日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

臓器移植法改正が必要? 自分の身体は誰のものなのか

2009-06-30 11:41:53 | Weblog
平成9年7月16日に成立した「臓器の移植に関する法律」の附則に次のような条文がある。

(検討等)
第二条 この法律による臓器の移植については、この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況を勘案し、その全般について検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるべきものとする。
  2 政府は、ドナーカードの普及及び臓器移植ネットワークの整備のための方策に関し検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずるものとする。
  3 (省略)

この第一項の定めを受けて臓器移植法の改正A案が去る6月18日に衆議院を通過し、目下参議院で審議が始まっている。この「臓器移植法改正A案」を現行法と比較すると次のようになる(産経新聞より)。


現行法では臓器移植を前提にした場合のみ脳死が人の死と定義づけられるのに反して、改正A案では脳死が一般的に人の死となり、死の定義が大きく変わる。というのも改正A案はとにもかくにも臓器移植をより推進するために使える臓器の供給量を増やすことが狙いで、そのためには死の定義をこのように変える方が都合がよいからであろう。しかしこれが国民的合意の上に立った法改正の方向とは私には思えない。なぜか、を説明する。

上記の附則にある「この法律の施行の状況を勘案し、その全般について検討が加え」の部分に注目して、まず「この法律の施行の状況を勘案」してみよう。ちなみに【勘案】とは「諸般の事情を十分に考え合わせ、適切な処置をすること」(新明解国語辞典第五版)なのである。まず法律の施行の状況であるが、端的にいえば臓器移植法が施行されたことで脳死による臓器移植が何件行われたかがそれに当たる。そこで国内移植年表を見ると、平成9(1997)年10月にこの法律が施行されてから初めて脳死ドナーからの臓器移植がなされたのは平成11年2月で、今年平成21年2月で81例に達していることが分かる。これが現時点における法律の施行の状況なのである。次にこれを勘案することにする。

河野太郎衆議院議員が平成17年10月に「なぜ臓器移植法の改正が必要なのか」と意見を述べているが、そのなかで「現行の臓器移植法の問題-2 * 我が国では、移植を必要としている待機患者数に対して、脳死からの臓器提供の数が圧倒的に足りない。」とその考えをはっきりと打ち出している。河野太郎議員はよく知られているように生体肝移植のドナーという個人的体験をお持ちなので、臓器移植の有効性に間違いなく確信を抱いており、だからこそ臓器提供数をとにかく増やすために法改正をしたいという発想が素直に出てくるのであろう。すなわち河野議員にしてみると、平成9年10月から平成21年2月までの81例という「この法律の施行の状況」ではあまりにも移植に使える臓器の数が少なすぎて、だからこそ例数を増やすための法改正をすべきであると勘案されたのであろう。

臓器移植法の附則は、「この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況を勘案」することにもともとなっているので、施行後三年の平成12年10月までに何例あったかをみてみるとわずか8例に過ぎない。確かに8例は少なすぎる。だからこそ積極的な判断を下せなくて改正作業が今日まで延引せざるを得なくなったと見ることができようが、それはともかく、10年あまり経た現時点でもまだ81例に過ぎない。河野議員の立場に立てば、だからこそ件数を増やすために法改正が必要との発想になるのであるが、10年あまりに81例という法律の施行の状況に、河野議員とは異なった視点で私は判断を下すのである。

10年あまりに81例を実効という立場から見ればどうなるのか。まさに焼け石に水で例数が少なすぎる。その点では河野議員と見解を同じくするかと思う。どの程度に焼け石に水なのか、たとえば心臓移植数をアメリカでみると、1990年以降では例年2000件を超え、年平均2200件ほどになる。一方日本では、2001年から2008年までの8年間に67件で年平均8件強(2009年5月までの総数は81件)で、アメリカでの200分の1以下にすぎない。これが何を表すのかはきわめて明白で、いくら法律が出来ても、脳死による臓器移植が現実には日本国民により支持されていないのである。ちなみにわが国におけるこの同期間での心停止後の心臓移植は667件で、脳死移植の約10倍であるが、両者を合わせても年平均92件に過ぎない。

今、麻生内閣、自民党の支持率が低迷している。麻生内閣、自民党の支持者なら低い支持率を上げるための手段を必死に講じるだろうが、民主党を始めとする野党は低い支持率こそ国民の意志の現れであるとして麻生内閣、自民党に下野を迫っている。これと同じように、臓器移植推進派の河野議員は10年あまりに81例があまりにも少なすぎるので、法改正により例数の増加を図ろうとするが、合理的思考をならいとする私は10年あまりに81例は、脳死臓器移植が国民に支持されていない結果と見るのである。この視点が臓器移植法改正案を審議する国会議員に欠けていたように私は思う。この法律の施行の状況を勘案した結果、臓器移植法改正の必要なしとの判断があってもよかったのである。

私は現行の臓器移植法に一定の評価を与えているので、現行のままでよいと思っている。それが「臓器移植法改正A案」となると、この案が大きな問題点を抱えているので反対せざるを得なくなる。

「さるの生肝」という説話がある。私も子供の頃何かの本で読んだ覚えがあるが、すでに今昔物語集にもでているとのことで、日本国語大辞典(小学館、初版)は次のように説明している。

さるの生肝(いきぎも) (生きた猿から取り出した肝の意で)世界的に流布している説話の一つ。病気をなおす妙薬といわれる猿の生き肝を取りに竜王からつかわされた水母(くらげ)が、猿をだまして連れて帰る途中、その目的をもらしたために、「生き肝を忘れてきた」と猿にだまされて逃げられてしまい、その罰として打たれたため、それ以後水母には骨がなくなってしまったという内容のもの。

もともと自分の身体は自分のものである。法律なんてものが顔を出してくる遙か大昔から、人類が地球上に出現した時からそういう定めになっている。いや、上の説話にでてくる猿でも心得ている自然のことわりである。この説話のように、持ち主がもともとはっきりしている臓器をかすめ取るには騙すしか手がないのである。そう思ってみると「臓器移植法改正A案」に騙しのテクニックが巧妙に持ち込まれていると私の目に映った。臓器提供は「本人が拒否していなければ家族の同意で可能」と言っている強調の部分がそうである。わざわざ本人が拒否するまでもなく、自分の身体は自分のもので、誰一人として他人が自分の身体の一部をそもそも持ち出す権利などあるはずがない。本人が拒否していなければと、あたかも本人の意志を尊重するかのような言い回しで、自分の身体は自分のものという自然のことわりを包み隠しているのである。

現行法では本人が自分の臓器を移植術に使用されるために提供する意志を書面にて表示している場合がある。いわゆる「ドナーカード」であるが、元来自分のものである身体の一部をある条件下で移植に提供するとの意志を表明したもので、この流れは素直に理解できる。ところが「臓器移植法改正A案」では自分が「拒否カード」のようなもので、わざわざ臓器の提供に応じないとの意思表示をしない限り、家族の同意さえあれば臓器が持ち去られてしまうのである。「ドナーカード」であれば元来自分のものである身体の一部を、もしお役に立つのならお使いください、と自分の意志で提供を認めるもので、何か人の役に立ちたいと言うモーティベーションにも素直にかなうものである。それが「臓器移植法改正A案」では、わざわざ提供するなんて云って貰わなくても家族さえ説得できれば臓器は貰えるのだから、と、人の善意を不当に貶めることになってしまう。

自分の身体は自分のもの、たとえ家族といえども太古からの自然のことわりを侵す権利はないのである。われわれは自分の臓器が他人に取られることをわざわざ拒否しなければならないという発想自体が自然のことわりを犯していることを心に銘記すべきなのである。自分の身体は誰のものでもない、文字どおり自分のものである。その自然のことわりを破壊する権利が国会議員なんぞにあるはずがない。参議院での審議が始まったにせよ、「臓器移植法改正A案」が否決されることを、それこそ『良識の府参議院』に期待する。

あらためて繰り返すが、私は現行の臓器移植法は「自分の身体は自分のもの」という基本理念の上に立っている妥当なものだと思っているので、この法の理念の下に行われる臓器移植は容認するというのが私の立場である。

佐渡裕プロデュースオペラ2009「カルメン」に熱くなって

2009-06-28 21:15:09 | 音楽・美術
軽快な序曲の最初のフレーズに身体がぴくっと反応する。いよいよお待ちかね、「カルメン」のはじまり始まりである。それが「ヘェ~、これカルメン?」と思うような舞台に展開したものだから戸惑ってしまった。しかし鳴っている音楽はまちがいなく「カルメン」である。そう、のっけから今年の佐渡裕プロデュースオペラのサプライズなのだった。そして、クーペカブリオレの電動式ハードトップがたたみ込まれるように、スムースに舞台が転換して第一幕が始まった。

登場人物がどのような衣裳で現れるのか、舞台装置がどのように造られて転換していくのか、そして演出は?と、まずそちらの方に注意が向く。現代風の舞台になっていたら頭の中のリセットに時間がかかるかもと気にしていたが、幸い街はセビーリャで人物の服装もそれらしきものだったので、まずは安心した。ところが気持ちに余裕ができると些細なことに気がとられ始めた。衛兵の行進・交代の場面で鉄砲を担いだ兵士がやって来て停止し、担っていた銃を下ろす。ところがその動作が不揃いで締まりがないので、つい「しゃんとせい」と声にならない檄が飛び出る始末である。おまけにその銃を傘立てのようなところに突っ込んでいく。そんなことを三八式歩兵銃でやろうものなら半殺しの目にあわされるだろうに、とつい元軍国少年が顔を出してしまったが、演出がフランス人だし、演じるのは戦争を知らない世代だからと目をつむることにした。

気をとられたことがもう一つあった。けっこう大勢の子供が舞台をうろちょろし、兵隊に絡んだり行進を真似したりする。物語がそうなっているからそれはそれでよいのであるが、私の観た舞台は6月26日午後2時開演の部で、主役が日本人キャストによる初日になる。金曜日午後2時だとまだ学校が終わっていないだろうに、義務教育年齢のこの子供たちが学校を休まされて(?)舞台を走り回っているのである。でも私が親でもそうさせるだろうなと思ったら、今度は子供たちが羨ましくなってきた。

このようにして舞台に対する私の視点が定まりかけたところで、早くもお目当ての一人、カルメンの林美智子の登場である。《ハバネラ》にはじまり佐野成宏のドン・ホセにちょっかいをかけるあたりから落ち着いて舞台を眺めだした。やがて故郷の村からホセを尋ねてやって来たミカエラとの二重唱《聞かせておくれ、母のこと》が始まる。実はミカエラは幕開けにすでに登場しているのだが、その時は私の心構えがまだ定まっていなかったせいか、彼女の歌声が頭の中を通り過ぎただけであったようだ。しかしこの美しい二重唱に私は否応なしに溶け込んでいった。ミカエラ役の安藤赴美子の歌声を耳にしたのは初めだと思うが、ミカエラにふさわしい純朴な歌唱が素直で愛くるしい。この二重唱にうっとりとした頃にはもうすっかり「カルメン」の世界に入り込んでいた。

タバコ工場の女工たちの組んずほぐれつの大立ち回りには驚いたが、そうだ、演出がフランス人(ジャン=ルイ・マルティーノ)なんだと思い出して納得。ついでにオッパイポロリまであるかなと思ったが、私の目には留まらなかった。日本人演出家なら出演者がそこまで素直に従わないような気がしたので、本邦初チャレンジを期待したのである。そういえばリーリャス・パスティアの酒場に営倉から釈放されたホセがやって来ると、カルメンが一人ダンスを演じて気を惹こうとする。その間、帰営ラッパで帰ろうとするホセを引き留めるべく誘惑の手練手管を繰り出す。カルメンとホセが上になり下になりの白熱の演技にそこまでやったらカルメンが歌いにくくなるのでは、と心配になりだしたくらいである。日本人相手にやりすぎではないかとフランス人演出家を批判的に眺めると、カルメンがスカートの裾を高く持ち上げるとストッキングとガーターが飛び出たのがまた気になった。これではジプシー娘ならぬフレンチカンカンの踊り手ではないか、と。過激な演出にもかかわらず林美智子の熱情的な体当たり演技に心の中で喝采した。この酒場に登場したエスカミーリョ役成田博之も私には初めてであるが、若々しくて力強いバリトンである。彼の名前が安藤赴美子と同じく私の頭にインプットされたのは収穫だった。

岩肌に身体を押しつけながら険しい山道を密輸団が荷物を運んでいく。と思っていたら先頭グループは中継拠点のちょっとした空き地で荷物を下ろして休んでいる。山道と中継拠点との場面転換の仕掛けがよくできていて、一瞬に場面が変わるから往き来が苦にならず、舞台がそれだけ広がる。そう言えば舞台装置全般について、トントンと槌の音が聞こえることもなく場面転換がスムースに進む。幕を下ろして指揮者も一休みしている間の作業だから、いつ次の場面が出来上がったのかも分からないだろうに、タイミングよく指揮者が棒を振って音楽が始まるのが不思議だった。たまたま前日6月25日の夜、NHKハイビジョンでウィーン国立歌劇場で指揮する小澤征爾の番組を観ていた時に、指揮者の譜面台の横にある赤や緑のランプで舞台裏から信号が送られてくるという話を聞いたばかりだったので、オペラグラスで覗いてみると確かに譜面台の右に緑はないが赤のランプがある。次の舞台転換の場面で注意していると、赤のランプが点いたかと思うと指揮者が指揮棒で合図をして音楽が始まったので納得した。舞台装置はオーストリア人が担当していて、随所にはっとするような仕掛けがあるのが楽しかった。

この山中の拠点に主役が勢揃いする。密輸団にカルメンがいるのは言うまでもなく、カルメンをめぐってのさや当てから上官に剣を抜いてしまったホセは結局密輸団に加わって見張り役。そこへこれもまたカルメンにめろめろになったエスカミーリョがカルメンを追っかけてやって来るし、一方、ミカエラは重病の母に会わせようとホセを連れ戻しにやって来る。密輸団の拠点にしては誰にでも知れ渡っているようでなんだか頼りないが、それはともかく、カルタの三重唱にカルメンも加わり、ミカエラのアリア、エスカミーリョとホセの二重唱と舞台は一気に高調して私の頭にも血が上ってくる。そして最後の第四幕、カルメンと愛を確かめたエスカミーリョが闘牛場での試合に臨むが、その一方、カルメンとホセに最後の悲劇が待ち受け、終局に向けて舞台はますます緊張を高めていくし観る方も身じろぎが出来ない。そして大詰めを迎えた。気がつけば25分の休憩を含めて3時間半があっという間に通り過ぎていたのである。

それにしてもドン・ホセは可哀想な男である。せっかくホセを慕うミカエラという清純で魅力的な乙女が手を出せば届くところにいるのに、カルメンに狂わされてしまう。公演のパンフレットに佐渡裕は

僕がイメージするカルメン像は、何よりも「自由」を愛し、運命の力を信じている女性。単なる「男を破滅に追い込む性悪の女」でなく、華やかで色がありながらも、誰もが愛さずにいられない、言い知れぬ魅力にあふれた女性です。

と述べているが、結末がすべてを物語っているように、カルメンは魔性の性悪女であるとしか言いようがない。と、私に断定させる出来であった。私だけの気のせいではないと思うが、この「魔性の女」に対する観客の反発がカーテンコールでの拍手に反映されているように思った。ホセ、エスカミーリョ、ミカエラへの拍手は力強いのに、カルメンには心なしか拍手が物足りなかった。こうなれば反発を招くのはカルメン歌手の宿命と悟りきり、ますます凄みのあるカルメンを林美智子さんに演じてもらって、彼女がカーテンコールに出ると拍手がパタリと途絶えブーイングが爆発するところまで入神の技をきわめてほしいなんて思ってしまった。

このように最後まで熱くなってしまったが、次から次へと耳に慣れ親しんだメロディーの流れる「カルメン」、至福のひとときだった。ところで今回は結構多い台詞もフランス語のようだったけれど、ひょっとしてパリ公演でも狙っているのだろうか。


橋下徹大阪府知事の露払いとなった東国原英夫宮崎県知事?

2009-06-25 23:52:05 | Weblog
橋下徹大阪府知事を早すぎるかもしれないが首相に!を6月20日、橋下徹大阪府知事を首相にを22日に公開したところ、23日に東国原英夫宮崎県知事が自民党の古賀誠選対委員長から次期衆院選への出馬を要請され、「私が、次期総裁候補として、次の選挙を、自民党さんは、お戦いになる、お覚悟があるか」と問い返したとのことである。このハプニングの関係者はこれをジョークと誤魔化したかったようで、くだんの橋本大阪府知事すら「本当に言ったんですか? しゃれとしか思えない」と笑い飛ばした、とメディアは伝えた。しかし東国原知事がしごく大まじめであることが染みわたってくるにつれて、自民党内から東国原知事に対しての批判が飛び出し始めたとのことである。

自民各派領袖が相次ぎ東国原知事を批判 古賀氏は「許してほしい」

 自民党の各派領袖らが25日、衆院選の出馬要請を受けた東国原英夫宮崎県知事が、同党の総裁候補とするよう条件をつけたことを相次いで批判した。

 伊吹文明元幹事長は「人気が出て少し思い違いをしている。党に新しい血を入れないとダメだが、輸血は血液型が合わないと頓死(とんし)する」と語った。山崎拓元副総裁は「知事の任期いっぱいを務める姿勢がないと地方分権の主張者として正しくない。(くら替えは)宮崎県民への裏切り行為で、党の候補にするのは反対だ」と強調した。
(MSN産経ニュース 2009.6.25 19:23 )

古賀氏が橋下知事は手強いと思ってか東国原知事に秋波を送ったところ、思いがけない迫真性のあるギャグをくらい、あたふたとした様子がうかがわれる。総裁候補としての橋下知事への自民党の反応もこれで明らかになったと言えよう。やはり「橋下徹大阪府知事を首相に」が実現するには、政権という利権あさりに躍起となっている既成の政党を超えた新しい政治勢力の結集が前提になるように思う。

折しも橋下徹大阪府知事が働きかけて「首長グループ結成」のニュースが流れ、さらに鳩山兄弟がそれぞれの思惑から橋下知事に働きかけていることが明らかになった。出来れば世襲議員を排除した新政党が誕生して「橋下徹大阪府知事を首相に」向けて突き進んで欲しいものである。幸先よく(?)「橋下徹大阪府知事を首相に」をGoogleとYahooで検索すると、私の次のエントリーが共に155000件のトップにランクされていた。




コンビニの弁当と本屋の書籍 どこがどう違う?

2009-06-24 14:04:58 | 読書

コンビニは便利だけれど値引きはしない、と思っているので、滅多に買い物をしない。ところがコンビニ店が値引きをしないのは、出来ないようなシステムなっていたかららしい。弁当や惣菜が売れ残るとコンビニ店がそれを全部引き取り、そのうえ廃棄処分するとのこと。昨日(6月23日)朝日朝刊二面にその廃棄食品がコンビニ主要10社で年間4億2千万食分に相当するとの記事が出ていた。もったいないの一言に尽きる。廃棄分を減らす一つの手段は売れ残りをつくらないことで、そのためには売れ残りそうになると店で値下げをすればよいと思うのに、コンビニ本部との取り決めでそれが出来なくなっているとのことである。これに対して公正取引委員会が断を下した。

 約1万2千店舗を抱えるコンビニエンスストア最大手のセブン―イレブン・ジャパンの本部(東京)が、販売期限の迫った弁当などを値引きして売った加盟店に値引きをしないよう強制していたとして、公正取引委員会は22日、独占禁止法違反(不公正な取引方法)で同社に排除措置命令を出した。
(asahi.com 2009年6月23日3時30分)

売る側の立場でそれぞれ言い分があるにせよ、消費者としては商品が安く手に入ることは有難いし、さらにそれが食品廃棄という食糧自給率が40%に過ぎないわが国であるまじき「神をも恐れぬ所業」を少しでも抑えることにつながれば言うことはない。今日の朝日朝刊によるとセブンイレブンは値引きを認める方針に加えて、廃棄分については原価の15%を負担するとのことである。コンビニ加盟店が声を挙げただけのことがあったようである。

ところで一方、出版業界で似たような問題のあることを二日前のasahi.comが報じていた。

出版業界の流通革命?返品改善へ「責任販売制」広がる

 小学館、講談社、筑摩書房など大手・中堅の出版社10社が、新たな販売方法「責任販売制」に乗り出した。定価に占める書店の取り分を現行の22~23%から35%に上げる代わりに、返品する際の負担を書店に求める制度だ。出版不況の中、長年の懸案だった4割に及ぶ返品率を改善する狙いがある。

 高い返品率の背景にあるのが出版業界の慣行となっている「委託販売制」。書店は売れなかった本を返品する際、仕入れ値と同額で出版社に引き取ってもらえる。多様な本を店頭に並べられる利点があるが、出版社の負担は大きい。(中略)

 出版社の在庫を管理する倉庫会社「昭和図書」の大竹靖夫社長によると、08年の出版社への返品はコミックスなども含めて約8億7千万冊。4分の1は再出荷もされずに断裁処分され、損失額は年間約1760億円になるという
(2009年6月22日3時2分、 強調は筆者 以下同じ)

この強調部分は上記の食品廃棄と同じことが書籍でも行われていると言っている。コンビニの弁当と違うところは、書籍の廃棄に小売書店が費用負担せずに済むことである。それはともかくこれまた木材という天然資源の壮大な無駄遣い(たとえ断裁処分された紙の再利用があるにせよ)であり、その金額も中途半端ではない。返品断裁するぐらいならなぜ値下げをしてでも売らないのかと思いこの辺りの事情を調べてみた。ここで浮かび上がったのは、小さい時から定価販売を刷り込まれてしまった購買者を黙らせてしまう本の価格決定システムであった。

私にとって本は定価で買うものであった。例外は大学生協に加盟していた頃で、生協の書店では定価の一割引きで買えた。どのような理屈で安くなったのかは知らないが、なんだか特別扱いされているようでこそばゆかった。定価という表示は昔からあったようで、手元にある古書では明治37年に発行されて大正3年に増訂改版の出た丘浅次郎著「増補進化論講話」の奥付きに定価金三円五拾銭とある。ゴム印で臨時定価金五円とあるのはどういうことだろう。


大正13年に発行され昭和3年に再刷された小泉丹訳「進化学説」は定価金壱円。


天皇陛下のお生まれになった二日後、昭和8年12月25日に発行された小泉丹著「進化学序講」は定価三円五拾銭。


大東亜戦争(としか言いようがないので)が始まった二日後、昭和16年12月10日発行された巴陵宣祐著「生物学史 上」は定価四円八十銭。ちなみに下巻は翌昭和17年3月25日に発行されて定価金五円八十銭也。


戦時中、昭和18年12月10日に発行された化学実験書。定価に戦時下の特別税であろうか、特別行為税相当額なるものを合わせて11.9円。5月にはアッツ島で日本軍玉砕、12月1日には第一回学徒兵入隊が行われたこの時期に、800ページを超えるこういう実験書がシリーズものの第19回配本、それも3000冊も!、として刊行されていたとはとに日本人科学者と出版人の心意気を感じて心が熱くなる。私の大学時代の恩師がこの本の一部を執筆されていることを古書店で購入してから知った。


少々変わっているのは次の本で、これには頒価金三円 外地三円参拾銭と記されている。頒価(はんか)とは頒布会などでの価格という意味があるので、もしかするとこのダーウイン全集は予約購読で頒布したのかもしれない。


奥付きを見ていると面白いのでつい脱線してしまったが、最近では価格が奥付きに印刷されるかわりに表紙カバーなどに印刷されるようになっている。そして消費税が本にもかかるので、定価(本体1900円+税)とか定価:本体1350円(税別)のような思い思いの表示になっている。前者では定価に税金が含まれるし後者では含まれない。従って定価の定義が変わってくる。

話を元に戻して、このように本の定価制は私の生まれる遙か以前から社会に定着していたようで、それが戦後、いわゆる再販制度(再販売価格維持制度)という法律により守られていると思っていた。ところが上の新聞記事を見て違和感を覚えた。新たな「責任販売制」では、定価に占める書店の取り分を現行の22~23%から35%に上げる代わりに、返品する際の負担を書店に求める制度だ、と述べられている。出版社が書店に本を売り渡す価格をこのように変えられるのなら、なぜ一般読者だけが定価に縛られないといけないのだろう。そこで再販制度を支持する立場にある財団法人日本書籍出版協会の見解と、再販制度に批判的な立場をとる著作物再販制に疑問を持つためのサイトに目を通したところ、私にとって思いがけない新事実が明らかになってきた。以下はおもに後者からの抜粋である。

まず再販制度とは「再販売-価格-維持-制度」の略であることから始まる。

ふつう、商品流通は、メーカー(製造業者)がモノを作り、それを卸売業者に売り、さらに卸売業者が小売業者に売り、最後に小売店が消費者に売る、という流れをたどります。※1

※1 出版物の場合ですと、メーカーに相当するのが出版社(版元)、卸売にあたるのが取次(とりつぎ)、小売店にあたるのが書店やコンビニです。

この「メーカー→卸売業者→小売店」という流通過程の中で、商品を次の業者に「再び販売」するわけですから、これが「再販売」です。そして、そのときどきの販売価格を「再販売価格」と呼ぶわけです。

つまり通常は、再販売価格とは、卸売価格と小売価格のことと考えていいわけです。このうち、ふつう問題になることが多いのは小売価格のほうですから、「メーカーが再販売価格を維持する」ということは、「メーカーが小売価格を維持する」ことと理解して特に不都合はありません。※2

※2 出版物でいうと、「版元(出版社)が本の小売価格を維持する」ということになります。

さらにこの再販制度はの正体が明らかにされる。

「再販売価格維持制度」という「制度」が、どこかに明示的に「ある」わけではありません。

そうではなくて、著作物の流通では、メーカー(出版社や新聞社やレコード会社)によって再販価格を維持する行為が行われても、法律違反にはならないため、そのような行為がデフォルト(基本状態)になってしまった実態があり、これを「制度」と呼んでいるだけなのです。

この意味で「再販制度」とは、要するに業界の商慣習みたいなものです。いますぐにでも、メーカーが再販制度をとらない流通を選択するなら、それでもいっこうに構わないのです。
(一部筆者による省略有り)

すなわち

「再販制度」は明示的な「制度」ではないし、法律で決まっているわけでもなく、業界の取引の実態であって、その意味では商慣習にすぎない。

と管理人は説く。きわめて説得力のある説明である。

それなら出版社が本の小売店に定価販売を押しつけることは、小売店が自由に本の価格を決めて販売競争をすることを妨げることになり、コンビニの場合と同じように独占禁止法違反(不公正な取引方法)を犯したことになるはずである。確かにその通りで、一般にメーカーが小売店と再販価格維持契約を結んで小売価格を拘束することは、独占禁止法で原則として禁止されているのであるが、なんとなんと書籍は1953年に独占禁止法の適用外になっているのである。しかも

再販制がオッケーとなったのは1953年の独禁法改正からですが、このとき出版業界などが当局に再販制を認めるよう運動した形跡などは皆無と言ってよく、業界には再販制が認められることがメリットであるという認識さえなかったことが指摘されています。

なんて説明がされている。これだと出版業界にとって「再販制度」は据え膳のようなもので、それに手をつけただけのこととなる。したがって、

独禁法では原則として違反のはずの再販制だが、公取委が認める「指定再販商品」と「著作物」は例外として認められている。著作物は条文に書いてあるから「法定再販」の商品だ、という言い方がある。
またこれらの例外規定を独禁法の「適用除外」などと呼ぶ。

こととなる。しかし次のことに注意を払う必要がある。

独禁法の再販制適用除外の規定は「義務」ではありません。つまり、小売店に対してメーカーの指示した定価を遵守するように義務づけたものではない。条文ではただ単に、「メーカーが小売店に再販価格維持を強制したとしても、独禁法違反には問われない」としているだけです。あくまでも「禁止の例外」にすぎないわけです。これ以上にも以下にも、特別な意味はありません。

したがって「書籍は定価販売が義務づけられている」というような表現は非常に正確性を欠きます。定価販売は、再販価格維持契約の範囲内で「義務」とは言えても、法的な義務では全くないわけです。再販制度は、あくまでも民間業者間の取り決めなのであって、法的な取り決めではありません。

すなわち

再販制が認められる商品、つまり「指定再販商品」と「著作物」は、必ず再販制でなければならない、ということを独禁法が言っているわけではない。再販制は法的な義務でもなければ権利でもない。ただ単に「禁止の例外」としてゆるされているのにすぎない。

と言うことになる。ここで「指定再販商品」を一応テーマ外として「著作物」に限って話を進める。ちなみに公正取引委員会の定める著作物とは「書籍、雑誌、新聞、レコード、音楽用テープ、音楽用CD」の6品目とのことである。

1980年になり定価制度の弊害を緩和する目的で「新再販制度」が設けられた。その骨子は「部分再販」と「時限再販」である。「部分再販」は出版社が自動的にすべての商品を再販契約にするのではなく、一点ごとに再販にするかどうかを決めるものであり、また「時限再販」は出版後一定期間が過ぎたら再販指定をはずし、自由な価格で本を売ることを認めるものである。「新再販制度」が導入されてかれこれ30年経っているのに、私はこのような制度のあることを知らなかった。かって触手のまったく動かないぞっき本が書店のコーナーで展示されているのを目にしたことはあるが、これが「新再販制度」の適用例だったのかも知れない。いずれにせよ引用サイト元は

こうして始まった新再販制度も、じつは形骸化しており、出版業界の努力はまったく不十分だ、ということが指摘されています。たしかに、「新再販制度」から20年以上経った今でも、部分再販も時限再販もごく例外的にしかおこなわれていません。

と述べている。これは本を作って売る側が「再販制度」をとにかく維持したがっていることから想像される当然の結果であろうと思う。それには次の文書を見ればよく分かる。

書籍・雑誌の再販制度に関する共同談話≪ 著作物再販制度維持は国民的合意≫
公正取引委員会は、平成3 年以降、独禁法適用除外制度見直しの一環として行ってきた著作物再販制度検討の結果、本日、「同制度を存置することが相当」との結論を公表しました。
この結論は、先般公取委が実施した制度見直しに関する意見照会に寄せられた2万8千件を超える意見のうち約99% が制度維持を求める意見であったこと、著作者団体等も制度維持を求めていること、多くの地方公共団体の議会においても同様の意見書が採択されていること、さらには超党派の多数の国会議員が結束して制度維持を支持する熱烈な決意を表明していること等々からしても、当然の結論といえましょう。しかしながら、今回の公取委発表文の中に「著作物再販制度の廃止について国民的合意が得られるよう努力を傾注する」とあることは、国民的世論に背くことと言わざるを得ず、遺憾であります。
私どもは、当初から書籍・雑誌等出版物に関する再販制度の意義と必要性を広く訴えてまいりました。ここに国民各位の理解と支持を得、制度維持となったことに感謝の意を表明する次第であります。
書籍・雑誌等出版物の発行、販売に携わる私どもは、その文化的使命を自覚し、制度の弾力的運用と流通の改善に努め、読者の期待に応えるよういっそう努力する所存であります。
平成13年3月23日
社団法人 日本書籍出版協会
理事長 渡邊 隆男
社団法人 日本雑誌協会
理事長 角川 歴彦
社団法人 日本出版取次協会
会 長 菅 徹夫
日本書店商業組合連合会
会 長 萬田 貴久

この強調部分はこれが本を作って売る側の「談合」結果であることは常識のある人なら容易に想像つくことで、このことから≪ 著作物再販制度維持は国民的合意≫と唱えるに至っては国民をおちょくっているとしか言いようがない。

コンビニと異なり出版・販売業界では、小売店が危険負担無しに売れ残りを返品できるシステムになっていることが大量の断裁処分を招いていることは疑いなく、その意味では今回の「責任販売制」は小売店の企業努力を呼び起こすものと一応歓迎できるが、企業努力をさらに推し進めるには「著作物」を「再販制度」の対象から除外することにつきる。とりあえずは「新再販制度」の「時限再販」を活用して、年に何回か定期的に「バーゲンセール」を、とくに専門書に重点をおいて実行して欲しいものである。この声こそ国民的合意を得るのではなかろうか。

シャンツァイ(香菜)たっぷり

2009-06-22 19:32:42 | Weblog
かれこれ半世紀前、群愛飯店が三宮高架線北側のサンセット通りに店を開いていた頃の話である。中華粥をはじめて注文したところ白粥とお皿に生魚の切り身に油条やシャンツァイなどが盛られてやってきた。言われるままに具を白粥にあけてかき混ぜているうちに切り身が熱で白くなると出来上がりで、シャンツァイの強烈な香りに異国情緒を感じたのがこの香草とのお付き合いの始まりであった。

ある時、研究室の後輩をこの店に案内してお粥の美味しいことを力説して勧めたところ、シャンツァイのことを知っていて、あれだけは苦手なので、と遠慮したことがあった。人によって得手不得手がはっきりしているようであるが、私はあの匂いに惹かれてよく南京街の八百屋で買っていた。シャンツァイは西洋名をコリアンダーと言い、種がスパイスとして広く用いられているようである。昨夕も衛星放送の番組でパキスタン大使館の料理人が独自のカレーを作るのにコリアンダーの種をすり鉢で砕いていたが、種を使った調理法が一般的なのかも知れない。しかしわが家ではシャンツァイが香菜とも呼ばれているように、葉茎として使ってきた。たまたま今年はその種を見つけたので、早速プランターで育てることにした。

プランターでも溝を掘って種を蒔き、育ってくるにつれて間引きを繰り返し大きくするらしい。しかしそんな面倒なことを止めてプランター一面に種を蒔いたところ、芽が出てぐんぐんと成長し始めた。5センチぐらい伸びた頃に間引いたところ、それでも強烈な匂いがしたので、あとは育つままに任せて適当な大きさになったものを間引くことにした。それだけで一回分の材料になるのである。


となると遠慮は要らない。要るだけ摘み取ればいつでもたっぷりと料理に使える。まずはピータン豆腐とピータン粥に使った。



こんな調子でプランター一杯のシャンツァイを食べ尽くすまでには汗にも匂いが出てくるのではと少々気になるが、なんと「千夜一夜物語」のなかで媚薬、催淫剤としてコリアンダーが登場するとのことである。これは多分種のことだろうと思うが葉にも効果があるのだろうか。満員電車だけは避けることにしよう。


橋下徹大阪府知事を首相に

2009-06-22 16:43:52 | Weblog
橋下徹大阪府知事を早すぎるかもしれないが首相に!を公開したのが一昨日(6月20日)であるが、面白半分に「橋下徹大阪府知事を首相に」をGoogleで検索すると早くも14万9千件中の第三位に顔を出している。第二位は私が元ネタにしたものである、


ところがYahooで検索するとなんと驚いたことに15万1千件のトップに出てくる。

いくら上位にランクされていても「橋下徹大阪府知事を首相に」とか、このような趣旨の検索をする人がいなければ上記の記事もお呼びではないが、それにしてもGoogle、Yahooのようなポピュラーな検索エンジンの上位に揃って出てくるのはどのような仕組みによるものか、いつもながら好奇心がかき立てられる。ひょっとすると過去に蓄積され、そして日々膨張しつつある膨大なデータベースと合理的な情報処理手法の組み合わせが「天の声」を探り当て、それが検索キーワードにより可視化されるのかも知れない。となると私はIT時代の霊能者と言うことになりそうだ。

本物の霊能者なのかどうか、結果で判定することにしよう。

橋下徹大阪府知事を早すぎるかもしれないが首相に!

2009-06-20 13:24:23 | Weblog
昨日の日経ビジネスONLINEに面白い記事が出ていた。シリーズものでその「第22話 橋下徹首相候補のウルトラC、に…」である。

 「今、とても気になる政治家がいるのです」
 次期衆院選で3度目の当選を目指す民主党代議士・Aが、そう言って名前を挙げるのが「橋下徹・大阪府知事」である。
 「橋下さんの人気はすごい。今、仮に首相公選制が導入されたら、(自民党や民主党の国会議員を押しのけ)当選する可能性もあるのでは」
 確かに現在、橋下氏は最も“旬な”政治家だ。

 しかし、いくら国民的な人気を誇る政治家とはいえ、橋下氏は知事である。国政レベルの総選挙とは関係ないはずだ。
 「そうとは言い切れません」
 Aによれば、橋下氏が総選挙に絡んでくるシナリオが2通り考えられるのだという。
 まず、総選挙の前に自民党が総裁選を行い、新たに発足した内閣で橋下氏を閣僚に抜擢する。その後、衆院を解散し、橋下氏の人気を頼りに選挙を闘うというのだ。

 そして、Aが指摘するもう1つの可能性が、いきなり橋下氏を“首相候補”として迎えるというウルトラCである。
 「総選挙で、橋下さんを自民党比例候補として近畿ブロックのトップに載せる。そして当選後、首相に担ぐことを約束して選挙に臨む。自民党総裁は別の人が務め、総理を橋下さんがやるのです。私が自民党幹部であれば、そのくらい劇的な手段を考える」

橋下さんが大阪府知事に選出された日に日曜ドラマ三題 福士加代子選手 白鵬関 橋下徹弁護士で次のような感想を記している。

夜に入り大阪府知事選挙の開票が始まって間もなく橋下徹候補の当選確実が報じられた。38歳、全国最年少知事の誕生である。この年齢だけでも橋下氏に大きな期待をかけることが出来ると私は思う。(中略)

橋下氏に行政経験があるわけではなし、政治には全くの素人同然と言っていいのだろうが、だからこそそこに強みもある。ある一つの問題についてその本質が何であるのか、それを健全な常識で見抜く能力さえ備わっておれば、その解決に向けての方策を見つけるには大阪府職員が力強い助っ人となり実行に当たっても強力な戦力となってくれるであろう。大阪府民の生活向上に自分の人生を賭ける不退転の決意がありそれが府民に伝われば必ず人はついてくるものである。(中略)

自治体に議会などは不要というのが私の持論である。橋下氏はすべてを府民に直接訴え、その支持を基盤に大胆に自分の信じる道を歩んで頂きたいと思う。勇み足を恐れずに大いに問題発言をし、大いにもめ事を起こし府政を府民に分かりやすく伝えて頂く。過ちを覚れば直ちに改める柔軟性さえあれば、勇み足は前進への着実な跳躍台となる。府民との意思疎通に欠かせない広報活動にも新機軸を持ち込んで頂きたいものである。日和見の関西経済連合会のおじさまなどにも籠絡されず獅子奮迅の活躍を期待したい。

この時からすでに1年半の時が流れ、橋下知事は当初の期待通りに清新な政治手法を大阪に根付かせつつある。せめて一期、知事としての職務を全うしていただきたいとは思うものの、この閉塞感溢れた国政に国民の関心を引き寄せ、世襲議員を国会から排除する動きに駆り立てる大きな原動力に今こそなってほしいと思う。とっかかりとして自民党が橋下知事を担ごうと私はあえて反対しない。なんせ日本社会党を引き込み、村山富市委員長を首相に担ぎ上げた実績がある。一旦選ばれればその先に大きな政界再編が確実に待ち受けていると思うからである。

私はかって橋下知事を大久保利通のイメージに重ねて見たことがあるが、平成維新の先鋒として期待する気持ちはますます高まってきている。明治維新を経て1885年に伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就いたのは44歳、橋下知事にはその記録を打ち破る可能性のあるのが嬉しい。伊藤博文はその後三回、計四回首相の座に就きその期間の合計は7年半におよぶ。最も長かったのは1892年から1896年まで4年1ヶ月に及ぶ第二次伊藤内閣で日清戦争を経験している。橋下知事が首相の座に5年もあれば必ずや地方分権制への道程をつけ、中央集権制最後の首相の座を飾ることになるだろう。それを可能にするのは有権者の意志と行動である。

日経ビジネスONLINEの記事に刺激されて、つい期待を膨らませてしまった。同じような思いを抱く大勢の国民とともに、これからの展開を見守っていきたい。


まだ「藪の中」の郵便不正事件

2009-06-18 17:49:53 | Weblog

これは今日の朝日朝刊一面に出た記事のかなり大きい見出しである。中身の要点は次の通り。

 元部長の証言によると、元部長は04年6月、部下の企画課長だった前雇用均等・児童家庭局長の村木厚子容疑者(53)=虚偽有印公文書作成・同行使容疑で逮捕=から「凛の会に証明書を発行した」と報告を受けたとされる。この直後、元部長は国会議員に電話をかけ、「依頼のあった証明書を処理しました」と伝えたという。

 一方、この議員の元私設秘書で凛の会元会長(白山会代表)の倉沢邦夫容疑者(73)=同容疑で再逮捕=らの供述によると、倉沢代表は04年2月、議員の事務所を訪ね、議員に「先生の力を貸してほしい」と依頼。議員はその場で元部長に「よろしく頼む」と電話したという。

国会議員の名前は明記されていないが、この朝刊に掲載されたある週刊誌の広告に石井一・民主党副代表と名前が出ているので多分彼なのだろう。地元神戸市選出の石井一議員はこういう場面に登場しても違和感を感じさせないお人である。伝えられるとおりだとすると、非政権野党の民主党議員でありながらその口利きの威力は抜群のようである。民主党が政権を取った暁のことが思いやられる。

 関係者によると、元部長とこの議員は95年ごろ、阪神大震災の復興支援事業を通じて知り合ったという話もある。

これで何となく登場人物の関係が分かってきたが、逮捕された村木厚子前雇用均等・児童家庭局長が虚偽有印公文書作成・同行使容疑を全面否定しているということなので、今のところマスメディアの伝える話ではつじつまが合わない。最初は全面否認でもやがては全面降伏という事態も考えられるが、私としては全面否認が真実であってほしいという気がある。私なりに高級官僚に対するイメージなるものがあって、このような程度の低い事案でそのイメージを崩されたくないからである。

本省の課長・局長と言えばエリート官僚の最たるもので、刻苦精励のみで手に出来るポストではなかろう。村木前局長にしても見識ある女性キャリアー官僚としての自覚は当然あったはずで、「議員案件」がどれほどのものなのか知らないが、たとえ元部長からの指示があったにせよ、理に合わぬ指示に唯々諾々と従ったとは到底考えられない、と私は常識的に思ってしまう。女性のかたくなさに信を置きたいとの私の願望なのかも知れないが・・・。

今後の展開を見守りたいが、私の見通しが甘くて「ごめんなちゃい」と言う羽目になるのだろうか。



西宮ガーデンズを久しぶりにぶらぶら

2009-06-18 00:02:25 | Weblog
芸文センターに6月26日公演の「カルメン」のチケットを昨日受け取りに出かけるつもりが今日になってしまった。阪急西宮北口に着いたのがちょうどお昼前(そのつもりで出かけたから予定通り)なので、まずは西宮ガーデンズ4階のグルメレストラン・フロアに向かった。西宮ガーデンズのオープン直後、特にこのフロアの混雑振りには怖じ気を振るったものだったが、もうオープンしてから半年以上経つし行列も解消していることを期待したが、なんとなんとどの店も大勢のお客が長い行列を作っている。なかに行列のない店もあったのでこれこれと思ったが、なんと隠居のお昼にしては高価すぎる。行列が出来ないはずである。そこで見渡して一番短い行列の後についた。お客の回転が速く、思いの外早く食事にありつけたが、1050円のランチにしては内容がもう一つだったので、どことは明かさない。行列の長さは伊達ではないようである。

食後、同じ4階に「ブックファースト」のあるのに気付いた。以前にも前を通ったのかもしれないが覚えがない。本屋を素通りすることはないはずだから、多分見逃したのだろう。それにしても巨大な本屋で圧倒されたが、駅を挟んで反対側にはたしかジュンク堂書店があるはず。共存共栄を願って講談社学術文庫を一冊購入した。

「Loft」もあった。以前に電気を一切使わない加湿器を見たので探してみたが、季節はずれということなのか見あたらなかった。その代わり?に面白いものを見つけた。「SHINBUN CLIP」である。


白いカバーが外側になるように新聞の折り目の真ん中にスッと差し込むだけ、と説明にある。そうすると「ズレない、バラけない 新聞が最高に読みやすくなる」というのである。私は喫茶店などでよくやっているようにホッチギスで留めているが、それだとあとでたとえばコピーをしようと思うと不便なことがある。宣伝文句通りだと便利なのでなにはともあれ一本を250円で買い求め、早速夕刊で試したところなかなか具合がよい。もう一本、朝刊用に買うことにする。

「REGAL SHOES」で私が長年愛用していたが、トラブルで製造停止に追い込まれていた型番の靴を見つけた。この靴については以前ブログに書いたが、そのトラブルとは私の場合は甲と底の間がパックリと口を開けたのであるが、一般的にはインソールの下のクッションとして使われたウレタンスポンジが経年変化で変質が進みやすく、靴を履かずに置いているだけでもパラパラになってしまうのである。しかしその後対策が練られてこのようなトラブルが軽減されて再生産が始まったとのことであった。

CLARKSの代わりに買ったつもりの靴の靴底が物凄く減りやすくて、一度踵を取り替えたのにまた取り替えをしないといけないところまで減ってしまった矢先だったので、ついつい買ってしまった。写真で新旧、両者を比べれば分かるが同じ作りなのが嬉しい。元来米国製の靴を扱う「REGAL SHOES」がなぜ元来英国製(ただし今回のはベトナム製)のCLARKSを置いているのか聞いてみたら、「REGAL SHOES」がCLARKSの販売代理店になっているので、との返答が戻ってきた。



時間つぶしをして「カルメン」のチケットを受け取り帰宅したらもう5時を廻っていた。

今年も佐渡裕プロデュースオペラ「カルメン」へ行くことに

2009-06-16 11:23:01 | 音楽・美術
日曜日の朝(6月14日)、ちょっと面白いことがあった。前日に私のブログ記事YouTube で「手を取りあって」をへのアクセスが異常に増えていたのである。どこか人気のあるサイトで紹介されたせいかなと思ったが、そうではなさそうである。そこで『YouTube  「手を取りあって」』をGoogleで検索するとなんと(これは私の口癖)70万件ほどの検索結果の第三位に顔を出している。


この記事はYouTubeに登録されている何組かの歌手の歌ったDon Giovanniの「Là ci darem la mano」を寄せ集めたもので、ひとの褌で相撲をとったようなものがこんな上位に出てくるとはこそばゆいが、歌の聞き比べに便利なところが受けたのであろう。多分この検索結果からのアクセスだろうと思ったが、あとで分かったことであるが、このエントリーへのアクセスは土曜一日だけに集中して日曜日にはぱったりと途絶えてしまった。Google検索をしてその時に関係のありそうなものとして目に留まったのは、NHKBS2が15日午前1時から歌劇”ドン・ジョバンニ”を放映予定ということだけであった。観たいけれどこれでは遅すぎると思っているところへ「カルメン」の歌声が聞こえてきた。

「新・題名のない音楽会」になってからはなんとなく面白くないので、私は観たり観なかったりで番組にも注意を払わなくなったが、この日は妻がテレビのスイッチを入れたおかげでこの素晴らしい歌声が耳に入ってきたのである。急いでテレビのあるリビングに行くと歌手はメゾ・ソプラノの林美智子さんであった。そしてやがて始まった妖艶なカルメンの歌う「ハバネラ」に惹きつけられて身体がむずむずし始めた。今年の「佐渡裕プロデュースオペラ 2009」が「カルメン」であることは知っていたが、「カルメン」の舞台は比較的よく観ているので、今年はまあいいか、とスキップするつもりで、配役などにもとくに関心を持たなかった。ところがこの林美智子さんがカルメンを演じると言うことが分かったものだから、途端に観に行きたくなったのである。「新・題名のない音楽会」を使った佐渡裕さんの上手なパブリシティに釣り上げられたのであるが、ひょっとして妻がそれを上手に使ったのかも知れない、とふと思った。

妻は疎開先の津山市で戦後進学した新制中学生のころ、岡山市まで「カルメン」のオペラを観に行ったことを時々口にする。ひいきにして貰ったのかどうか、級友三人で音楽教師に連れられて観に行ったというのである。カルメンが齊田愛子、ミカエラが大谷冽子、ドン・ホセが柴田睦陸でエスカミーリョが立川澄登だったらしい。私が「カルメン」を初めて観たのは大学院の頃であったので、これを持ち出されると青菜に塩である。齊田愛子とは私の記憶にもないので川崎静子では、と聞いてもいや、齊田愛子だ、と言う。それはともかく妻は「カルメン」に格別の思い入れがあるものだから、今度も行きたかったのに私が腰を上げないのをじれったく思っていたのかも知れない。「新・題名のない音楽会」が渡りに船だったようである。

10時になるのを待って芸文センターに電話をすると2回目に繋がり、運良く6月26日の日本人キャストによる舞台のチケットを2枚確保できた。今週は金曜日しか外出の予定がないので、これからぶらぶらチケットを受け取りに西宮に出かけるつもりである。

追記(6月28日) 一緒に行った友人に確かめたらカルメン役はやはり川崎静子だったとのことである。
その2 佐渡裕プロデュースオペラ2009「カルメン」に熱くなって