。転倒の翌日かに撮った写真ではお岩さんにになりかけだった。こういう記念写真は珍しかろうと特別公開をする。



旅行中妻はサングラスをかけたし、私は不審な目を向ける人に、wife-beaterだとは思われないよう、転んでそうなったんだ、と状況を何回かにこやかに説明した。

ドレスデンに滞在中、ライプツィヒへ日帰りの旅をした。汽車で片道1時間少しかかる。何はともあれバッハが1723年から1750年の終生まで、トーマス教会合唱団の音楽監督を勤めていたその教会を訪れてみたかったからである。

ライプツィヒ中央駅を出てまっすぐ道を歩いていくと右手にニコライ教会が見え、やがて通りにぶつかる。右に折れると通りの左側はライプツィヒ大学である。尿意を催したのでちょうど都合がいいとばかり校舎に足を踏み入れた。建物の入り口が通りに面しているのですっと入れる。廊下を学生が大勢行き交うが、私に目を向けるものはいない。教室もあるので覗き込んだりして何年かぶりに大学の雰囲気を味わったりした。しかし考えてみると、これはお上りさんの振る舞いそのもの、恥ずかしくならないうちに足が勝手に見付けてくれたトイレで用を足しては辞去した。ゲーテに鴎外、ハイゼンベルグにオストワルドやワーグナー、ライプニッツにあやかり、この大学にささやかな足跡を残せた。

先方左手に尖塔が見えてきたので、それを目当てにトーマス教会に辿り着いた。その前面にバッハの像がある。



建物の始まりは13世紀初頭に遡るが、その後幾多の変遷を経て現在の建物は1991年から始まる総合大修理により2000年6月に完成したものである。2000年7月28日にここでバッハ没後250年祭典が催されたとのことである。1789年5月12日にモーツアルトがトーマス教会のオルガンで演奏したとか、また1806年にはナポレオン軍がトーマス教会を弾薬庫として使ったとの記録があるが、その頃の面影はどの程度残されているのだろう。教会内にバッハの墓所があったが、設けられたのが1950年というから、これも何かそれなりの謂われがあるのだろう。



教会正面を出ると右手前方にThomas-shopなる土産店がある。440ヘルツの音叉を買った。30秒近く音が持続する。この店への入り口近くにWCの表示があった。ただのWCではない、「WC an der Thomas-kirche」とやんごとないのである。覗いてみたところ、用をたすのにつま先立つ必要がない高さの便器がやさしく迎えてくれた。





このあと、近くにあったアワーバッハス・ケラーで遅めの昼食を摂った。時間がずれていたせいか広いホールに客の姿がまばらであった。



実は今、ヴォイストレーニングの相方とメンデルスゾーンの二重唱曲に取り組んでいる。



このメンデルスゾーンもライプツィヒと関係がある。1835年にライプツィヒ管弦楽団の指揮者に就任し、37年には結婚、そして1843年にライプツィヒ音楽院を創設している。その住居が今はメンデルスゾーン・ハウスという博物館になっている。食事を終えてから、インフォーメーションで貰った観光地図を頼りに探し歩いたが、30分過ぎても1時間近くなっても見つからない。たまたま通りがかったヴァイオリンのケースを抱えた若い女性に場所を尋ねると、すぐ近くだという。ついそこまでは来ていたのだ。自分もそちらの方に行くから一緒に行きましょうと云ってくれる。音楽を勉強している学生だったのだ。ここです、と教えられたところに、メンデルスゾーン・ハウスを示す飾り板があり、その下の飾り板にはライプツィヒ大学音楽分室と記されていた。





左側の建物が目指すところ、扉には「メンデルスゾーン・ハウスの博物館」の飾り板があった。訪問者は私たちだけ、こころゆくまで部屋の佇まいに展示品などを見てまわった。




まったく偶然にもたった今(11時58分)、教育テレビの名曲アルバムでシューマンの交響曲「ライン」を演奏しており、作曲当時シューマンがクララと住んでいたライプツィヒの旧居が映し出されていた。時間がなくこのシューマン・ハウスを訪ねることが出来なかったのが心残りである。