日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

YouTubeでpastime  「ブンガワン・ソロ」

2011-10-10 18:49:44 | 音楽・美術
太平洋戦争で日本軍が東南アジアに広く展開し、占領区域を広げていくにつれて、現地に宣撫班なるものが派遣された。宣撫班そのものは満州事変直後から組織されていたが、それには多くの作家や音楽家が参加していた。その宣撫班が現地の住民ではなく、日本にもたらした遺産として、私の念頭に直ぐ浮かぶのが小説家林芙美子の「浮雲」であり、藤山一郎の持ち帰った「ブンガワン・ソロ」である。「浮雲」については機会を改めて触れようと思うが、今日はインドネシアの歌「ブンガワン・ソロ」を取り上げて見ようと思う。

私の好きな歌手の一人、五郎部俊朗nの「藤山一郎とその時代~歌が美しかった~」というCDの中に「ブンガワン・ソロ」が収められている。残念ながらこの歌はYouTubeでは聞けないが、なんとこのYouTubeで藤山一郎の「ブンガワン・ソロ」との関わりの話と、彼自身による歌が聴けるのである。



さらに驚いたことには「ブンガワン・ソロ」の作曲者自身が歌っていて、画面にインドネシア語の歌詞が流れるのでカラオケの練習にももってこいである。しかしそれよりもこの歌声のなんと味のあること!伴奏のガチャガチャしているのが私には気になるが、そんなことはものともせずに歌声がゆったりと河面を流れていく。本当に素晴らしい名曲に歌唱である。



ガチャガチャが嫌の方にはこちらが良いのかも知れない。

ブンガワン・ソロ

最近はよくYouTubeで昔の歌を探して時間つぶしをすることが多いが、これは大きな収穫であった。

「ブンガワン・ソロ」からは外れるが、これは凄いと思ったのが石原裕次郎と慎太郎の「夜霧のブルース」のデュエットである。慎太郎のチリメン・ビブラートがとても可愛らしい。私にもチリメン・ビブラートがあるので、親しみを持ってしまった。さっそく「お気に入り」に登録したのが二三日前だったのに、『この動画は削除されました。これは、以下をはじめとする複数の申立人から著作権侵害に関する第三者通報が寄せられたことにより、この動画の YouTube アカウントが停止されたためです』のメッセージとともに削除されてしまった。YouTubeでpastimeがある限り、私に退屈はなさそうである。

カーン・リーの歌うチン・コン・ソン作詞・作曲「美しい昔」 追記有り

2011-09-24 15:18:43 | 音楽・美術
最近ブログの更新を怠っている。なんとなく書く気がしないのである。書けばほとんどが政治家の無能振りを浮かび上がらすだけの政治ネタばかり。それに台風12号、15号による国土の荒廃。気が重くなるだけなので気が乗らない。ところがちょうどタイミング良く、時には柔らかいブログでもとアドバイスしてくれる友人がおり、気分を切り替えることにした。

最近私の日課の一つは歌を歌うことである。それもほとんどが懐メロで、YouTube で昔の歌手を探しだしては一緒に歌うのである。藤山一郎の「白鳥の歌」などがあるのには驚いた。五郎部俊朗が「藤山一郎とその時代~歌が美しかった: ~」でも歌っていて私も声を合わしたことがあるが、五郎部俊朗はテナーであるのに対して藤山一郎はバリトンなので、この方が私は声を合わせやすいし発声のリハビリに無理をしなくて良い。そのようなことをしているうちに、面白い歌を見つけた。それがカーン・リンの歌うチン・コン・ソン作詞・作曲「美しい昔」である。

ベトナム戦争は1975年4月30日のサイゴン陥落で終結を迎えた。その後しばらく経って読んだのが近藤紘一著「サイゴンから来た妻と娘」である。彼は産経新聞のサイゴン支局長を1971年から1974年まで勤め、さらに1975年に臨時特派員としてサイゴンへ派遣されて、サイゴン陥落を経験している。先妻を亡くした彼は一人娘を抱えたベトナム女性と再婚し、その二人を呼び寄せて日本での生活を始めた。この著書はそのドキュメンタリーとも言える。この著書に基づいたドラマがNHKで放送されて、私も本を読んでいたものだからこのドラマを楽しむことにした。そこで魅せられたのが挿入歌というか「美しい昔」であった。誰が歌ったのか記憶にはないが、心にジーンとくる歌だった。そして楽器店を訪れるたびにLPを探したがなかなか見つからず、焦らされた末にようやくお目にかかったのが次のLPである。


日本コロンビア株式会社から1981年8月にリリース(AF-7071)されており、ノンフィクション作家角間隆さんの歌手と作詞・作曲家にまつわる詳細な解説が付け加えられている。1968年2月3日、サイゴンでは夜になっても砲撃の音が絶えない。そして歌舞音曲が一切禁止されているはずなのに、死を待つ静寂のなか透き通った唄声がどこからか聞こえてくる。角間さんが通訳に誰が歌っているのかを尋ねると「カーン・リーンさんのテープですよ」と返事が戻り、次のように説明が続く。

「カーン・リー?」
「ええ、ユエから来た美人歌手です。彼女は、同じユエから来たチン・コン・ソンさんの作った唄しか歌いません」
ユエというのは、北緯17度線で分断された南北ベトナムの境界線に近い小さな町である。日本でいえば、さしずめ古都・京都といったところであろうか。

しかし数年前の北ベトナム軍の大反撃によって、その美しい町は完膚無きまでに破壊され、辛うじて死をまぬがれた人々も難民となって南へと逃げ延びた。

「あのとき、チン・コン・ソンさんはユエ大学の三年生でした。21歳の誕生日を迎えたばかりの彼は。数人の仲間とともに、最後まで王城の地下蔵(昔の石牢)に立て籠もり、『なぜ、僕たちの魂のふるさとまでが破壊されなければならないのか!』、『どうして、ベトナム人同士が殺し合わなければならないのか!』・・・・・と、血を吐くようにして叫び続けました。そしてわずか一晩のうちにに、58曲の反戦歌を作りました。『いつの日か、ここでまた、南と北に引き裂かれた同胞が、固く固く手を握りあうときが来るだろう。その日のために、僕たちは生き延びよう。その日あるを、僕たちは信じよう―』という58曲目の作品”同胞の歌”を、古ぼけたギターで力いっぱい弾きならしながら、チン・コン・ソンさんは涙ながらにユエに別れを告げ、サイゴンまで落ちのびてきました。


「同じころ、16歳の少女カーン・リーさんも、命からがらサイゴンにたどりつきました。父母も兄弟も失い、たった一人でショロンのスラム街にころげこんだ彼女は、すっかり生きる張りをなくしていました。そして、死のうかと思ったとき、風の便りにチン・コン・ソンさんのことを聞き、みも知らぬ彼のもとへたった1人で訪ねていきました。チン・コン・ソンさんは、身も心もボロボロになった同郷の乙女を見て、何も言わずにギターの弾き語りを聞かせてやりました。58曲目の最後の歌を聞いたときには、東の空が白々と空け始めていたということです『私も歌ってみたい―』、希望そのもののような朝陽の光を浴びながら、カーン・リーさんがそうつぶやいた瞬間、後に”ベトナムの太陽”とまで謳われるようになった一大国民歌手が誕生したのです。


1975年4月25日、サイゴンで角間さんはカーン・リーと初対面を果たす。ベトナム戦争はまだ続いており「歌舞音曲厳禁、違反者は即刻射殺・・・・」といわれているが、民衆達はテープ・ノイズだらけのカーン・リーの唄の複製に耳を傾けている。その間、彼女は旧南ベトナム政府の下級官僚と結婚し二人の子供を儲けていたが、ついにサイゴン陥落の日を迎えた。そしてある日、黒服に身を固めた共産軍の兵士が妻子の見ている目の前で夫を射殺してしまう。ベトナムに留まると確言していた彼女もチン・コン・ソンに勧められて生後五ヶ月になる乳のみ子をを胸に抱えて船で脱出しようとするが、その後の消息が不明になる。

1980年4月1日にNHKを退職した角間さんは、”ベトナムの太陽”の消息を探り当てることを最重要の課題とた。そして1981年5月3日、サンディエゴで再会を果たしたのである。

「海賊に襲われて虐殺された」とか、「南シナ海で沈没した」、「人肉まで奪い合う飢餓地獄の犠牲になった」・・・・・など、様々なうわさが飛び交う中を丹念に調べながら、パリからアルジェ、アルジェからマニラ・・・・・という具合に次第に糸をたぐり寄せ、アメリカはカリフォルニア州、サンディエゴの難民村でついに彼女に再会したのは、それからまる1年後のことであった。(中略)

このアルバムにおさめられている10曲のうち8曲は、彼女が新しい人生の第一歩を踏み出したアメリカという”新大陸”で新に録音したものである。そして、『美しい昔』と『ユエの子守歌』な、ベトナム戦争のさなかに開かれた大阪万博のコンサートに来日した際、日本で録音されたものである。

YouTubeにアップロードされているのは、おそらく戦後に日本を訪れたときのものであろう。加藤登紀子さんが司会しているようである。演奏の形式はこのLPと同じである。「美しい昔」の背景を知った上でベトナム戦争の悲惨な災害の中から生まれたこの唄に耳を傾けたとき、それぞれの人がどういう思いを抱くであろうか。それにしても美しい曲である。LPからアップロードしたかったけれど、直ぐにカットされそうなのでYouTubeの曲で我慢することにした。




追記(9月25日)

加藤登紀子さんのブログに、07.03.05 『美しい昔』から始まったベトナムとの縁というカン・リーさんとチン・コン・ソン・さんとの関わりを記した記事を見つけた。ぜひ一読をお勧めする。


箏曲「六段」とグレゴリオ聖歌「クレド」そして一弦琴「六段」

2011-06-04 21:25:02 | 音楽・美術
先週の「箏の名曲はキリシタン音楽」という「題名のない音学会」はなかなか楽しかった。箏曲「六段」がグレゴリオ聖歌「クレド」に似ているということから、「六段」のもとになったのが「クレド」ではなかろうかと話が展開し、また舞台の上で実際に「クレド」と「六段」が合奏された。両者がよく調和していたというか、違和感なく渾然一体となっていることに驚いた。箏の旋律が聖歌のメロディーから外れているところも琴歌のようであったが、「六段」にもともと詞はない。その理由も説明されていたが、いずれにせよこの日演奏された皆川達夫指揮の中せ音楽合唱団と野坂操壽による箏合奏のCDが出ていることが分かったので、さっそくアマゾンで取り寄せた。


和文46ページ、英文42ページ、計88ページの懇切な解説から、当日話された内容を改めて学ぶことが出来た。以下はそのまとめである。

箏曲「六段」は義務教育で鑑賞曲に取り上げられているとのことで、だから耳にされた方も多いのであろうが、残念ながら私はこれまでまともに聞いたことがなく、今回、このCDで聞いたのが始めてである。その教科書には「八橋検校作曲」と記されているようであるが、他にも北島検校や倉橋検校、さらには築紫箏曲の賢順作曲の説まであるようである。この冊子にある久保田敏子さんの解説によると、

《六段》の曲名が初めて文献に登場するのは、八橋検校(1614-85)の没後70年目にあたる宝暦5(1755)年に出た箏組歌の楽譜集『撫箏楽譜集』で、《六段之調子》とある。

とのことである。八橋検校が江戸幕府がキリスト教を禁止したその翌年に生まれているので、彼の生きていた当時、ヨーロッパ音楽のすべての楽譜・楽器は廃棄されていたのである。

この「六段」について皆川さんはすでにその著書「中世・ルネッサンスの音楽」(講談社現代新書、1977)で

ところで日本の箏曲の開祖八橋検校の作に<六段の調べ>という曲があり、日本伝統音楽には珍しく純器楽的な発想をみせ、しかも「主題と五つの変奏曲」とでもよぶべき変奏曲の形式―日本音楽には異例の形式によっている。これを十六世紀スペインふうによべば「六つのディフェレンシアス」―すなわち「六段」である。

と述べている。皆川さんはさらに論考をすすめ、

本CDは、それよりさらに踏みこんで、箏曲『六段』の成立にあたりラテン語聖歌『クレド(信仰宣言)』の影響が決定的に大きかったという問題を提起する。

に至ったのである。そしてラテン語聖歌「クレド」が400年前のキリシタン期に日本で歌われていたのかと検証をすすめ、1600年印刷の「おらしょ翻訳」の解読にもとづき、当時のキリシタンにとって「クレド」を暗記して唱え歌うことは必須不可欠のものと結論した。そしてこのように話を進める。

キリシタン時代の日本の典礼においてラテン語聖歌、その中でもとくに重視された「クレド」は楽器の伴奏付で歌われていた。
 この事柄をさらに推しすすめると、当時のキリスト教教会や修道院の典礼において楽器演奏を担当した日本人の奏者が、練習のため、自らの楽しみのため、あるいは自己の心情の表明、さらにはキリスト教の信仰表白のために、自分が担当したヴィオラ・ダルゴなど、また時には彼が得意とした日本の伝統楽器の箏や琵琶などを取り上げて、聖歌のメロディ、なかでも重要視されていた「クレド」をパラフレーズしつつ独奏しようと思い立ち、実際にそれを試みた可能性は十二分にありえた状況であった。
 「クレド」のメロディを箏で弾いてみようと思い立ったというこのアイディアに最初に気付いたのは、九州大牟田市ご在住の箏曲家坪井光枝様であった。その件を示唆された筆者は「クレド」と「六段」との楽譜対照表を作成し、されにキリシタン時代の日本において「クレド」が占めていた重要性、また当時のキリスト教典礼において聖歌歌唱を楽器で伴奏し補強するのが普通であったとする記録類を検証してきた。

 このああたりで、おぼろげながら一人の人物の姿がのほ見えてきたように思われる。その彼は、箏の名手として令名をはせていた。彼がキリスト教の信仰を宣言するラテン語聖歌「クレド」のメロディに、どこで出合ったかは定かでない。たまたま訪問したキリスト教教会で聞き知ったのか。あるいは、その彼はキリスト教信徒として洗礼を受け、自ら楽器を取ってミサ典礼における「クレド」歌唱の伴奏をしていたのか。それもあきらかではないが、当時の検校には少なからぬキリスト教信徒がいたといわれる。

 その名前がなんであれ、名手であった彼は箏の上でラテン語聖歌「クレド」メロディの幻想的なパラフレーズ、「ディフェレンシアス」ふうの変奏を試み、それが契機となって新曲「六段」が成立したと思われる。
 その曲が声楽曲であれば、キリスト教的な歌詞が歌われるために弾圧時代に破棄されてしまったことであろう。場合によっては、作者であるその彼の生命にも拘わる一大事が起こりえたかもしれない。しかし、曲が純器楽曲であり、歌詞を一切もたないことろから弾圧をかいくぐり抜け、現代まで生命を保ち継承されてきた。

長い引用になってしまったが、これで「クレド」からどのような経緯で歌詞をもたない器楽曲「六段」が生まれたのか、簡にして要を得た説明となっている。「六段」の一段を百四拍に決めたことで、「クレド」と「六段」の寸法がピッタリと合うのである。

これに付けたりを加えると、皆川さんは触れていないが、吉川英史著「日本音楽の歴史」(創元社、1965年)に次のような注目すべき記事がある。

 ただここに興味のあることは、「箏曲に現在も残っている”六段の調べ”などの器楽曲は、当時輸入した洋楽の器楽曲の影響を受けて作曲されたものであろう」という仮説を田辺尚雄(1883年8月16日 - 1984年3月5日、日本の音楽学者、文化功労者)先生からしばしば聞くのであるが、傍証がない限り、私にはまだ信じられない。(177ページ)

皆川さんのその意味では傍証を固められたのである。またさきほどの久保田敏子さんの解説の中に次のようなくだりがあった。

 今はもう故人であるが同志社高校の大西善明先生が、かって東洋音楽学会で、「《六段》の六は南無阿弥陀仏の六字の御名に拠ったものではないか」と発表され、会場で失笑が聞こえたことがあったが、その命名もあるいは、キリシタン音楽の出所を煙に巻く弁明の一つだったのかもしれない。

奔放な発想で私などは共感を覚えるが、それよりもこの大西善明先生が、奇しくも私の一弦琴の師、大西一叡先生のご夫君とは不思議な因縁である。一叡先生は箏曲山田流からご夫君の勧めに従い一弦琴に入られた方で、当然ご夫君は「六段」の調べに折に触れて耳を傾けられたことであろうと推察する。もしかして一叡先生は学会での発表のいきさつなど、ご存じなのかも知れない。

ついでに言うと徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」には、おそらくは太師の採譜によると思われる「六段」が収められている。歌を伴わない一弦琴は私の主義に反するが、折りを見てチャレンジする気になった。

メトロポリタン・オペラ「アルミーダ」からロッシーニの室内歌曲・重唱曲へ

2011-02-28 16:20:53 | 音楽・美術
もう40年以上も前になるが、米国の西海岸、サンタバーバラに住んでいた頃に買ったLP2枚組セットがある。


歌曲の伴奏ピアニストとして一世を風靡したGerald Mooreが67才で引退するのを記念して、1967年2月20日に催されたコンサートの記録である。おそらく発売されたばかりのセットを買ったのだろう。伴奏ピアニストだからと言ってピアノだけの演奏では様にならない。そこでこの三人の名だたる歌手が歌で華を添えたのである。そして意表を衝かれたのがVictoria de los AngelesとElisabeth Schwarzkopfによる「猫の二重唱」であった。私がとやかく言うよりもこの時の演奏がYoutubeに素敵な猫のアルバムと一緒に登録されているのでまずお聴き頂きたい。この楽しい曲を作ったのがロッシーニであった(偽作との説もあり)。もう2曲、二重唱曲が収められていたがなかなか軽妙で音楽性も高く、すぐに好きになってしまった。これが彼の室内歌曲・重唱曲とのつきあい始めでる。



ロッシーニは生涯に39のオペラを作曲したが、1829年に「ウイリアム・テル」を発表したのを最後に、まだ37才でオペラ作曲からは足を洗い、それからは宗教曲や小品のみを作曲するようになった。その一つのジャンルが、貴族や上流階級がそれぞれの舘で催す音楽会で演奏する声楽・器楽曲であった。もともとロッシーニはこうした階級の洗練されたアマチュア音楽家の要望に応えて、おもに個人的に演奏される楽曲を数多く作曲してきた。彼らには自分たちの世界があり、公な場で演奏するなんて発想がなかったのである。ロッシーニ自身もアマチュアとプロフェッショナルが出会い一緒になるような音楽夜会をよく主催した。歌曲の作曲ではロッシーニはいろいろなところから歌詞を探し出してきて組み合わせを楽しんだり、またオペラの曲を組み替えたりしている。私が気付いた「アルミーダ」のなかの合唱曲がその一つであったようだ。

ロッシーニの室内歌曲・重唱曲のCDを探し始めた頃は国内盤はほとんどなく、輸入盤に頼ったり外国で見つけたりした。そのうちの一部をお目にかける。




メトロポリタン・オペラ「アルミーダ」のなかに出てきた私が慣れ親しんだ歌が、一番左上のCDでは5番目に、その右隣のCDでは9番目に「Ridiamo cantiamo che tutto sen va」として入っている。次のような曲である。



歌詞の英訳を引用しておく。

     Let us laugh, sing, for all passes on
     If we lose it, our good age will not return
     Life last but a moment,to be enjoyed,   
     With a single breath the wind may carry us away.

最後がこのように終わる。

     Let us laugh, sing,
     While we have our precious youth.

ソプラノ、メッゾソプラノ、テナー、バリトンの4人が歌っているが、ロッシーニの時代にアマチュアがこれだけのアンサンブルを作り上げていたとすると、相当の技倆をマスターしていたことになる。そして右側CDの解説に次のような一文がある。


「アルミーダ」では妖精が合唱していて、そのタイトルが「Canzoni amorose」となっているが、歌っている内容は両者とも似ているようである。面白いのはロッシーニが「アルミーダ」から転用したこの曲をちゃっかりとAlvancey卿に捧げていることで、解説にある’carpe diem’とは「現在を楽しめ」ということらしい。曲が軽快に楽しく響くのは納得がいく。その世界を「アルミーダ」の束の間のシーンでお楽しみあれ。





アマゾンからメトロポリタン・オペラ、RossiniのArmidaがやって来た

2011-02-26 21:58:52 | 音楽・美術

2月25日に注文したメトロポリタン・オペラ、RossiniのArmida(「アルミーダ」)が26日の今日、早くも届いた。普通便でこの速さには驚く。しかも嬉しいことにRegion Codeが0(worldwide)、ということは手持ちのDVDプレーヤーで観ることが出来るのである。それは有難いのであるが、よく見るとアマゾンの商品説明とは異なる商品が届けられたようである。



リージョンコード、画面サイズ、ディスク枚数にASINコードまでが異なる。厳密にいうと間違った商品を送ってきたことになる。私とすれば予想に反し手持ちの装置で再生出来たのでそれはよかったのであるが、リージョンフリー DVDプレーヤーの購入をまともに検討していたことでもあり、やはり正確な情報を提供すべきであろう。それはともかくリージョンコード0に対応してであろう、字幕は英語、仏語、ドイツ語、スペイン語、中国から選択が可能になっているから問題はない。

それにしてもルネ・フレミングとローレンス・ブラウンリーの二重唱とからみあい?をたっぷりと楽しめるのは嬉しい。競演の時点で51才のフレミングに対してブラウンリーは38才、近頃流行の逆年齢差カップルの二人ががっぷりと組んで、3時間におよぶ舞台を引っ張り盛り上げていくそのパワーが感動的である。DVDだと聴きたいところにいとも容易に行けるので、これから思う存分楽しむことにする。

ところでこのDVDの購入を急いだのには、また別の理由があった。このオペラを観たのは始めてであるのに、不思議にも私が大好きで、だから慣れ親しんでいる曲が出てきたのである。その関わりを知りたく思ったが、そのためにはこの曲がオペラのどの場面で歌われるかが確認しないといけない。それがDVDのお陰で分かったのである。これにまつわる話を次ぎにしようと思う。


メトロポリタン・オペラ「アルミーダ」(NHKハイビジョン)を観て

2011-02-25 14:32:00 | 音楽・美術
メトロポリタン・オペラ(NHK-BShi)の第四夜、「ハムレット」(トマ)は残念ながら私の好みではなかった。シェクスピアの「ハムレット」ではなくてフレンチ・オペラの「ハムレット」だそうであるが、ハムレットが葡萄酒を頭から浴びて鮮血色に染まったり、オフィーリアまでも小刀で手首を傷つけて純白の衣裳を血で染めてしまうのだからもう観ておられない。大団円間近であったと思うがテレビを切った。グロテスクな演出への拒絶反応である。

それにくらべて昨夜の「アルミーダ」(ロッシーニ)は、予備知識なしに見始めたが、最後の最後まで舞台に引きつけられてしまった。とにかく歌が素晴らしい。次に出てくる歌を歌手がどのような技巧で歌うのだろうかとか、緊張が絶えないのである。超絶高音に超絶技巧を休みなく歌手に要求するロッシーニ、その挑戦を真っ向から受け止め果敢に立ち向かっていく歌手たちのバトルが私の心をとらえて放さない。とくに「ダマスカスの王女・魔女」、アルミーダを演じるルネ・フレミングと「アルミーダの恋人だった騎士」、リナルドを演じるローレンス・ブラウンリーの二人が舞台の上にいるともう目が離せない。ソプラノのみならずテナーもコロラトゥーラを実に頻繁に駆使するのである。幕間のインタビューでは、コロラトゥーラというよりはヴァリアンテというのか、歌手が自由に装飾的に歌うことが多いと言っていたように思う。いずれにせよなんとも華麗な歌唱に酔ってしまう。ローレンス・ブラウンリーの名前を新しく覚えてしまった。いわゆるロッシーニ・テナーなんだろうか。

見終わったあとで調べてみると、「The Metropolitan Opera」のホームページにその作品紹介があった。「アルミーダ」の初演は1817年11月にナポリのナポリ、サン・カルロ劇場で行われたとのことであるが、なんとメトロポリタンでは今回が初演なのである。さらにYoutubeを調べてみると、早くもこの公演のいくつかの場面が登録されている。その一つが次の「愛の二重唱」である。もうポーッとするしか仕方が無い。珍しいテナーの三重唱も併せて掲載しておく。これもまた感動的である。





ついでにアマゾンを見ると、この公演のDVDが2月7日に発売されていたのでさっそく注文してしまった。輸入盤でリージョンコードが1。だから手持ちのDVDプレーヤでは再生出来ないかも知れないが、その時はその時である。そのせいであろうか、価格は3490円で嘘みたいに安い。



NHK-BSハイビジョンでメトロポリタン・オペラを楽しむ

2011-02-23 21:59:02 | 音楽・美術
今週は嬉しいことにNHK-BSハイビジョンでメトロポリタン・オペラを観ることが出来る。第一夜は「ばらの騎士」(R.シュトラウス)で日曜日午後10時45分に始まり、終わるのが翌月曜日の午前2時25分の予定であった。こんな時間まで起きていられるかなと案じていたら、案の定、第一幕ですでにウツラウツラが始まった。目の前にベッド・シーンが演じられていたせいなのかも知れない。

しかし第二夜の「カルメン」(ビゼー)、これは始まったのが午後10時なので午前1時までは大丈夫、ということでじっくりと楽しんだ。物語の展開はもちろん、演出や舞台装置などにも注目したいところがたっぷりあるので、おちおち居眠りなどしておられなかった。ホセを演じるアラーニャはまさにはまり役といった感じで、ホセそのものになりきっている。一年ほど前にゲオルギューとアラーニャのメトロポリタンオペラ「つばめ」 迫真演技の謎?で、《2009年8月11日にゲオルギューが年末にメトでアラーニャと共演するはずの「カルメン」への出場を個人的な理由と言うことで取り消したので、この「つばめ」が二人の最後の共演舞台となったのだろうか。》と書いたが、二人の夫婦別れは現実のものになったのだろうか。そのゲオルギューに代わってカルメンを演じたのがエリーナ・ガランチャで、私はこの舞台が初対面であったが、もうぞっこん惚れ込んでしまった。歌といい演技に踊り、これまたカルメンそのものである。

外国で上演されたオペラがテレビで放映されるのは、たとえそれが1年以上前の舞台のものであろうと問題ではない。居ながらにして新しい演出とか舞台装置の工夫を目にすることが出来るからであるが、一番楽しみなのは新しい歌手にお目にかかれることである。エリーナ・ガランチャもそうで、「カルメン」を観た後で調べてみると、ラトヴィアのリガで1976年生まれとのこと。ヨーロッパの数々の舞台での活躍ぶりが報じられており、今や注目の的だそうであるが、私には初見参であった。つい最近もロシア生まれのソプラノ、アンナ・ネトレプコにYoutubeでたっぷりお目にかかったばかりだったので、もしかして二人のデュエットがあればと思い探したら、ちゃんと「ホフマンの舟歌」が登録されていた。人も歌も美しい。二曲目はLeo Delibesのオペラ「Lakme」からの「花の二重唱」。この二人にもう嵌ってしまった。





この「カルメン」については「After 24 Years, the Met Finally Has a Great ‘Carmen’ Again」との見出しで丁寧な舞台評があるので、興味のある方はご覧あれ。

夕べの「シモン・ボッカネグラ」(ヴェルディ)ではシモン役がなんとテナーならぬバリトンのプラシド・ドミンゴ。年齢を感じさせない熱唱と迫真の演技にただただ酔いしれる。ここでもシモンの娘を演じたアドリエンヌ・ピエチョンカに、その結婚相手であるジェノバの貴族を演じたテナーのマルチェルロ・ジョルダーニと二人の歌手を新に覚えて、その歌いっぷりを探す喜びが増えた。

それに楽しみなのがルネ・フレミングによる出演者のインタビューである。観客が知りたいようなことを実に上手に出演者に喋らす。幕間を利用しての限られた時間だけに、その簡にして要を得た問いかけがまた芸術的である。なんて書いているうちに10時からは「ハムレット」(トマ)が始まる。何はともあれ投稿を済ませて、手直しはあとに回そう。

佐渡裕プロデュースオペラ2011「こうもり」のチケットをゲット

2011-02-17 17:12:31 | 音楽・美術
喜歌劇「こうもり」は私の大好きなものの一つ、それが佐渡裕プロデュースオペラ2011として上演されることになり、これまた大好きな塩田美奈子さんに森麻季さんが同じ舞台で競演する。それにCDでしか知らなかったあのカウンターテナー、コヴァルスキーも出るとあっては見逃すてはない。先行予約会員受け付け開始の今日、午前10時から電話とインターネットで、一番高い席でもC席を目標に申し込みを始めた。

先ず電話、かかるはずがない。11時ごろまでは「大変混み合っていますので・・・」の機械的なメッセージが流れるだけで、てんで相手にして貰えない。インターネットの方でも「兵庫県立芸術文化センター」の日本語サイトにすら入れない。しかし11時かなり過ぎた頃だろうかインターネットが繋がり、ようやく7月の公演予定から初日16日のチケット購入の手続きに入った。やっぱりE席D席はもう満席で残るC席も多くない。幸い2009年の「カルメン」を観た席から1番ずれた2席が空いていたので、それを申し込むことにした。ところが問題が発生、会員番号は記入できたが暗証番号を用意するのを忘れていたのである。思いつくところを探したが出てこない。暗証番号を忘れた人は電話で問い合わせるように指示が出ていたが、これは予約申し込みと同じ電話番号なので、簡単に繋がるはずがない。しかしこれが最後の手段とばかり、ひたすら再ダイヤルを繰り返した。

有難いことに今度は10分もしないうちに繋がり、事情を話したら、身元確認をされた上いったん電話を切り、折り返しの電話で暗証番号を知らせて貰った。インターネットに戻り暗証番号を入れて先に進もうとしたが、接続が時間切れのメッセージが帰ってきた。30分以上操作をしていなかったので、接続が切られたのであろう。そこで「戻る」を繰り返して「チケット購入」の画面に戻り、申し込み手続きを再開した。私がモタモタしているうちに、先ほどは座席ブロック内の残席数が6であったのに、今や2席しか残っていない。ところがよく見るとそれは私が確保しようとしていた2席なのである。有難や、と今度はスムーズに手続きを進め、目出度くC席チケットを手に入れたのである。「チケット予約完了通知」のメールのタイムスタンプは「2011/02/17 12:01:13」、たっぷり2時間を費やしての作業であった。一週間以内に窓口でチケットを購入して完了である。

私が始めて舞台でオペラを観たのが「こうもり」で、まだ学生の頃であった。確か労音の主催で、立川澄人さんが出ていた記憶がある。それ以来の「こうもり」ファンだから、それなりの年季が入っている。高画質のレーザーディスクが登場して、当時評判となったRoyal Operaの「Die Fledermaus」がリリースされた時に、思い切って再生装置共々購入した記憶がある。それ以来何回となく観ている。


178分におよぶ舞台が2枚のレーザーディスクの表裏、4面に納められており、価格は10300円。ということは消費税が3%の時代であり、1990年代の初めであろうか。歌手だとばかりに思っていたドミンゴの指揮には度肝をぬかれたが、キリ・テ・カナワやヘルマン・プライなど好きな歌手の歌と演技を始めとして、オルロフスキー公爵の館での華やかな舞踏会の場面など、何回見ても楽しい。現在この映像は小学館刊行の「魅惑のオペラ」シリーズ第7巻のDVDで観ることができる。芸文センターでの公演まで、2、3回は観ることになりそうである。


阿部豊監督の「細雪」あれこれ

2011-01-21 20:31:17 | 音楽・美術
「細雪」を見終わった。約2時間20分、すっかり心を奪われてしまって、まるで自分自身も映画の中に入り込んで、登場人物と言葉を交わしているような不思議な思いをした。冒頭は昭和12(1937)年、大阪の街のシーンで、御堂筋通りには市電の線路が見える。場面は上本町九丁目にある船場の旧家、蒔岡本家の門先に移り、外出先から三女雪子が帰って来るところから物語が始まった。長女鶴子から見合したことへの返答を迫られた雪子がはかばかしい返事をしないまま、芦屋川の分家、次女の幸子(さちこ)の元へいそいそと出かける。

芦屋の家では音楽会に出かける幸子の帯選びに、四女の妙子にやって来たばかりの雪子が加わって盛り上がっている。息すると帯がキュウキュウと鳴るのは帯が新しいせいやと私にはもう分かっているから、次から次へと帯を取り出しても「そんなのあかん」とつい傍から口を出してしまう。

四女妙子もこの分家に身を寄せているが、不断は夙川のアパートに借りた部屋で仏蘭西風とか歌舞伎趣味の人形を作り、また弟子をとって教えている。四人姉妹では唯一の「職業婦人」であるが、かって船場の貴金属商の息子である奥畑と駆け落ちした過去がある。妙子が人形の個展を開く場所が小説では神戸の鯉川筋の画廊となっているが、四五日前、散髪したついでにその鯉川筋にある行きつけの中華料理の店で食事をしたばかりなので、その画廊はどこら辺りにあったのだろうとつい思ってしまった。妙子は舞踊も習っていて、芦屋川の分家で開いた温習会では、富崎春昇、富山清琴に富崎富美代の地唄に合わせて舞う。その踊りに先立ち控えの間で立ち姿などを写真師の板倉に撮らせるが、その姿の実に美しいこと。もうこれで高峰秀子にポーッとなってしまう。



そして昭和13(1938)年の阪神大水害である。当時の凄まじい光景を災害写真で見ることが出来るが、冠水している国道2号線の業平橋のさらに上にある阪急電鉄芦屋川駅が、映画の中ではプラットフォームまで水が上がってきている。その日は妙子が洋裁学院に行く日で、先生に誘われてコーヒを飲んでいたところ山津波に襲われて死を覚悟していたところ、駆けつけて来た板倉の必死の働きで救われる。これが切っ掛けになって二人の付き合いが始まり、六甲山、須磨、奈良など、二人で出かけた場所の映像が次々と出てくる。

小説「細雪」が完成したのは昭和23(1948)年で映画が作られたのは昭和25(1950)年だから、戦災の名残があるとしても映画の撮影された昭和25年ごろの各地の光景は、この小説の時代背景となっている昭和12年から昭和16年にかけての光景と、大きくは変わっていないのではなかろうか。芦屋川の分家の門の外は川沿いの松並木であるが、おそらくは芦屋川沿岸であろう。映画の撮影された1950年の前後には、私もよく松並木を通った覚えがある。母の長姉である伯母の嫁ぎ先が芦屋の平田町にあったので、阪神芦屋駅を降りて川沿いに下って行ったからである。高い塀に囲まれた邸宅の多い区画であった記憶がある。伯母の嫁ぎ先は船場で繊維問屋を営んでおり、そういうことからも映画の醸し出す世界に強烈なノスタルジーを感じてしまった。

「細雪」は三回映画化されている。第二回目は島耕二監督による大映版で第三回目が市川崑監督の東宝映画版である。私は大映版は観ていない。何故かと言えば阿倍監督の「細雪」が私の頭の中にこれが「細雪」と刷り込まれてしまったので、それを崩したくなかったのである。市川「細雪」こそ観たが、私の頭は作り物として拒否してしまっていたようである。それほどすべてが素直にそして生き生きと描かれていた阿倍「細雪」への思い入れが強かったのである。

今回60年ぶりに阿倍「細雪」を観て、何故この作品の虜になっていたのか、その疑問の一端が解けたような気がした。四人姉妹があまりにも役柄ぴったりで、文芸作品というよりは「蒔岡姉妹」のドキュメンタリー・フィルムのようになっていたからある。それも当然といえば当然、四人の女優の実年齢が「蒔岡姉妹」の年齢と見事に重なっていたのである。

「細雪」では冒頭から次女幸子がこのように描かれている。

姉の襟首から両肩へかけて、妙子は鮮やかな刷毛目をつけてお白粉を引いてゐた。決して猫背ではないのであるが、肉づきがよいので堆く盛り上がってゐる幸子の肩から背の、濡れた肌の表面へ秋晴れの明りがさしてゐる色つやは、三十を過ぎた人のやうでもなく張り切って見える。

また三女雪子については

幸子の直ぐ下の妹の雪子が、いつの間にか婚期を逸してもう卅歳にもなってゐることについては、深い訳がありさうに疑ふ人もあるのだけれど、実際は此れと云ふほどの理由はない。

とあるし、三女妙子について

それは今から五六年前、当時廿歳(はたち)であった末の妹の妙子が、同じ船場の旧家である貴金属商の奥畑家の倅と恋に落ちて、家出をした事件があった。

とある。これから妙子が25、6歳、雪子が30歳、幸子、そして鶴子が30歳過ぎであることが分かる。一方1950年当時、1918年生まれの花井蘭子は32歳、1917年生まれの轟夕起子は33歳、1921年生まれの山根壽子が29歳で1924年生まれの高峰秀子が26歳であるから、実年齢と役年齢がものの見事に一致していることが分かる。しかも四人が四人とも「細雪」の時代にはすでに俳優として活躍しているので、その時代の陰翳が心身に染みわたっているのである。まさに「蒔岡姉妹」がはまり役であったと言えよう。

板倉の急死に妙子の生活が乱れ、あげくはバーテンダー三好の子を宿すが死産して、本家からは出入り差し止めを喰ってしまう。一方、雪子は見合遍歴の果てに子爵家の庶子との話がまとまり、ついに婚礼を挙げることになった。雪子の婚礼道具万端が整えられた芦屋川の分家から、その華やかさとは対照的に、当座必要な荷物だけを唐草の風呂敷包みにして持ち出した妙子が、姉たちに別れを告げて三好の元に向かう。映画は此で終わりであるが、四人姉妹のなんとも言えない濃厚な交わりが、人情希薄な平成の世に対する警世ともなっているようであった。そしてこの後ほどなくして「蒔岡姉妹」は日米開戦を迎えることになるのである。

阿部豊監督の「細雪」をこれから何遍観ることになるだろう。その度に新しい発見があるような気がする。たとえば虚実取り混ぜた時の流れである。戦争が始まり、高峰秀子が南方にタイピストとして出かけるのが成瀬巳喜男監督による「浮雲」の世界であるとすれば、板倉の妹として少しだけ顔を出した香川京子が今井正監督の「ひめゆりの塔」では看護部隊の女学生を演じることになる。この「細雪」を時代の生きた記録として見ての発想とも言えよう。


阿部豊監督の「細雪」にご対面

2011-01-17 22:53:41 | 音楽・美術
谷崎潤一郎の「細雪」は私の大好きな小説の一つで、読み返した回数ではダントツの一位である。小谷野敦著「谷崎潤一郎伝」を読んでで次のように述べている。

私が何回も読み返した最右翼の小説が「細雪」である。アメリカに滞在しているときだけでも二三回は読み返している。外国の友人になにか面白い小説をと聞かれると、「Makioka Sisters」を紹介するのが常だった。「細雪」は船場の旧家蒔岡家の四人姉妹の生活を次女幸子の夫、貞之助の目を通して描いたものである。ところが私にはこの小説を最初に映画化した「細雪」の印象がとても強くて、長女鶴子といえば花井蘭子、次女幸子は轟夕起子、三女雪子が山根寿子で四女妙子が高峰秀子というように、四人姉妹が女優の顔になって現れるのである。

また「細雪」に登場するお春どんにお目にかかった話を「細雪」のお春どんとはで紹介した。しかし私は「細雪」には小説より先に映画でお目にかかったのである。それが上の四人の女優が出演する「細雪」で監督が阿部豊、制作が1950年であった。私が高校に入学した年、朝鮮戦争が勃発した年でもある。戦前の富裕階級が営む生活の数々の優雅な場面に、過ぎ去った栄華を惜しむ気持ちと、いずれまたこのような時代が戻ってくるとしたら、その担い手になるのはわれわれであろうというそこはかとない高揚感が湧き起こった。たった一度しか観ていないのに、昭和13年の阪神大水害の緊迫した情景の記憶などが生々しく残っている。

その後小説を読み返したり、市川崑監督の「細雪」(1983年制作)を観るにつけても、この映画がカラーのせいもあってモダンで華麗すぎ、その一方で陰影の描き切れていないことから私の抱くイメージに合わなかったこともあって、阿部「細雪」を無性に観たくなったのである。しかしVHSを探したり、古い映画が1000円とか500円のDVDでで出まわるようになって注意を怠らなかったが、この作品にお目にかかることがなかった。ところが砂古口早苗著「ブギの女王・笠置シズ子」 今年も笑ってラッキー・カムカム!を書いたのがきっかけでAmazonを調べたところ、なんとこの作品が「細雪 デジタル・ニューマスター」として登録されていたのである。2007年に制作されたらしい。参考価格が5040円、それが40%オフの3024円也。古い映画だからと廉価版だけを探していたのが間違いのもとであった。


送られてきたDVDには36ページにわたる解説リーフレットが添えられていた。《高峰は谷崎夫妻の計らいで、芦屋言葉の指導を彼女が演じる四女のモデル、鴨川信子(谷崎夫人、松子の末妹)から直接指導を受け、劇中で舞う地唄舞「雪」は武原はんに手取り足取り教わったという》とか、当時の助監督の《高峰秀子が地唄舞を踊る場面は緊張しました。地唄の指導は、富崎春昇、富山清琴という方で、斯界では大御所ですね。踊りは武原はんさん、打ち合わせは武原はんさんの家でやりました》のような話に接すると、もうそれだけでゾクゾクしてくる。上映時間は141分。長年思い焦がれてきた作品だけに直ぐに観るのがもったいなくて、何時にしようかなと目下思案中である。

ちなみに、個人情報の押し付けながら、私の妻は幸子と書いて雪子と読む。